「さわり」について
昨日、ラジオを聞いていたら、「さわり」についての話があった。どうやら、「触る」の「触り」ではなく、「障り」のほうについてらしい。
例によって車中なので、聞き流すしかない。断片的には聞いたが、小生の頼りない記憶に頼って書き散らすのも、申し訳ない気がする。そこで、ネットや辞書を頼りに、「障り」について、あるいは「さわり」について、考えてみよう(但し、「さわり」については、多様な意味や使い方がある。その全貌に言及するつもりはない)。
念のため、「広辞苑」で意味を調べてみる:
[障り](1)さわること。さまたげ。さしつかえ。(2)病気になること。
(3)つきやく。月経。
[触り](1)さわること。ふれること。また、触れた感じ。
前者の「障り」については、いろいろな関連する言葉がある。「差し障り」とか、「耳障り」とか「目障り」など。とにかく、「障り」のつく言葉は、邪魔になることを意味するようである(そうか、月経というのは、昔は、障り扱いだったんだ)。
さて、昨日のラジオでの話の趣旨は、最近、「耳障り」という言葉について誤用が目立つという話だった。つまり、「どうも、耳障りが悪い」といった表現が目立って、気になる、というのである。
また、ラジオ(NHK)へも、気になるという投書が少なからずあったらしい。
では、「耳障りが悪い」という表現の何処が悪いのか。
これは、国語に詳しい人でなくても、言葉に敏感な人なら、何が問題なのか、分かるだろう。
つまり、「障り」の語義を上記したが、そこで見られるように、そもそも「障り」という言葉の中に既に悪い、不快であるといった意味合いが含意されている。
だから、「耳障りが悪い」というと、耳に不快な感じが悪い」と、しつこい表現になってしまうというわけである。
使い方としては、「耳障りな物言い」だとか、「目障りな奴」とするのが、語義に叶う。
そもそも目障りという言葉はあっても、目触りという言葉はなく、目触りな奴という表現も生じようはずがない。
では、手触りとか、肌触りとか、舌触りとか、歯触りといった言葉はどうなのだろう。
あるいは、どうして、耳触り、目障りという言葉があるのに、耳触り、目触りという言葉がないのだろう。
確か、昨日のラジオでも、この点の解説がなされていたように思うが、詳細は聞き逃している。
注目すべきは、耳と目については障りが続き、肌、舌、歯、手については、触りが続いているということ。
考えてみたら不思議だ。耳障りなことがあるように、肌障りなことだって、舌障りなことだってあるではないか。肌触りのいいことも、手触りのいいこともあるのだとしても。
すると、少し考えてみると分かることだが(きっと、昨日のラジオでも解説者はその点を指摘していたと思う)、「肌、舌、歯、手」群については、ある程度、選択の余地があることが分かる。
着る物については、着てみたら(着ることを想像するだけでも)肌に感触がいい、あるいは悪い、ということになる。つまり、着るか着ないかについて、どっちを選ぶか当人の自由な裁量の余地があるということだ。
手触りについても、以下同様だろう。触るか触らないかは、当人がどうするかを決められる。
その点、耳や目については、自由度が制約されている。
なるほど、耳障りな音なら耳を塞ぐなどして聞かなければいいが、そうはいっても、音が耳に達してしまったら、そしてその音が不快なら、即、耳障りな音となってしまうわけである。
目についても、見たくないものは見なければいいが、そうは言っても、目はとりあえずは開けておくしかなく、一旦、見開いた目で見たものは、それが目に不快な光景であれば、即、目障りとなってしまうのである。
しかし、すぐに浮かぶ疑問があるのも正直なところだろう。「肌、舌、歯、手」群のどの器官(ちょっと不正確な名称を使わせてもらう)だって、実際にものに触ってしまって、しかも、その対象が不愉快なものだったら、やはり触った途端に、即、肌障りとなってしまうのではないかい、舌障りになってしまうのではないか、云々。
この疑問に答えるには、もう一度、「肌、舌、歯、手」群と、「目、耳」群との対比を注意深く行う必要がある。
すると、すぐに分かることは、「肌、舌、歯、手」群については、対象から距離の程度に違いはあっても、多少は離れていて、その対象に触れるには、当事者が能動的に動いて、そのものに触れる必要があるということだ。
その点、「目、耳」群は、対象と離れていても、実際、目も耳も対象から、音源から離れていることは間違いないが、その見られた光景や音声は、目に、耳に勝手に飛び込んでくる、そういった受動性(あくまで「肌、舌、歯、手」群との対比の上でのことだが)があるということだ。
さて、「肌、舌、歯、手」群と、「目、耳」群とを対比させてみると、どちらが根源的な感覚だろうか。これは、恐らく考えてみるまでもなく答えが出てきそうだ。どう見ても、前者の群の感覚、接触する感覚が根源的、少なくとも進化の上で始原的・原始的(だからといって、機能が未だに古臭いという意味では決してない)であり、後者のほうが後発的な感覚だと判断されるだろう。
このことから、また、あれこれ夢想されることも多いが、それはまた別の機会に気が向いたら、思いをめぐらせて見たい。
(03/11/13)