普段、我々はスーパーの生鮮食料品売場で命を考える…なんてことはない。この魚も昨日までは生きてたんやなぁ…などと思ってしまうと、それは偽善ではあるけれども、なんだか食べにくくなってしまうからだ。どこかで現実を見ないようにして、美味しい食事の完成形だけを想像して食材を選んでいるはずである。
昔はみな家で鶏を飼い、祭事には御馳走として飼っている鶏を〆た。だから、命の大切さを…人が生きていく為に他の命を奪っている事を目の当たりにし、だからこそ感謝をしながら残さずに食べる事が供養になると教えられた。
今の若い世代は、知らないどこかで加工されてくる商品の形でしか物を知らない。教えられてないのではなく関心がない。だから偽装表示も横行する。うたぐる事もしない、餌を与えられたブロイラーと同じ。魚が切り身のまま海を泳いでいると思っている馬鹿がいる。呆れてしまう。
馬鹿という漢字に使われた馬や鹿にすら失礼な話だ。(馬鹿:馬と鹿の区別もつかない教養のない事の意)
ペットブームの裏では心ない飼い主のせいで日本全体で年間31万頭もの犬猫が殺処分されている事実も、飼えなくなって捨てた外来生物が生態系を壊している事も、きっと知らないまま暮らしているのだろう。自己中心的で不都合は見ようとしないから、平気で命が奪える。人だって殺すんだと思う。
趣味であるバードウォッチや釣りをすると、いつもそのことに気付かされる。だから、釣った魚は残さず食べる。小さい魚はリリースする。鳥を見ても餌付けはしないし、ゴミを見つけたら率先して拾う。だだ、哀しくも釣人にもマナー違反者はいて、針のついたテグスを平気で捨てている事がある。釣り場がなくなったり、絡まった野鳥が死ぬのを見たくない。こういう奴らは大体娯楽としてブームにのってかじっただけの素人が多い。
愚痴になってしまったので話を戻そう。
バードウォッチをしていると、たまに生存競争と呼ばれる命のやり取りに遭遇する。以下は先日、昆陽池で撮影した大鷹の狩りの写真である。かなり遠い画像なので小さいが、昆陽池には主と言われる鷹が時々くる。

獲物としているのは、なんと普段は狩らないカラスである。

空中戦をやっていた大鷹が、急降下してカラスを捕まえ、喉笛を掻き切ってから池の淵で頭を水中に押さえつけて沈めている。5分近くこの状態が続いた。

これほど確実に念入りに獲物を絶命させているシーンは今までには見たことがない。

しかも、周囲を取り囲むカラス達は同族がやられても鳴いているだけで助けようとはしない。

彼等は知っているのである…鷹に後ろを取られて致命傷を負えば、助からない事を。

彼等は解っているのである…それはもはや、仲間ではなく、一片の肉の塊だという事を。

彼等は待っているのである。大鷹が食べ残すのを…同族だろうが、共食いだろうが、死ねば餌なのだ。

それを酷いと思うのは人間の感傷である。それを汚いと思うのは無知な証である。生きる為に食べ切る分しか殺さない。

カラスにしても、ゴミを散らかすと言うけれど、彼等の貪欲さがなければゴミは埋め立て地で、もっと沢山溢れるだろう。カラスが町に居着くのは、カラスが町でゴミを漁るのは、山の住家を人間が壊すからだ。

あと十数年経てば、鳩、カラス、ヒヨドリ、ムクドリ、雀、以外にも街にイソヒヨドリが順応し、ウグイスが順応し、鷹がビルに営巣するのが当たり前になっていくだろう。

我々は今、その過渡期に街の中にある公園という雑多な場所で、ハンターの狩りを目撃しているのだ。

爪で引っ掛けたカラスを、茂みの中へと運んでいく大鷹。すぐそばにある飼育池では、そんな場面に気付きもせず、水鴨に餌をまく人間がいた。
『可愛い!ほら、いっぱい居てるで!』
弱肉強食の世界はそこに確かに存在した。