2012/6/29 | 投稿者: でん

係もなく、又道徳の修養とかいふ爲めでもなく、ホンノ道樂が昂じていろんなものを集めた結果から纏めることが出來た學問である。其の他種々な學問もあり、いろんな學者も大阪に出來て居るが、大體の筋道は先づ以上の通りであつて、題して大阪の町人と學問とはいふが、大阪文化史の一部とも見ることが出來よう。
 明治以後は全くこれとは別であつて、徳川時代に於ける大名を對手とするといふ樣な商賣の仕方が亡び、新しい時代の大阪となつたが、是を時代的に觀ると、現時の大阪は丁度桃山時代から寛文延寶頃の大阪に相當するものでマイIP 評判あつて、時代の文化といふ方面からいふと、全く今の大阪は暗黒な時代である。檀那衆即ち今の言葉でいふ資本家から大した學問のある人も出來ず、さりとて使用人の方からも大した學者も出て居ない。強ひて明治時代の大阪の學問を代表するものを需めるならば、それは大阪醫科大學位であつて、徳川時代の初期の大阪の學問は醫者が兼業して居たといふが、大阪醫科大學が現時大阪の學問の中心であるといふならば、丁度それに相似て居るのも面白い對照である。
 徳川時代の大阪の檀那衆の典型ともいふべき人で、私の知つて居るのは故平瀬龜之輔氏であつた、聞くところによると、平瀬氏は何を聞いても知らぬと言はれたことはないが、其の自分の商賣の事だけは何一つ知らなかつたといふことである、ところが平瀬家は商賣の方で振はないことがあつたが、其時は商賣に關係なしに唯道樂で集めた骨董品で商賣の損害を償はれたといふ話がある。此の徳川末期の町人の門閥家の代表的人物である平瀬氏は幸にして知つて居たが、今後明治大正以後の新しい大阪で學問ある町人の典型を私共が生きて居る間に見ることが出來るであらうか、どうか早くそれ
0

2012/6/29 | 投稿者: でん

其の後は左樣には參らず、國學も此の地に發祥したが他に移り、淨瑠璃の如き通俗文學も其の價値は減ずる樣になり、人形芝居の如きも人形ばかりが發達して淨瑠璃の文句の方は拙惡になり、漢學の方でも懷徳堂は永く續く間には學問の系統も門閥的になり、懷徳堂其のものにもいろ/\門閥が出來た。丁度此の頃は徂徠學が盛になつて來たから、懷徳堂としては朱子學を固執せなければならなくなつたのではあらうけれども、懷徳堂創設當初の意氣がなくなり、昔と違つて漢學の修業は唯道徳の修養の爲めだとは濟して居られず、詩文などでもやることになつた。中井竹山の如きは甚だ稀な偉い人ではあつたが、背景として幕府を利用するといふことを考へ、此の懷徳堂は政府から許された官學であるといふ樣なことを言ひたがり、教授といふ樣な肩書を書きたがつたりした。これは町人がだん/\門閥的となり、最初の意氣が無くなつた結果であらう。
 此の後に山片蟠桃、鴻池の伊助(草間直方といふ)、蘭學で名高い橋本宗吉等町人の學者がでた。蟠桃は其の音の示す如く番頭で、伊助の如きも大阪町人の檀那衆ではなく番頭であつて、丁稚から上つた學者である。
 當時の檀那衆は既に門閥となり、恐らく商賣の事も判からず、勿論學問もせず、使用人に何事も任かせ限りであつたものだから、文化の中心も使用人に集まり、經濟の仕方も皆丁稚や番頭の手に移り、學問も使用人の學問となつて終つたものである。これが享保以後の特別目立つた大阪の學問の系統である。
 かくの如く町人が門閥になつてからの檀那衆の學問を代表するものは木村蒹葭堂である。蒹葭堂は酒屋の檀那であつたが、此の人の學問は商賣には何の關
0




AutoPage最新お知らせ