政治・経済・社会にしても、世界の動向や実情が複雑怪奇になり、イデオロギー的に凝り固まった(右翼ないし保守傾向、あるいは良識が謳い文句)の新聞の論調(多くは見出ししか読まない)に簡単に左右されてしまう。この傾向の進行は、世論の単純でワンパターンな論調が歴然と示している。
小泉首相の紋切り型の説明、コピー的な言動、条理を無視した不遜な言動のいかがわしさに顰蹙を覚えない、気恥ずかしくならないのも、あの軽薄さと衆愚的傾向が分からないからなのではないかと思われたりする。
読書とは、一人の人が最初から最後まで徹底して考え抜いた、調べぬいた汗の結晶であり、読書するとはそうした相手ととことん付き合うことだという、分かりきったことを今更、言うのも気が引ける。
さて、日本のこの悪化の一途を辿る現実がある一方では、欧米(特にヨーロッパ)では、科学カフェが急速に普及しているという話を昨日、ラジオで聴いた。
ネットでその情報を検索すると、「アサヒ・コム」で、関連の記事を見つけた:
http://www.asahi.com/paper/editorial20040620.html
「科学技術白書――社会参観日のススメ」の項に、白書の主張として、科学者たちには、「「もっと社会との対話を」と呼びかける。人々が求めているものを理解し、不安や疑問を共有するのが、これからの科学者の社会的役割だからだ。
素人が抱く疑問や不安を「無知ゆえ」と決めつける態度からは、健全な科学は生まれない。白書にいわれるまでもなく、科学者には社会とともに歩む姿勢をもってもらいたいと思う。」と、訴える一方、「いくつもの国で、さまざまな交流活動が試みられている。喫茶店やバー、書店を舞台に開かれる「科学カフェ」は、イギリスで始まり、イタリアや米国などへと広まっている。参加者が30人から40人と少なめなのが売り物だ。素人と科学者が、ひざをつき合わせて議論を交わす。進化論から遺伝子研究まで、とりあげる話題も多岐にわたっている。 」という情報が伝えられている。
科学カフェは、まさにイギリスから始まっているのだと、昨日のラジオでも伝えていた。
上掲のサイトでは、「専門分野にこもりがちな研究者の意識改革を促すために、月に一度くらいは社会参観日を設けるのもいい。その日は、例えば、お年寄りたちのグループと語り合ってみる。活動費も用意する。研究機関は、そんな一歩を踏み出してみたらどうだろう。」と締め括っている。
ラジオでは、例えば、カフェでは、「初歩的な質問ですが」とか、「素人の疑問で恐縮ですが」といった類いの前置きは、禁句になっているとも話されていた。
何が初歩的か分からないし、誰もが参加する場なのだから、みんなが気兼ねなく参加できることが大切で、そんな気兼ねの前置き・口上など時間の無駄だというわけだろうか。
日本では、戦後の追いつき追い越せの受験戦争の激しくなった頃、受験の都合なのか、理系・文系と進学のコース分けがされるようになり、数学や物理が出来ないと、理系の学校に進めないだけじゃなく、中学や高校の段階で苦手意識が植え込まれてしまう。
つまり、十代の半ば過ぎには、文系の人は理系の分野が、理系の人は文系の分野と縁が薄くなってしまう。
そして、ついには昨今は、読解力・思考力の問われる分野全般について門戸が閉ざされつつある(それも、自らの手で)というわけである。
理系・文系という受験の都合での学問、あるいは関心を抱く対象への狭隘化は、極めて不幸なことなのだと思う。
科学コンプレックスも、案外と根が深い問題だと、思われるのである。
(04/12/09 記)