また父親の想い出を書くと、ある日、彼は店先から家の中に入ると、そこにいた自分に「おい、店に出てろ。おれはどこかに行って、いつ帰るか分からない、と言え。」と命令するや、雲隠れしたことがある。すると、日頃商品を届けに来る問屋の若い従業員が来て、自分に向かって、「おいぼうや、おとうさんを呼んで来て。」と言うので、「いやあ、どこかに出掛けちゃってるし、いつ帰るか知らないよ。」と答える。しばらく、緊張した雰囲気になるが、相手は他にも廻る店があるから、とりあえず、撤退する。
企業における資金繰りの重要性を、私は既に小学生の頃から学習していたのである。
さて、債権者になるのと債務者になるのとでは、天国と地獄の差がある。そして、国と私との間には、多くの関係が生まれて、自分はある時には債権者になるし、別の時には債務者になる。そして、普通、借りたものは返すのが当たり前だろう、とサラ金の取り立て稼業の方々がおっしゃるのは、一応、もっともである。
だがしかし、借りたものをすべて耳を揃えて返すことができるくらいだったら、誰も苦労しない。借りたものが返せないから修羅場になるのだ。そして、債権者と債務者のどっちが大変なのかと言うと、それはもちろん債務者の方である。
年金の給付についてみると、これまで年金を支払い続けて来た私が債権者であって、国は債務者だ。私はあくまでも定められた年金債権を請求する権利を有する。一方、租税については、国税の場合、国が債権者であり、私が債務者となる。つまり、我々は、債権者にも債務者にもなり得るのであるが、それを決定する根拠は法律であり、その法律を成立させるのは、衆議院および参議院しかないのであるから、逆に言えば、衆議院と参議院さえ押さえてしまえば、我々は債権者として権利を行使することができるし、債務者としてつらい目に会わずに済むかも知れないのである。
政治に関心を持て、という話は、要するに国と自分との間でいかにカネの取り合いをするか、そしてその喧嘩にどうやって勝つか、ということが重要なイシューのひとつである。
社会保障と税の一体改革とは、つまるところ、このカネの分捕り合戦において、自分が勝つか、国(具体的には、担当官庁である財務省)が勝つか、という勝負に過ぎない。そして、私のポジションは、もうすぐ年金受給者となる私はコワモテな債権者として、あくまでも国(この場合は、日本年金機構)から所定の債権を回収する決意を固めているし、租税については、あくまで債務を背負わないように、あらゆる手段を講じるつもりである。
さて、その年金については、基礎年金の国庫負担が全体の2分の1以上なければならないところ、現金が足りないので2.6兆円については、交付国債という名称の証券を発行することで、現金の代用とした。年金を受給する私としては、国庫負担分が現金であろうと国債であろうと構わないし、その交付国債の償還条件に消費税の増税分を充てるということが明記されていても構わない。もし消費税増税がなく、年金支給のための現金が足りなくなりました、ということになっても、じゃあ消費税を上げようか、という理屈にはならず、問答無用で、債務者は債務を支払うのが当たり前だろう、このやろう、と凄んで、どこかからカネを工面させて、あくまでも債権の取り立てを完遂するのが、債権者としての神聖な責務であると信じている。
年金受給者は老人なのだから、うまく丸め込めば良い、と思っているかも知れないが、そうはいかない。筋力は落ちても口は減らないのが、老人パワーなのだ。国が滅んでも年金は払わせる。おそらくギリシャでもイタリアでも、老人たちは、決意を固めているだろう。何しろ、現在の年金受給者には、1969年の全世界学生暴動を引き起こした猛者が大勢いるのである。当時は火炎ビンくらいしか作れなかったが、それ以降、企業や大学で実践を積んだ彼らは、本気で国家と戦う決意さえ固めれば、現役世代では、とてもかなわない戦力を作り出し、内戦状態に持ち込むだけのパワーを持っている。暴発するのは若者だけだ、と先入観を持つのは危険千万だろう。
もっとも、我々は大人であるから、妥協案も用意している。そもそも国庫が破綻した直接的な責任は、その管理者たる公務員にあるのだから、公務員の共済年金については、一切支払い停止としても、それは十分に納得できる根拠があるので、そこは譲歩するだろう。だが、それ以外の年金には一切手を触れてはならない。国家は老人のこわさを思い知る必要があると思うし、私はギリシャやイタリアの老人たちと国際的に連帯することも、十分に意義のあることと思っている。

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