弊サイトの写真画像も元通りに復旧しましたので、「京都妖怪紀行」シリーズを再開したいと思います。
古都・京都のいわくつきの妖怪・魔界スポットをめぐる「京都妖怪紀行」。
第6回目は、
前回記事でも少し取り上げました、“日本の大魔縁(大魔王)”崇徳上皇(すとくじょうこう)ゆかりの神社、白峯神宮(しらみねじんぐう)です。
京都市の堀川今出川付近にある白峯神宮の門前。
多くの人や車が行き交う大通りに面した場所です。
まず最初に、
前回記事でも取り上げました崇徳上皇について、そして「何故、崇徳上皇が“日本の大魔王”とも呼ばれる怨霊になってしまったのかを、簡単に説明したいと思います。
崇徳上皇とは、歴史上では1156年の保元の乱で敗れ、讃岐国へと流刑にされた人物です。
小倉百人一首の「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」の歌の作者としても有名です。
そして……平将門や菅原道真などに匹敵する歴史的に有名な大怨霊として、その道では有名です。死後に「日本国の大魔縁(大魔王)」となって、飢饉や天災、政変など数々の凶事を起こしたといわれています。
崇徳上皇は、元永2年5月28日(1119年7月7日)に、鳥羽天皇と藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)との間に生まれました。
第1皇子でしたが、父・鳥羽天皇には疎まれ、冷遇され続けてきました。
何故なら、「実は、崇徳天皇が鳥羽天皇の実子ではなく、その祖父で(派手な女性関係でも有名だった)白河法皇と、(白河法皇が後に鳥羽に与えたという)中宮璋子との間にできた子であった」という噂が、当時からあったからです。
この話は、鎌倉初期の説話集『古事談』にも書かれているそうですが、その信憑性を疑問視する人も居ます。また、当方にもその真偽を確かめるすべはありません。
しかしながら鳥羽天皇は、そういう噂を信じたため、崇徳天皇を疎み、冷遇し続けます。
祖父・白川法皇の影響の下、5歳で皇位に就くも、白川法皇の死後は父・鳥羽天皇などから、多くの妨害や嫌がらせを受け続けました(天皇・上皇となったにも関わらず、実質的な権力を持たせてもらえなかったり、実子・重仁親王を皇位から外されたりなど)。
そして、父・鳥羽天皇逝去の際、崇徳上皇は父との対面を拒否されます。さらに、鳥羽法皇の初七日を崇徳上皇の臨幸もないうちに実施したり、検非違使を召集して京中を警備させて崇徳に対する露骨な挑発が行われるなどして、崇徳上皇は追い詰められていきます。
こうして、崇徳上皇側と(鳥羽天皇ら反崇徳側が担いだ)後白河天皇とが武力衝突したのが、1156年の保元の乱です。
この戦いは、崇徳上皇側の敗北に終わり、崇徳上皇は仁和寺に入って髪を下ろし、後白河天皇の下に出頭したものの許されず、讃岐国へと流刑にされました。
小・中学生の時、「いい頃(1156)起こる、保元の乱」などと言って年号を覚えた記憶があります。
が、このようないきさつと、そこに至るまでの崇徳上皇の悲劇的な半生を知った今では、とてもじゃないですが、「いい頃」などというノーテンキなことを言う気にはなれません。と、ここは余談ですが。
流刑先の讃岐では、崇徳上皇は仏教に傾斜しました。
そして、「戦没者の供養と反省の証に、京の寺に収めてほしい」と、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写経を作って朝廷に差し出しました。
しかし後白河天皇は、「何かの呪詛がこめられているのではないか?」と疑って、受け取りを拒否し、送り返してきました。
これに絶望し、怒った崇徳上皇は、自分の舌を噛み切って、その血で写経に「日本国の大魔縁(大魔王)となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と書きました。
髪や爪を伸ばし続け、生きながら天狗になったとも言われます。
そして1164年、流刑先の讃岐にて、その悲劇的な生涯を終えます。一説には、三木近安によって暗殺説もささやかれています。
火葬の際、その煙は都の方角にたなびいたとも伝えられます。
その死後、飢饉や大火災、多くの叛乱や政変など、いくつもの凶事が京や日本国を襲います。
そして源平の争乱、木曾義仲の暴虐、平氏滅亡、鎌倉幕府の成立と承久の乱(貴族支配の終焉)などが起こるに至り、当時の怨霊信仰の影響もあって「崇徳上皇の祟りである」と恐れられました。
その後、「崇徳」の諡号(しごう)を与える、「崇徳天皇廟」(のちの粟田宮)が設置するなど、崇徳上皇の鎮魂のための事業が行われました。
後世、明治天皇が即位に際して使者を讃岐に送り、崇徳上皇の霊を京都へ帰還させて創建したのが、白峯神宮です。更に東京オリンピックに際しても使者を派遣したという話もあるくらいですから、800年以上経った現代でも畏れ、敬われているようです。
さて、その白峯神宮の中に入ってみました。
まず、門の横に看板が。
写真では黒ずんで見えにくいようですが、「皇族下馬下車」と書かれています。
皇族ですら、「ここから先は馬も車も降りなければならない」ということですから、いかに崇徳上皇の霊が畏れ、敬われているかがよくわかります。
入り口から、本殿方向を撮影した写真です。
次は、境内の光景です。
その穏やかな様子から、かつて天下を揺るがし、貴族・皇族すら恐れさせ、歴史をも動かしたという「大魔王」が祀られているとは、ちょっと想像できません。
崇徳上皇の御霊も、今は安らかに眠っておられる……のでしょうか?
次は、境内にある蹴鞠の碑です。
平成13年に建てられたものだそうです。
白峯神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の屋敷の跡地だそうです。
そのため地主社にには、蹴鞠の神様・精大明神も祀られています。
現在では、サッカーなどの球技やスポーツなどの神様とされて、スポーツ関係者などの参拝も多いそうです。
ちなみに、私が行った時でも、地元の少年スポーツクラブのメンバーらしき、体操服やジャージを着た小中学生の集団が参拝に来ていました。
社殿にはこのように、スポーツ関係者から多くのボールが奉納されていました。
最後に、旅の無事と災厄避けのため、本殿に参拝をして、この地を後にしました。
※この記事は
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