2005/2/11
日曜日だったか、前日の疲れの余波があって、いくら寝ても寝たりない。ロッキングチェアーに体を沈めて、土曜日から日曜日の昼前くらいまで居眠り、転寝(うたたね)、熟睡、惰眠の繰り返しだった。
そうした折、ふと、夢で目が醒めたのだが、その瞬間、「お手手つないで」という歌詞というか、歌が脳裏を掠めていた。同時に、遠い日の淡い思い出がふんわりと蘇ったかと思うと、すぐに淡雪の如く消えていった。
その思い出というのは、小生が保育所の時代から中学三年生の頃まで好きだった女の子のことである。しかし、小生に彼女と何か関わりがあったなどという甘い思い出など、あるはずもない。ずっと、ずっと片想いに終始しただけだった。
が、延々と寝つづけた果ての目覚めの瞬間に、そうだ! 一度だけ彼女の手を握ったことがあったんだと思い出した。
といっても、手を握ったというのは、小生の思い入れが過ぎる。幽かな思い出を探ると、何かの遊戯の時間か、それとも運動会の時に、彼女と瞬時、手をつなぎ合うことがあったというに過ぎないのだ。
その<思い出>が、「お手手つないで」という歌と共に、不意に蘇ったのである。甘酸っぱいというのも大袈裟な、微笑ましいワンシーンに過ぎない。
まあ、その思い出のシーンはともかく、問題は歌の方である。「お手手つないで」という歌のメロディが、「お手手つないで 野道を行けば みんな可愛い 小鳥になって 唄をうたえば 靴が鳴る」という歌「靴が鳴る」だったのか、それとも、「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る、お手手つないで皆帰ろ、からすと一緒に帰りましょ」という「夕焼け小焼け」という歌の一節の「お手手つないで」だったのかが今一つ、定かではないのだ。
念のため、両方の歌詞を示しておこう:
「靴が鳴る」(清水かつら 作詞、弘田龍太郎 作曲)
「夕焼け小焼け」(仲村雨紅作詞 草川 信作曲)
余談だが、「靴が鳴る」の歌詞をネット検索していたら、末尾の歌詞が「唄を歌えば、ポチが鳴く」というのがあった。これって間違いだよね。上に示した歌詞の他に幻の歌詞が埋もれているってことはないよね。「ポチが鳴く」ってのは、「裏の畑でポチが鳴く、正直爺さん掘ったれば、大判小判がザークザクザックザク♪」の中に出てくるポチだと思うのだけど。
余談ついでにもう一つ。「夕焼け小焼け」の歌だが、この歌には秘話がある。
このサイト(なんと東京消防庁!)で知ったのだ。
このサイトによると、「この歌が世に出る直前、関東大震災に襲われ譜面まで焼かれてしまいました。残ったのはわずか13部。しかし、子供達の口から口へ瞬く間に歌い広められ、外国まで渡ったそうです」とのこと。
ま、そんなこんなはともかく、時の経つにつれ、ぼやけてしまった記憶を辿っても、「お手手つないで」の歌詞が「靴が鳴る」のメロディに乗っていたのか、「夕焼け小焼け」のメロディに乗ってのものだったのか判然としない。なんとなく、「夕焼け小焼け」のメロディだったような気がするが、このメロディが懐旧の念に相応しいから、今になってそうかなと思っているに過ぎないかもしれないと思ったり。
さて、では、どうして不意に「お手手つないで」などを思いがけなく思い出してしまったのか。すると、これはかなりフロイト的精神分析の廉価版になってしまうが、最近、憧れの人と握手する機会があったからではないかと、ふと思ったりする。真相は分からない。小生の深層心理も分からない。ただ、そんな気がするだけである。
まあ、心の世界というのは、時間を超越して、いろんな世界に繋がっていく。きっと、夢見心地の中では、想像を絶するような過去と現在との時空間を越えた場面の往来と重なりが行われているのだろう。そのほんの一端が、ふとした目覚めの瞬間にポロッと意識の世界に洩れ出たに過ぎなかったのだろう。
もっといろんな世界を実感したい気がする。でも、やっぱり過去は遠いものとして意識のレベルからは封印されていたほうが、現在は安泰なのかもしれないという気もする。この判断も小生にはつかないままである。
(03/09/22)
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