千秋公園にあります。入場料100円。ぜひ
佐竹義宣公の鎧兜です。最近本屋で、家康が一番味方にしたかった武将、というフレーズの本が店頭にありました。関が原の戦いで、秋田に左遷されたわけですが、それなりの理由があったのでしょう。それは付き合いのしがらみの様です。古今東西ある話ですね。最近は亡くなった橋本元首相、報道を見ると、しがらみに絡まれて短命に終わったようだ。でも、佐竹の殿はその後も秋田に生き延び、歴史を造りました。
兜の眉が長く作っておりますが、毛虫だそうです。
写真は茨城県の常陸太田市の郊外です。源氏の由緒ある流れを汲む佐竹家はこの地に1200年頃当時の佐竹郷に住み着き、周辺と激戦を潜り抜けえ、400年を懸けてこの地を治めました。やがて、この地の城の太田城から水戸城に武力進出し、そこを居城としました。時は1590年、秋田に転封される12年前でした。その時歴史は動いた、ってか?
1602年以降、水戸城は徳川家一族の領地となりました。関東平野の一角、重要なエリアに100石を与えるから、我が方に付けという家康の申し出を受けておれば、今の秋田はどうなっておったやら?鱈レバーは申すまい。何故家康傘下に付かなかったか?上杉謙信の養子、会津の上杉景勝とのしがらみであったそうだ。して秀吉、三成、景勝の陣営に加わっていた。情であろう。
秀吉は百姓の出である。ハングリーである。ハングリーの特権は行動に迷いが無い事だ。目標に向かって純真に進む。しかし、一度、力を備えた者はそうはいかない、周りとしがらみが生ずる。
そういう目で現代を伺うと、橋龍があわれに思える。改革だと、すかしながら、ひょうひょうと総理の任期を終えようとする人物にテンダーにラブする気になれない。
閑話休題、写真は鳥海山です。佐竹史料館に佐竹藩政の年表が掲示されておりますが、将に驚天動地の記載があります。
1804年ですから今から200年前、我々50を越えましたから、親爺のひ、ひ、ひ、ひ、爺様の時代の話ですよ。鳥海山地震により象潟が隆起して陸地になった。芭蕉が象潟を訪れて句を残したのは、その100年も前だったんです(1689年)。そして1810年は男鹿で地震、寒風山が噴火。で、その頃、風の松原にある松とか防砂林の植林活動あ盛んになりました。
年表を見ると飢饉の歴史です。数年に1回は大凶作があります。1834年は大凶作、疫病により死者5万3千人だと。秋田藩の人口38万6千人(1692年)の時代にだよ。今後、新型インフルエンザが流行り多数の犠牲者が出ても、それは歴史は繰り返すだ。飢餓の次はミサイルの話題。
幕府ではない、佐竹藩の仕事だ。写真は佐竹藩が造ったミサイル基地である。八森、男鹿、土崎、新屋に設けた。1854年、異国船航行に対する海岸防備の為である。当然、専守防衛だが、どこぞの国の主が同盟国にラブミーテンダーと擦り寄り歓心を呼ぶ心得より、何と自律精神の旺盛な事よ。さすが、家康に目を懸けられた佐竹様よ。それにつけても、飢餓になると飛び道具に走るのは人の性かのー?佐竹藩は明治になって終えたが、海岸に設置した西洋流砲台のこの話の20年後、幕府は閉じる。秋田の地は何かに付け朝鮮と縁がある。秀吉が朝鮮に攻め込んだ舟は秋田杉、地震の発信地、鳥海、寒風、恐らくあちらでは津波を被ったであろう。今あロケット打ち上げ基地は種子島だが、以前は能代が基地であった。余りに朝鮮を指向しているのであっちへ行った。が、何で秋田なの?男鹿半島には自衛隊のレーダー基地があるし、歴史的に見てミサイルの向きが秋田に向いているのは間違えない。保険に入ろう、ホールインワンより確率は高いのでは内科医?
びっくりしたな、もーーーーー。
マンセーが公表しなくても、皆、手の内知られるような気持ちです。まーーー折込済みですが・・・・
7発打ち上げましたが、地下にはまだまだあるんです。これは、土崎の基地からです。

1