毎日のように通る道沿いの校舎のような建物前の空き地は今年も花盛り。管理人が根こそぎ抜き去って、つまらない広場になったようにも見えていたが、野生の強さに感心することしきり。誰かがハイと手を挙げ、ではあたしもハイ、ハイ、ハイってな調子で、あっという間にこいつらに埋め尽くされた。大したもんだ。
で、感心しているあたしは、お隣中国と時を同じくしてウン十回目の誕生日を迎えてしまった。この場合、「迎えた」と言うより「迎えてしまった」と、幾分の落胆を含みつつ事実と向き合うことが正しく思われる。
で、「来年の誕生日はないかも知れないじゃない」などという憎まれ口にも、否定する気力はあれども「そうかもな」と納得したりする。
階段の上り下りなどの息切れに、加齢による衰えを感じたりはするものの、その実気分は二十年前三十年前と何ら変わらず、山ほどのCDや譜面を前にアレコレと空想と妄想は続く。17才の頃、手持ちのジャズのレコードは十曲ばかりだった。来る日も来る日も同じものを聞いて飽きることなく、聞くたびに新たな感動さえあった。しかし、プロとしてやっていく内に、聞くことは学習と同義になり無闇な感動は封印された。多くが辿る同じような道にさ迷い、何かを学ぶというよりも盗み取って我が身に貼り付ける作業に多くの時間を費やした。事の是非はともかく、僕らの仕事はそのように動く部分があって油断も隙もあったものじゃない。
しかしながら、歳を経た今、グールドの弾くバッハの協奏曲の一節に、キース・ジャレットのソロのワンフレーズに、今まで感じたこともないような美しさが聴こえてくる。そうか、十代から何十年も隔てて、一周して戻ってきたのかとも思え、バッハに宇宙を聞くとはこの事かと早合点する。
演奏すべきものが見えてくると、己が能力の低さに戸惑いも出てきて、まだまだ初心者じゃないかとガッカリしたりするのはいつものことだが、ま、また一歩後退したような気もする。だが、感動するエネルギーが再び沸いてくるというのは、まったく悪い気分じゃない。その感動を、自分の楽器から溢れ出るように表現できれば、来年の誕生日は来なくてもいいか、ってなところなのだ。