突然思い立って、鎌倉に行くことにした。一度も足を運んだことのない鎌倉だったが、ある雑誌で紅葉の海蔵寺の写真を見たのがきっかけで、行かねばなるまいと思い始めた。紅葉にはまだ少し早いが、思い立ったが吉日、数日間続いた雨も上がり、午後からは好天だと気象庁が言うではないか。ネットで調べた地図を何枚もプリントして、ソーレッと朝早く出発した。手始めに銭洗弁天を目指し、そこから大仏、鶴岡八幡、海蔵寺などと予定していたわけだが、ま、地図上の予定と実際はまったく違う。地図では道の高低、起伏は分かりゃあしない。第一、銭洗弁天までのナビ地図通り走ると、これがとんでもない山道で、遭難するんじゃないかと思ったほどだ。うまくいけば、弁天そばに駐車できる予定だったが、そのような山道に詳しい道路標識があるはずもなし。結局は山を越える形で、北鎌倉駅に着いてしまった。
あたりにはハイキング姿のジジババ、ジジババ予備軍、補欠などが目立つ。で、最寄りの駐車場に車を入れて、管理のオッチャンに銭洗弁天の場所を聞いた。
駐車場のオッチャンは退屈していたらしい。すごい勢いで演説が始まった。「いいねえ、ここからだとハイキングコースってのがあってね、まあ、所要時間30分てとこかな。ここをね、この地図だと海がこっちになるから、分かりにくいやネ、ちょっと見にくいけど逆さにするよ。で、今いるとこはここね、ここから前の道路をツイーッと行ってね、踏切前のここから右に行くとハイキングコースでサ。うん、そ、そーだな、よし、あまり皆には教えないんだけど、今言ったのはやめてね、ふっ,踏切り越えてさ、この寺、長寿寺ね、ここのところを右に上っていくのね、ここがいいのよ。うん,ほら、ここんところ雨だったでしょ?さっき言ったコースは赤土だからさ、ぬかるんじゃう筈なのよ、だからこっちの方が更にいいわけね。で、ここん所をこう行って、ここね、ここがさ、ちょっと厳しいところでさ、少し滑りやすいから気をつけて、ここだけだね、ちょっと大変なのは、ま、がんばれば行けるはずだからさ。ま、往復で、何だかんだ2時間、あ、少しのオーバーは大目に見るから、がんばって」
おっちゃんの唾を飛ばしながらの熱弁に、つばをボクサーよろしくかわしながら、大変な一歩を踏み出すことになった。
最初の舗装された坂を登り始めて、案配良く感じていたのもつかの間。亀ヶ谷切り通しの凄まじい下り坂に膝は震え、前途多難な展開に不安にもなろうというもの。それでも頑張って10分ほど歩いて弁天方面への分岐点に着いた。すると、海蔵寺まで200メートルの標識。地図上でイメージしていた距離感との違いに驚きながら、まずは海蔵寺から行くことに変更。
全面紅葉にはまだ早過ぎたが、十六井戸の祠を見学したり、穏やかな佇まいにのんびりと過ごし、次の銭洗い弁天を目指すことになった。
分岐点から登り始め、緩やかだった勾配が急激に変化するのに戸惑いつつ歩を進め、最終的には恐ろしい切り通しに唖然とした。「化粧坂切り通し」というらしい。おっちゃんの説明にあった難所とはこのことかと気付いても時すでに遅し。僕らの歳の人間がウンザリするのに充分過ぎるほど難路は続き、最後はとんでもない段差にしがみつくようによじ登った。一般道に辿り着く頃には息も絶え絶え。しかしながら、子供の頃に経験した田舎の山道のような様子に、高揚感も残った。
そこから少し下り、またもや現れた祠のトンネルを抜けたところに弁天様はあった。
トンネルを抜けると、線香の匂いが立ちこめる境内に出る不思議な空間。
山を越える人は少なかった、と言うか、ほとんど見かけなかったのに、ここは修学旅行の子供たちなど多くの人で賑わっていた。どうやら鎌倉駅の方から来たらしい。
で、子供たちに混じって銭洗いをすることになった。おっちゃんの説明だと、ここでお金を洗ってそのままってのは良くないそうだ。洗った金の半額ほどを使うこと。そうしないと御利益がないという。
誰が考えたのかは、どこにも説明されていないのだけど、たぶん、相当昔に溯る。「宮司様。今後のことを慮りました私めが考えていることがございます」「なんと、申してみよ、銭倶」「何かしらの策を持ちまして、民をここにおびき寄せるのが賢明かと」「何を以て策と致す?」「巳を御神体としてみましても、御供物に卵が届けられるだけでは得策ではありませぬ。然るに、銭をここに置かせて、なお民も己が篤と成す策がありますれば」「如何様なものじゃ」「銭を御神水で洗わせるのでございます」「洗ってどうするのじゃ」「洗っただけでは誰も嬉しくありませぬ。洗った銭の半分を使えば、必ず御利益が舞い降りてこようとすれば、民が押し寄せるは必定」「詐話でおびき寄せようと申すのか?」「詐話ではございませぬ。おびき寄せる私共も欲ならば、そこで御利益を求める民も欲。相子でございますれば、如何でございましょう」「あい分かった」
なんてぇアホなことを言いつつ、また北鎌倉まで歩いて戻るのも辛い。そこで、ここからかなり近い鎌倉駅まで行き、北鎌倉まで電車で戻ることにした。
ヘトヘトになりながら駐車場のおっちゃんの元へ戻り、銭洗い顛末を話すとオッチャンが言う。「そりゃあ、いいことあるよ。そりゃ、ま、いいことあるよ」と連呼する。
なんせ坂道踏破ですっかり疲れていた僕は、ほんまかいなとか思いつつ、大仏も鶴岡八幡も次回にすることにして、鎌倉を後にした。