こんばんわ。ホイットニーふとーんです。ご機嫌いかがですか?
今日は、すごいテーマだと思いますが、書かされていると思えば、気も楽かなと思えるので、がんばってみたいと思います。
生きることの意味。人間は、生を受けて何を得るために生きるのでしょうか?
親が、子供に願う事は、健康ですくすく育ってほしいと言う事だと思います。最初から、すごい望みを託すよりは、その子の幸せを願って生み、育てるのが親心と言うものですよね。
親が、子供の幸せを願う。これが、根本的考え方だと思います。
つまりは、幸せになってほしいから、生んだ。なので、幸せになるために生まれたと考えていいと思います。(ね?幸子さんw)
とはいえ、現実の世の中には、病気、犯罪、麻薬、性の淪落、事故、などなどさまざまな不幸の代名詞をあげる事もできてしまうわけです。このような世の中で、ただ純粋に、ただ幸せに生きて行くというのは、難しいと言う事を知る事になりますよね。。。ですから、みんなと共存と言う形で生きるしかないと思います。
で、共存という形ですが、人は一人では生きられませんね?国も同じです。日本は、加工国ですよね?ですので、他の国とも国交を交えながら、インポート、エクスポートを繰り返していく必要があるわけです。
人もこれと同じで、気持ちのインポート、エクスポートが必要だと思います。人に良くすれば、いいものが返ってくる。道理ですね?
でも、見返りばっかり求めてると、そういう人間関係が作られて、最後にはがんじがらめに。。。
人間関係にも、与え、受けると言ったGive&Takeが必要なわけですが、見返りを考えないGiveは、すごいものを与えられる感覚を受けます。
故マザーテレサが、言っていました。『貧しい人に施しを与えているのではなく、反対に与えられているのだと。』
これが、もっとも人間にとって美しいギブ&テイクの形だと思います。
※マザー・テレサ 1910〜1997
本名アグネス・ゴンジャ・ボジャジュ。現マケドニア共和国のスコピエに生まれる。18歳でカトリック修道会に入り、インドのカルカッタに派遣された。約17年間教職生活をおくり、38歳にして修道会を去り、スラム街で学校を開設し、その後、ローマ法王の承認を得て「神の愛の宣教者会」と呼ばれた。1952年、「死を待つ人の家」を開設。1979年、ノーベル平和賞を受賞。 ※
で、本題に戻ります。今述べたギブ&テイクができれば、みんな幸せな人間関係を築けると思うのですが、人間には、二通りの行き方を持った人が居て、一つは、善の表示体として生を受ける人。そして、もう一つは、悪なる表示体として生を受ける人。
これは、与える人がいるなら、受ける人が必要だ見たいな考え方で、人の心には、善と悪が住んでいて、悪を憎み、善を思考する。これは、個人の中の出来事なのですが、善なる人は、悪なる人を助けてこそ、善の力が増す。そういう存在理由とでも、言うべきでしょうか。
この二人の関係が、現在でも根付いていて、二人組みの友達とかに見られる傾向です。
そして、お互いに無い物に引かれたり、補い合ったりしながら、関係性を深めたりしているわけです。
人とは、人と向き合うように作られていて、その関係性によって、心が気持ちが発展し、成長していくものと考えられると思います。その成長の段階が、俗に言う精神年齢とかで現されるんだと思います。
幸せをつかむには、関係性とギブ&テイクだとお話させていただきましたが、この幸せをもっとも感じられる感情は、愛だと思います。
人を慈しみ、心から他の人に涙を流せる人。こんな人が、愛を沸き立たせていける人なのではないでしょうか?
生きることの意味とは、現在の情報の多さだけに、惑わされないで、本当の自分を見つめ、心から幸せになる。幸せをつかむ行動をする。それには、人を愛し、人のために生き、自分の人格を向上させるそんな生活の中で、自分も気が付かないうちに生きることの意味の中で暮らしている。これこそが、幸せなのでは、ないのでしょうか。
不幸の中から脱出して、幸せをつかむ努力をすることが、人間の歴史を通してきた生き様だったのではないでしょうか?
そろそろお時間です。今回は、どうだったでしょうか?ナビゲーターは、ホイットニーふとーんでした。明日は、どんな日になるでしょうかね?楽しみですね?では。

0