案山子と聞いて、何を思い浮かべるだろう。田圃の案山子だろうか。それとも「案山子」という歌だろうか。あるいは、「案山子」という名の映画なのか。ちょっとひねって、「スケアクロー」というジーンハックマン、アルパチーノ出演の映画だろうか。
そもそも近頃の若い人は案山子なんて知っているのだろうか。
思えば案山子とは不思議な存在だ。それとも不思議と思う小生が想像力に欠けるところがあるのだろうか。田圃や畑などで農作物が荒らされないよう、田畑の端っこなどに、案山子を立てかけておく、着想としてありがちだし、工夫の余地がありえるとしたら、姿かたちくらいのものかもしれない。
案山子というと、文部省唱歌の『案山子』を連想される方も多いだろう。「山田の中の一本足の案山子♪」なんて、ガキの頃に歌った記憶がある。学校で習って歌ったのか、それとも家が(兼業)農家だったし、近所も農家が多かったこともあって、ガキの間で自然に広まり覚えていったのか、仔細は覚えていない。
この歌の何処か滑稽味のある歌詞も、覚えやすく歌いやすいメロディも、子供には馴染みやすいものだった:
案山子
文部省唱歌
一、
山田の中の一本足の案山子、
天氣のよいのに蓑笠着けて、
朝から晩までただ立ちどほし。
歩けないのか、山田の案山子。
二、
山田の中の一本足の案山子、
弓矢で威して力んで居れど、
山では烏がかあかと笑ふ。
耳が無いのか、山田の案山子。
あるいは、小生よりやや若い世代だと、さだまさしの作詞/作曲による「元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか 寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る♪」という『案山子』を口ずさむかもしれない。この曲も歌詞もなかなか素敵である。
蕪村に「秋風のうごかしていく案山子かな」という一句がある。収穫の季節もとっくに過ぎたのに、田畑の隅にポツンと立っている案山子、着せ掛けてある衣服も野晒しにボロボロになり秋風に寂しく揺れているという光景が歌われているようである。
やはり、季節外れの時期に見捨てられたようにして立つ案山子というのは、誰にもなかなかに印象的な光景なのだろう。
特に旅に生きる人、あるいは、心に漂白の思いを抱く人には、何か郷愁を誘うというか、まるで剥き出しにされた我が身がそこに立っているように感じられたりするのかもしれない。
誰も思うことかもしれないが、「カカシ」という言葉も不思議だが、「案山子」という表記ももっと奇妙に感じられる。
事典(NIPPONICA 2001)によると、「案山子」は、およそ3種に分けられるとのこと。
(1)田に注連(しめ)をはり、竹や蓑で人形をつくり、蓑笠を着せ弓を持たせて田畑に立て、鳥獣の害を防ぐもの。(2)かがし(嗅がし)とよばれ、悪臭を放つものを串に刺して鳥獣を追い払うもの。(3)「おどし」という、音をたてて鳥獣を脅す鳴子もかかしの一つといえる。
これらの説明を引き写しながら、遠い昔、小生が田舎にいた頃の田圃の風景を思い出していた。田圃の四隅に竹を立てかけ、その竹に日の光を浴びると風に揺れる銀色(だったと思う)にピカピカ光るテープを引っ掛けて張り巡らし、スズメやカラスなどを追い払おうというものだった。
その田圃に
案山子モドキを立てていたというかすかな記憶もある。
「広辞苑」によると、「かかし」は漢字では「案山子」とも「鹿驚」とも表記するらしい。
この「鹿驚」というのは、当て字なのだろうが、なんとなく想像もつく。畑を荒らすだろう鹿を音か何かで驚かせて退散させたということなのだろうから。しかし、何故、「案山子」という表記なのかが分からない。
さらにネット検索していたら、その名も「案山子」という
サイトが見つかった。
ここの説明によると、「「景徳伝燈録‐道膺禅師」に「僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会」とあるように、中国の禅僧が用いた言葉で、案山(山中の低地の意)の田畑に鳥獣を防ぐために立てた人形を意味する語。それを拝借して、日本で「かかし」に当てるようになった。」とのこと。
そうか、「案山」とは、「山中の低地の意」だったのか。「案(あん)」には、「つくえ。台」の意味があるから、「案山」では、山の中の台地ということになるのだろうか。
いずれにしても、「かかし」乃至は「かがし」という慣用的な、あるいは民間の間で使い慣らされて来た言葉があり、そこに中国語の「案山(子)」を宛がったということなのだろう。
但し、小生は、未だ「景徳伝燈録‐道膺禅師」に実際に当ったことはない。
ちなみに、「衣鉢を伝う」という言葉がある。「師から弟子へその奥義を伝える」という意がある。つまり、「禅宗の始祖達磨大師が、仏法を伝えた証拠として門弟に法衣と鉄鉢の二品を授けたということから出た言葉」で、「
伝燈禄」の中の言葉らしい。
小生が知る表現では、「衣鉢を継ぐ」があるのだが、「衣鉢を伝う」と同じと思っていいのだろうか。
さて、先に紹介した蕪村の他にも「案山子」にちなみ俳句がないかと探していたら、「案山子より 立つの得意な 劣等生」なんてのが見つかった。これは俳句じゃなくて、川柳(もどき)なのだろうか。これなど、「案山子」という言葉が持つ、見かけだけで役に立たないという意を十二分に活かしている。
気を取り直して、ちゃんとした俳句を探す。すると、次のような俳句が見つかった:
物の音ひとりたふるゝ案山子かな 凡兆
案山子から案山子へ渡る雀哉 小波
夕月のたへにも繊き案山子かな 水原秋桜子
山風に笠取られたる案山子かな 鼠弾
今朝見ればこちら向きたる案山子かな 太祗
今日影道まで出ずる案山子かな 召波
盗んだる案山子の笠に雨急な 虚子
さて、次の作は、一体、誰のものか:
ものいはぬ案山子に鳥の近寄らず
が、やはり蕪村に戻ってしまう:
水落て細脛(すね)高き案山子(かかし)哉 蕪村
花守の身は弓矢なき案山子哉 蕪村
畠主の案山子見舞いて戻りけり 蕪村
さて、最後になったが、「案山子」というと、水上勉の『案山子』を真っ先に思い浮かべる方も多いのではないか:
http://sun-cc.juen.ac.jp:8080/~yuji/minakami-kakasi.htm
稲の刈り入れも終わった田圃に案山子がポツンと立っている。「案山子は古び、ところどころくさりかけている。秋の暮れの案山子ほど、みじめなものはなかった。冬に、おこもりに出かけた村人が、庄左の田圃にはった薄氷に何か見つけた。海苔のような黒い糸屑は、人間の黒髪であった。髪は海苔を敷いたように薄氷の上に浮いていた。髪の根元には、埋もれた案山子があった。首だけの案山子であった。髪はその案山子の頭から生き物のように黒々と浮いて見えた。」
水上勉の『案山子』は、小池真理子氏著のエッセイ集『肉体のファンタジア』(集英社文庫)の「毛」という章の中にある表現を借りると、「北陸の貧しい山村を舞台に、性的魅力に富む妻が不貞を働いたのではないか、と誤解した夫の悲劇を描いた作品」だそうだが、小池氏も、ラストシーンの「それは人間の髪であった。髪は海苔を敷いたように薄氷の上に浮いていた」を引用している。
この場合、妻(女性)の髪は漆黒の髪であり、今は人気のなくなった濡れ羽色の髪であって、決して栗色の毛先の細く尖がった軽やかな髪ではない。黒々としており、太く真っ直ぐな髪が案山子と対比されるからこそ印象に鮮やかだし、若い女の性的魅力と生命力が溢れていると感じるわけである。
(04/02/01)

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