以下、現代起こっている現象について淡々と私見を述べただけである。誤解のないよう予め断っておくが、日本がダメで海外が優れたシステムを持っていると論じているワケではない。
ネット依存度の高い人(とくに若年層)には、どうも右傾化の徴候が見られるように思う。その極致がネット右翼を自認する連中であろう。わたしは右翼でも左翼でもないのだが(だいたい左右しか判断基準がないのもおかしいのだが)、醒めた目で彼らを見ると同時に、現実社会においては看過できない問題だとも思っている。(そんな連中の煽動で戦争に巻き込まれるのだけはゴメン被る) 彼らに対してどう行動を起こすべきか、それが悩ましいところである。
思えばこの国には古来より制度宗教なるものが根付いた例がない。もっとも制度宗教があれば済む問題でもない(海外では多くの宗教戦争が起こっているのだから、宗教本来からすれば本末転倒もいいところである)が、それに代わる精神的な柱もない。(無宗教というのもひとつの宗教的立場であって、宗教に代わる支えを無意識のうちに科学等の他へ求めているだけである) 明治維新以降、日本は国家神道を中心に外国の真似をしたものの見事にコケた。しかも、コケたものをいまだに引きずったまま生きている。そして、それを口にするのはタブーときたものだ。まったく困ったものである。
天皇が象徴となった戦後、日本人は“世間”という世界的に見てもユニークなシステムによって辛うじて支えられてきた。しかし、それもいまにいたって村落共同体の解体と共に崩壊しつつある。
となると、何にアイデンティティを求めるか。(新興宗教・スピリチュアルブーム等はいったん置いておくとして)そこで国家の登場である。もちろん、己のプライドを国家に置くのは何も日本人だけのことではない。むしろ、海外の連中の多くが日本人より熱狂的な愛国心を持っているであろう。しかしながら、そのプライドの置き方においては、日本人と若干異なりがあるように思える。
つまり、安易に国家にだけアイデンティティの拠り所を求めるのか、あるいはそうでないのかという違いである。多くの外国ではそこに宗教というフィルターが入っているように思う。アクセル(国家への帰依)とブレーキ(宗教への帰依、あるいは宗教を根拠とした個人や憲法の解釈)を持っているとでも言うべきだろうか。ようはハイブリッドなのである。日本人はどうもアクセルだけでブレーキがないように思う。この違いはかなり大きいのではなかろうか。日本が先の戦争で暴走した要因のひとつには、このあたりも関連していると思う。
重ねて言うが、現代の日本でネット右翼を自認する連中には、己の拠り所を安易に国家に求める傾向にあるようだ。その流れが加速しつつあるのではないか。それは上記の通り、ワリと必然の流れの中で起こってきたことだと言える。つねに自己を支えるには何かが必要なのであろう。その善悪を論じるのはまた別問題であるし、別の機会に譲る。

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