信号待ちをしている時にいつも思う。
皆何を急いでるんやろか。
信号すら待つことの出来ないくらい急を用しているんやろか。
それは赤信号を渡るリスクを上回るほどのことなのか、と。
ざっと見た感じではあるが、7〜8割。
善良な市民たちが信号無視をする確率は。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」
まさにそういう状況が目の前で繰り返される。
毎信号、毎日。
きっと「信号無視くらいして何が悪い」とか思てるんやろう。
「たかがそれくらい」と、大多数の善良なる市民たちは。
ならば問いたい。
もしその行動が原因で身に危険が及んだ時、誰に責任を求めるのかと。
「そりゃ自分自身にでしょ」
きっと皆はそう答えるだろう。
しかし、実際にはどうか。
かえりみればいい。
「あぶなっ!」とか、
「どこ見とんねん!」とか言いながら、他者を非難し責める自分の姿を。
リスクを伴う行為であること、正しい行いではないことを承知していたはずだろ?
ならば認めなければならない。
他者ではなく自らの非を。
責任の所在が己にあることを。
皆がやっていることが正しいとは限らない。
確かに、数が多いと正しいことのように思えてくる。
「ちょっと待って、それは間違いやないの?」
などと言おうものなら除け者にされるだろう。
アイツが悪い、空気が読めない奴だ、変な奴だ、偽善者だと罵られたり、蔑視されるだろう。
それは仕方がないこと。
正しいのはいつも数が多い方で、正義とはいつも強い方なのだから。
少者は淘汰され、排他されるのが常なのだから。
それが群れの習性、長く築き上げられてきた人間のメンタリティなのだから。
村八分にされるか、群れに残るか。
そら誰だって村八分にはされたくない。
誰だって自分自身を責めたくはない。
だから集団の選択に従うことを責めはしない。
けど、少なくとも自覚はして欲しい。
葛藤して欲しい。
自分自身が何をしているのか。
その行為が正しいことのか、間違っていることなのか。
そうすることを選んだのは誰なのか、ということを。
そして考えて欲しい。
鑑みて欲しい。
群れで行動することのリスクを、宿命を。
赤信号を皆で渡れば怖くない理由を。
それと同じようなことを繰り返しているということを。
暴走と後悔を繰り返し続けているということを。
ワタシは思う。
信号待ちをしている時に。
「怖くないのは皆狂っているからさ」と。

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