2005/7/31
あるキーワードでネット検索したら、24件がリストアップされた。その中の7番目に、興味深い文章が綴られている。
そこだけを転記すると、「…蒲子は〔都としては〕道が険しいので、長く …王衍が認めず、衆心を落ちつかせるために車や牛を売った。山簡は ... 城や町は荒れ果てていた。遜は、粗末な着物に質素な食事をしながら、離散したものを呼び集め、倦むことなく …」である。
その7番目のタイトルは、「資治通鑑巻第八十七」である。「資治通鑑」?!聞いたことがある、が、断固、読んだことはない。
さて、小生がGoogle検索に使ったキーワードとは、「山 険しい 倦む」である。何故に、こんな脈絡のない言葉を打ち込んだのか。それ自体、他人様には謎だろうが、あまり意味はないので、ここではその説明を控える。
さて、せっかくなので、その「資治通鑑巻第八十七」を開いてみる:
ここには「資治通鑑」の原文と読み下し文が表示されているが、その右上に「2003/10/31 下訳完了」という文字が躍っている。ん? 下訳完了!! で、頁を表紙に移行させると、「『資治通鑑』邦訳計画」とあり、「『通鑑』翻訳・校訂者募集!! 漢文初心者OK! 」という小見出しが踊る。
さらに、計画の主旨などが、下記のように綴られている:
『資治通鑑』は、晋が韓・魏・趙に三分した威烈王二十三年(403B.C.)から後周世宗の顕徳六年(959A.D.)にいたる編年体の中国史書です。北宋の司馬光が十九年の歳月を費やして編纂しました。豊富な資料と考証に基づき、名著のほまれ高い書です。 ここでは、ネット上の有志を集め、分担して、その『資治通鑑』の全日本語訳を行い、WEB上での公開を目指してます。
このサイトの情報交換掲示板(BBS)を覗き、いろんなメンバーの方たちの遣り取りを読むと、門外漢ながら、血潮の湧き立つ感を覚える。まだまだ邦訳は、緒についたばかりのようだが。
「『資治通鑑』紹介」の頁を覗くと、『資治通鑑』の概要や、著者である、北宋の司馬光のことなどが書いてある。
北宋の司馬光! そう、小生も、歴史の授業か、それとも何かの古典を読んだ折にか、名前だけには接したことがあるが、実質的に全くの未知の人物といっていい。本文にもあるように、小生のみならず、大概の人には、「司馬遷の名前はすぐに出てくるだろうが、ナカナカ司馬光の名前は出てこないのでは無かろうか?」
また、「下手をすると、もう一人の司馬!と言うと司馬遼太郎と書かれそうだし、日本のお父さん方でそう答える人は多いだろう。」
そう、我輩もその一人である。この雑文の表題を敢えて「司馬のこと」にしたのだが、さて、その表題から、一体、司馬遷を思い浮かべられただろうか。それとも、やはり司馬遼太郎だろうか。司馬光をパッと、あるいは、脳裏をめぐらしてでも、何人か目に司馬光がいると枚挙されただけでも、小生は尊敬しちゃう。
ちなみに、これも常識なのかもしれないが、司馬遼太郎氏がこの筆名にしたのも、司馬(遷)を尊敬しつつも、司馬に遼かに及ばないからという(勿論、謙遜だと思う)。
なお、ついでながら、『資治通鑑』なる題名の語義を見ておくと、「統治に資するための通史」という意味だという。文字通りの表題の史書ということか。
小生のみならず、司馬遷の名を知る人は多い。なんといってもドラマチックである。そのドラマは、書いた著作の『史記』もそうだし、書いた本人もドラマチックである。
「司馬遷は有名である。親子二代にわたる取材を経て、紀伝体を確立した史学者、李陵をかばい、自らも漢・武帝の逆鱗に触れて宮刑に処せられた硬骨漢、そして何よりも、中国の古代を瑞々しく描いた優れた文学者として知られている」と、このサイトでは紹介されているが、大雑把な常識として、この程度のことを把握されている人も多いだろう。
あるいは、武田泰淳著の『司馬遷―史記の世界』を読まれた方も多いのではなかろうか。冒頭の、「司馬遷は生き恥さらした男である」は、もう、これだけで読まなくてはと思ってしまう。
さて、『史記』(その邦訳)は面白いと言いながら、小生は、遠い昔、中央公論社版の世界の名著シリーズの中の一冊『史記列伝』を図書館で齧り読みしただけである。途中でめげてしまった。
それでも、人物本位の本文は読むものを魅了するし、こうした仕事を宮刑という男として屈辱的な刑を受けた熱血漢の司馬遷が、憤怒の念を持って遣り遂げたのだというドラマを思うと、興味津々にならざるをえないところがある。
この『史記』は、そもそもが私家の歴史書なのである。だからこその面白味があると同時に個人が書いた史書という性格に伴う制約もある。
一方、『資治通鑑』の司馬光は、上掲のサイトによると、至って温厚な性格の人らしい。下記サイトは、司馬光について簡略な紹介をしている:
この中に、「司馬光は幼児のころから聡明であった。巨大な甕におちた友達を甕を割って救ったと言うエピソード」や、「司馬光は子供時分、暗誦が不得手で、皆より何時も遅れ、兄弟でも一番遅れを取っていた。他の者が、とっくに終って外で遊んでいるのに、彼は一人、物陰で何度も暗誦に励んでいた。こうして、彼は人の何倍もの努力をして暗誦した文体は忘れることは無かった」といったエピソードが紹介されている。
驚くのは、同上のサイトによると、「「資治通鑑」上本が3冊セットで100元、日本円¥1500」だったということ。「日本で買えば安くても¥5〜6万円」で、サイト主が買うかどうすべきかで迷ったのも無理はない。
司馬光の温厚さは、政治的な混迷に巻き込まれ、引退を余儀なくされ、当然ながら続けていた著述活動も本来なら諦めなければならないはずが、「中央官界では政敵・王安石が宰相の椅子に座って新法の音頭取りをしていたのであるが、王安石は司馬光の著作活動を妨害することはまるでしていない」し、「時の皇帝である神宗も自分の押し進める新法に盾突き、中央政界から退いた司馬光のこの著作を心待ちにしていた」、あるいは、「《資治通鑑》(名前からして帝王学の助けの為に編纂されたと言うことが解る)の名を下賜し、序を付けたのも神宗」であるというエピソードなどでも分かる。
そもそも、司馬遷が紀伝体(人物本位)で書いたのに比べ、もともとが勅撰の歴史書だという性格はあっても、編年体の形式で書いたのも、いかにも司馬光らしいと言えるようだ。
さて、意味不明のキーワードでネット検索してヒットした興味深いサイト。せっかくなので、大まかなことだけを書いてみたが、こうしたネット遊びも一興ではなかろうか。
(04/05/30)
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