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Worries of darling,  断片

「ねェ、黒崎サン」

「あ?」

「アタシはね、スゴーく心配なんスよ」

「……は?」







‐ダーリンは心配性‐







夕暮れ差し迫る、空座町の片隅。
澄んだ空が茜色に染まりゆくのを迎えるのが、いつから蝉より蟋蟀へと交代したのかも曖昧な、何の変哲もない或る日の夕刻。

窓から幾筋もの朱が差した、浦原商店の上がり档。
傍らへ駄菓子を広げながら胡座をかいている一護へ、陳列棚をいじり回していた浦原が突如として訴えた。
一体何の話かと、一護は膝の上に乗せている雑誌の公告ページへ伏せていた顔を上げる。
突然の切り出しに訝しんでいると、彼に背中を向けている浦原は振り返らず、はあ、と大袈裟な溜息を吐き出した。

「何が心配なんだよ」

「心配なんですッてばァ…」

「だから、何がだって」

繰り返される台詞を聞き返しても、後ろ姿はすっかり落胆したように背を丸め、はあああ、と長くなった溜息をもう一つ。
ほんの一時間程前、学校帰りに立ち寄った一護の姿を見るなりやたら浮かれながら奥へと招き入れた気配など、まるで店先に置き忘れてしまったような意気消沈ぶりである。

何かしら、思うところでもあったというのか。
しかし今日は一護が訪れてから、取り留めもない世間話を幾つか交わしただけである。
思い当たる節など一つも引っ掛からない。

「ンだよ。何かあったのか?」

いつになく、物憂いげだ。
とは言え、自分の何倍も長く世を渡っている筈の彼が、実は心情の機微に敏感である事を一護は識っている。
表向きは飄々としながら多様な口振りで弁を奮う癖に、他人の言い回しに殊更細かに反応しては複雑に受け止めたりする。
言うなれば、穿った捉え方をする――と云う事なのだろうと、一護なりに思っている。
そして意外にも、そういった部分の浦原は、打たれ弱い。

「いえね、別に今に始まったコトじゃないんスけどォ…」

肩越しに一護へ視線を投げながら、浦原は何処か此方の反応を窺うような体で口を開いた。

「何て言いますか、ホラ…キミは学校とか家とか、色々あるでショ?
死神代行としてなら兎も角として、大好きなキミの姿なのに、
アタシはソレを全部知ってる訳ではないじゃないスか。
そりゃ勿論、逆も然りなんでしょうケド…」

駄菓子の陳列棚から手を離すと、やがて呆れたように――恐らくは少しばかりの自嘲も含ませようとしているのだろう――語尾を濁しながら、半身だけをようやく一護に向ける。
その表情は、档に座る一護からは窺い知れない。
夕焼けの朱さばかりが、浦原の帽子に作る影を色濃くしている。

「やッぱりそのォ、不安にもなる訳でして」

やや弁解がましい物言いで、そう結んだ。
何を言い出すのかと黙って聞いていた一護は、成る程、と胸中で合点する。


確かに自分とて、同じように考えた事はある。
一護の生まれるその昔からものを見聞きしていた浦原は、一護が与り知らぬ、そして想像も出来ないような事を経てきているのだろう。
それを知ったところで、あくまで''過去の出来事''として把握する事以外に何も出来ないのも、理解はしているつもりだ。
形を成すもの、取り巻くものが果たして何なのか。
それは過去だけに及ばず、現在ならびに未来であろうと同じ事。
しかしそれでも尚、僅かな相手の断片でさえ識ろうとする。

動機は、至極、単純明快。

けれども浦原は、それに惑っているのだ。
幾つもの物事を経てきたからこそ、一護がすんなりと見出だせる程シンプルなその答えを、すぐさま導けない。


「…何言ってんだ?アンタ」

「アハ、やッぱらしくないッスかね?
でーもォ…勝手に気を揉んでるとは言え、心配なんですゥ」

後半は拗ねたように唇を尖らせながら、浦原は懐の扇子を抜くなり何度か掌にぴたぴたと当て、やがて一護に差し向けた。

「キミはね、キミが思ってる以上にヒトを惹き付ける。
…アタシをそうさせたみたいに、ネ。だから気懸かり」

「……こっちの台詞なんだけど」

「いーえッ!負けませんよ、ソコは」

「勝ち負けの問題かよ」

それが例えポーズに過ぎないものだったとしても、まるで駄々を捏ねているようで、そんな浦原は少し微笑ましい。
一護がそう思っているのが知れたとしたなら、彼は一体どんな顔をするのだろう。
再び扇子をぴたぴたやり始めた浦原が、緩やかな歩みを進めて档へと距離を詰め、やがて一護の正面にしゃがみ込んだ。
呆れてや居ないだろうかと窺うように一護の顔を覗いているようだが、窓の夕焼けを浦原が背負っている所為で、一護からは彼の表情を依然として知れないままである。
声色だけでは、窺えない。

「そんな心配、しなくたってイイのに」

「大人げないのは承知の上ですが、そりゃ無理ッてモンです」

不思議そうに呟くと浦原は小さくかぶりを振って、あのね、とまた仕切り直す。

「キミが傍に居てくれるのが、アタシはスゴく嬉しい。
毎日毎日幸せで、夢でも見てるんじゃないかッて位にネ。
だから――もしコレがホントに夢だったら…なァんて、
ヘンなコト考えては時々怖くなったりもするんです。
…あ、勿論、キミを疑ってる訳じゃありませんヨ?
それでも……ね、キミはどう?そんなふうには思わない?」

訊かれて、一護は素直に首を横に振った。
確かに同じような思いが、自身を掠める事はままある。

何故、その目で選んだのか。
何故、その足で傍らに立つのか。
何故、その指で触れるのか。
何故、その肌で抱くのか。
何故、その唇で囁くのか。

明確な答えは、いつも出ない。
けれども考えの行き着く先はいつも決まっていて、たった一つの結論しか見出だせない。
故に、その唯一が恐らく正解なのだろうと、一護は思っている。
正しいとか間違いだとか、定義付ける基準も理由も、自分には解らないけれど。

「そりゃ、俺だって心配だけど…」

一護が自身の意見に同意したところを見届けた浦原は、今度は僅かに安堵したような息を吐いて見せる。
そして彼が言葉を続けるより先に、少しばかり試すような声色で小首を傾げた。

「じゃァ、どうして一緒に居てくれるンです?」

その答えも、実は一つしかない。
きっと彼も、同じ答えを持っている。
なのにわざわざ、言葉を得ようとして問い掛けた。
今度は、キミが口にする番だとでも言うように。
素直に答えるのは少し癪に思えて、一護はじっと帽子で翳ったままの浦原の顔を見遣った。
口許は、いつも通りの締まらない薄笑いを湛えている。
話だけ聞いていれば本当に不安がっていたように捉えられそうなのに、一護から欲しい言葉を引き出す為に誘導しているようにも思えてくる。


「…ソレ」

「ん?」

「この前クリアしたゲームでも言ってた」

「ぇえ?ゲーム?」

一護の言葉に、意表を突かれたらしい浦原が口許の笑みを崩しながら怪訝そうに扇子の先を足許へと下ろす。
流石に、テレビゲームには馴染みが無いようだ。
折角なのだから、博識な彼が知らない話の方が、恐らく都合が良い。

「ゲームの中に出てくる、芝居の話」

「オハナシの中のオハナシ、ッてコト?」

そう、と頷いて雑誌を閉じた一護に、果たしてどんな話なのかと先を促すように水を向ける。
夕暮れが、朱から宵の色へと姿を塗り変えられようとしている。
少しは、自然な語り口に聞こえるだろうか。
もしかすると相手には、通用しないのかも知れないけれど。


「…ある所に、二人の冒険者が居ました」

浦原は、じっと耳を傾けている。
夕闇が近付くにつれ、重なる虫の声が増えていく。

「…二人は共に、大きな館で働いていました。
ある日、片方のもとに、手紙が届きました。
けれどその手紙は雨に濡れたのか、殆ど読めませんでした。
かろうじて読めたのは、''家に戻れ''という内容。
何故だか解らないまま暇を貰い、支度をして旅立ちました。
川を越え山を越え、凶暴なモンスターに襲われる事もあった。
厳しい道のりだけれど、二人なら何とかなった」

「ほうほう……それで?」

「こうして、幾日か過ぎたある日。
ふと一人が気付いて、もう片方に問い掛けました」


―――『お前、どうして来たんだ?』
―――『どうして、此処に居る?』


「…もう片方は、何て答えたンです?」

浦原の問い掛けに、一護は語らいを続ける前に、顎先を上げて窓の向こうに視線を投げる。
藍色に圧し掛かられた空が、夜を報せている。
静けさを帯びだした街並みはやがて、眠りに落ちる支度をするのだろう。
そちらを見つめたまま、一護は口を開いた。


―――『お前が行くって言ったからさ』






取り立てて、大層な理由など必要無い。
ただ無条件に望む、それだけの事だ。

そしてその動機は、至極、単純明快。

「……なァーるほど」

得心したらしい浦原の口許に、再び笑みが戻ったようだ。
それを薄暗くなった視界の端に留めた一護は、閉じた雑誌を脇に避けながら、小さく肩を竦める。
宵闇に侵食され始めた中ではその仕草も明瞭と視えはしないだろうけれど、気配だけで充分に伝わる筈である。

「…ま、そーいうコトだ」

「ハイな」

ぶっきらぼうに言葉を結んだ影法師にもう一つ、シルエットが伸びて重なった。
それきり、帳の落ちた闇が沈黙を包んで、虫の声を遮るものは無くなる。








心配性な貴方、怖がらなくていい。
何とも喜ばしい事に、恐れは共有されている。

時に惑おうとも、時に忘れようとも、幾ら考えたところで残るものはたった一つしかない。
例えそこに行き着くのに時間を要したとしても、成る程そうかと思い立つ度、その瞬間に恐れは跡形もなく消え去るに違いない。
そしてそれは、我々に許された特権。
我々だけが互いに得られる、数ある''ただひとつ''の一面なのだろう。


そう。
答えもきっと、至極、単純明快。



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創作5題/2  断片

2、届きそう

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「毎日まいにち」

届きそうなのに、と。
結局、思うだけで一日が終わる。
呟いて、ちぎれたプラグコードを足元に投げた。
バッテリーチャージも満足に終わっていない今、これを抜いたという事は、数時間後にはスリープモードに移行する。


生きた人間の遺伝子配列をサンプリングして作られた、数あるテクノロジープログラムの中の一つだった。
自分が果たして、どんなふうに生まれてどんなふうに生きてきた人間の生物情報を構築材料としているのか、そんな事もとうの昔のバックアップを機に忘れてしまった。
記憶とはただの断片的な履歴情報でしかないのだと、いつか誰かにそう言われた事を“覚え”ている。

少しだけ、うなじの辺りが痺れる。
まだ“麻酔”が効いているのだろう。
量が多過ぎたのかも知れない。

溜息など吐いてみた。
瞼の裏で、スリープモードの文字がフェードイン・フェードアウトを繰り返して瞬いている。


後少しで届きそうだ。
いつも“目覚め”る間際になる度にそう感じるのに、起動した瞬間にはもう消えてなくなってしまう。
それこそが自分の欲しがっていたものだと漠然とした確証を感じるにも関わらず、まるで煙のように形を失うのだった。

それはまるで、人間が必ず行き着く先を、忌避しようとしたり自らもぎ取ろうとしたりするものに酷似している。


「……寝るか」

文字通り、スリープモードへ。
呟いて、筐体の損傷もそのままに沈黙した。


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メカニュアンス練習。
ちゃんと煮詰めてからやれと←

 

創作5題/1  断片

※日記から加筆修正、格納※



お題内容その1

1、あなたは小さく


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唇から、歌を紡いだ。

その旋律の、ほんの一欠片だけが僕の脳にこびり付いたまま離れない。




雑踏、人混み、情報、錯綜ばかり。
あどけなさが残る少年少女の笑い合う声。
道端のそこここに夢もモラルも散らばっている、原宿、竹下通り。
日曜の真っ昼間ともなれば尚更賑やかで、ざわつきばかりが僕を取り巻いていた。
とても腰が据わらないこの雑多さの中で週の殆どを過ごす暮らしを始めてから、もう数年が経つ。
夢見る若者達がするように僕もまた、世間一般的にはもしかすると少し特殊に思われるのかも知れない、しかしこの世界ではとても凡庸な洋服で、いつものファーストフード店に座っていた。

アシンメトリーに鋏を入れた黒髪。
それらしいカットソーに迷彩柄のパーカーと何の変哲もない黒いバイカージャケットを重ね、下は有り触れたダメージスキニーにエンジニアブーツ、何となく巻いただけの鋲ベルト。
むしゃくしゃする度に開けた所為で、虫食い状になったピアスだらけの耳。
この街では、まるで絵に描いたような型押しの姿恰好。

これが僕。

男がするなら、どう思われるんだろう。
じゃあ、女がすると“おかしい”のだろうか。
フツウとやらの基準が多数決であるとするなら、この街では少なからず、多分、そう珍しくない部類に入れて貰えるのかも知れない。
だとすれば、山手線に乗って数駅ここを離れてしまうと、その多数決は可否がひっくり返ってしまうのだろう。
僕も、ひっくり返されるんだろうか。
何となく他人事のように、携帯を握る自分の指を眺めた。

男らしさとか、そういうものは一片も感じられない手だ。
まあ、それはしょうがない。

僕は生物学上にも戸籍上にも、立派な女として認められている。
そして、女の子として生きてもいる。
下着は女物だし、上手くはないだろうけど一応化粧もするし、こう見えて可愛いものなんかも結構好きだ。
ねずみの国のキャラクターものとか。
実際、ねずみ国自体も楽しい所だと思う。

ただ何となく、バイト先で見るような、恋愛話やブランドの新作に一喜一憂するばかりの“オンナノコ”とは、自分は決定的に違うような気がした。
かと言って、隣の店の“オニイサン”みたいな、ちゃんとした(…ちゃんとした?何がだろう?)男になりたい訳でもないんだと思う。

何だか自分が急にあやふやな生き物に思えて、つい手にしていた携帯を開いた。
携帯依存症の癖だ。
けれど、僕がどんなところに分類される人間なのかという答えは、液晶画面に書いてある訳じゃない。
見慣れた携帯は勿論、見慣れた待受画面しか見せてくれない。
電話をかけて尋ねてみるような相手も思い当たらず、ただ何となくメールを問い合わせてみては、それを中断させた。
どうせメールなんか入らない。
から、新着なしの報告もやっぱり要らない。
こんな小さな機械に聞いて、僕の欲しいものが判るとは限らないし。


ホシイモノ。
何だろう?


考えてみれば、それが自分で判らない限りは探しようがないんだ。
だったら、今は何をしても見つからないんだろうな。
そう思いながら、もう何本目かの煙草に手を伸ばした。
緑のMの印がまた平凡な箱から、一本を引き抜いて唇にくわえる。
お安いプラスチックのライターで火を点けて深く吸い込むと、昔無理に開けた唇のピアスホールに、何となくメンソールが沁みたような気がした。



ああ、今日もつまんねえな。

いつもの昼だった。
このままポテトフライを食べ終えれば、またいつも通りバイトに戻る予定だった。

あの子の歌を聴くまでは。



止まない雑音にも、それこそ隣の席でたむろする女子高生達の笑い声にも、掻き消されてなどいなかった。

僕の穴だらけの耳に、メロディも歌詞もロクに聞き取れない歌が飛び込んできた。
聞き取れなかったんだから捉え切れたのはただの“音”と呼んでいいものだっただろうに、僕はどうしてそれを歌だと思ったのか、全く解らなかった。

歌だ。

店のBGMなら、多分聞き流せたんだと思う。
けれど僕にはそれが、決して聞き流してはならないもののように感じた。
どうしてかは、知らないけれど。

音の元を探す。
しかし耳を澄ませても店内を見回しても、もう音を手繰る為の余韻とか空気とか、そういった名残は何にもない。
空耳だったのかも知れない。
のに、“歌”を聴いた、という自覚だけが、僕の耳の奥に残って消えない。
視線を置く場所に迷って、前を向いた。


そこに、彼女が居た。

いつから居たのかは判らない。
今来たのかも、最初から居たのかも、どっちにしろ僕が気付いてなかったのだろうと思う。

一文字の眉も細い首も全部が丸見えになるくらい短いのに、こめかみの一束だけが顎辺りまで長い、…少し変わった髪型。
赤と紫を混ぜたような色に染まっている。
きっと耳も丸見えなんだろうけど、そこだけは大きくてメタリックな色のヘッドホンで見えなかった。
瞼の幅にも満たない短い眉の頭から、顔の中心へ撫で下ろしたように鼻筋が真っ直ぐ通っている。
黒いアイラインが囲う目を縁取った睫が、何度も瞬きを繰り返していた。
眩しいくらい真っ黄色に黒いラインが入ったリブパーカーに真っ白のシャツ、そこまでしか僕の席からは判らない。その人の首にかかったチェーンか何かが、店の照明を受けて光った事だけは視認出来た。

その人は、僕の座るカウンター席の向かいに腰を下ろしている。
見慣れた広告を敷いたトレイの上に、アイスカフェオレと灰皿だけを置いて、とても熱心に携帯のキーを操作していた。
僕より小振りで細く見える指に随分大きなリングを沢山つけているのに、キーを打つ速さが物凄い。

女の人だと思う。
なのに全然、柔らかくない。
かと言って雄々しい印象も全くない。
シャープとかスマートとかじゃなくて、寧ろ鋭い。
視線は携帯に注がれたままなのに、ドキュメント番組で観るようなサバンナの獣みたいに隙がなかった。


じゃら、と彼女の携帯が鳴る。
…凄いストラップの数だ。
携帯に飾りがついてるんじゃなくて、飾りの塊に携帯がついてるみたいに見えた。

そしてまた、その人の唇から音が洩れる。
今度ははっきり聞き取れた。
口ずさんだほんの一小節程度だけのものだけれど、やっぱり歌だった。
そして僕は、それを耳に入れた途端思わず肩を縮めてしまった。
それがどうしてかは全く解らないのに、何の変哲もない幾つかの音階を聴いただけで、何だか動悸が落ち着かない。
それが、止まらなくなってしまう。

何なんだろう。
少し混乱して、今度は肩の次に体全体を縮めた。
けれど、彼女の唇からまた音が洩れやしないかと何だか期待めいたような気持ちにもなってくる。
携帯と視線をテーブルに置き、スツールに足を乗せてじっとする。

つもりだったのに、
スツールに置いた足が滑って、足元でガチャンと音を立てた。
ついでに勢いのまま、カウンターの板にブーツの先をぶつけてしまう。
…しまった。
思わず伏せていた視線を上げたら、

目が合った。
その人もこちらを、

「――…、」

顔中に熱が集まる。
恥ずかしい。
何でだかわからないけれど、恥ずかしくて思わず“すいません”と口にしそうになった。

けど、結局言えずじまいだった。
向かいの彼女がほんの一瞬、小さく目を細めて笑った、ように見えたから。
僕には、だけれど。
もしかすると、カウンターを蹴られたと気を悪くしたのかも知れない。
その反応が僅か過ぎて意図は読み取れなかったけれど、兎に角僕は、それで何も言えなくなった。
また目を伏せて、スツールに足を乗せ直す。
今度は踏み外さないように、出来るだけ音を立てないように細心の注意を払いながらブーツを戻した。

…どうしよう。
僕が真っ赤になったどぎまぎしている内に、向かいのその人は、カフェオレを飲み干して立ち上がってしまう。

もう行ってしまうのかな。
俯いたまま視線だけで向かいを盗み見てみると、手にしたトレイの上のプラスチックカップが、彼女の歩き出す勢いに負けてコトンと倒れた。
中身が入っていない音だ。
じゃあやっぱり、僕が気付かなかっただけで、きっといつの間にか向かいに座っていたんだろうと思う。
…あんなに目を引く髪の色なのに。

その人を見つめる事が、何となく後ろめたいような気がしてくる。
けれどつい、視線で後ろ姿を追った。
黒い細身のパンツにマーチンのラバーソール、腰から何故かショッキングピンクの手錠とチェーンが下がっている。
女性の体として、出るところとへこむところが綺麗に…なんて言うと何だかおかしな感じだけれど、メリハリのあるシルエットの体つきだ。

…何を見てるんだ、僕は。
彼女を観察して気付いたところに思わず胸中でかぶりを振って、それでも懲りずにまた遠ざかっていく後ろ姿に目を戻す。
ゴトゴトと靴音を遠ざけながら、その人は周りの客がするのとまるで同じように、ゴミを捨て、トレイを置いて、ジャージのポケットに片手を突っ込みながら喫煙席を出て行ってしまった。
その間彼女は、空いたもう片方の手で、ずっと携帯をいじっていた。



僕の頭からメロディの欠片が離れなくなってしまったのは、その日からだ。
そして、その歌の続きを聞く事が出来やしないだろうかと思うようになったのも、その日からだ。

その姿を毎日バイトの休憩中に探しながら、僕は名も知らぬ彼女を、髪の色から“ラズベリーのひと”と自分の中で定義づけた。

 

(無題)  断片

船室は、しんと静まり返っている。
あちこちを好き勝手飾り立てた部屋の窓からは、煌々とした月明かりだけが差し込んでいた。
窓枠の格子が床板にくっきりと、影絵のように切り取られた形で落ち、船の揺れに合わせて右へ左へと振れている。


シャールは瞼を開いた。
ラム酒の空き瓶が、机に乗り上げて組んだブーツの片方に凭れている。
どうやら、晩酌の途中で寝入ってしまったらしい。

「…ああ、」

が、彼がその事を思い出したのは一拍の沈黙を挟んだ後だった。
気のない声を漏らし、被ったままの帽子のつばを指先で少しだけ摘んで持ち上げる。
壁にかかった時計は、月明かりに影を作った二重の針で、夜も更けた時刻を指していた。
脚を丸テーブルから移して床に下ろし、一度立ち上がろうと手を付いたところで、思いの外覚束ない体が船体と共に揺れてしまう。
そこで、脳信号に追い付けていないシャールの体に、大きな両腕が巻き付いた。

「目が覚めたか」

耳朶の真後ろで囁かれた声の向こう側で、ラム酒の空き瓶が木床を転がり去っていく音が聞こえる。
後ろから抱きすくめられた形のシャールは、そのまま後方の人物に背を預けて目を細める。
広い帽子のつばが、上げたばかりだというのにまたずり落ちて、彼の目元を隠してしまった。


「まだ酔っているようだな」

「…君と飲むとねえ」

小さく唇の端を持ち上げる。
後ろで自分を支えている男がこの船に訪れるとついつい酒が過ぎるのは、本当の事だとシャールも自覚はしている。
ただ、だからと言って杯を控えるような無粋な真似は一度もした事がない。

男一人をゆうに支えている、彼の背後のキルヴァインは小さな溜息を漏らした。
その吐息がどうやら擽ったかったようで、シャールが僅かに左の肩を竦める。

「どうせ俺と飲んでいた事は、今思い出したばかりなのだろう」

「とんでもない。拗ねちゃったかい?」

「いいや」

模糊とした意識が戻った後に悟った物事の順番を指摘されるが、シャールはそれを否定する。
へそを曲げたかと半ばからかうように聞いてはみたが、キルヴァインの返答は予想通りのものだった。
しかし、シャールの体を後ろから抱いた腕は、未だ離れる様子がない。


「ヴァン?」

「……ん」

「君も、相当酔ってるんだな」

シャールが友と呼ぶ中でも、一・二を争う程の堅物であるキルヴァインである。
その彼が自分に触れて暫く離さないというのは、初めての事のように思えた。

何しろ、こちらには“影”が居る。
そのお陰で、キルヴァインは幾度となく怪我を負っている。
こうして飲み交わす夜の数に能う程、シャールとキルヴァインは繰り返し対峙し、剣を交えていた。
いつ何時、“影”が彼に刃となって襲い掛かるかも知れないというのに。

シャールの頬に、キルヴァインの蒼い髪がさらさらと垂れる。
帽子の陰から盗み見た友の横顔は、月明かりにとても美しく憂い気だった。


「――…大丈夫だよ」

「…そうか?」

「だいじょうぶ」

彼が何を言わんとしているかを何となく悟れたような気がして、シャールは小さく根拠ない一言を口にした。
案の定疑われてしまいはしたが、納得は元より得られない事を承知の上で、繰り返し同じように言い聞かせる。

そして暫くの間だけ、キルヴァインに甘えるように瞼を閉じた。



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