2012の予定 関東大震災韓国・朝鮮人追悼
今年の予定を お知らせします。
6月2日(土)3時 ほうせんかの咲く庭 ・・・京成八広駅 徒歩2分
追悼碑のある庭を 掃除して、鳳仙花の種を撒きます。
どなたも 気楽に参加ください。
9月1日(土) 3時 追悼式 ・・・荒川河川敷 木根川橋下手
今年は9月1日です。他の追悼式と重なってしまいますが、参加をお待ちしています。
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6月2日(土)3時 ほうせんかの咲く庭 ・・・京成八広駅 徒歩2分
追悼碑のある庭を 掃除して、鳳仙花の種を撒きます。
どなたも 気楽に参加ください。
9月1日(土) 3時 追悼式 ・・・荒川河川敷 木根川橋下手
今年は9月1日です。他の追悼式と重なってしまいますが、参加をお待ちしています。
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2012/5/12
追悼する会 会報 追悼する会 会報
若葉青葉をわたる風も快い頃となりましたが、
皆様にはお元気でいらっしゃいますか。
早くも、ほうせんかの種まきの季節となりました。
以下、今年の予定をお知らせします。
6月2日(土)3時より〜
追悼碑のある庭の手入れ、種まきをします。
碑のある庭に、直接いらして下さい。
草むしりなど、汚れても良い格好でいらして下さい。
雨でも 私たちは作業しています。
作業後にはささやかに交流いたしましょう。
お待ちしています。
場所:京成線八広駅下車 徒歩1分
改札を出て、まっすぐ荒川土手方面へ階段を降り、自転車置き場の中をまっすぐに進み 突き当たったら右に曲がって直ぐです。
八広駅は急行が止まりませんので、気を付けてください。
今年の追悼式は 9月1日(土)です。
各地での追悼式と重なりますが、献花をご一緒しましょう。
「人間は平等でなくちゃ」 〜聞き書き報告〜
2012年3月31日(土) しん みんじゃ 聞き取り
八広にお住まいの宮島国次氏1934年生78歳にお話しを伺いました。
国次氏は宮島孝至氏(1964年生)の父親で、戦前満州に住んでいらしたと聞いていたので、以前から詳しいお話を楽しみにしていました。
まず、孝至氏のこと。彼とは、20年ほど前、当会も参加していたすみだ国際ネットワーク会議の事務局で出会いました。区内の様々なボランティア活動に積極的に参加するフットワークの軽い方でした。いつの間にやら、当会の欠かせないスタッフに!! 彼のパソコン知識・技術はすばらしく、ホームページ製作者であり(訪問して下さいね)、資料作りの貢献者であり、他の者たちの技術を一気に向上させたのです〜〜当会報紙面が読みやすくなったでしょう(^0^!
国次氏は話の終わりに「人間は平等でなくちゃ」「人を殴るのはいやだった」と語った。又、父八千代氏(1901年生)を語るときに右こめかみから口元へ右人差し指で斜めに切りながら「父はこれだったから」と、何度も語りながらも誇らしげだった。任侠の人だったようだ。
孝至氏も、中学生の時、自ら通う中学と近所の朝鮮学校とのケンカを幾度となく見たが、手を出すことはなかったという。暴力の吹き荒れる、戦前、戦後、現在にあって、暴力を拒否してきた三代記であった。
さて、以下は国次氏の話しをまとめたものです。
八千代氏は1923年関東大震災の頃は、22歳で請地(現向島・水戸街道沿のスーパーたじまの辺り)に住んでいた。
『震災の後、日にちは分からないが、近所でも有名な剣道家が、3人の朝鮮人を斬ったのを見た』。『朝鮮人は命乞いをしているようにぺこぺこしていたが、剣道家がアッチヘ行けというように手を振り、朝鮮人が走り出すのを後ろから斬った。周りがはす田だったので、遠目からも見えた。剣道家は、裁判に掛けられたが、どうなったかはわからない』。
――「虐殺事件 東京下町フィールドワーク史料」の36ページに大倉牧場付近で高安という男が日本刀で殺害した。とあるが、剣道家の名前とは違う。39ページのK・Nさんの証言では『日本刀でメッタ斬りされた人もいる。2〜3人位だったら、いろんな所で殺されていましたよ』とある一つなのだろうか。今となっては特定できないのが残念ではあるが、八千代氏に直接はなしを聞きたかった――
八千代氏は、1901年、軍入隊の身体検査で甲種合格だったが、朗読検査でわざと漢字を読まずにカナばかりを読んだら丙種になり、入隊しないですんだ。
『軍隊なんか入るものじゃない』と。
当時、メリヤスの仕事をしていたが、材料が国の管理下になり仕事が出来なくなったので、何台ものミシンを持って満州に渡った。もしずっと日本にいたら、徴兵されていただろう。
‘42年、夫婦と4人の子どもと渡満、安東のシナ人街へ。
国次氏(当時10歳)が、シナ人街に行って初めて感じたのは「こんなに威張ってよいのか」だった。それ程、日本人は威張っていた。街中で日本の子どもが、満人の子どもだけでなく大人まで殴っていた。現地で除隊した軍人を天下りさせて住み着かせたので、一層暴力が酷かったのだと思う。
日本人学校に通ったが、長らく住み着いているような朝鮮人も通っていた。学校は日露戦争後すぐ出来た日本語学校を増改築して立派だった。近くに朝鮮商業学校があったが、日本学校とのケンカが多かった。(’09年同窓会で「日中友好の碑」を建立したと写真を見せてくださった)
途中から、日本人街のメリヤス会社の社宅に住んだ。始めに、シナ人街に入ったことがよかった。でなければ満州の実情を見れなかっただろう。
会社では、満人も働いていたが、会社の物を盗む満人がいた。針を数十本盗んだ満人を、5人がかりでリンチするのを見た。ボグッボグッと音がするんだ。「(自分の)父親に見つかればよかったのにと思った」。
父は「貧しいから盗むんだ」と、よく満人を助けていたから。「人を殴るんじゃない」というのが、口癖だった。そして、「まずは 人様を思え」と。
だから、敗戦後は、助けてあげた満人の守衛(後で分かったのだが、八路軍のスパイだった)に、助けられた。
敗戦後、日本人は国から見捨てられた。「以前の満州のように日本の天下に戻るからこのまま残ってくれ」と言われた。混乱した日本に帰国させたくなかったのだろうと思う。
ノモンハンの戦いに行っていたおじさん(千代松の末弟)も、同じだった。おじは、現地で除隊したが、軍部がおじを日本に返したがらず、紹介されて、台湾に渡り敗戦まで警官をした。
おじは『ノモンハンの悲惨な体験を国内で話させないために返さぬようにしたのだ』と言っていた。
そうして、‘46年12月3日やっと博多にたどり着き、本家のある新潟に身を寄せた。国次氏13歳。
(帰り際、集英社`12年2月発行「満州の光と影」を貸してくださった。満州がよく見える小説集だった。協力ありがとうございました。)
証言収集を終えて思うこと
西崎雅夫
ここ数年、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件に関係する証言を探してきた。それはこの事件がいまだに解明されていないと強く感じているからだ。
追悼する会の運動が始まった頃(1982年)は、試掘現場を取り囲む見物人の中から「私も殺すところを見た」といった話がポンポン飛び出してきた。その時点ではまだ事件の記憶は人々の中に生きていた。それから30年経った今、事件を語れる人はほとんどいない。それなのに個々の事件についていまだにあまりにわからないことが多い。
公的史料(当時の司法省・警視庁・軍隊の)に記録されている虐殺事件はごく一部であり、とても全体像には迫れない。その他の史料(たとえば『独立新聞』の犠牲者人数一覧表)は、地名と犠牲者数が記載されているだけで、個々の事件の具体的内容はわからない。つまり90年近く経た今でも、この事件の詳細はよくわからない。とりわけ火災による人的被害が大きかった東京や横浜では混乱の中で多くの虐殺事件が発生したのだが、それらの詳細をまとめた報告書はない。追悼する会の運動は旧四ツ木橋周辺の虐殺事件をある程度解明したと言えるが、それ以外の地域には調査は及んでいない。自分が生まれ育った東京で何が起こっていたのか、それがわからない、そんな状況に私はずっとイライラしていた。そして自分で証言を集めるしかないと思った。
とはいえ、事件のことを直接聞くことができる人はもうほとんどいない。また私自身は専門的な調査方法を知らない。だから図書館で本を探すしかなかった。日記・自伝・郷土資料など、証言が載っていそうな本を片っ端からチェックした。そのために都内23区の図書館はほぼすべて回った(でも開架図書を調査するのが精いっぱいで、閉架図書は手つかずであり、見逃している証言もたくさんある)。
それでも多くの証言を集めることができた。それを各地域ごとにまとめてみると、事件の具体的な情景がリアルに伝わってきた。それを「下町編」「下町以外編」の2部に編集した。
多くの証言からわかったことがいくつかある。
@ これまで虐殺事件があったと知られているケースでも、具体性がわかった。たとえば、『独立新聞』では記載がなく『吉野作造』調査に犠牲者数「上野公園12名」と書かれているが、それだけでは実感がわかなかった。でも、「殴り殺され、上野の交番前に鮪のように並べられ、こもがかけられていた」(永井うめ子)、「上野の交番前に市民に打ち殺された30名ばかりの朝鮮人の死骸が」(清水正)などの証言を知ることで、具体的にイメージできるようになった。
さらに左のような絵があるともっと現場を理解しやすい。(田中翠璋という日本画家が描いた『関東大震災絵巻』→『週刊朝日』1963年9月6日より)。絵の時点では朝鮮人は針金で縛られているが、その後大勢に殴り殺され、並べられてこもをかけられたのだろう。この絵は犠牲者たちがまだ生きている時の最後の肖像ともいえる。
A これまで知られている地域以外でも、虐殺事件は広範囲で発生していることもわかった(吉原・御徒町・金杉上町・鐘紡工場・御蔵橋・安田邸・被服廠跡・砂町小・茅場町・日本橋・神田佐久間町・淀橋・葵橋・神楽坂・霞町・赤羽橋・泉岳寺・大森・大塚など)。逆に言えば、公的史料の記録(司法省や警視庁)は、虐殺事件のほんの一部を記録しているにすぎない。
B 公的史料の「意図的欠落部分」を民間証言が明らかにしている。たとえば、警視庁の『大正大震火災誌』をいくら読んでも、警察が流言拡大に深く関与したことは決して書かれていない。でも、当時第一寺島小学校の校長だった友納友次郎は、学校で被災し高田馬場の自宅まで歩いて帰った2日午前2時、近所から「朝鮮人の襲撃」を聞く。「誰がそんなことを言っているのか」と問うと「警察から言ってきた。警官が触れ回っている」と。友納は「警察が言うんだから確かだろう、ぐずぐずしていられない」と信じてしまう。こうした警察による流言拡大を伝える証言はたくさんある。その結果、自警団が結成され虐殺事件が起きた。
C また証言からは、すさまじいまでの官憲の「現場感覚」がうかがえる。
「やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって。まだ油断ならん」(1日夜旧四ツ木橋での水野一善の言葉)
「本日10時を期して朝鮮人大挙して閑院宮邸を襲撃するとのことである。したがってわが中隊はそれが防戦につとめる」(近衛兵だった伊波南哲がうけた命令)
「戒厳令発せられたる今日、グズグズ云はば斬るぞ」(日本橋で警官が鹿島龍蔵に)
「戒厳令の効き目を知れ」(巣鴨署に拘留され暴行されつつ加藤一夫が言われた言葉)
「赤羽荒川土手の桜並木に朝鮮人を1人ずつ縛りつけて兵士が『今夜こいつらをぶった切るんだ』といきまいていた」(避難の途中で松崎濱子が聞いた言葉)
こうした証言を集めることは、朝鮮人虐殺事件の全容解明につながると思うので、今後も続けていきたい。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《フィールドワーク報告》
3月30日に東京・地理教育研究会の皆さん20余名が例会として追悼碑を訪れ花を手向けてくれました。左の写真は碑を訪れた後、荒川土手で朝鮮人虐殺事件の現場を説明している様子です(旧四ツ木橋があった場所で、奥に京成線が走っています)。同研究会から送っていただいた写真を掲載させていただきました。
《講演会報告》
4月28日に在日韓人歴史資料館で「関東大震災・東京の朝鮮人虐殺事件〜証言収集から見えてきたもの〜」と題して西崎が話をしました。
主催は「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」でした。20余名の参加者でしたが、熱い討論ができました。
2011年度 会計報告
1.韓国・朝鮮人追悼碑基金会計報告 2011年4月1日〜2012年3月31日
〜〜会計報告は 割愛させていただきます。興味がある方は当会に直接お尋ねください。
関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑の建立から、2年半。追悼碑基金を寄せて下さった方々、ありがとうございます。追悼碑の維持管理に使わせていただきます。
昨年の会計報告のとおり、「一般社団法人ほうせんか」に100万円を支出し、法人設立費用や有志所有地の寄贈(所有権移転登記)費用など個人立て替え分を精算しました。「一般社団」の会計報告は8月末締めで、ご報告します。非営利を徹底した法人の運営経費などを勉強する間、これまで通り追悼する会で追悼碑基金を管理していくことをご了承下さい。
2.追悼する会 一般会計報告 2011年4月1日〜2012年3月31日
〜〜こちらの会計報告も 割愛させて頂きます。
興味のある方は 直接お尋ねください。
2011年度も会費・購読料・カンパなどなど、ご支援ありがとうございました。
6/11に開催した、呉充功監督『払い下げられた朝鮮人』のDVD上映と平形千惠子さんの講演会は、31人の参加でした。追悼式は台風に見舞われ、イスのレンタルなどキャンセルしたため支出も少なく、懇親会の残金もカンパいただきました。
今年度、特筆すべきは西崎さんが長年資料収集・整理した手作り資料集の発行です。
80ページに及ぶ証言集は、第1集・第2集とも2回作成し、各400部を作りましたが、関西・広島・四国・九州などからも注文があり、めでたく手作り制作費を上回る売上となりました。
印刷通信費は、年4回の会報印刷発送・資料集等送料・携帯電話費用です。会報は、追悼式に参加下さった方々にもお送りしてきましたが、1回の発送が5万円近くになってきましたので今年度は一度整理させていただこうと思います。
2012年度も、よろしくお願いいたします。 (会計=矢野恭子)
墨田区八広での追悼事業日常活動を支えて下さる方は、追悼する会にご支援をよろしくお願いいたします。
会費(年間5000円・購読料込み)、または購読料(年間1000円)のどちらかを、同封の郵便払込用紙でご送付いただけましたら幸いです。
払込口座名:「遺骨を発掘し追悼する会」番号00180−1−0082276 * これまで追悼碑基金にご賛同下さった方、ご協力者、墨田区の区議会議員・町会の方は活動報告として会報を寄贈させていただいております。誤って振込用紙がはいりましたらご容赦下さい。
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皆様にはお元気でいらっしゃいますか。
早くも、ほうせんかの種まきの季節となりました。
以下、今年の予定をお知らせします。
6月2日(土)3時より〜
追悼碑のある庭の手入れ、種まきをします。
碑のある庭に、直接いらして下さい。
草むしりなど、汚れても良い格好でいらして下さい。
雨でも 私たちは作業しています。
作業後にはささやかに交流いたしましょう。
お待ちしています。
場所:京成線八広駅下車 徒歩1分
改札を出て、まっすぐ荒川土手方面へ階段を降り、自転車置き場の中をまっすぐに進み 突き当たったら右に曲がって直ぐです。
八広駅は急行が止まりませんので、気を付けてください。
今年の追悼式は 9月1日(土)です。
各地での追悼式と重なりますが、献花をご一緒しましょう。
「人間は平等でなくちゃ」 〜聞き書き報告〜
2012年3月31日(土) しん みんじゃ 聞き取り
八広にお住まいの宮島国次氏1934年生78歳にお話しを伺いました。
国次氏は宮島孝至氏(1964年生)の父親で、戦前満州に住んでいらしたと聞いていたので、以前から詳しいお話を楽しみにしていました。
まず、孝至氏のこと。彼とは、20年ほど前、当会も参加していたすみだ国際ネットワーク会議の事務局で出会いました。区内の様々なボランティア活動に積極的に参加するフットワークの軽い方でした。いつの間にやら、当会の欠かせないスタッフに!! 彼のパソコン知識・技術はすばらしく、ホームページ製作者であり(訪問して下さいね)、資料作りの貢献者であり、他の者たちの技術を一気に向上させたのです〜〜当会報紙面が読みやすくなったでしょう(^0^!
国次氏は話の終わりに「人間は平等でなくちゃ」「人を殴るのはいやだった」と語った。又、父八千代氏(1901年生)を語るときに右こめかみから口元へ右人差し指で斜めに切りながら「父はこれだったから」と、何度も語りながらも誇らしげだった。任侠の人だったようだ。
孝至氏も、中学生の時、自ら通う中学と近所の朝鮮学校とのケンカを幾度となく見たが、手を出すことはなかったという。暴力の吹き荒れる、戦前、戦後、現在にあって、暴力を拒否してきた三代記であった。
さて、以下は国次氏の話しをまとめたものです。
八千代氏は1923年関東大震災の頃は、22歳で請地(現向島・水戸街道沿のスーパーたじまの辺り)に住んでいた。
『震災の後、日にちは分からないが、近所でも有名な剣道家が、3人の朝鮮人を斬ったのを見た』。『朝鮮人は命乞いをしているようにぺこぺこしていたが、剣道家がアッチヘ行けというように手を振り、朝鮮人が走り出すのを後ろから斬った。周りがはす田だったので、遠目からも見えた。剣道家は、裁判に掛けられたが、どうなったかはわからない』。
――「虐殺事件 東京下町フィールドワーク史料」の36ページに大倉牧場付近で高安という男が日本刀で殺害した。とあるが、剣道家の名前とは違う。39ページのK・Nさんの証言では『日本刀でメッタ斬りされた人もいる。2〜3人位だったら、いろんな所で殺されていましたよ』とある一つなのだろうか。今となっては特定できないのが残念ではあるが、八千代氏に直接はなしを聞きたかった――
八千代氏は、1901年、軍入隊の身体検査で甲種合格だったが、朗読検査でわざと漢字を読まずにカナばかりを読んだら丙種になり、入隊しないですんだ。
『軍隊なんか入るものじゃない』と。
当時、メリヤスの仕事をしていたが、材料が国の管理下になり仕事が出来なくなったので、何台ものミシンを持って満州に渡った。もしずっと日本にいたら、徴兵されていただろう。
‘42年、夫婦と4人の子どもと渡満、安東のシナ人街へ。
国次氏(当時10歳)が、シナ人街に行って初めて感じたのは「こんなに威張ってよいのか」だった。それ程、日本人は威張っていた。街中で日本の子どもが、満人の子どもだけでなく大人まで殴っていた。現地で除隊した軍人を天下りさせて住み着かせたので、一層暴力が酷かったのだと思う。
日本人学校に通ったが、長らく住み着いているような朝鮮人も通っていた。学校は日露戦争後すぐ出来た日本語学校を増改築して立派だった。近くに朝鮮商業学校があったが、日本学校とのケンカが多かった。(’09年同窓会で「日中友好の碑」を建立したと写真を見せてくださった)
途中から、日本人街のメリヤス会社の社宅に住んだ。始めに、シナ人街に入ったことがよかった。でなければ満州の実情を見れなかっただろう。
会社では、満人も働いていたが、会社の物を盗む満人がいた。針を数十本盗んだ満人を、5人がかりでリンチするのを見た。ボグッボグッと音がするんだ。「(自分の)父親に見つかればよかったのにと思った」。
父は「貧しいから盗むんだ」と、よく満人を助けていたから。「人を殴るんじゃない」というのが、口癖だった。そして、「まずは 人様を思え」と。
だから、敗戦後は、助けてあげた満人の守衛(後で分かったのだが、八路軍のスパイだった)に、助けられた。
敗戦後、日本人は国から見捨てられた。「以前の満州のように日本の天下に戻るからこのまま残ってくれ」と言われた。混乱した日本に帰国させたくなかったのだろうと思う。
ノモンハンの戦いに行っていたおじさん(千代松の末弟)も、同じだった。おじは、現地で除隊したが、軍部がおじを日本に返したがらず、紹介されて、台湾に渡り敗戦まで警官をした。
おじは『ノモンハンの悲惨な体験を国内で話させないために返さぬようにしたのだ』と言っていた。
そうして、‘46年12月3日やっと博多にたどり着き、本家のある新潟に身を寄せた。国次氏13歳。
(帰り際、集英社`12年2月発行「満州の光と影」を貸してくださった。満州がよく見える小説集だった。協力ありがとうございました。)
証言収集を終えて思うこと
西崎雅夫
ここ数年、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件に関係する証言を探してきた。それはこの事件がいまだに解明されていないと強く感じているからだ。
追悼する会の運動が始まった頃(1982年)は、試掘現場を取り囲む見物人の中から「私も殺すところを見た」といった話がポンポン飛び出してきた。その時点ではまだ事件の記憶は人々の中に生きていた。それから30年経った今、事件を語れる人はほとんどいない。それなのに個々の事件についていまだにあまりにわからないことが多い。
公的史料(当時の司法省・警視庁・軍隊の)に記録されている虐殺事件はごく一部であり、とても全体像には迫れない。その他の史料(たとえば『独立新聞』の犠牲者人数一覧表)は、地名と犠牲者数が記載されているだけで、個々の事件の具体的内容はわからない。つまり90年近く経た今でも、この事件の詳細はよくわからない。とりわけ火災による人的被害が大きかった東京や横浜では混乱の中で多くの虐殺事件が発生したのだが、それらの詳細をまとめた報告書はない。追悼する会の運動は旧四ツ木橋周辺の虐殺事件をある程度解明したと言えるが、それ以外の地域には調査は及んでいない。自分が生まれ育った東京で何が起こっていたのか、それがわからない、そんな状況に私はずっとイライラしていた。そして自分で証言を集めるしかないと思った。
とはいえ、事件のことを直接聞くことができる人はもうほとんどいない。また私自身は専門的な調査方法を知らない。だから図書館で本を探すしかなかった。日記・自伝・郷土資料など、証言が載っていそうな本を片っ端からチェックした。そのために都内23区の図書館はほぼすべて回った(でも開架図書を調査するのが精いっぱいで、閉架図書は手つかずであり、見逃している証言もたくさんある)。
それでも多くの証言を集めることができた。それを各地域ごとにまとめてみると、事件の具体的な情景がリアルに伝わってきた。それを「下町編」「下町以外編」の2部に編集した。
多くの証言からわかったことがいくつかある。
@ これまで虐殺事件があったと知られているケースでも、具体性がわかった。たとえば、『独立新聞』では記載がなく『吉野作造』調査に犠牲者数「上野公園12名」と書かれているが、それだけでは実感がわかなかった。でも、「殴り殺され、上野の交番前に鮪のように並べられ、こもがかけられていた」(永井うめ子)、「上野の交番前に市民に打ち殺された30名ばかりの朝鮮人の死骸が」(清水正)などの証言を知ることで、具体的にイメージできるようになった。
さらに左のような絵があるともっと現場を理解しやすい。(田中翠璋という日本画家が描いた『関東大震災絵巻』→『週刊朝日』1963年9月6日より)。絵の時点では朝鮮人は針金で縛られているが、その後大勢に殴り殺され、並べられてこもをかけられたのだろう。この絵は犠牲者たちがまだ生きている時の最後の肖像ともいえる。
A これまで知られている地域以外でも、虐殺事件は広範囲で発生していることもわかった(吉原・御徒町・金杉上町・鐘紡工場・御蔵橋・安田邸・被服廠跡・砂町小・茅場町・日本橋・神田佐久間町・淀橋・葵橋・神楽坂・霞町・赤羽橋・泉岳寺・大森・大塚など)。逆に言えば、公的史料の記録(司法省や警視庁)は、虐殺事件のほんの一部を記録しているにすぎない。
B 公的史料の「意図的欠落部分」を民間証言が明らかにしている。たとえば、警視庁の『大正大震火災誌』をいくら読んでも、警察が流言拡大に深く関与したことは決して書かれていない。でも、当時第一寺島小学校の校長だった友納友次郎は、学校で被災し高田馬場の自宅まで歩いて帰った2日午前2時、近所から「朝鮮人の襲撃」を聞く。「誰がそんなことを言っているのか」と問うと「警察から言ってきた。警官が触れ回っている」と。友納は「警察が言うんだから確かだろう、ぐずぐずしていられない」と信じてしまう。こうした警察による流言拡大を伝える証言はたくさんある。その結果、自警団が結成され虐殺事件が起きた。
C また証言からは、すさまじいまでの官憲の「現場感覚」がうかがえる。
「やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって。まだ油断ならん」(1日夜旧四ツ木橋での水野一善の言葉)
「本日10時を期して朝鮮人大挙して閑院宮邸を襲撃するとのことである。したがってわが中隊はそれが防戦につとめる」(近衛兵だった伊波南哲がうけた命令)
「戒厳令発せられたる今日、グズグズ云はば斬るぞ」(日本橋で警官が鹿島龍蔵に)
「戒厳令の効き目を知れ」(巣鴨署に拘留され暴行されつつ加藤一夫が言われた言葉)
「赤羽荒川土手の桜並木に朝鮮人を1人ずつ縛りつけて兵士が『今夜こいつらをぶった切るんだ』といきまいていた」(避難の途中で松崎濱子が聞いた言葉)
こうした証言を集めることは、朝鮮人虐殺事件の全容解明につながると思うので、今後も続けていきたい。
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《フィールドワーク報告》
3月30日に東京・地理教育研究会の皆さん20余名が例会として追悼碑を訪れ花を手向けてくれました。左の写真は碑を訪れた後、荒川土手で朝鮮人虐殺事件の現場を説明している様子です(旧四ツ木橋があった場所で、奥に京成線が走っています)。同研究会から送っていただいた写真を掲載させていただきました。
《講演会報告》
4月28日に在日韓人歴史資料館で「関東大震災・東京の朝鮮人虐殺事件〜証言収集から見えてきたもの〜」と題して西崎が話をしました。
主催は「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」でした。20余名の参加者でしたが、熱い討論ができました。
2011年度 会計報告
1.韓国・朝鮮人追悼碑基金会計報告 2011年4月1日〜2012年3月31日
〜〜会計報告は 割愛させていただきます。興味がある方は当会に直接お尋ねください。
関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑の建立から、2年半。追悼碑基金を寄せて下さった方々、ありがとうございます。追悼碑の維持管理に使わせていただきます。
昨年の会計報告のとおり、「一般社団法人ほうせんか」に100万円を支出し、法人設立費用や有志所有地の寄贈(所有権移転登記)費用など個人立て替え分を精算しました。「一般社団」の会計報告は8月末締めで、ご報告します。非営利を徹底した法人の運営経費などを勉強する間、これまで通り追悼する会で追悼碑基金を管理していくことをご了承下さい。
2.追悼する会 一般会計報告 2011年4月1日〜2012年3月31日
〜〜こちらの会計報告も 割愛させて頂きます。
興味のある方は 直接お尋ねください。
2011年度も会費・購読料・カンパなどなど、ご支援ありがとうございました。
6/11に開催した、呉充功監督『払い下げられた朝鮮人』のDVD上映と平形千惠子さんの講演会は、31人の参加でした。追悼式は台風に見舞われ、イスのレンタルなどキャンセルしたため支出も少なく、懇親会の残金もカンパいただきました。
今年度、特筆すべきは西崎さんが長年資料収集・整理した手作り資料集の発行です。
80ページに及ぶ証言集は、第1集・第2集とも2回作成し、各400部を作りましたが、関西・広島・四国・九州などからも注文があり、めでたく手作り制作費を上回る売上となりました。
印刷通信費は、年4回の会報印刷発送・資料集等送料・携帯電話費用です。会報は、追悼式に参加下さった方々にもお送りしてきましたが、1回の発送が5万円近くになってきましたので今年度は一度整理させていただこうと思います。
2012年度も、よろしくお願いいたします。 (会計=矢野恭子)
墨田区八広での追悼事業日常活動を支えて下さる方は、追悼する会にご支援をよろしくお願いいたします。
会費(年間5000円・購読料込み)、または購読料(年間1000円)のどちらかを、同封の郵便払込用紙でご送付いただけましたら幸いです。
払込口座名:「遺骨を発掘し追悼する会」番号00180−1−0082276 * これまで追悼碑基金にご賛同下さった方、ご協力者、墨田区の区議会議員・町会の方は活動報告として会報を寄贈させていただいております。誤って振込用紙がはいりましたらご容赦下さい。
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2012/2/7
会報 2013年新年号 追悼する会 会報
2月4日会報発送しました。
追悼する会の初仕事は、「関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料」第2弾「下町以外編」の作成でした。
沢山の方に読んで頂こうと、500円に抑えるため、第1弾共々手作りです(多少の汚れなどはご容赦を)。この資料は、西崎の根気強い調査の結晶です(内容については8ページ)。
1月28日(土)午後1時、亀戸のひまわり診療所の会議室に6人のスタッフが集まりました(作業時はいつもお借りしています)。86頁×200冊分の印刷は、西崎が事前に一人で済ませていました。長テーブル6個の上に並べられたA4の紙43枚を、帳合いのプロの武藤が脱兎のごとく重ねていきます。毎度日光から駆けつけてくる落合、近頃腰やら肩が痛いと言い出すお年頃になった矢野、仕事以外は冬でも裸足サンダルで過ごす宮島、遅刻の常習犯の慎は負けてはならぬと必死に追いかけていきますが・・・。
帳合いした物の背の糊付け・テープ貼りと、手が4時間程止まることなく作業が続きます。その間、打ち合わせやら報告やら近況やら愚痴やら・・・話しも絶え間なく続きます。
きっと、この会報印刷発送もにぎやかに作業していることでしょう。
今後は、春の会報、ほうせんかの庭整備と種まき、夏の会報、追悼式、秋の会報を軸に、90周年に向けての準備を粛々と進めます。
私たち こんな様子で、楽しく作業しています。「入ーれーて」との声かけ、お待ちしています(−。−;
なんで一般庶民が殺意をもつのかな?
武藤弘佳
私が住んでいる処の隣り近所には、革なめしをしている工場がある。
大震災時に、革なめし工場に働いていた人の証言である。虐殺されそうになった話。
「朝鮮人だと知らされて、割烹着をきた、おばさんが、『この野郎!朝鮮人』と叫び、持っていた竹槍で、私の足を刺した。身動きとれないでいるところを、鳶口を持った男に背中を切りつけられた。そして、ステテコ男から肩口を切りつけられた。九死に一生を得て、今ここに証言している。」@
この記事は、六千人以上の朝鮮人が、殺され、助かった人たちの数多くの証言のごくごく一部である。
《 流言蜚語 》
井戸水に毒薬を投じ、一人の人間が飲んだ時に、どれだけの分量で、人を殺すのか。また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数のおおよその推算しただけでも、多大な分量になる。それに、地震前からかなり大きな毒薬のストックもっていなければならない。それから先が大変である。何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これは時間がかかり、そして、一人一人に授けられた缶を背負って出掛け、自分の受持の井戸を捜して、人の見ない機会をねらって、投入の分量を加減し、そして、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。こんな大変な事は毒薬での流言はいかがのものか。A
どうして、このようなことをするのかと考える前に、次のような事実がある。アジア・太平洋戦争の発端になった中国への侵略戦争をしかけた二ヶ月前、七月に、東大生にアンケートをとった。なんと、88%の戦争賛成論であり、半数以上の人が、ただちに、武力行使すべきと、答えている。B
《 1931年12月18日柳条湖爆破 》
さて、私は、このニュースの紙面には、ほとんど、執筆していなかった。ほうせんかの水やりを、二十年近くしていて、こちらの方面は、タッチしていなかった。先日の打合せの会で、書いて下さいと言われて、少し述べてきました。
今、我が国の爆撃機を新たに、一機99億以上のものを、たくさん買って、三百億以上の出費するという、憲法九条第二項にあきらかに、違反する、この事を、為政者に訴えても、耳をかさない状況である。こうした軍事優先の体制をさらに徹底させることによって、市民の自由や権利を圧迫するのである。
しかるに、もっと悪い状況は、1910年に日本が韓国と強制的に併合した故に、朝鮮人のことばと文化と、政治を、封じてしまった。武力による制裁である。つまり、武断政治をよしとして、朝鮮人を下げすむことをしてきたのである。よって、冒頭に述べた如く、普通の人が、朝鮮人をみたら、ぶっ殺ろすように、上からだまされてしまったのである。戦争肯定する、おろかな学生もしかり。しかし、今も、脈々と差別は続いている。朝鮮人・韓国人と聞いたら、差別しているのが、日常生活に見られる。仕事も、店も、名前も自由にできない。
日本のお兄さんである朝鮮の文化等々、を教えてもらってきた経緯があった。今や、日本の犯した、負の遺産を、背負って、いくべきである。朝鮮人・韓国人に対して、友好を深くしていきたい。
[注] @『セジョン会館・関東大震災記念集会』1982年
A1924年9月1日『東京日日新聞』寺田寅彦
B『丸山眞男の時代』竹内洋著、中公新書
■ 先日追悼碑を訪れた松戸の小中学校の先生方を代表して、Rさんからフィールドワークと『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』の感想文が届きました。会報への掲載も快諾してくださったので、ここに転載します。
関東大震災・朝鮮人殉難者追悼の碑を訪ねて
千教県教育研究会人権教育部会は、2011年11月2日の研修で「関東大震災・朝鮮人殉難者追悼」を訪ねました。案内を西崎雅夫氏にお願いして、追悼碑のある八広に向かいました。八広駅は、皮革工場見学や木下川小学校の訪問等で何度か利用したことがあります。
改札口で西崎氏に会い、早速「碑」に案内していただきました。碑は、荒川土手のすぐ下の民家に囲まれた所に建っていました。殉難者の死を悼む花を手向けることなく写真を撮ってしまった自分をいまになって恥ずかしく思っています。
碑の建っている場所は、追悼式の後の交流会を毎年やっていた「飲み屋さん」が建っていたところだと言うことでした。事情の分かっている主が店を閉める際に譲ってくれたと言うことでした。
追悼の碑には「悼」という文字が彫られてあり、碑の前には夏みかんが供えてありました。手を合わせて、黙祷しました。碑の裏には建立の説明がありました。また、横に建っていたステンレス板には「追悼碑 建立にあって」が詳しく述べられてありました。朝鮮語でも述べてありました。
発掘のきっかけになる話しを聞かれた絹田さんの写真を見せていただきました。絹田さんは小学校の教員でした。教材作りのために「荒川放水路の開削工事の聞き書き」をしているときに「関東大震災のとき、殺された朝鮮人が河川敷にうめられた」という話を聞いておどろかれたそうです。「骨はまだ埋まったままではないだろうか」という証言を得、何とかしなければと知人に相談したところからこの会の活動が始まったということでした。
土手に上りました。上ったところで四ツ木橋の写真を見せてもらう。工事中の新四ツ木橋の写真と旧四ツ木橋の写真。「この橋の上に朝鮮人を並べて銃殺した。そして、その死体を埋めた」と言う証言があったことを教えてもらいました。
荒川河川敷に下りました。このあたりが埋められた場所ですが、コンクリートで護岸されているので掘れないので少し離れたところを掘ることになりました。その掘った穴の中に梯子を降ろして下りていく様子を写した写真も見せてもらいました。
話しを聞いているうちに、荒川や河川敷の様子が変わっていくように感じてきました。
もっと詳しく知りたいと思った私たちは、資料
や本を求め西崎さんに感謝しながら帰りました。
「証言は生命をもっている」
『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・編)の感想
西崎さんの詳しい丁寧な説明を聞いた私は、もっとよく知りたいと思い買い求めた証言集『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』を読みました。『墨田フィールドワーク資料集』や『東京日々新聞・地方集刷版』も読みました。
『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』を読み終えました。西崎さんに会えたおかげで、この本に出会うことが出来ました。「証言は生命をもっている」ということを心底から感じることが出来ました。
朝鮮人としての側から話しを聴くことによって、いたみを深く感じとり「つらかったでしょう」と涙をながす心がめばえてくるのでしょう。
「もし日本人が朝鮮に行ってこんなことやられたら、殺された人はどんな気持ちだろうと思ってね。あとで本当に私は変な気持ちになりました。」(浅岡重蔵さんの証言)
しかし、浅岡さんはいやな気持ちだけを引きずったのではなく、逆に日本人がこんなことをやられたらどんなき持ちだろうと、立場を変えて想像している。相手を思いやる率直な考えをもっていた。
『隠された爪跡』(記録映画・呉充功監督)の撮影中。旧四ツ木橋の土手で、九死に一生をえた朝鮮人狄両気気鵑亮蠅鬚砲・辰燭箸@◆屬弔蕕・辰燭任靴腓ΑΑΑΑ廚函∪・・気鵑狼磴い討靴泙Α・妊泙世辰燭斑里辰燭箸C・蕁△困辰版愽蕕辰討C拭屬い笋糞せ・繊廚髻・艝人としてのすまなさを ・葉勝κに、そして心ぁ・表してぁ・た。」
その心の中を深く感じる感性を研ぎすまさせたのは体験だった。「本当のところは言葉や文字では説明できない。自分で体験してみないとわからない。このことを、『説似一物即不中』という」ということを「相田みつを」の本で知った。しかし体験の中には二度としてはいけないものがある。それを、自分が体験したように「深く感じさせるものが証言」である。「証言は生命をもっている」、『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』は命を奪われた朝鮮人の、命を奪った日本人の、そして尊い命を救った人間の「命をかけた証言集」であった。
人の命のかかった証言を、朝鮮人の立場に立ちながら、日本人としてのすまなさを持ちながら、一人ひとりの思いを受けとめながら丁寧に聞きとったことをその感じたところを読み手に伝わるように努めて書かれたこの証言集は、私に多くのことを感じさせてくれた。
『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』を編集し出版された「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の方々に「有り難うございました。」
多くの仲間にこの本の紹介をしていきたいと思っています。
(会では『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』を価格2000円、送料160円で販売しています。お求めは西崎まで電話・ファックス・葉書でご連絡ください)
一般社団法人ほうせんか 業務報告 2010年
10月25日 社団法人定款作成完了。一般社団法人ほうせんか設立総会開催。
11月 4日 定款を東京法務局に提出(「一般社団法人ほうせんか」法的に設立)。
11月14日 「マグロ塚を築地に作る会」フィールドワークで八広追悼碑の説明・現地案内。参加者約30名。
11月29日 「社団法人大韓民国民族芸術家総連合・京畿支会」フィールドワーク・追悼行事で八広追悼碑の説明。参加者26名。
12月11日 理事会:追悼碑および土地の寄贈を受けることに決定。司法書士と相談を開始。
12月14日 向島税務署および墨田都税事務所に法人設立・設置届出書を提出。
2011年
2月 5日 会報136号645部発送。 臨時社員総会:不動産(追悼碑および土地)受贈の件の審議。協議の結果、無償でこれを譲り受け、今後当法人で管理運営していくことを満場一致で決議。
3月19日 「日韓の歴史を学ぶ会」フィールドワークで八広追悼碑の説明・現地案内。参加者24名。理事会:不動産受贈の件で経過報告(とくに税に関する確認)。
4月16日 会報137号611部発送。理事会:映画『払い下げられた朝鮮人』上映会(6月11日)に後援を決定。同日に追悼碑整備も行うことに決定。
5月20日 理事会:6月上映会・7月会報内容・9月追悼式等の詳細を検討。
6月 墨田区観光協会に加盟。
6月11日 追悼碑整備。曳舟文化センターにて映画上映&講演会開催。記録映画『払い下げられた朝鮮人』上映と平形千惠子氏(千葉県における関東大震災朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会)講演。参加者32名。
7月 1日 「東京人権啓発企業連絡会」の依頼により墨田区内の現場案内・説明(横網町公園東京都慰霊堂・復興記念館、法泉寺「感謝の碑」、八広追悼碑)、その後日本橋の東京人権啓発企業連絡会事務所にて西崎雅夫講演「関東大震災時の朝鮮人虐殺事件とは」。参加者約30名。
7月23日 会報138号645部発送。 理事会:9月追悼式の詳細決定。
8月 「朝鮮大学校歴史学部」学生によるワークショップで八広追悼碑の説明・現地案内。参加者5名。
8月20日 理事会:9月追悼式の最終確認。
9月 1日 「関東大震災88周年朝鮮人犠牲者追悼式(東京都横網町公園)」に参加。
9月 3日 「関東大震災88周年韓国・朝鮮人殉難者追悼式」は、台風のため献花のみで終了。その後墨田区立八広小学校にて「記録映画上映と追悼の集い」開催。参加者約80名。 社員総会:前年度活動報告・会計報告、今年度活動方針の承認。
9月 4日 「関東大震災88周年朝鮮人犠牲者追悼・慰霊祭(千葉県八千代市高津観音寺)」に参加。
10月1〜2日 「すみだ祭り(錦糸公園)」に参加。広報活動とむくげの苗・ほうせんかの種配布を行う。
10月22日 理事会:「追悼の集い」反省、次回会報内容検討。
11月 2日 「千葉県教育研究会人権教育部会松戸支部」の依頼によるフィールドワークで八広追悼碑・現地案内。参加者教員3名。
11月26日 会報139号645部発送。
12月19日 理事会:活動方針具体化、次回会報内容検討。
2012年
1月28日 理事会:次回会報内容最終案検討。
2月 4日 会報140号発送。
証言資料集第2弾が完成しました
『関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料(下町以外編)』
前回は東京の下町の証言をまとめましたが、今回は下町以外の場所で起きた事件の体験・目撃証言をまとめました。
0
追悼する会の初仕事は、「関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料」第2弾「下町以外編」の作成でした。
沢山の方に読んで頂こうと、500円に抑えるため、第1弾共々手作りです(多少の汚れなどはご容赦を)。この資料は、西崎の根気強い調査の結晶です(内容については8ページ)。
1月28日(土)午後1時、亀戸のひまわり診療所の会議室に6人のスタッフが集まりました(作業時はいつもお借りしています)。86頁×200冊分の印刷は、西崎が事前に一人で済ませていました。長テーブル6個の上に並べられたA4の紙43枚を、帳合いのプロの武藤が脱兎のごとく重ねていきます。毎度日光から駆けつけてくる落合、近頃腰やら肩が痛いと言い出すお年頃になった矢野、仕事以外は冬でも裸足サンダルで過ごす宮島、遅刻の常習犯の慎は負けてはならぬと必死に追いかけていきますが・・・。
帳合いした物の背の糊付け・テープ貼りと、手が4時間程止まることなく作業が続きます。その間、打ち合わせやら報告やら近況やら愚痴やら・・・話しも絶え間なく続きます。
きっと、この会報印刷発送もにぎやかに作業していることでしょう。
今後は、春の会報、ほうせんかの庭整備と種まき、夏の会報、追悼式、秋の会報を軸に、90周年に向けての準備を粛々と進めます。
私たち こんな様子で、楽しく作業しています。「入ーれーて」との声かけ、お待ちしています(−。−;
なんで一般庶民が殺意をもつのかな?
武藤弘佳
私が住んでいる処の隣り近所には、革なめしをしている工場がある。
大震災時に、革なめし工場に働いていた人の証言である。虐殺されそうになった話。
「朝鮮人だと知らされて、割烹着をきた、おばさんが、『この野郎!朝鮮人』と叫び、持っていた竹槍で、私の足を刺した。身動きとれないでいるところを、鳶口を持った男に背中を切りつけられた。そして、ステテコ男から肩口を切りつけられた。九死に一生を得て、今ここに証言している。」@
この記事は、六千人以上の朝鮮人が、殺され、助かった人たちの数多くの証言のごくごく一部である。
《 流言蜚語 》
井戸水に毒薬を投じ、一人の人間が飲んだ時に、どれだけの分量で、人を殺すのか。また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数のおおよその推算しただけでも、多大な分量になる。それに、地震前からかなり大きな毒薬のストックもっていなければならない。それから先が大変である。何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これは時間がかかり、そして、一人一人に授けられた缶を背負って出掛け、自分の受持の井戸を捜して、人の見ない機会をねらって、投入の分量を加減し、そして、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。こんな大変な事は毒薬での流言はいかがのものか。A
どうして、このようなことをするのかと考える前に、次のような事実がある。アジア・太平洋戦争の発端になった中国への侵略戦争をしかけた二ヶ月前、七月に、東大生にアンケートをとった。なんと、88%の戦争賛成論であり、半数以上の人が、ただちに、武力行使すべきと、答えている。B
《 1931年12月18日柳条湖爆破 》
さて、私は、このニュースの紙面には、ほとんど、執筆していなかった。ほうせんかの水やりを、二十年近くしていて、こちらの方面は、タッチしていなかった。先日の打合せの会で、書いて下さいと言われて、少し述べてきました。
今、我が国の爆撃機を新たに、一機99億以上のものを、たくさん買って、三百億以上の出費するという、憲法九条第二項にあきらかに、違反する、この事を、為政者に訴えても、耳をかさない状況である。こうした軍事優先の体制をさらに徹底させることによって、市民の自由や権利を圧迫するのである。
しかるに、もっと悪い状況は、1910年に日本が韓国と強制的に併合した故に、朝鮮人のことばと文化と、政治を、封じてしまった。武力による制裁である。つまり、武断政治をよしとして、朝鮮人を下げすむことをしてきたのである。よって、冒頭に述べた如く、普通の人が、朝鮮人をみたら、ぶっ殺ろすように、上からだまされてしまったのである。戦争肯定する、おろかな学生もしかり。しかし、今も、脈々と差別は続いている。朝鮮人・韓国人と聞いたら、差別しているのが、日常生活に見られる。仕事も、店も、名前も自由にできない。
日本のお兄さんである朝鮮の文化等々、を教えてもらってきた経緯があった。今や、日本の犯した、負の遺産を、背負って、いくべきである。朝鮮人・韓国人に対して、友好を深くしていきたい。
[注] @『セジョン会館・関東大震災記念集会』1982年
A1924年9月1日『東京日日新聞』寺田寅彦
B『丸山眞男の時代』竹内洋著、中公新書
■ 先日追悼碑を訪れた松戸の小中学校の先生方を代表して、Rさんからフィールドワークと『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』の感想文が届きました。会報への掲載も快諾してくださったので、ここに転載します。
関東大震災・朝鮮人殉難者追悼の碑を訪ねて
千教県教育研究会人権教育部会は、2011年11月2日の研修で「関東大震災・朝鮮人殉難者追悼」を訪ねました。案内を西崎雅夫氏にお願いして、追悼碑のある八広に向かいました。八広駅は、皮革工場見学や木下川小学校の訪問等で何度か利用したことがあります。
改札口で西崎氏に会い、早速「碑」に案内していただきました。碑は、荒川土手のすぐ下の民家に囲まれた所に建っていました。殉難者の死を悼む花を手向けることなく写真を撮ってしまった自分をいまになって恥ずかしく思っています。
碑の建っている場所は、追悼式の後の交流会を毎年やっていた「飲み屋さん」が建っていたところだと言うことでした。事情の分かっている主が店を閉める際に譲ってくれたと言うことでした。
追悼の碑には「悼」という文字が彫られてあり、碑の前には夏みかんが供えてありました。手を合わせて、黙祷しました。碑の裏には建立の説明がありました。また、横に建っていたステンレス板には「追悼碑 建立にあって」が詳しく述べられてありました。朝鮮語でも述べてありました。
発掘のきっかけになる話しを聞かれた絹田さんの写真を見せていただきました。絹田さんは小学校の教員でした。教材作りのために「荒川放水路の開削工事の聞き書き」をしているときに「関東大震災のとき、殺された朝鮮人が河川敷にうめられた」という話を聞いておどろかれたそうです。「骨はまだ埋まったままではないだろうか」という証言を得、何とかしなければと知人に相談したところからこの会の活動が始まったということでした。
土手に上りました。上ったところで四ツ木橋の写真を見せてもらう。工事中の新四ツ木橋の写真と旧四ツ木橋の写真。「この橋の上に朝鮮人を並べて銃殺した。そして、その死体を埋めた」と言う証言があったことを教えてもらいました。
荒川河川敷に下りました。このあたりが埋められた場所ですが、コンクリートで護岸されているので掘れないので少し離れたところを掘ることになりました。その掘った穴の中に梯子を降ろして下りていく様子を写した写真も見せてもらいました。
話しを聞いているうちに、荒川や河川敷の様子が変わっていくように感じてきました。
もっと詳しく知りたいと思った私たちは、資料
や本を求め西崎さんに感謝しながら帰りました。
「証言は生命をもっている」
『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・編)の感想
西崎さんの詳しい丁寧な説明を聞いた私は、もっとよく知りたいと思い買い求めた証言集『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』を読みました。『墨田フィールドワーク資料集』や『東京日々新聞・地方集刷版』も読みました。
『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』を読み終えました。西崎さんに会えたおかげで、この本に出会うことが出来ました。「証言は生命をもっている」ということを心底から感じることが出来ました。
朝鮮人としての側から話しを聴くことによって、いたみを深く感じとり「つらかったでしょう」と涙をながす心がめばえてくるのでしょう。
「もし日本人が朝鮮に行ってこんなことやられたら、殺された人はどんな気持ちだろうと思ってね。あとで本当に私は変な気持ちになりました。」(浅岡重蔵さんの証言)
しかし、浅岡さんはいやな気持ちだけを引きずったのではなく、逆に日本人がこんなことをやられたらどんなき持ちだろうと、立場を変えて想像している。相手を思いやる率直な考えをもっていた。
『隠された爪跡』(記録映画・呉充功監督)の撮影中。旧四ツ木橋の土手で、九死に一生をえた朝鮮人狄両気気鵑亮蠅鬚砲・辰燭箸@◆屬弔蕕・辰燭任靴腓ΑΑΑΑ廚函∪・・気鵑狼磴い討靴泙Α・妊泙世辰燭斑里辰燭箸C・蕁△困辰版愽蕕辰討C拭屬い笋糞せ・繊廚髻・艝人としてのすまなさを ・葉勝κに、そして心ぁ・表してぁ・た。」
その心の中を深く感じる感性を研ぎすまさせたのは体験だった。「本当のところは言葉や文字では説明できない。自分で体験してみないとわからない。このことを、『説似一物即不中』という」ということを「相田みつを」の本で知った。しかし体験の中には二度としてはいけないものがある。それを、自分が体験したように「深く感じさせるものが証言」である。「証言は生命をもっている」、『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』は命を奪われた朝鮮人の、命を奪った日本人の、そして尊い命を救った人間の「命をかけた証言集」であった。
人の命のかかった証言を、朝鮮人の立場に立ちながら、日本人としてのすまなさを持ちながら、一人ひとりの思いを受けとめながら丁寧に聞きとったことをその感じたところを読み手に伝わるように努めて書かれたこの証言集は、私に多くのことを感じさせてくれた。
『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』を編集し出版された「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の方々に「有り難うございました。」
多くの仲間にこの本の紹介をしていきたいと思っています。
(会では『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』を価格2000円、送料160円で販売しています。お求めは西崎まで電話・ファックス・葉書でご連絡ください)
一般社団法人ほうせんか 業務報告 2010年
10月25日 社団法人定款作成完了。一般社団法人ほうせんか設立総会開催。
11月 4日 定款を東京法務局に提出(「一般社団法人ほうせんか」法的に設立)。
11月14日 「マグロ塚を築地に作る会」フィールドワークで八広追悼碑の説明・現地案内。参加者約30名。
11月29日 「社団法人大韓民国民族芸術家総連合・京畿支会」フィールドワーク・追悼行事で八広追悼碑の説明。参加者26名。
12月11日 理事会:追悼碑および土地の寄贈を受けることに決定。司法書士と相談を開始。
12月14日 向島税務署および墨田都税事務所に法人設立・設置届出書を提出。
2011年
2月 5日 会報136号645部発送。 臨時社員総会:不動産(追悼碑および土地)受贈の件の審議。協議の結果、無償でこれを譲り受け、今後当法人で管理運営していくことを満場一致で決議。
3月19日 「日韓の歴史を学ぶ会」フィールドワークで八広追悼碑の説明・現地案内。参加者24名。理事会:不動産受贈の件で経過報告(とくに税に関する確認)。
4月16日 会報137号611部発送。理事会:映画『払い下げられた朝鮮人』上映会(6月11日)に後援を決定。同日に追悼碑整備も行うことに決定。
5月20日 理事会:6月上映会・7月会報内容・9月追悼式等の詳細を検討。
6月 墨田区観光協会に加盟。
6月11日 追悼碑整備。曳舟文化センターにて映画上映&講演会開催。記録映画『払い下げられた朝鮮人』上映と平形千惠子氏(千葉県における関東大震災朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会)講演。参加者32名。
7月 1日 「東京人権啓発企業連絡会」の依頼により墨田区内の現場案内・説明(横網町公園東京都慰霊堂・復興記念館、法泉寺「感謝の碑」、八広追悼碑)、その後日本橋の東京人権啓発企業連絡会事務所にて西崎雅夫講演「関東大震災時の朝鮮人虐殺事件とは」。参加者約30名。
7月23日 会報138号645部発送。 理事会:9月追悼式の詳細決定。
8月 「朝鮮大学校歴史学部」学生によるワークショップで八広追悼碑の説明・現地案内。参加者5名。
8月20日 理事会:9月追悼式の最終確認。
9月 1日 「関東大震災88周年朝鮮人犠牲者追悼式(東京都横網町公園)」に参加。
9月 3日 「関東大震災88周年韓国・朝鮮人殉難者追悼式」は、台風のため献花のみで終了。その後墨田区立八広小学校にて「記録映画上映と追悼の集い」開催。参加者約80名。 社員総会:前年度活動報告・会計報告、今年度活動方針の承認。
9月 4日 「関東大震災88周年朝鮮人犠牲者追悼・慰霊祭(千葉県八千代市高津観音寺)」に参加。
10月1〜2日 「すみだ祭り(錦糸公園)」に参加。広報活動とむくげの苗・ほうせんかの種配布を行う。
10月22日 理事会:「追悼の集い」反省、次回会報内容検討。
11月 2日 「千葉県教育研究会人権教育部会松戸支部」の依頼によるフィールドワークで八広追悼碑・現地案内。参加者教員3名。
11月26日 会報139号645部発送。
12月19日 理事会:活動方針具体化、次回会報内容検討。
2012年
1月28日 理事会:次回会報内容最終案検討。
2月 4日 会報140号発送。
証言資料集第2弾が完成しました
『関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料(下町以外編)』
前回は東京の下町の証言をまとめましたが、今回は下町以外の場所で起きた事件の体験・目撃証言をまとめました。
0
2012/1/30
新 資料が出来ました 関東大震災朝鮮人虐殺について
関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料
―――下町以外編―――
昨年 7月発行の「東京下町」資料の第2弾が完成しました。
文京区・千代田区・新宿区・渋谷区・港区・目黒区・品川区・大田区・
板橋区・豊島区・中野区・杉並区・世田谷区・他東京都下 対象
前回は東京の下町の証言をまとめましたが、今回は下町以外の場所で起きた事件の体験・目撃証言をまとめました。
下町には朝鮮人労働者が多く住んでいたため虐殺事件が多発し、また関連証言も多く残っています。下町以外でも虐殺事件は起きたのですが、散発的だったこともあり、証言も少なくなかなか実態がわかりません。そこで流言蜚語・自警団・社会主義者などに関する証言も含めて、広く採録しました。金子光晴・倉田百三・黒沢明・池辺良などの著名人の体験もあります。それらを読むと、当時の社会状況がよくわかると思います。
全78ページ、頒価500円(送料は別途80円)。
ご希望の方は下記西崎まで電話・ファックスでお申込みください。なお資料集第1弾『関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京下町フィールドワーク資料』の申し込みも引き続き行っています
131-0041 墨田区八広6-31-8
電話・FAX 03−3614−8372
e-mail: nishizaki.masao@plum.plala.or.jp

以下は「おわりに」を紹介します。
文字が読みづらいかもしれませんが、ご容赦を

ご注文をお待ちしています
1
―――下町以外編―――
昨年 7月発行の「東京下町」資料の第2弾が完成しました。
文京区・千代田区・新宿区・渋谷区・港区・目黒区・品川区・大田区・
板橋区・豊島区・中野区・杉並区・世田谷区・他東京都下 対象
前回は東京の下町の証言をまとめましたが、今回は下町以外の場所で起きた事件の体験・目撃証言をまとめました。
下町には朝鮮人労働者が多く住んでいたため虐殺事件が多発し、また関連証言も多く残っています。下町以外でも虐殺事件は起きたのですが、散発的だったこともあり、証言も少なくなかなか実態がわかりません。そこで流言蜚語・自警団・社会主義者などに関する証言も含めて、広く採録しました。金子光晴・倉田百三・黒沢明・池辺良などの著名人の体験もあります。それらを読むと、当時の社会状況がよくわかると思います。
全78ページ、頒価500円(送料は別途80円)。
ご希望の方は下記西崎まで電話・ファックスでお申込みください。なお資料集第1弾『関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京下町フィールドワーク資料』の申し込みも引き続き行っています
131-0041 墨田区八広6-31-8
電話・FAX 03−3614−8372
e-mail: nishizaki.masao@plum.plala.or.jp

以下は「おわりに」を紹介します。
文字が読みづらいかもしれませんが、ご容赦を

ご注文をお待ちしています
1
2011/12/12
会報 2011.11より 関東大震災韓国・朝鮮人追悼
関東大震災88周年は台風でした
今年の9月は久しぶりに台風に見舞われてしまいました。でも式の前日や当日は強風だけで雨は止んでいたので、河川敷で実施するかどうか最後まで悩みましたが、安全のため無理せず八広小学校で集いを行いました。すると午後2時頃から大雨になり、河川敷は大池状態。集いの前に追悼碑に献花していただいた皆さんも足元が悪く大変な思いをさせてしまいました。でも河川敷に行くことはできなくても、追悼碑があることで私たちは集うことができるのだと改めて実感しました。
次々と献花してくださる皆さんの手によって三つ用意した花瓶はいっぱいになりました。
今年は女優の黒田福美さんが来てくれました。黒田さんは追悼碑を見て「やっとここに来れました」と感激していました。そして献花をした後、しばらくずっと追悼碑の前にたたずんでいました。読経していらっしゃる様子がわかりました。お人柄が垣間見えたような気がしました。
事前準備で草刈りを手伝おうと早めに来てくださったYさん・Pさん・Kさん、当日急に会場が変更になったので八広駅でずっと案内をしてくれたOさん、その案内板を書いてきてくれたMさん。今年も皆さんのさりげない支えで何とか無事に終えることができました。本当にありがとうございました。
来年は好天に恵まれることを切に願った1日でした。
八広小学校で追悼交流会をしました。
こちらの報告は当ブログで紹介済みですので、割愛します。
韓国・朝鮮人殉難者追悼式
主催者挨拶
今年も残暑の中、荒川河川敷の追悼式にお集まりいただき、ありがとうございます。この追悼式も、30回目となりました。
この場所の荒川は、隅田川の洪水対策に北区岩淵から人の手で掘られた放水路です。この開削の歴史を教材にするため、流域を歩いて調査していた小学校教員の絹田幸恵は、かつて四ツ木橋という木の橋が架かっていたあたりで、お年寄り方から「関東大震災の時、おおぜいの朝鮮人が殺害されたんだ」との話を聞きました。
「朝鮮人が暴動を起こす」等の流言飛語は、地震のあった9月1日の夜から流れ、四ツ木橋周辺でも、民衆が朝鮮人を捕まえ殺害することがおきました。出動してきた軍隊は、朝鮮人を土手に並べて機関銃で撃ちました。震災後の11月には、二度にわたって警察や憲兵が警戒線を張って遺体をどこかに運び去りました。その後、朝鮮人犠牲者の行方はわからないままです。
絹田の呼びかけで、調査と追悼が始まり、近隣のご住職・牧師さんには、昨年まで追悼式の賛同人として長くご協力いただきました。追悼碑を公有地に建てることができず、私有地を取得して、多くの方々のご協力で土手の外ではありますが、「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑」を建立できたのは2009年のことでした。
この市民立の追悼碑を管理し、犠牲者を追悼し歴史を伝える努力を続けていくために「一般社団法人 ほうせんか」を昨年暮れに発足させました。春には追悼碑の土地を、法人に登記したところです。
ご列席の方々には、「学びたい人の学習を支援する」ための高校学費無償化から、朝鮮学校の生徒が外されたままなのを憂慮される方も多いでしょう。拉致問題が進展しないことを理由に、国が子供たちを、「この子たちは外して当然だ」と日本社会に突き出したこと、それが放置されて一年半になっていることが何より問題だと感じています。
何かあれば「朝鮮人」として、突き出される恐ろしさ。88年たっても関東大震災の時の悪夢を、我がことに引きつけて感じる子供たちがいることに、大人は想像力を持たなくてはなりません。
私たちは、追悼碑の解説板を「この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された」、と結びました。この追悼碑・解説板に恥じない努力を続けることをお誓いし、追悼式の主催者挨拶といたします。
2011年9月3日
一般社団法人 ほうせんか
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の
遺骨を発掘し追悼する会
新刊本の紹介 「関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―
虐殺の国家責任と民衆責任」(山田昭次著 創史社 2011年) 落合 博男
この本は2003年3月に同社から発行された「関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任」の増補・改訂版として書かれました。しかし、新しく発見された史料も使われ、全体の構成も異なっています。前著と合わせて読むべきかと思います。
私たち、後進の若者(?)は「はじめに―」で述べられている山田先生の姿勢をまず受け継ぐべきでしょう。それは「関東大震災時に虐殺された朝鮮人やその遺族たちの悲しみと苦渋」を知ろうとすることから始めるという姿勢です。一例を挙げれば、1923年12月5日「独立新聞」に発表された朝鮮人虐殺事件調査報告書中に、朝鮮語の原文では、3240人については「屍体さえも探せなかった」と書かれていることの意味です。つまり、警察が屍体を隠してしまって、確認できないようにしたのであって「朝鮮人調査員の苦渋と無念さがにじみ出ている」とするのです。「歴史の中に生きた人間の苦渋や悲しみを読み取ること」が出来なければ、歴史の真実は見えて来ないのです。
また、この本では、戦後の『在日朝鮮人および日本人の朝鮮人虐殺の国家責任の認知を求める運動に目を向けた』ことが眼目です。
「朝鮮人虐殺の国家責任の認知を求める声は在日朝鮮人によって挙げられた」のでした(1990年頃)。そして、やっと日本人が主体となって「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」が発足したのは、2010年だったのです。
山田先生は「私たち日本人は、国家責任を実際に問う段階にようやくたどり着いた」という文で、この本を締めくくっています。重い宿題を与えていただいたものですが、とにかく山田先生にはご苦労様でした。
他団体紹介 関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会 矢野恭子
昨年9月、「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」が発足しました。朝鮮人虐殺事件を調査・研究してきた人、関東各地で慰霊祭・追悼式を行なってきた市民・団体が集まり、次の目標に一致して活動を始めています。
1. 政府は朝鮮人虐殺の責任を認め謝罪し、必要な措置をおこなうこと
2. 政府の責任で、犠牲者や遺族の調査を行うこと
3. 上記の調査結果およびこれに関わる資料の保存・公開を行うこと
「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」の共同代表は、下記の方々です。
石田貞(埼玉県朝鮮人強制連行真相調査団日本人側代表)/石橋正夫(日朝協会会長)/猪上輝雄(「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会事務局長)/姜徳相(滋賀県立大学名誉教授)/山田昭次(立教大学名誉教授)/吉川清(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会)
国家責任というのは、たとえば旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で朝鮮人を殺害し、後に憲兵・警察が警戒線を張って、少なくとも2回遺骨を掘ってどこかに持ち去りました。陸軍習志野収容所からは、近くの村々に殺害するよう朝鮮人を「払い下げ」ました。永井柳太郎は震災後の国会で、内務省が海軍無線を通じて「朝鮮人警戒」を全国に促すなど流言蜚語を拡大した政府の責任を問いましたが、当時の山本権兵衛総理大臣は、「目下取調中」と答えたまま88年がたっています。
流言蜚語を信じたにせよ多くの民衆が朝鮮人迫害・殺害に関わり、後から自警団事件だけが裁判にかけられていく中で、戦後になってもこの事件は公に語られずにきました。親から聞いた世代も、すでに高齢となっています。タブーを破って旧四ツ木橋で起きたことを伝えてくれた方々の志を引き継ぎたいと、微力ながら参加しています。
連絡先 〒169-0072東京都新宿区大久保1−12−1第2韓国広場ビル8階
文化センターアリラン気付 関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会
電話080-4333-1923 E mai:kanto_earthquake@yahoo.co.jp
郵便振替口座00190−0−763570「国家責任を問う会」
会費 個人年間3000円、団体年間5000円
「関東大震災時朝鮮人虐殺事件
東京下町フィールドワーク資料」
(頒価500円) 好評発売中です。
この資料集を200部作ったのですが、完売したのでさらに200部作成しました。とりわけ「民団新聞」で紹介していただいてからは、全国から注文が来ました。東京ももちろん多いのですが、北海道・秋田・京都・沖縄など実にさまざまな地域の人が関心を寄せてくれました。中でも特に多かったのは、大阪の在日のお年寄りでした。やはり決して忘れることのできない事実として、心に刻み込まれているのでしょう。受け取ったファックスのひとつを紹介します。「民団新聞の記事を読んで知りました。大変でご苦労なさったと思いますが、歴史の真実を後世に伝えたい熱意に感謝致します。資料集1冊をお願いします」
現在、次の資料集を作成中です。内容は「東京の下町以外の地域の証言集」です。東京の下町では朝鮮人虐殺事件が多発しましたが、それ以外の都内各地でもやはり事件は起きています。でもそれは散発的であるがゆえに、その地域で追悼事業として取り組まれることもなく、ほとんど問題にされてこなかったといえます。そうした事件のひとつひとつを(言いかえれば犠牲者のひとりひとりを)少しでも明らかにしたいのです。90年近く前の出来事なので、それが難しいことはわかっているのですが。この資料集第2弾については、次号の会報でお知らせできると思います。ここではそこにふくまれる証言をひとつだけ紹介します。
●港区・樋口宅三郎: 「暗くなりかかった霞町の角を、私が二ノ橋のほうに渡ろうとした途端、いきなり2〜3メートル先の路地からふたつの黒い影が飛び出してきた。夜目にも、それとわかる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目前で、彼等の背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは、なにひとつなかったような表情で私の立ち止まっている前を通り過ぎて行きました」
(『潮』1971年6月号より)
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今年の9月は久しぶりに台風に見舞われてしまいました。でも式の前日や当日は強風だけで雨は止んでいたので、河川敷で実施するかどうか最後まで悩みましたが、安全のため無理せず八広小学校で集いを行いました。すると午後2時頃から大雨になり、河川敷は大池状態。集いの前に追悼碑に献花していただいた皆さんも足元が悪く大変な思いをさせてしまいました。でも河川敷に行くことはできなくても、追悼碑があることで私たちは集うことができるのだと改めて実感しました。
次々と献花してくださる皆さんの手によって三つ用意した花瓶はいっぱいになりました。
今年は女優の黒田福美さんが来てくれました。黒田さんは追悼碑を見て「やっとここに来れました」と感激していました。そして献花をした後、しばらくずっと追悼碑の前にたたずんでいました。読経していらっしゃる様子がわかりました。お人柄が垣間見えたような気がしました。
事前準備で草刈りを手伝おうと早めに来てくださったYさん・Pさん・Kさん、当日急に会場が変更になったので八広駅でずっと案内をしてくれたOさん、その案内板を書いてきてくれたMさん。今年も皆さんのさりげない支えで何とか無事に終えることができました。本当にありがとうございました。
来年は好天に恵まれることを切に願った1日でした。
八広小学校で追悼交流会をしました。
こちらの報告は当ブログで紹介済みですので、割愛します。
韓国・朝鮮人殉難者追悼式
主催者挨拶
今年も残暑の中、荒川河川敷の追悼式にお集まりいただき、ありがとうございます。この追悼式も、30回目となりました。
この場所の荒川は、隅田川の洪水対策に北区岩淵から人の手で掘られた放水路です。この開削の歴史を教材にするため、流域を歩いて調査していた小学校教員の絹田幸恵は、かつて四ツ木橋という木の橋が架かっていたあたりで、お年寄り方から「関東大震災の時、おおぜいの朝鮮人が殺害されたんだ」との話を聞きました。
「朝鮮人が暴動を起こす」等の流言飛語は、地震のあった9月1日の夜から流れ、四ツ木橋周辺でも、民衆が朝鮮人を捕まえ殺害することがおきました。出動してきた軍隊は、朝鮮人を土手に並べて機関銃で撃ちました。震災後の11月には、二度にわたって警察や憲兵が警戒線を張って遺体をどこかに運び去りました。その後、朝鮮人犠牲者の行方はわからないままです。
絹田の呼びかけで、調査と追悼が始まり、近隣のご住職・牧師さんには、昨年まで追悼式の賛同人として長くご協力いただきました。追悼碑を公有地に建てることができず、私有地を取得して、多くの方々のご協力で土手の外ではありますが、「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑」を建立できたのは2009年のことでした。
この市民立の追悼碑を管理し、犠牲者を追悼し歴史を伝える努力を続けていくために「一般社団法人 ほうせんか」を昨年暮れに発足させました。春には追悼碑の土地を、法人に登記したところです。
ご列席の方々には、「学びたい人の学習を支援する」ための高校学費無償化から、朝鮮学校の生徒が外されたままなのを憂慮される方も多いでしょう。拉致問題が進展しないことを理由に、国が子供たちを、「この子たちは外して当然だ」と日本社会に突き出したこと、それが放置されて一年半になっていることが何より問題だと感じています。
何かあれば「朝鮮人」として、突き出される恐ろしさ。88年たっても関東大震災の時の悪夢を、我がことに引きつけて感じる子供たちがいることに、大人は想像力を持たなくてはなりません。
私たちは、追悼碑の解説板を「この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された」、と結びました。この追悼碑・解説板に恥じない努力を続けることをお誓いし、追悼式の主催者挨拶といたします。
2011年9月3日
一般社団法人 ほうせんか
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の
遺骨を発掘し追悼する会
新刊本の紹介 「関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―
虐殺の国家責任と民衆責任」(山田昭次著 創史社 2011年) 落合 博男
この本は2003年3月に同社から発行された「関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任」の増補・改訂版として書かれました。しかし、新しく発見された史料も使われ、全体の構成も異なっています。前著と合わせて読むべきかと思います。
私たち、後進の若者(?)は「はじめに―」で述べられている山田先生の姿勢をまず受け継ぐべきでしょう。それは「関東大震災時に虐殺された朝鮮人やその遺族たちの悲しみと苦渋」を知ろうとすることから始めるという姿勢です。一例を挙げれば、1923年12月5日「独立新聞」に発表された朝鮮人虐殺事件調査報告書中に、朝鮮語の原文では、3240人については「屍体さえも探せなかった」と書かれていることの意味です。つまり、警察が屍体を隠してしまって、確認できないようにしたのであって「朝鮮人調査員の苦渋と無念さがにじみ出ている」とするのです。「歴史の中に生きた人間の苦渋や悲しみを読み取ること」が出来なければ、歴史の真実は見えて来ないのです。
また、この本では、戦後の『在日朝鮮人および日本人の朝鮮人虐殺の国家責任の認知を求める運動に目を向けた』ことが眼目です。
「朝鮮人虐殺の国家責任の認知を求める声は在日朝鮮人によって挙げられた」のでした(1990年頃)。そして、やっと日本人が主体となって「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」が発足したのは、2010年だったのです。
山田先生は「私たち日本人は、国家責任を実際に問う段階にようやくたどり着いた」という文で、この本を締めくくっています。重い宿題を与えていただいたものですが、とにかく山田先生にはご苦労様でした。
他団体紹介 関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会 矢野恭子
昨年9月、「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」が発足しました。朝鮮人虐殺事件を調査・研究してきた人、関東各地で慰霊祭・追悼式を行なってきた市民・団体が集まり、次の目標に一致して活動を始めています。
1. 政府は朝鮮人虐殺の責任を認め謝罪し、必要な措置をおこなうこと
2. 政府の責任で、犠牲者や遺族の調査を行うこと
3. 上記の調査結果およびこれに関わる資料の保存・公開を行うこと
「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」の共同代表は、下記の方々です。
石田貞(埼玉県朝鮮人強制連行真相調査団日本人側代表)/石橋正夫(日朝協会会長)/猪上輝雄(「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会事務局長)/姜徳相(滋賀県立大学名誉教授)/山田昭次(立教大学名誉教授)/吉川清(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会)
国家責任というのは、たとえば旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で朝鮮人を殺害し、後に憲兵・警察が警戒線を張って、少なくとも2回遺骨を掘ってどこかに持ち去りました。陸軍習志野収容所からは、近くの村々に殺害するよう朝鮮人を「払い下げ」ました。永井柳太郎は震災後の国会で、内務省が海軍無線を通じて「朝鮮人警戒」を全国に促すなど流言蜚語を拡大した政府の責任を問いましたが、当時の山本権兵衛総理大臣は、「目下取調中」と答えたまま88年がたっています。
流言蜚語を信じたにせよ多くの民衆が朝鮮人迫害・殺害に関わり、後から自警団事件だけが裁判にかけられていく中で、戦後になってもこの事件は公に語られずにきました。親から聞いた世代も、すでに高齢となっています。タブーを破って旧四ツ木橋で起きたことを伝えてくれた方々の志を引き継ぎたいと、微力ながら参加しています。
連絡先 〒169-0072東京都新宿区大久保1−12−1第2韓国広場ビル8階
文化センターアリラン気付 関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会
電話080-4333-1923 E mai:kanto_earthquake@yahoo.co.jp
郵便振替口座00190−0−763570「国家責任を問う会」
会費 個人年間3000円、団体年間5000円
「関東大震災時朝鮮人虐殺事件
東京下町フィールドワーク資料」
(頒価500円) 好評発売中です。
この資料集を200部作ったのですが、完売したのでさらに200部作成しました。とりわけ「民団新聞」で紹介していただいてからは、全国から注文が来ました。東京ももちろん多いのですが、北海道・秋田・京都・沖縄など実にさまざまな地域の人が関心を寄せてくれました。中でも特に多かったのは、大阪の在日のお年寄りでした。やはり決して忘れることのできない事実として、心に刻み込まれているのでしょう。受け取ったファックスのひとつを紹介します。「民団新聞の記事を読んで知りました。大変でご苦労なさったと思いますが、歴史の真実を後世に伝えたい熱意に感謝致します。資料集1冊をお願いします」
現在、次の資料集を作成中です。内容は「東京の下町以外の地域の証言集」です。東京の下町では朝鮮人虐殺事件が多発しましたが、それ以外の都内各地でもやはり事件は起きています。でもそれは散発的であるがゆえに、その地域で追悼事業として取り組まれることもなく、ほとんど問題にされてこなかったといえます。そうした事件のひとつひとつを(言いかえれば犠牲者のひとりひとりを)少しでも明らかにしたいのです。90年近く前の出来事なので、それが難しいことはわかっているのですが。この資料集第2弾については、次号の会報でお知らせできると思います。ここではそこにふくまれる証言をひとつだけ紹介します。
●港区・樋口宅三郎: 「暗くなりかかった霞町の角を、私が二ノ橋のほうに渡ろうとした途端、いきなり2〜3メートル先の路地からふたつの黒い影が飛び出してきた。夜目にも、それとわかる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目前で、彼等の背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは、なにひとつなかったような表情で私の立ち止まっている前を通り過ぎて行きました」
(『潮』1971年6月号より)
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