2010/4/7
マインズアイ 上【ホフスタッター共著】 本
D・C・デネット共著。
人工知能の定番本のひとつ。
アラカルト方式でいろんな文章を持ってきては、知能や意識について色々と考えるという本。
もっと面白いかと思っていたんだけれども、想像していたよりもつまらないな。というか、自分でもう考えちゃったネタのほうが多い。
意識をあるーなしだけで考えるとつまらないな。
意識は確率論的に存在しているというほうが分かりやすい。
日常的に意識ってあったりなかったりでしょう。階層があるかどうかは分からない。
おそらく意味もそういう確率論的なとらえ方がいいんだろう。希望的観測。
短評をつけながら書いたほうが分かりやすそうだと思って、短評をつけながら読み進んで行ったら、14000文字を超える大書評になってしまった。
1、無限の円環
ホルヘ・ルイス・ボルヘス。
胡蝶の夢ってやつ。
2、頭が無い私
ドナルド・ハーディング
まぁ上記と似たようなもん。
>生得的にそなわっているものを越えて類を考え出すということは、知性の持つかなり高級な特性のように思われる。
実際のとこ、よく分からないんだけれどもね。
たんに妄想しちゃっている(もしくは妄想しやすい)だけかもしれないし。
たんに妄想を現実とすりあわせる能力が知性かもしれないし。
3、心の再発見
ハロルド・モロヴィッツ
>世界についての科学研究が、究極の実在としての意識の内容へとたどりついたことは、なんとしても驚くべきことだと述べることでウィグナーは結んでいる。
実はそんなに驚くことでも無いかもしれない。
もともと擬人法から世界を読み解いていった思想が、近代科学によって、物理学から人間や世界を読み解く方法へと変わっていった歴史があったから。
どっかでつながっているかもしれない、と考えることはそんなに不自然な話でもないんじゃないのかなと。
こころと一対一対応になるような計算モデルが原理的に可能だ、という主張。
実際のところ、よく分からない。たぶん簡単なやつならできると思う。パソコンのウィルス対策ソフトくらいには。
いまのところ、こころがどれくらい複雑なのかの明確な判断基準は無い。
サイエンティストの場合は、心の仕組みや定義をいつかは知ることができると考えている。
一般的な人や文学者たちは、心の仕組みや定義について知ることは不可能なんじゃないのとか、自分の心は複雑で知ることはできないと考えている。
4、計算機械と知能
アラン・チューリング
チューリングゲームのもとになった、イミテーションゲームについての論文。
面白いような、面白くないような。
いちおう人工知能論において、知能の定義ってこういう風にならんか?と主張している論文なので必読。
反論は国内・海外を問わず出されている。
元祖知能論ではあるけれども、最近ではSFエンターテインメントでもあんまり用いられない骨董品。
5、チューリング・テスト
ダグラス・R・ホフスタッター
チューリングテストに対する、ちょっと消極的な反論。
その他シミュレーションについての実感って、本物なのかどうかとかいう飛び飛びの議論。
そもそも、チューリングテスト自体があんまりよくできてはいないんじゃないのか?という議論は他でもよく見かける。
p132
>僕の目から見ると、誤りを犯すということは、高度な知能をもつことの特徴なんだ。
ある意味正しい。
私も同じ結論に達したことがある。
しかし、間違えるプログラムを作るにはどうしたらいいのか?ということを考えると、実は間違え方にも差があることに気付いた。
修正不可能な間違いがあり、修正可能な間違いがある。
間違えるリスクを少なくする方法を用いることができずに起きる間違いがあったり、怠慢から習慣を適用して間違えることだってある。
時間さえあれば回避できる間違いがあれば、時間があっても回避不可能な間違いもある。
間違えるということについて、きちんとした言葉や分類がまだ存在していないという点が、おそらく問題点なのだろう。
プログラムに間違えさせるということは、そのままどういう問題設定をプログラミング上で行えるのか?という議論の裏返しになる。
6、王女イネファベル
スタニスワフ・レム
絵画の女性に恋をした男の物語。
絵画に恋をするという主題の物語は、世界中にある。
たぶん、現実だと感じるものが現実なのだろう。
実際に不具合が起きない限り、仮想的な現実であろうが、肉体的な現実であろうが、
なんとなくハッピーでありさえすれば個人生活上ではどちらでも構わない。
しかし実際に員数ベースにおいて、社会全体で仮想的な現実を強く支持するような状況が起こるとけっこう困る。
肉体を動かすことで世の中が回っている部分って多々あるので、きちんと苦労をしようとしない人間が多くなると、テロや経済危機やインフラ維持に支障を来たすことが多くなるだろう。
思想的には、肉体を用いずに生活できるという人間環境が多くなるほどに、肉体へ憧れる世相と、肉体を無視する世相の両極端な思想が出てくるだろう。
しかしまぁ、テレビのコメンテーターの主張や新聞の論説をうのみにしてしまう人が多くなると、民意の根底となるような現実と非現実の境界なんぞとっくになくなっているという気持ちもなくはない。
テレビはテレビ、ネットはネット、新聞は新聞、生活環境は生活環境。
7、動物マーサの魂
テレル・ミーダナー
裁判で証人に用いることができうるほどに、動物と意思疎通ができた場合、動物の魂はどう扱うべきかという話。
畜生も人間も生きものであることには変わりないという日本の一般的な仏教的思考法では考えづらいけれども、人間こそは特別な存在であるとするキリスト教圏の主力な思考法では、非常に気持ち悪いらしい。
こないだテレビで、手話で学者とコミュニケーションをとるゴリラが出てたけれどね。
そもそも、モノにですら魂を感じ取ってしまうことがある。
だったら、魂も意識と同様に、程度や確率で考えたほうがいいんじゃないかと思う。
常に魂を迸らせている人間などまずいないし、自動車やコンピュータに意識を強く感じるのはほんの一瞬だ。
ゴッホを見たり、シェイクスピアを読んだり、巨木に触ったり、綺麗な海に入ったりしたら、多くの人が本当に魂があるように感じちゃうんだから仕方ない。
8、動物マークVの魂
テレル・ミーダナー
どうしても生物が機械的な部分で構成されていると考えづらい女性がいる。
その女性に、動物的な動きをする機械を壊すことを頼み、壊したらどういう心理状況になるのかという短編。
上に書いたように、なんとなく魂的なものを人間が感じ取ってしまったら最後。
機械であるとか生命であるとか、魂があるとかない、といった分類は、ほとんど意味を持たなくなる。
愛着や同情や共感が、分類を無意味にしてしまう。
かつて日本でロボットブームが起こったとき、工場内のロボットには人間の名前を与えられたそうだ。この名前を与えるという行為によって、ロボットに関わる人たちの作業効率が非常に高まったという話をどっかで読んだ。
逆に機械が仕事を奪うとして、徹底的に破壊するという立場の人間もいた。
これもほとんど一般的な意味での機械として扱っていない。機械を破壊した立場の人間にとっては、機械は仕事を奪う存在でしかなかった。
9、精神
アレン・ウィーリス
>精神は旅の途中にあって、今、人間の領地を通り抜ける。
>われわれは、精神を創造したのでもなければ、所有しているのでもなく、
>また、それを定義しうるわけでもない。
>ただその伝達者であるにすぎない。
なかなかに美しい文章だ。
たしかにそうかもしれないねぇ。
この場合も、精神や魂をどう定義するかによって、思想としての用い方に差が出てくる。
Nissan GT-Rの魂を受け継いだ新GT-Rなんて言い方も、擬人法や隠喩としてではなく字面そのままに受け取れなくもないんだよね。
10、利己的な遺伝子と利己的な模伝子
リチャード・ドーキンス
模伝子よりも、模倣子とかミームのほうが名前として通っている。
ドーキンスもまだ読んでない学者の一人だなぁと思いながら読んだ。概念のダイジェスト版だけは知っている。
人工知能らしきものができた時に、考えられる法則について。
>自己複製する実体の生存力の差によってすべての生命は進化する
としている。
実際のところ、複製がどこまで知能にとって重要なのかはよく分からない。
遺伝論の場合には、そもそも完全なコピーを取ることよりも、伝達ミスのほうが進化にとって重要なんじゃないだろーか、という説もある。
もしかしたら知能もそーいう鋳型からのズレ的な部分が重要なのかもしれない。
たとえば美術の歴史は、既成概念を壊すことよりも、ズレを面白がり続けた人類史にも見える。冗談や物語の歴史もそうだね。
11、前奏曲・・・アリのフーガ
ダグラス・R・ホフスタッター
な、長い・・・
つーかあんまり面白くない。スカシ芸。
部分と全体、図と地、個と集合体といった組み合わせにおいて、一対一対応ができるのかできないのか?という話がメイン。あとは図と地はどちらが主題でどちらが背景なのかとか、個が集合体になった時の脅威みたいなもんを書いてある。
たしかに集合体になったとたん、単体よりもスゴくなるということはある。それは人間の集団の力とか、あるいは人間一体のシステムとか、原子から分子になったとか、そういう類の話。
ただ、どんな集合体にも弱点や限界はある。
人間がどれだけ集まってもマッハを超えた速度で走ることはできないし(道具を使えば別)、コンピュータを並列化しても作業効率が上がるとは限らない(仕事を割り振るのに計算コストがかかった場合)。人の集団のスゴさ同様に、人の集団の失敗にも目を向けると、集団であるということがいいことばかりではない。
あんまり集合体としてのスゴさに驚くのは、個人的に好みでもない。
実際に集合体的な動きが、プログラム上では知性っぽく見える例はあるけれども(人工生命プログラムとか、人工脳のプログラム)、日常生活を支援するほどの仕事ができるようなプログラムはまだ無い。
ついでだからこの章に関係のない話を連想で。
コミュニケーションの選択肢を広げたりするようなプログラムはあるけれども、基本的に人間の対人間コミュニケーション能力は媒体によって極端に強くなったり弱くなったりしない。体で味わった手持ちの経験と能力以上のものは、ふつうは出ない。
話をこの章についてに戻す。
どうにもたとえ話が鼻につく。エッシャーを認知の研究領域の喩えとして持ってきた慧眼は評価するべきだとは思うけれどさ。
地が図になったり、図が地になったりするようなシチュエーションについては、やはりその時の被験者の体調や心理状態や教養などに依存する確率的なもんじゃないだろーかと妄想。ほとんど科学的根拠はないけど。
ためしに体調の悪い時に錯視系の画像や、エッシャーを見てみるといい。地と図が入り混じって大混乱と吐き気がやってくる。
12、ある脳の物語
アーノルド・ズボフ
脳味噌を間違って左右にぶった切ってしまった。
とりあえず無線でつないである。さてはて脳味噌内の情報伝達に、トポロジカルな議論が必要なのか?という内容の小説。
教科書どおりに、脳梁しか左右の脳をつなぐものがないとしたら、トポロジカルな議論は必要ないし、なんならぜんぶ半導体でもかまわない。
しかし、個人的な見解として、トポロジカルな前提の無い脳研究はあんまり信用してない。
理由その1。生殖器の位置や目玉の位置まで、なにかしら合理的な意味があるという考え方をしているというのが理由のひとつ。脳も内臓の一種だからねぇ。もしくは、脳味噌も神経系の一部でしかない。
理由その2。限定的な意味であれ、脳に機能局在が確認されているのであれば、各機能間の距離は非常に強い意味を持つ。ある機能Aとある機能Bが近くにあれば、脳梁(だっけ?)を経由しなくても、古典力学的な意味でAからBへ電子が飛んでゆく可能性も否定できない。
インスピレーションのうちのいくつかは脳梁やシナプスを無視した、各記憶の情報交換の結果だという具合に、勝手に解釈しているから。負荷が強すぎてシナプスが壊れちゃうだろうけれどさ。
脳味噌が左右に分かれたという点は、オスとメスに分化したとか、人類が神を創り出したといったものと、同じくらい歴史的な意義を持つものと勝手ながら考えている。
なんでもかんでも、ネットワークだけで議論すりゃいいってものでもないんじゃないだろーか。
ニューロネットモデルがスキじゃない理由がここにある。
13、私はどこにいるのか?
ダニエル・C・デネット
脳味噌で肉体を操作した場合、私はいったいどこにいるのか?という議論。しかも肉体のアックアップがとれる。
前述のとおり、脳だけを司令塔とするような知能議論はあんまりスキではない。脳もたんなる肉体の一部だ。
で、私はどこにいるのか。
>タルサ・ヒューストン間の最後の無線信号が途絶えた時、タルサからヒューストンへと私は光速度で居場所を変えたわけではないでしょうか。しかも、いささかの質量増加もなくそれをしてのけたのではないのでしょうか。
現実がどこにあるのかという議論だとすると、場所や時間はあまり関係なく、ある個体によって現実だともっともその時強く感じられている時空間が、その人の現実になる。
たとえばパソコンを用いるといった作業を考えてみると、現実はパソコンを用いて考えながら文章を書いている私の現実がメインであり、トイレに行こうかどうか迷っている肉体的なシグナルに対する私の現実は優先順位が低い。
また、音楽を聴いているとき、ある信仰の真っただ中にあるとき、現実はやはり音楽や信仰のなかにあることになるだろう。そしてちょっとしたきっかけで、すぐに別の現実へと移ってゆく。
脳味噌と肉体をわざわざ分離しなくても、私がどこにいるのか分からなくなるシチュエーションは多い。
われわれは複数の現実のなかを、目的や興味や仕事に応じて、行ったり来たりしているだけだ。
蛇足になりそうだけれども、現実にも個人差がある。
ある個人にとって映画を鑑賞している時間はカメラ割やライティングやシナリオを考える現実でもあろうし、別の個人にとっては、他人が作ったフィクションに感情移入するような現実でもあるだろう。
正しい現実がどれなのか?というのは適当な多数決をとるのが手っ取り早いかもしれない。
じゃぁコンピュータプログラムにとって適当で役に立ちそうな現実って、どういう構成が必要なのか?という議論になるが、それはまた別の話。
14、私はどこにいたのか?
デイヴィド・サンフォード
デネットの短編について、哲学者の意見からの短編。
遠隔操作できる機械を用いている場合、私はどこにいるのだろうか?
答えは、遠隔操作をしている現実が、私の現実になる。
肉体的な位置座標は別にあるかもしれないけれどもね。道具を用いるという作業と遠隔操作をするという作業には、道具から肉体への距離上の違いしかない。
心理的には、アマチュア無線の面白さとかネット対戦ゲームの面白さのように、現実が変わる(ように思わせられる)面白さなのだろうと思う。
遠隔操作という作業が、将来的に人間の脳や肉体の用い方を変える可能性はある。
道具が人の意識のあり方を変えるということは珍しくない。たとえば火や歯車や印刷。
>私が悩まされたのは自分の居場所が不連続に変化することよりも、チャンネルを切り替えられる毎に自分が突然あるロボットと同一でなくなり、他のロボットと同一になるとの思いだったのである。
自分が夢中になって見ているテレビ番組を、ザッピングされるのと同じ理由でたぶん不愉快なんだろう。
たまーにユニークそうだと思った論文を読むと、デューク大学だ。なんでだろう。
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人工知能の定番本のひとつ。
アラカルト方式でいろんな文章を持ってきては、知能や意識について色々と考えるという本。
もっと面白いかと思っていたんだけれども、想像していたよりもつまらないな。というか、自分でもう考えちゃったネタのほうが多い。
意識をあるーなしだけで考えるとつまらないな。
意識は確率論的に存在しているというほうが分かりやすい。
日常的に意識ってあったりなかったりでしょう。階層があるかどうかは分からない。
おそらく意味もそういう確率論的なとらえ方がいいんだろう。希望的観測。
短評をつけながら書いたほうが分かりやすそうだと思って、短評をつけながら読み進んで行ったら、14000文字を超える大書評になってしまった。
1、無限の円環
ホルヘ・ルイス・ボルヘス。
胡蝶の夢ってやつ。
2、頭が無い私
ドナルド・ハーディング
まぁ上記と似たようなもん。
>生得的にそなわっているものを越えて類を考え出すということは、知性の持つかなり高級な特性のように思われる。
実際のとこ、よく分からないんだけれどもね。
たんに妄想しちゃっている(もしくは妄想しやすい)だけかもしれないし。
たんに妄想を現実とすりあわせる能力が知性かもしれないし。
3、心の再発見
ハロルド・モロヴィッツ
>世界についての科学研究が、究極の実在としての意識の内容へとたどりついたことは、なんとしても驚くべきことだと述べることでウィグナーは結んでいる。
実はそんなに驚くことでも無いかもしれない。
もともと擬人法から世界を読み解いていった思想が、近代科学によって、物理学から人間や世界を読み解く方法へと変わっていった歴史があったから。
どっかでつながっているかもしれない、と考えることはそんなに不自然な話でもないんじゃないのかなと。
こころと一対一対応になるような計算モデルが原理的に可能だ、という主張。
実際のところ、よく分からない。たぶん簡単なやつならできると思う。パソコンのウィルス対策ソフトくらいには。
いまのところ、こころがどれくらい複雑なのかの明確な判断基準は無い。
サイエンティストの場合は、心の仕組みや定義をいつかは知ることができると考えている。
一般的な人や文学者たちは、心の仕組みや定義について知ることは不可能なんじゃないのとか、自分の心は複雑で知ることはできないと考えている。
4、計算機械と知能
アラン・チューリング
チューリングゲームのもとになった、イミテーションゲームについての論文。
面白いような、面白くないような。
いちおう人工知能論において、知能の定義ってこういう風にならんか?と主張している論文なので必読。
反論は国内・海外を問わず出されている。
元祖知能論ではあるけれども、最近ではSFエンターテインメントでもあんまり用いられない骨董品。
5、チューリング・テスト
ダグラス・R・ホフスタッター
チューリングテストに対する、ちょっと消極的な反論。
その他シミュレーションについての実感って、本物なのかどうかとかいう飛び飛びの議論。
そもそも、チューリングテスト自体があんまりよくできてはいないんじゃないのか?という議論は他でもよく見かける。
p132
>僕の目から見ると、誤りを犯すということは、高度な知能をもつことの特徴なんだ。
ある意味正しい。
私も同じ結論に達したことがある。
しかし、間違えるプログラムを作るにはどうしたらいいのか?ということを考えると、実は間違え方にも差があることに気付いた。
修正不可能な間違いがあり、修正可能な間違いがある。
間違えるリスクを少なくする方法を用いることができずに起きる間違いがあったり、怠慢から習慣を適用して間違えることだってある。
時間さえあれば回避できる間違いがあれば、時間があっても回避不可能な間違いもある。
間違えるということについて、きちんとした言葉や分類がまだ存在していないという点が、おそらく問題点なのだろう。
プログラムに間違えさせるということは、そのままどういう問題設定をプログラミング上で行えるのか?という議論の裏返しになる。
6、王女イネファベル
スタニスワフ・レム
絵画の女性に恋をした男の物語。
絵画に恋をするという主題の物語は、世界中にある。
たぶん、現実だと感じるものが現実なのだろう。
実際に不具合が起きない限り、仮想的な現実であろうが、肉体的な現実であろうが、
なんとなくハッピーでありさえすれば個人生活上ではどちらでも構わない。
しかし実際に員数ベースにおいて、社会全体で仮想的な現実を強く支持するような状況が起こるとけっこう困る。
肉体を動かすことで世の中が回っている部分って多々あるので、きちんと苦労をしようとしない人間が多くなると、テロや経済危機やインフラ維持に支障を来たすことが多くなるだろう。
思想的には、肉体を用いずに生活できるという人間環境が多くなるほどに、肉体へ憧れる世相と、肉体を無視する世相の両極端な思想が出てくるだろう。
しかしまぁ、テレビのコメンテーターの主張や新聞の論説をうのみにしてしまう人が多くなると、民意の根底となるような現実と非現実の境界なんぞとっくになくなっているという気持ちもなくはない。
テレビはテレビ、ネットはネット、新聞は新聞、生活環境は生活環境。
7、動物マーサの魂
テレル・ミーダナー
裁判で証人に用いることができうるほどに、動物と意思疎通ができた場合、動物の魂はどう扱うべきかという話。
畜生も人間も生きものであることには変わりないという日本の一般的な仏教的思考法では考えづらいけれども、人間こそは特別な存在であるとするキリスト教圏の主力な思考法では、非常に気持ち悪いらしい。
こないだテレビで、手話で学者とコミュニケーションをとるゴリラが出てたけれどね。
そもそも、モノにですら魂を感じ取ってしまうことがある。
だったら、魂も意識と同様に、程度や確率で考えたほうがいいんじゃないかと思う。
常に魂を迸らせている人間などまずいないし、自動車やコンピュータに意識を強く感じるのはほんの一瞬だ。
ゴッホを見たり、シェイクスピアを読んだり、巨木に触ったり、綺麗な海に入ったりしたら、多くの人が本当に魂があるように感じちゃうんだから仕方ない。
8、動物マークVの魂
テレル・ミーダナー
どうしても生物が機械的な部分で構成されていると考えづらい女性がいる。
その女性に、動物的な動きをする機械を壊すことを頼み、壊したらどういう心理状況になるのかという短編。
上に書いたように、なんとなく魂的なものを人間が感じ取ってしまったら最後。
機械であるとか生命であるとか、魂があるとかない、といった分類は、ほとんど意味を持たなくなる。
愛着や同情や共感が、分類を無意味にしてしまう。
かつて日本でロボットブームが起こったとき、工場内のロボットには人間の名前を与えられたそうだ。この名前を与えるという行為によって、ロボットに関わる人たちの作業効率が非常に高まったという話をどっかで読んだ。
逆に機械が仕事を奪うとして、徹底的に破壊するという立場の人間もいた。
これもほとんど一般的な意味での機械として扱っていない。機械を破壊した立場の人間にとっては、機械は仕事を奪う存在でしかなかった。
9、精神
アレン・ウィーリス
>精神は旅の途中にあって、今、人間の領地を通り抜ける。
>われわれは、精神を創造したのでもなければ、所有しているのでもなく、
>また、それを定義しうるわけでもない。
>ただその伝達者であるにすぎない。
なかなかに美しい文章だ。
たしかにそうかもしれないねぇ。
この場合も、精神や魂をどう定義するかによって、思想としての用い方に差が出てくる。
Nissan GT-Rの魂を受け継いだ新GT-Rなんて言い方も、擬人法や隠喩としてではなく字面そのままに受け取れなくもないんだよね。
10、利己的な遺伝子と利己的な模伝子
リチャード・ドーキンス
模伝子よりも、模倣子とかミームのほうが名前として通っている。
ドーキンスもまだ読んでない学者の一人だなぁと思いながら読んだ。概念のダイジェスト版だけは知っている。
人工知能らしきものができた時に、考えられる法則について。
>自己複製する実体の生存力の差によってすべての生命は進化する
としている。
実際のところ、複製がどこまで知能にとって重要なのかはよく分からない。
遺伝論の場合には、そもそも完全なコピーを取ることよりも、伝達ミスのほうが進化にとって重要なんじゃないだろーか、という説もある。
もしかしたら知能もそーいう鋳型からのズレ的な部分が重要なのかもしれない。
たとえば美術の歴史は、既成概念を壊すことよりも、ズレを面白がり続けた人類史にも見える。冗談や物語の歴史もそうだね。
11、前奏曲・・・アリのフーガ
ダグラス・R・ホフスタッター
な、長い・・・
つーかあんまり面白くない。スカシ芸。
部分と全体、図と地、個と集合体といった組み合わせにおいて、一対一対応ができるのかできないのか?という話がメイン。あとは図と地はどちらが主題でどちらが背景なのかとか、個が集合体になった時の脅威みたいなもんを書いてある。
たしかに集合体になったとたん、単体よりもスゴくなるということはある。それは人間の集団の力とか、あるいは人間一体のシステムとか、原子から分子になったとか、そういう類の話。
ただ、どんな集合体にも弱点や限界はある。
人間がどれだけ集まってもマッハを超えた速度で走ることはできないし(道具を使えば別)、コンピュータを並列化しても作業効率が上がるとは限らない(仕事を割り振るのに計算コストがかかった場合)。人の集団のスゴさ同様に、人の集団の失敗にも目を向けると、集団であるということがいいことばかりではない。
あんまり集合体としてのスゴさに驚くのは、個人的に好みでもない。
実際に集合体的な動きが、プログラム上では知性っぽく見える例はあるけれども(人工生命プログラムとか、人工脳のプログラム)、日常生活を支援するほどの仕事ができるようなプログラムはまだ無い。
ついでだからこの章に関係のない話を連想で。
コミュニケーションの選択肢を広げたりするようなプログラムはあるけれども、基本的に人間の対人間コミュニケーション能力は媒体によって極端に強くなったり弱くなったりしない。体で味わった手持ちの経験と能力以上のものは、ふつうは出ない。
話をこの章についてに戻す。
どうにもたとえ話が鼻につく。エッシャーを認知の研究領域の喩えとして持ってきた慧眼は評価するべきだとは思うけれどさ。
地が図になったり、図が地になったりするようなシチュエーションについては、やはりその時の被験者の体調や心理状態や教養などに依存する確率的なもんじゃないだろーかと妄想。ほとんど科学的根拠はないけど。
ためしに体調の悪い時に錯視系の画像や、エッシャーを見てみるといい。地と図が入り混じって大混乱と吐き気がやってくる。
12、ある脳の物語
アーノルド・ズボフ
脳味噌を間違って左右にぶった切ってしまった。
とりあえず無線でつないである。さてはて脳味噌内の情報伝達に、トポロジカルな議論が必要なのか?という内容の小説。
教科書どおりに、脳梁しか左右の脳をつなぐものがないとしたら、トポロジカルな議論は必要ないし、なんならぜんぶ半導体でもかまわない。
しかし、個人的な見解として、トポロジカルな前提の無い脳研究はあんまり信用してない。
理由その1。生殖器の位置や目玉の位置まで、なにかしら合理的な意味があるという考え方をしているというのが理由のひとつ。脳も内臓の一種だからねぇ。もしくは、脳味噌も神経系の一部でしかない。
理由その2。限定的な意味であれ、脳に機能局在が確認されているのであれば、各機能間の距離は非常に強い意味を持つ。ある機能Aとある機能Bが近くにあれば、脳梁(だっけ?)を経由しなくても、古典力学的な意味でAからBへ電子が飛んでゆく可能性も否定できない。
インスピレーションのうちのいくつかは脳梁やシナプスを無視した、各記憶の情報交換の結果だという具合に、勝手に解釈しているから。負荷が強すぎてシナプスが壊れちゃうだろうけれどさ。
脳味噌が左右に分かれたという点は、オスとメスに分化したとか、人類が神を創り出したといったものと、同じくらい歴史的な意義を持つものと勝手ながら考えている。
なんでもかんでも、ネットワークだけで議論すりゃいいってものでもないんじゃないだろーか。
ニューロネットモデルがスキじゃない理由がここにある。
13、私はどこにいるのか?
ダニエル・C・デネット
脳味噌で肉体を操作した場合、私はいったいどこにいるのか?という議論。しかも肉体のアックアップがとれる。
前述のとおり、脳だけを司令塔とするような知能議論はあんまりスキではない。脳もたんなる肉体の一部だ。
で、私はどこにいるのか。
>タルサ・ヒューストン間の最後の無線信号が途絶えた時、タルサからヒューストンへと私は光速度で居場所を変えたわけではないでしょうか。しかも、いささかの質量増加もなくそれをしてのけたのではないのでしょうか。
現実がどこにあるのかという議論だとすると、場所や時間はあまり関係なく、ある個体によって現実だともっともその時強く感じられている時空間が、その人の現実になる。
たとえばパソコンを用いるといった作業を考えてみると、現実はパソコンを用いて考えながら文章を書いている私の現実がメインであり、トイレに行こうかどうか迷っている肉体的なシグナルに対する私の現実は優先順位が低い。
また、音楽を聴いているとき、ある信仰の真っただ中にあるとき、現実はやはり音楽や信仰のなかにあることになるだろう。そしてちょっとしたきっかけで、すぐに別の現実へと移ってゆく。
脳味噌と肉体をわざわざ分離しなくても、私がどこにいるのか分からなくなるシチュエーションは多い。
われわれは複数の現実のなかを、目的や興味や仕事に応じて、行ったり来たりしているだけだ。
蛇足になりそうだけれども、現実にも個人差がある。
ある個人にとって映画を鑑賞している時間はカメラ割やライティングやシナリオを考える現実でもあろうし、別の個人にとっては、他人が作ったフィクションに感情移入するような現実でもあるだろう。
正しい現実がどれなのか?というのは適当な多数決をとるのが手っ取り早いかもしれない。
じゃぁコンピュータプログラムにとって適当で役に立ちそうな現実って、どういう構成が必要なのか?という議論になるが、それはまた別の話。
14、私はどこにいたのか?
デイヴィド・サンフォード
デネットの短編について、哲学者の意見からの短編。
遠隔操作できる機械を用いている場合、私はどこにいるのだろうか?
答えは、遠隔操作をしている現実が、私の現実になる。
肉体的な位置座標は別にあるかもしれないけれどもね。道具を用いるという作業と遠隔操作をするという作業には、道具から肉体への距離上の違いしかない。
心理的には、アマチュア無線の面白さとかネット対戦ゲームの面白さのように、現実が変わる(ように思わせられる)面白さなのだろうと思う。
遠隔操作という作業が、将来的に人間の脳や肉体の用い方を変える可能性はある。
道具が人の意識のあり方を変えるということは珍しくない。たとえば火や歯車や印刷。
>私が悩まされたのは自分の居場所が不連続に変化することよりも、チャンネルを切り替えられる毎に自分が突然あるロボットと同一でなくなり、他のロボットと同一になるとの思いだったのである。
自分が夢中になって見ているテレビ番組を、ザッピングされるのと同じ理由でたぶん不愉快なんだろう。
たまーにユニークそうだと思った論文を読むと、デューク大学だ。なんでだろう。
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