「読みの能力差と視野の範囲差」とは(柊馬のつぶやき)に提示されていた言葉だが、つまりは読みのレベルの差ということだろう。
「川柳は読みの時代に入った」と言ったのは石田柊馬で、それを受けて小池正博・樋口由紀子の1+1の会が中心となり、積極的に読みの実践活動が行われ地道にその成果をあげつつある。ただそれはある程度文学的な視野を持ったものたちに限られていて、裾野のあたりでは「読み」はあくまでも第三者的行為であって、作り手としての自分には関係ないことと見向きもされないのが実情である。
私は地方句会などで、車の両輪のように「読むこと・書くこと」が一体になってこそ創作活動といえるのではないかと、すでに10年ほど前から「読み」を主眼とした合評会などを取り入れているのだが、この現場で「読みの能力差と視野の範囲差」はかなり深刻な状態で、いっこうに「読み」の訓練は前に進まない。
まず、読み手の立場に立ったとき目の前には「解る句と解らない」の二つしかなく、「解る句」はあえて読みを必要にしない句であり、「解らない句」は難解句として即座に葬り去ってしまうといった具合に、ただ多読多作をすすめ、ひたすら作れ作れと奨励してきた川柳の読みの不毛は深刻である。だが根気よく、読みは創作のバネであることを訴えつづけてゆきたい。