皇室の名宝に続いて、冷泉家の名宝
冷泉家時雨亭叢書完結記念
冷泉家 王朝の和歌守展 前期:10/24〜11/23、後期:11/25〜12/20
去年は、近衛家の陽明文庫の名品を展示した<宮廷のみやび>展、今年は、<皇室の名宝>、そして<冷泉家>と、最近、続きますねぇ。前後期で全作品入れ替え(文化財保護という意味で当然)作品リストの番号は、437を数えます。藤原不比等の次男・房前を祖とする藤原北家の子孫、道長の子・長家を祖とする御子左家(みこひだりけ)の子孫、藤原定家の孫・為相(ためすけ)から冷泉の家名が始まります。御子左家の祖、藤原長家の曾孫にあたるのが、
藤原俊成(1114〜1204)、そして、
定家(1162〜1241)、
為家(1198〜1275)、
為相(1263〜1328)と代々受け継がれて、冷泉為人氏が第25代当主にあたります。会場の音声ガイドには、現当主夫人、貴実子氏の話も含まれていますが、貴実子夫人は、先代、第24代当主、為任氏の娘で、為人氏は婿入りだそうです。冷泉家の貴重な古文書類が納められている蔵を御文庫(おぶんこ)と呼びならわしているそうですが、貴実子夫人は、幼い頃より「御文庫には神が宿っている」「近寄るとバチが当たる」と言われ、そう信じてきたということです。それほどまでに固く守り続けられてきた御文庫が公開されるようになったのは、先代為任氏が、文化財の継承保存と公開のため、1981年に財団法人冷泉家時雨亭文庫(しぐれていぶんこ)を設立してから。その後、古文書類は写真に撮られ、『冷泉家時雨亭叢書』全84冊として先頃、完結したということです。
ごく最近まで、冷泉家当主や限られた人しか見ることが許されなかった、門外不出の古文書がこうして展示されていること、それだけでも画期的なことでしょう。
展示は、『名月記』「勅撰集」「私家集」「歌書」「宸翰」という分類で章立てされ、ほぼ年代順に配列されていたようです。
まず、古文書類に先立って、俊成、定家、為家、為相の肖像画がありますが、これらは「御影」(みえい)と呼ばれ、特に、俊成、定家、為家の三幅は、儀式の際に三幅対で掲げられるということです。合わせて、それぞれの自筆の書、俊成『古来風躰抄』、定家『拾遺愚草』、為家『七社百首』、為相『文保百首』を展示、為相の自筆とわかっている文書は数少ないということですが、俊成、定家と較べ癖のない読みやすい字と思いました。
『古来風躰抄』は、ある高貴の宮からの依頼により、俊成が執筆した歌論書。その宮は、式子内親王と見られ、執筆は、俊成82歳の時(1197年)。宮へ献上した物とは別に、俊成自身が、子孫のために書写して残したのではないか、とされています。
歌のよきことを言はんとては、四条大納言公任の卿は、金玉集(こがねのたまのしふ)と名付け、通俊卿後拾遺の序には、「詞(ことば)ぬものゝごとくに心海よりも深し」など申しためれど、必ずしも錦ぬものゝごとくならねども、歌はよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞こゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきてよくもあしくも聞こゆるなり。
「歌はよみあげもし、詠じもしたるに」とあることから、本来の和歌の鑑賞というものは、文字にしたものを読むのではなく、よみあげられたものを聞くことに重きを置いていたようで、その形式を「披講」(ひこう)といいます。「披講」は、まず節を付けない「詠み上げ」があり、続いて節を付けて朗誦されるというもの、音声ガイドには貴実子夫人による「披講」が収録されています。
『名月記』は、定家31〜78歳(1192〜1239)頃の日記。巻一「建久三年三月四月五月記」は、後白河法皇の崩御から七七日法要にあたる時期。朱筆は、事書き(ことがき)と呼ばれ、後で見返す時に探しやすくするインデックス。日記という性格上、すばやく端的に書けて、且つ後日見返しても読める筆跡は、定家自ら「その字鬼の如し」と評し、悪筆であるとしたのですが、後世の人は「定家様」(ていかよう)と呼んで真似たということです。
『名月記』は紙背文書の宝庫であり、冷泉家時雨亭文庫蔵の『名月記』だけでも600点あまりが残存する。紙背文書は、ほとんどが定家の周辺に宛てられた、日記と同時代の書状である。(展示解説より)
「藤原定家書状 円勘返状」
「円」は「円位」、すなわち西行と推定され、とすれば行間の細字は西行筆跡となる。裏に残る痕跡の筆跡から、『名月記』の紙背が剥がされたものとわかる。(展示解説より)
御文庫には数多くの私家集が書写され保存されています。これは、勅撰集の撰者となる機会の多かった冷泉家にとっては、撰をするときのデータベースとなるもの。私家集のそれぞれの歌が、どの歌集にとりあげられているかを略称で示した、集付(しゅうづけ)が施されています。
「実方中将集 色紙本」「道信中将集 色紙本」 ともに、「破り継ぎ」など華麗な装飾料紙を使った平安時代の私家集。
実方 かくとだに えやはいぶきのさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを(後拾遺集)
道信 朝がほを 何はかなしと思ひけむ 人をも花はさこそ見るらめ(拾遺集)
「桂大納言入道殿御集」は、鎌倉時代に入っても装飾料紙が使われたことを示す資料。ただし、この時期になると「破り継ぎ」のような本の壊れやすい技法は姿を消し、箔散らし、金銀泥などが用いられました。
「西国紀行」「御製歌少々 順徳院」「合点和歌百集 上」などは、御文庫の公開により初めて知られた和歌が記されていると(驚)!
菅原在公が書写した「文選」。漢学を継承する、菅原家との接点は?
「朝議諸次第」宮中での儀式の次第、手控えといったもの、その付属品に「束帯人形」という紙の人形がついています。定家が、儀式の会場を書いた「朝議図」の上でこの人形を移動させて、シミュレーションしていたのではないか、と説明があったのを見て、人間味あふれる人物に感じられました。
江戸時代の宸翰(しんかん:天皇自筆の書)は、時代が新しいこともあり、表装も美しい掛幅が多く、楽しめます。
「君臣僧俗詠歌」 和歌の書かれた、雲紙の短冊を貼ったもの。霊元天皇(1654〜1732、1687年に譲位後、院政)崩御の一ヶ月前、享保17年7月に病床に献上され、崩御の後、返却されたもの。霊元天皇の書は、東京国立博物館の平常展でも見かけますが、書や和歌に秀でた人物だったようです。
「桃園天皇宸翰和歌懐紙」軸端は金属の打出し、表装裂もあざやか。
「後桜町天皇宸翰和歌懐紙」
ときはなる松の みどりもこの時に さかふる色の みえてうれしき
料紙が濃緑色、左端に朱一筋、これは、あおもみじという襲色目だそうです。寛政9年、16代為泰が賜り、文政12年、18代為則が表装。
和歌という、日本独自の文化の素晴らしさを、門外不出で守り継がれてきた展示品で体感することのできる画期的な展覧会だと思います。文字が読めないとか、和歌を知らないとかいうことと関係なく、感じることができる展覧会です。
参照文献 冷泉為人監修(2001)『冷泉家 時の絵巻』書肆フローラ.
参照サイト
東京都美術館 公式サイト(朝日新聞社)
メモ: 最寄り駅 JR上野駅公園口、JR鶯谷駅、メトロ銀座線・日比谷線上野駅
料金 1400円
滞在時間 約1時間40分

0