毎年のことながら8月がめぐってくると、普段は忘れがちな悲惨な戦争を思い出さざるをえません。空襲、疎開、敗戦、食糧難など自分の体験でもあるのですが。
過日、三鷹市にて故丸木位里・俊夫妻原爆画特別展が開催されました。埼玉県松山市にある丸木美術館が入館者減少のため施設の維持補修に困り、資金を募集する特別展でした。平和が続き、経済が発展したからでしょうか?語りつぐことの欠如でしょうか?
うみのしほ著「「折り鶴は世界にはばたいた」、読ませていただきました。孫娘にと思い、買い求めましたが、映画「無限の瞳」の目次を目にして全編読んでしまいました。と申しますのも、私たちは「無限の瞳」の音楽(現在のBGM)を担当させていただきました。東京の私立高校音楽連盟に所属する早稲田、麻布、十文字各高校から40名余りが参加(当時は学校が左翼運動を避ける風潮があり、映画製作の本来の純な目的や意義がほとんどの高校で賛同を得にくい事情がありました)しました。戦後間もない頃で、大きな練習場もないため、各学校の放課後の音楽室を持ち回りで移動しながらの練習でした。
昭和30年4月29日(1955年)、青山のKRC(国際ラジオセンター)にて和田先生指揮により収録。つたない演奏ではありましたが、みな「病床に臥す一学生のために・・・」の目的にむかって心を一つにした達成感を持って家路をたどったのを覚えています。
5月3日主人公、千葉亮君昇天の一報がかけめぐりました、晴天のへきれきとはこのことのように。成城の工藤君ほかスタッフの努力や撮影所の音楽担当のご指導もあり、音楽上での変更はなく高校生自主映画「無限の瞳」は5月の末にクランクアップしたのでした。
映画の完成を一番期待していた千葉君を「原爆」に奪われたが、他の原爆症の人々を同じような運命に落としたくない。音楽担当として制作に参加した者もみなそう想う瞬間でした。
はるか昔、私達の青春の一頁でもあったささやかな奉仕が「無限の瞳」を通して一羽の折り鶴に、そして世界平和の呼びかけにつながっている不思議さや因縁を「折り鶴は世界にはばたいた」で知りました。