ある場所で、久しぶりに、閑古鳥に出会った。
といっても、本物の閑古鳥ではなく(それは、我が仕事先で鳴き叫んでいる)、生憎、閑古鳥という名前(言葉)だった。
閑古鳥が鳴く状態なら日々に親しいのだし。
閑古鳥という名称を目にして、おや、これは何だ? 正体は? 語源は? モデルとなった鳥が居るのか? あるいは、もしや、ホントに閑古鳥という種類の鳥がいるのでは。勝手に何かの比喩だと思い込んでいる小生は、実はとんでもない勘違いをしているのではないか…?
そんな疑問を持った小生なのである。
ということで、ネットを通じて、閑古鳥について調べてみることにした。
ネットを通じて、というのは、我が「広辞苑」(電子辞書)は破損中であり、予算の都合上、当分、修理など、まして買い替えなど考えられない状況にあり、また、こんなことを友達に聞こうものなら、小生よりもっと閑古鳥の鳴く形容に相応しい生活ぶりをしている彼は、きっと、オレに対するあてつけかと、勘ぐるに違いない。
なので、頼るのは、ネットだけなのである。ネット検索で困るのは、根拠・典拠が判然としないこと、あるいはあっても、中には胡散臭い(ああ、この言葉も調べてみたい!)書籍・文献の名前が掲げられ、さも、権威ありげなようすを装っている場合もある。権威や権力、外見の立派さには(特に若い女性)には至って従順、至ってなヘロヘロな小生、また、我が外見に見合うかのように、素養がまたやたらと貧相な小生、典拠を疑う術もない。
それでも、調べてみたいという欲求には敵わない。抑え難い欲求を覚える。ここは一つ、本能の命ずるが侭に、通り一遍のことくらいは、調べてみようと思い立ったわけである。
さて、挨拶代わりの口上は終わった。本題に入ろう。
但し、思いついたキーワードを打ち込んでの、気侭なネット検索での調査なので、記述も順不同になるし、説明がダブることもあるだろう。もっと困るのは、説明は正しいのに、小生が勘違いして、間違った理解をしてしまう怖れもある(しかも、間違った理解を得々と喋る怖れも)。
が、そんなことは、この一文を読まれる方が、よく分かっていることであり、眉に唾して読まれることだろうし(ああ、この眉に唾するという表現も気になる!)、そもそも、読まないという可能性が圧倒的なのである(慣れてはいるけど)。
その意味で、気軽に書けるのが嬉しい。
というわけで、今度こそ、本題に入る。
…で、本題って何だっけ。
ああ、そっか、閑古鳥だった!
閑古鳥の語源は、
諌鼓(かんこ)だという説がある。つまり、「君主に対し諌言しようとする時打鳴らす鼓」のことで、「めったに鳴らす事が無い」からだとか。確かに、しばしば鳴らされちゃ、大変だ。
ある
サイトで、「諫鼓(カンコ)」(?)を見ることができる。
別のサイトで、「諫鼓鳥」(
山車の頂点に飾られた鳥)を見る事ができる。
こちらの「諫鼓鳥」は、文章もいいが、
写真が素晴らしい。
このサイトの説明が簡潔で要を得ていると思われる:
中国の伝説上の聖天子堯、舜、禹が、その施政について
諌言しようとする人民に打ち鳴らさせるために、朝廷の
門外に太鼓を設けました。これを諌鼓(かんこ)と呼び
ます。しかし、善政を行ったので太鼓は鳴ることもなく
永年の間に苔むし、鶏の格好の遊び場となっていたとい
います。つまり諌鼓に鶏が止まっているのは善政が行わ
れて世の中がうまく治まっているということで、まさに
「天下泰平の象徴」であると言われています。
(以上、転記)
このように見てくると、諌鼓が鳴らされるのは、いざという時であり、鳴らされないに越したことはない。つまり、「諫鼓苔蒸す」という言葉があるように、諫鼓が久しく使われず苔生してしまい、その苔の上に鳥が止まって鳴く……、その様が「閑古鳥が鳴く」というわけである。
要するに、「閑古鳥が鳴く」という状態は、本来は望ましいことだったというわけだ。
但し、閑古鳥のモデルになった鳥には、いろいろな説があるらしい。カッコー(郭公)だという説、ニワトリ(鶏)だという説。
上掲のサイトには、閑古鳥が織り込まれている句や歌が示されている:
憂き我を寂しがらせよ閑古鳥 (芭蕉)
ふるさとの寺の畔の ひばの木の
いただきに来て啼きし閑古鳥 (啄木)
これらの句や歌のモデルとなる鳥は、一体、何なのだろう。
閑古鳥我が家の庭で鳴き荒ぶ
閑古鳥嫌われるからやってくる
閑古鳥憎まれっ子世に憚る
閑古鳥声はすれども姿なく
閑古鳥元を辿れば深山なり
閑古鳥世が世ならば都鳥
閑古鳥ホントの鳴き声聞かれない
閑古鳥山里で鳴けば床しかり
閑古鳥由緒正しい…でも来ないで
閑古鳥祭りの山車に君臨す
閑古鳥我が胸の枝止まりしか
ところで、ある方から、次のような情報を戴いた:
「閑古鳥」という言葉の初出が日葡辞書になっており、そちら
には、「Cancodori(カンコドリ)。または、カンポドリ。<訳>
鵲に似た鳥」
その方ならずとも、郭公とカササギ(鵲)が似ているはずもない(と、書きながら、小生、実は、鵲も郭公も、その格好をすぐさま思い浮かべられなかったのだった。その場の体裁は取り繕ったが、内心、違いの説明を求められたら、しどろもどろだったに違いない)。
(ん? しどろもどろ、という言葉を詳しく知りたい!)
ま、その前に、ニワトリ(鶏)とカッコー(郭公)も、似ても似つかないのだが(こっちは、少なくともニワトリが馴染み深いので、冷や汗も滲む程度で済む)。
季語からしても、閑古鳥は夏であり、鵲は秋なのである。
尤も、【郭公が鵲の巣を奪う】という故事というか成語があるらしい:
[
故事・成語辞典]
このサイトによると、【郭公が鵲の巣を奪う】は中国に古くから伝わる言い伝えで、カッコウはカササギが巣を作るのを待っていて、それを奪い取ると信じられていた」という。両者は愛憎半ばする骨肉の関係にあったとは言えるのかもしれない。
あるいは、似ているのは、鳥本体ではなく、営巣の方法あるいは巣の形のほうなのかもしれない(それとも、世間の目を避けて、郭公と鵲は、とっくに出来ているとか…?!)。
念のため、それぞれの勇姿を眺めておこう:
○「カッコウ」
「
MASA's Nature Reserve」の中の
ここ。
○「カササギ」
「
古里のたから」の中の
ここ。
ニワトリは、スーパーで…じゃない、テレビで映るのを待って欲しい。毎日、終日、見ていれば、一週間以内には勇姿を拝めるに違いない。
うーん、どうも、カッコウとカササギの姿の違いがよく分からなかった。
カササギは、白と黒の対比が鮮やかだということは分かったのだが。
もっと他の画像を探す。下記サイトは、サイト名がいい。
「
キレイでわかりやすい 日本の鳥百科」だって。
この両者の画像を見る限りは、遠目には似ているようにも見える…(自信がない)。
ま、昔の人も、ポルトガル人も、今ほどは、栄養が満ちてなくて、遠視が利かなかった可能性もないわけじゃなし、双眼鏡があったはずもないし(まだ望遠鏡は入手困難だったろうし)あとは、分からん。
ということで、例によって、小生のネット検索調査は、中途半端に終わったのだった。
せっかくなので、短歌や駄句をひねって、最後の挨拶に代えたい:
ふるさとの山に迎いていうことなし
ふるさとで鳴くは閑古鳥のみ
憂き我も共に鳴かせよ閑古鳥
(04/10/18)