晩秋の一日、横浜本牧の三渓園に杖を曳いた。
交通やや不便な地で、東急線・中華街駅を出て、娘二人を引き具して車に乗り込んだ。
横浜市街を抜けて、本牧に近づくと黄に染まった銀杏並木が見事だった。
さぞ三渓園は紅葉が楽しめるだろうと期待が高まった。
三渓園は、生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三渓(本名・富太郎)の元邸宅。
彼はここに京都・鎌倉などから歴史的に価値のある建物を移築し、明治39年(三渓園)として一般に公開した。約53000坪の園内には、10棟の重要文化財をふくむ17棟の古建築物が四季折々の景観の中に巧みに配置されている。
訪れた日。快晴。数日前の寒気で一気に晩秋紅葉の景色に色染めたのだそうである。
菊花展は終わっていたが、野菊・サザンカ・薊などが見られ、大池には数種の鴨が遊弋
していた。
帰宅後、「原富太郎」の経歴は判らなかったが、「原善三郎」という人の経歴が載っており、「原富太郎」に近い人ではないかと思われた。
『原善三郎』貿易商。武州児玉郡の人。安政6年横浜に出で、生糸貿易に従事す。明治2年商法為換方となる。貿易商社頭取。6年第二国立銀行を建つ。13年横浜商法会議所頭取。22年黄綬褒章うける。25年衆院議員。32年2月、従五位に叙せられ、同日卒す。73歳。
三渓氏こと富太郎氏と、善三郎氏は所縁の人に思えるのだが。
園の正門を入ると、入園券を売る番小屋があり、大人500円であった。個人の所有から、市に寄贈され、財団法人が管理運営しているのである。
第二次大戦の爆撃被害も大きかったようである。
天満宮の狛犬の頭が爆風で吹き飛んでいた。
蓮池と睡蓮池が並び、小道を隔てて大池があるのである。池には舟こそ見えなかったが、蘆の間に隠されているのかも知れない。何故か、平泉の毛越寺の池を連想していた。大池を越えた向かいの丘の頂上に、三層の塔がランドマーク然として建っていた。
「三渓記念館」を見たかったが、時間が掛かりそうなので、次の予定もあって割愛した。
見るからに格式ある御門があり、観光客の団体にガイドしている人が説明していた。
「京都東山の西方寺の薬医門で、1705年建築のものという。門は常に開けてあって、医療を求める人の便宜を図ったという」
「臨春閣」紀州徳川家初代がたてた数寄屋風書院造りの別荘建築で、外から中の襖絵など見る。1649年建築。
「天授院」鎌倉建長寺付近の心平寺跡にあった禅宗様の地蔵堂。1651年建築。
こんな堂を邸内に移築して、邸主は何思っていたのであろうか。
「旧天瑞寺寿塔覆堂」秀吉が、京都大徳寺内に母の長寿を祝って建てた寿塔の覆堂。
覆堂とは、建造物を保護するため、外側をかぶせて造る。鞘堂ともいう。
趣ある、古色蒼然たる建物が、人工ながら自然に溶け込んだ山あい、小川の辺に配置されていた。まだまだ多くを貪欲に見て回ったが、省く。
三重塔下に茶屋三軒が並び客を呼んでいた。いわく「雁ヶ音茶屋・月影の茶屋」
僕たちは、風除けのある月影の茶屋で暖かいものを注文した。おでん、汁粉、山菜そばなどを食べた。
そこらは外苑で紅葉の木や薄や枯れ切った秋の七草などがあり、朱塗りの欄干を付けた小橋も風情があった。
大池の南縁を急ぎ足で通って、元の正門に一周してきたのだった。
門外にはタクシーが数台客待ちしていたので、安心して門前の煎餅屋などひやかした。
「三渓園」は去年11月、国指定名勝に指定されたそうである。名と所在と概要は早くから知っていたが、訪れたのは初めてだった。観て良かった。大変良かった。

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