洗濯バサミで『ぎゃぁぁぁぁぁ』となって、少し落ち着いたらふと鎖骨が痛いことに気が付いた。
きつく縛った縄が鎖骨に強く当たっていたようで、きりきりと痛んでいたらしい。
「修さん、ここ痛いです。」
「そう、今日はきつく縛ったからな。外すね。」
そういって両手を体の縄を解いてもらった。
なんだかちょっと惜しい気分。
そのあとはベッドにうつ伏せになっての鞭打ちだった。
最初の一発目から強かった。
痛みをやり過ごす時間もくれずに、数発。
この日は容赦ない打ち方だった。
途中、その中でもかなりMAXに近い威力で打たれたとき。
痛いと感じるのと同時かもしかしたら一瞬前か、自然と涙がせり上がってきた。
おもしろい。
人は痛いと体が感じると、意識として伝達される前に涙が滲むんだ。
感情が入る前の痛みによる涙は、じわっと滲む程度の涙だった。
(確かに、ぼろぼろと涙が溢れるのって、感情が入り交じって泣けるみたいなところあるものね)
信じられない力で打たれ涙を滲ませながら、わたしは笑ってしまっていた。
『痴人状態』のくすくすと笑う可愛らしいものじゃなくて、吹き出して爆笑、みたいな笑い方をしていた。
わたしの予想を超える力で打たれ。
『そこまでする!?』みたいな驚きに、なんだか吹き出してしまったのだ。
でも、涙が滲むほど痛い思いもしている中で、そんなふうに笑い出すこと自体、ヘンだよね。
痛がってるわたしと。
吹き出しているわたし。
それに、そのヘンなわたしを見て、更にそれを笑うわたし。
そして、あとからじわじわと、痛いことが気持ちいいと感じはじめているわたし。
また、これで感じて、それを許してしまえて、喜んで笑い続ける。
何人ものおかしなわたしがいるみたいだった。
鞭で打たれ、枕を抱えて『あははは』と笑うわたしを、椅子に腰掛け修さんはタバコを吸いながらどうなふうに思って見ているのだろう。
この日は修さんは思い切り打ちたかったらしい。
いつもの様子を見るような打ち方ではなくて、次から次へと鞭を振るう。
どれもとても強い。
大声で笑ったり、近寄っていって号泣したり、痛さに呻きながら快感に浸ったり。
おもしろいくらい感情がくるくると変わる。
もう、どんな感情になってもいいや、しーらない。
そんなふうに手放してしまった。
痛い痛いと呻きながら、大喜びでのたうち回っていた。
「動いちゃダメだよ」と言われた。
修さんが鞭を打つときにこういうことを言うのははじめてだと思う。
いつもは、わたしの好きなようにさせてくれるのに。
もしくは打ちたければわたしがどんな体勢でも打つのに。
お尻を差し出す姿勢のまま「動いちゃダメ」なんて。
怖かった。
自由に動けるということは、痛いことを受け入れるひとつ命綱だったから。
でも、その命令は、わたしの被虐嗜好を刺激する。
さっき、はじめて怖さで快感を感じたばかり。
それと似たような甘美な恐怖で、一瞬覚醒した脳は、また感じはじめていた。
それからの数発は、ごめんなさい、覚えていない。
多分、とても痛かったはずだ。
喜んで痛がっていたように思う。
ショウウィンドウと洗濯バサミと鞭、いろんな種類の刺激を受けた日。
それをひとつひとつ思い出しながら書いている。
あの時のあの感情や快感はどんなふうに表現したら伝わるだろう。
ぼんやりした記憶を掘り起こし砂を払い、改めて我が身を振り返る。
そしたら、いまさらだけど、気が付いたことがあるの。
わたし、気持ちいい、気持ちいいっていっぱい書いているけど。
それは、砂を払い落として、書くときになってはじめて自分でも目にするようなことなんだ。
もちろん渦中でも気持ちいいのだけど。
わたしは、ショウウィンドウの前で四つん這いになりながら喘いでいるわけでもないし、洗濯バサミを外して乳首を握り潰されたときは痛さで悲鳴を上げているわけで。
特に、こういう極端なことをしているときは、モラルや恐怖や苦痛と必死に闘っているという感覚が強いのです。
修さんったら、酷いことさせて、酷いことして!!!って、いっぱいいっぱいになっているはずなんです。
それが、いざ書こうとして、思い出し砂を払い言葉を選んでいると、気持ちいい気持ちいいになっているのだ。
自分は必死なだけのつもりなんだけど、もしかしたら意識はずっとずっと遠くに飛んで行っているようなんだ。
どうやら、わたしは、わたしが思っているよりもずっとその最中に快感を覚えているらしいと、書いていて気付いたの。
痛い!!恥ずかしい!!!と必死になっている中で、それをちょっと快感が上回ったときを『快感』と思っていたけれど、実は、必死を丸ごと飲み込んでしまうような快感だったらしい。
だって、ショウウィンドウのわんこのことを書きながら、『ああ、わたし、あのときあのまま修さんが散歩をはじめたら付いて行ったはずだ』と思ったの。
思い返して、それくらい感じていたと認識したんだ。
これは、どうしたもんかと思う。
修さんに
『荷物を預ける』とか
『委ねる』といって、わたしは快感に没頭できるようにしているけれど、それでもそれはわたしが想像する『わたし』の範囲での没頭だと思っていた。
でも、その範囲は、違っていたようなのだもの。
どんなに自分を手放しても、それは『わたし』の範囲内だと思っていたけど、どうやら、その範囲は思った以上に大きいようで、書きながら驚いてしまったのです。
自分の知らないうちに、想像外のわたしになる。
これはちょっと、怖い。
わたしはよく修さんに「あのときのわたしどうでした?」と聞く。
ビデオ撮影しているわけじゃないから、必死なときの自分はどういうふうなのか知りたくて。
そうすると、ほとんどこう返ってくる。
「とても気持ち良さそうだったよ」
それを聞くといつも「いや、気持ち良かったかもしれないけど、かなり必死でした!!」と、ちょっと否定したい気持ちになっていた。
修さんったら、わたし気持ちいいばっかりじゃないんですよ!!って。
四つん這いの背中だけを見て、どうしてわかるの!!って。
でも、もしかしたら、それが本当の姿かもしれないと、思えてしまった。
どんなに荷物を預けても、わたしは『わたし』でいられると思っていた。
でも、修さん、わたし、わたしの想定する『わたし』でいるように制御できないかもしれない。
修さんが手を掛けてきたまこは、もうわたしでは制御できない女になってしまっている。
わたしの限界の幅は修さんが決めると書いたけど。
わたしの快感の幅も、もうわたしの管轄外のことになってしまったみたい。
それは、とても怖くて、とてもとても幸福なこと。
自分で自分をコントロールできない怖さと。
従属感を満たし、同化する幸福。
修さん、わたし、やっぱり修さん仕様だ。

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