新学期が始まり、ここを覗く人もあまりいないかとも思うのですが、前期の講義を通じて、いくつか気のついたことを書いておきます。
どうも、僕は教員養成系の価値観とは、うまくやっていけないのかな、と感じながら講義を続けていました。僕の言うこと、やること、気に入らなかった人はいるでしょうし、僕もあまり上手な授業はできなかったと思います。その点は謝ります。
相性というのはあって、僕も学生時代、どうしてもうまくやっていけないタイプの先生というのが、何人かいました。不幸にしてそれが必修科目の担当者である場合、逃げようがない、というのがあって、まあお互いの妥協か、目をつぶるか、よくわかりませんが、大人の対応ですませる場合もあり、単位を落として翌年受けるのもあり、いろいろな場合があったように思います。
でも、今思うに、「この先生はダメだ」「この学生たちはダメだ」と決めつけてしまう前に、何が気に入らないのか、何が話が通じない原因なのか、一応検討して、それから判断しても遅くないような気がするのです。
僕の方が諸君より年長ですから、経験からわかることがあれば、それを伝える責任はあるような気がします。
僕の勝手な印象なのですが、諸君のうち半分くらいの人は、大学での学び方が、身についていないのではないかと思うのです。もちろん、「大学」という定義そのものが、僕と諸君で違うかもしれないのですが、それを含めて、あえて「大学での学び」と言っておきましょう。
「大学での学び」は、教員の講義する内容、話す内容を、一字一句漏らさず書き留めたり、板書をすべてその通りに書き写したり、プリントの字句を暗記したり、そういう、いわば「受け身の学習」ではないと思うのです。大学での学びというのは、受講者が自分で調べたり、本を読んだり、主体的に学ぶ、その手助けとして、教員が講義によって見通しをよくしてあげること、あるいは有効な参考書を紹介したり、学びたいと思うきっかけ・知的好奇心を刺激する事柄、を提供すること、そういう教員と受講者の相互作用の中で成立するような気がするのです。
ですから、プリントや資料、講義で使うVTRというのは、それを暗記するために提供しているのではなく、諸君が自分なりに再構成して、理解を深めるために、必要だろうと思う材料をこちらが選んで提供しているものなのです。自分でそれらの素材を再構成し、理解しようとする努力なしには、ほとんど講義の内容が身につきませんし、面白くもならないでしょう。逆に、講義で扱った内容に興味を持ち、自分でちょっとでも調べてみようとすると、講義で扱ったときに省略したことや、話を聞いただけではわからなかったことの奥深さ、面白さが見えてくるのではないかと思います。
講義というのは、自分が講義者の立場になってみればわかりますが、50分の授業を組み立てるために、無数の準備と蓄積が必要になります。逆に言えば、ある講義で話した内容には、実はもっともっと奥行きがあって、泣く泣く割愛して、表面的なことだけを話さざるを得ない、ということがよくあります。その深みに気づくか、気づかないかで、大学の講義が面白くなるか、つまらない、通りいっぺんのものになるか、その違いが生じてくるように思います。
レポートを書いてきてくれた諸君の中には、たぶん理科が好きなのでしょうけれど、面白くて刺激的なテーマを選び、知的な挑戦を仕掛けてきた学生さんがいました。とことんつきあってあげたかったのですが、時間が本当になくて、ほとんどレスポンスを返せず、申し訳なかったと思っています。個別にコメントを返すのは、今後もたぶん無理だと思いますが、この場を借りて、面白かったと伝えたいです。また、自信を持って今後の学びを深めて欲しいと思います。君たちは、充分に優秀です。頑張れば、どこの学生にも負けることはないでしょう。
諸君は、誰かから教わる知識ではなく、自分で何かを作り上げる、知識を生み出す経験というのを、うまくいけば卒業研究の頃には実感として持つことができるだろうと思います。そのときまでに、大学での学びのスタイル=言い換えれば主体的な学びの自分なりのやり方=を確立しておくことをお勧めします。それはすぐには身につかないかもしれませんが、レポートを書いたり、興味を持ったことを調べたり、参考書を読む中で、だんだん身についてくるはずです。
最後に、諸君の一部と僕の価値観が相容れなかった理由として、僕の学びの経歴に問題というか、相違点があるのではないかと思い始めましたので、それを書いておきます。僕は、小学校に上がる前から、図鑑とお友達の人生で、読書量も多く、特に好きで得意だった理科の分野については、学校で何かを習って身についたという記憶があまりありません。興味を持った分野は、自分で本を読み、実験し、観察し、教科書や資料はむしろその後追いで、知識の再確認のためにあったようなものでした。ですから、たぶん小学校以降、大学に至るまで、教師に何かを期待したことはなく、自分で知りたいことは調べるという姿勢を変えませんでした。ある種の教師には、僕はいやな生徒だっただろうと思います。まあ、多くの場合、理科オタクの変な生徒ということで放置されることが多く、それは幸運なことだったと思っています。ただ、教師が必要ないと思ったわけではなく、ポイントポイントで有効なアドバイスをいただいたり、僕の知らないところで、僕のレポートを追試するためにフィールドワークをしてくださったり、そういう恩義があって、いまでも尊敬している先生が何人もいます。
というわけで、僕にとって理想の教師というのは、手取り足取り、豊富な資料を提供し、一字一句間違いのない、誰でもついてこい、オレが教えてやる、というような教師ではないのです。生徒の好きにやらせてくれて、それを自分の価値観でほめたりけなしたりするのではなく、生徒の試みを自分でも確かめながら、本当かな、そうなるのかな、と、一緒に学んでいく教師というのが、僕にとっての理想なのです。過保護な教師は、好奇心の芽を摘むと思っていて、環境は整えてくれるが、放任、放置してくれるのが、本当にありがたい教師だと思っていました。
どうもそのへんの理想の教師像のずれが、みなさんの半分くらい?のひとたちと、話が合わなかった理由ではないか、と考えています。まあ、そういう意味では、僕は一般的な理想の教師像からはかなり外れる存在になっているのは確かだと思います。講義担当の人選の間違いかもしれません。でもね、諸君で授業中や、授業の終わりに質問した人がどれだけいますか?質問をしないのは、授業に参加していない、出席していないのと同じことだと、僕は大学のゼミで学んだのです。もちろん、150人が一斉に質問したら、授業は終わらなくなるのですけれど。
(出席カードに書いてくれれば、みんなに見えるように回答できるので、ありがたかったのですが、あの書き写しと回答は、少々疲れました。)
というわけで、諸君がますます学びを深め、これから面白い学問や、面白い分野、面白い人にたくさん出会うことを祈っています。半年間、ありがとうございました。

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