映画『K-20 怪人二十面相・伝』の原作となった北村想『怪人二十面相・伝』本編・Part2を大急ぎで読み終わった。原作の設定は、時系列は歴史的時間のまま、ただそこに江戸川乱歩の虚構の時間が事実として重ねられるという展開で進行する(だから「If」の設定は脚本も書いた監督佐藤嗣麻子のオリジナルだった訳だ。)。ただ、二十面相は二代目で継承されるところは映画も同じだが(ただし悪の権化・犯罪者から貧乏人とりわけスラムの子どもたちに食糧を配る「ねずみ小僧」のような「義賊」として描かれる)、原作ではなんと名探偵・明智小五郎、小林少年までもが襲名継承される(映画での初代の正体はネタバレになるので控えておく)。
ところで、第2部まで読み終わる寸前、昨晩、ETVで老いた吉本隆明の公演模様を特集していたが(「吉本隆明語る」)、このごう慢さだけが取り柄の「思想家」(ただし、その初期詩編はボクは大好きで認める)は御年83歳になられたようだ。腰は曲がり、車椅子で登壇なさった。語り口はややおぼつかないものの、頭はまだまだ確かなようだ。
ただ、この60年安保世代の大思想家が言わんとする「芸術言語論」なるものが、さっぱり分からなかった。「ボク(吉本)のことばで言えば「自己表出」と「指示表出」」と講演の中で吉本は幾度も使ったがこの概念だけで、吉本が考える言語学のモデルが見えてこなかった。『言語にとって美とはなにか』を書いた吉本は(そもそもは同人誌『試行』に連載された)ほとんど同時代的なシンクロニシティで言語学をその基本的モデルとしたフランス構造主義と共鳴しあったと思うが、それは詩人的直観と分析によるもので決して体系化されなかった。吉本信奉者だけが、金科玉条のように吉本理論を吉本に成り変わって「リュウメイによれば……」と口角泡を飛ばして語るだけだったのだ。吉本理論なるものは、吉本隆明を「共同幻想」とする符号にすぎなかったのではないか?
だから、その意味吉本隆明は60年代のあらたな小林秀雄にすぎなかったとボクは思う。
さて、なぜ北村想作『怪人二十面相・伝』の感想の中で、吉本隆明が語られるのであろうか?
これまたシンクロニシティのひとつと、ボクが気がついたのはなんと大思想家・吉本隆明と怪人二十面相の初代遠藤丈吉の設定年齢がほぼ同じなのである。
「平成二十年現在、<彼>は八十二歳。在命中」
北村想の「怪人二十面相」は、劇団の主宰者でもあった北村の劇的想像力で江戸川乱歩が創作した「二十面相」を現実に生きた「伝記」として書いたおそらく乱歩へのリスペクト作品だ。「二十面相」のその犯罪手法がルパンなどにも共通する「劇場犯罪」ゆえに劇的想像力をかきたてられたのに違いない。
だから「帝都の貧民窟」は、原作小説では焼跡闇市であり、泥棒長屋であり戦争孤児の住まう上野(ノガミ)だ。
もうふたつ共通的がある。
そのひとつは、吉本の講演、北村の小説ともに太宰治に言及されている事だ。2009年あらためて太宰治がブレイクしそうだが、北村想の『怪人二十面相・伝』に太宰が登場するとは思いがけなかった。それも、二代目二十面相遠藤平吉と袖摺りあうのである。
最後の共通点は、「表現」(吉本の言葉で「自己表出」)という点である。
「二十面相」つまり「丈吉―平吉」の「劇場犯罪」は、「自己表出」のための犯罪である。
「泥棒は生計のためにモノを盗む。余は表現するためにこれをする。泥棒を芸術にするを怪盗という」(初代・二十面相丈吉のノート)
とすれば、吉本隆明は充分に戦後を代表する「怪人」思想家だったと言えるかも知れない。
北村想『怪人二十面相・伝』本編 小学館文庫 2008.09 (★★★)
北村想『怪人二十面相・伝』Part2 小学館文庫 2008.10 (★★1/2)

0