光厳院を悼む

2016/6/9 | 投稿者: 鹿苑院

鎌倉幕府打倒計画がバレて後醍醐天皇が隠岐に流されると、都では新しい天皇が即位した。光厳天皇である。
後醍醐帝が隠岐を脱出し、鎌倉幕府を倒すことに成功すると、光厳帝の即位はなかったことにされてしまう。実相としては明らかに後醍醐帝は隠岐に流された時点で退位させられているのだけど、勝った者はなんとでも言えるとばかりに「朕はあの時退位などしていない。隠岐にいながらもずっと帝位にいた」と主張したのだ。まあせめてもの慰めとしては、光厳帝に対しては帝位に就いたことは認めないが上皇の待遇を与えるという異例の措置がされたことか。

後に足利尊氏が建武新政への不服により挙兵すると、光厳上皇はこれに院宣を与えて推戴される。この時に足利方が主張する天皇として即位したのは弟の光明天皇なのだが、なぜか歴史学の世界では光厳上皇を指して北朝初代と呼ぶ。
その後は強大な足利幕府に保護されて京都に鎮座し続けていたのかというとそうでもなく、南朝軍が京に攻めてくると足利義詮ちゃんが狼狽のあまり上皇の身柄と三種の神器を置き忘れて都落ちしてしまったため、以後5年間を捕虜として過ごされたという不運っぷりである。

明治以降、南朝正統論が世を覆い、前記の後醍醐帝の無理のある主張も正しいということにされてしまったので、今でも光厳帝は歴代天皇にはカウントされない。
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2016/6/17  23:26

投稿者:鹿苑院

私は北朝正統論なんですけども、どうも異端みたいですね。
本当に南北朝は敵味方がコロコロ変わるし、正平一統なんてなんであんなことしたのか頭
に?マークがいっぱい浮かびます(笑)。
わかりづらい上に天皇家をダイレクトに扱うから映像作品にもしづらいわけで、マイナーに
なるのもやむを得じというところですね。

2016/6/16  22:49

投稿者:ふみた

鹿苑院さん、こんばんは。

私は「北朝と南朝のどちらが正統か」との問題では、南朝寄りの考えを持っています。
ただ、後醍醐天皇が天皇として素晴らしい人物だったとは思いませんし、
建武の親政から離反し、室町幕府を立てた足利尊氏の行動にも、それなりの道理はあったと思います。
南北朝時代は、人物の敵味方の関係が頻繁に変化したりしていて、本当にわかりにくい時代です。

北朝3代の崇光天皇は、現在の天皇陛下と、昭和22年に皇籍離脱をした伏見宮系の皇族(旧宮家)との、男系における共通の先祖の分岐点ですね。
私は初めてそのことを知ったとき、かなり早い段階で枝分かれしていたんだなと思いました。
しかし、男系での血縁が離れていても、歴史的に皇位継承権を所持していた伏見宮家は特別な存在だったとも考えています。

まとまりのない文章になってしまいました。すいません。

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