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当ブログについて:
このブログを開設して早12年になろうとしています。ネットの旧知だけでなく、未知の人のアクセスも少しずつ増えているようです。そこで当ブログと便利な使い方について、簡単なご案内を。

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以上

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2018/7/17  23:49

言ったもん勝ち  政治

【平成30年7月豪雨】政府の「空白の66時間」を視覚化
https://note.mu/jun21101016/n/na37e1fa2f191

66時間という数字がなぜ重要なのか。その前に、66時間とは何のことなのか。これは、気象庁が異例の記者会見を開き、「観測史上初めての大雨」を予報した7月5日から、安倍首相が非常災害対策本部第一回会議を8日に開くまでに要した時間が66時間なのです。

【政府「空白の66時間」タイムテーブル】は、その間、「自民亭宴会」をはじめとして、閣僚や自民党議員の面々がいったい何をしていたか、あるいは何もしていなかったかを可視化しています。マスコミは、安倍首相の「先手先手を打っていく」という8日談話を垂れ流したわけです。

66時間がなぜ重要なのか。生存比率が大きく変わるのが発生から3日まで、つまり、72時間といわれているからです。72時間以内であれば、助かる人もいるが、それを越えれば格段に難しくなると世界各地の災害現場で言い交されている、いわば「常識」なのです。

シンガポール政府や台湾政府は西日本水害に救助・救援活動の支援を申し出ていたそうです。72−66=6時間しかありません。シンガポールや台湾の災害対策チームが日本に到着して活動したという話を聞きません。「先手先手を打っていく」と豪語した安倍首相が不要と断ったのかもしれません。

https://www1.mfa.gov.sg/Newsroom/Press-Statements-Transcripts-and-Photos/2018/07/20180708-JapanFloodCondolenceLetter

8 July 2018

Dear Prime Minister Abe,

I am deeply saddened to learn that the torrential rain in Western Japan over the past few days has led to the tragic loss of lives and affected many families. On behalf of the Government of Singapore, I offer my heartfelt condolences to Japan and the families of the casualties. Our thoughts are with you and the people of Japan during this difficult period.

I am confident that Japan will overcome this disaster with fortitude. Please do not hesitate to let us know if Singapore can be of assistance to the ongoing relief efforts.

Yours sincerely,

LEE HSIEN LOONG


「シンガポールが現在行われている救援活動の支援になる可能性がある場合は、お気軽にお知らせください」(Google翻訳)

シンガポールのリー・シェンロン首相は末尾にこう書いている。日付は7月8日である。救援活動の要請や支援の申し出も、72時間という締め切りのなかで、やりとりされるはず。シンガポール政府は8日以前に申し出ていたのか、あるいは安倍首相の非常災害対策本部第一回会議の開催に合わせたのか、大使館に問い合わせてみたいところだ。

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(止め)
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2018/7/16  16:12

クロアチアよくやった!  スポーツ

なんと楽しい動画なり。日本じゃ考えられないのが辛い。「プレイの邪魔をするなんて言語道断」というワカランチンが涌いて出るだろうな。

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2018/7/15  19:26

今夜は、悪漢フランク  レンタルDVD映画

今夜は、バッド・フランク(Bad Frank)です。

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フランクを演じたケビン・インタードナート(日本語表記は不明です)という名前を憶えておきましょう。

まず、お断りしておきますが、これからいわゆる「ネタバレ」、筋書きを明らかにしてしまいます。なぜ、そうするかといえば、よくある、ありきたりの筋書きだからです。

断酒会で出会った看護婦の妻と平穏に暮らしていた元犯罪者が、ふとしたことから過去の犯罪ボスと再会し、妻を誘拐されたことによって、かつての暴力衝動が駆動し、破滅に向かって突進する、というアメリカ犯罪映画に定番の筋書きです。

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ミッキーと手下のニコ。ニコ役のRuss Russoは脚本にも参加していて、ふだんは長髪でヒゲなしのハンサムでした。

もちろん、嫌々、元の暗闇の世界に戻り、妻と自身を守るために、心ならずも大暴れするという正当防衛的な筋書きではありません。更生の道を歩んでいたフランクがダークサイドに引き戻される苦しみや痛みは描かれますが、後にそれは脱皮のようなものだとわかります。

かといって、公序良俗側の貧寒で空虚な日常に比べ、血と汗と涙と叫びと怒号に充たされた暗黒の地獄世界こそ、「バッド・フランク」の居場所だと全能全開に身を震わせるという、ひとひねりした筋書きでもありません。

ここまで、ストーリーを重視した脚本先行のこの作品に敬意を表して、あえて混乱するように書いていますが、いうまでもなく、脚本とは筋書きを越えてキャラクターに命を吹き込むものです。

見どころのある映画はたいてい、ありきたりの筋書きにありきたりの人物を配しながら、ありきたりではないストーリー(物語)を紡ぐものです。したがって、本稿では時系列を変えることで筋書きを追わず、登場人物を語ることで物語のあらすじに触れたいと思います。

エンディングには、フランクの母親の声が映像にかぶります。
「留守番電話でよかったわ。わるいけど、あなたとはまだ話す気になれないの」。

その映像とは、フランクが車のハンドルを握り、後部座席には誘拐されて猿轡に両手両足を縛られたままの妻が転がされ、泣き叫んでいる様子です。

さて、ハッピーエンドでしょうか、それともバッドエンドなのでしょうか?

この映画に登場する女たちはどれもろくでもない女ばかりで、ミソジニー(女性嫌悪))を隠していないところがユニークです。このフランクの看護婦の妻ジーナとの夫婦愛だけでなく、会って話すどころか声すら聴きたくないとフランクの母には母性愛も否定されます。

一方、フランクをはじめとする男たちは極道者ばかりですが、一般とは違う自分なりの倫理感を持っています。フランクと対立して、彼の妻を誘拐して人質にする、かつてのフランクの犯罪ボスであるミッキーは、

「俺のところにあるものは俺のものだ。だからあの女は俺のものだ」
とフランクに言い放ちます。

「俺のところになければ俺のものではないがな」
とつけ加えるところが倫理的です。

妻を誘拐されたフランクは、ミッキーの娘クリスタルを誘拐し返して人質交換の場にいます。フランクはミッキーに怒号します。「俺には何もない! おまえにも何もなくしてやる!」次の瞬間、フランクはクリスタルの頸椎を折ります。

復讐のために躊躇なく父親ミッキーの眼前で娘を殺すのです。この逆の設定ならいくつもの映画で観てきましたが、ムチャクチャな男です。

じつは拉致したクリスタルを強姦ではなく合意でフランクはセックスしています。フランクとのセックスにじゅうぶんに満足したクリスタルが、終わった後にキスをねだると、「何様のつもりだ」と突き放す場面がありました。

廃屋の片隅で両手を縛られたまま、後ろから犯されるというシチュエーションに興奮したくせに、最後は向かい合ってキスを交わしたいという「人権的」なクリスタルに苛立ったわけです。

まだ、平穏無事だったときの妻とのセックスの場面でも、女性上位を堪能して寝入った妻の傍らで、フランクは虚ろに天井を見上げていました。

たとえば、洗い立ての真っ白いシーツの上で、生成りの木綿に風を通した娘と、陽光の柔らかな午後にひととき陸み合う、という愛の交歓はフランクにはあり得ないのです。

クリスタルとのいわゆる「立ちバック」、妻ジーナの「女性上位」という体位から、フランクにとって女とのセックスとは、強姦や行きずり、あるいは商売女を買うような、刹那的なものに過ぎないことがわかります。

ここまで書いてきて、「おいおいそんなムチャクチャでヒドイ映画を誰が観るのだ」という声が聴こえてきそうです。少なくとも、女性の観客など眼中にないとしか思えません。

また、妻と交換する前に、大事な人質の娘を殺してしまうのですから、自らを含め誰も守る気などないといえます。憎いミッキーを前にして、激高のあげく暴力衝動に駆られてしまったのでしょうか。

たしかに妻を攫われた当初は激高していたのですが、禁じていた酒をいったん口にしてからは、薬が手放せばないほど悩まされていた偏頭痛からも解放されて、落ち着きを取り戻し、ミッキーの娘を誘拐するという奸智を思いつくほど冷静沈着になっていました。

したがって、この場面も、ミッキーの先の言葉へ応えた、フランクなりの論理と倫理だったと解すべきでしょう。一般社会の倫理や道徳とは別の倫理や道徳をこの映画は描こうとしているようです。

そういう救いのない映画です。観客が感情移入した登場人物が映画のなかの現実において報われない、救われないというより、救われなくて当然だと観客に思わせる映画なのです。

唯一、まともに思えたフランクの元警察官の父親チャーリーでさえ、その謹厳実直なみかけどおりではありませんでした。

かつてフランクの犯した罪の弁護費用を捻出するために、家を売り払い警察官を退職した父は、毎日、バーの片隅で野球中継を気が抜けたように観戦するのを日課にしています。

フランクが会いに立ち寄っても、かつての行いを謝罪しても、いまはジーナという妻を得てまじめにやっていると報告しても、冷淡なほど素気ない態度です。TV画面を見るばかりでフランクに視線さえ向けません。

ミッキーに妻を誘拐され必死な思いで助けを求めても、「もう俺には何の力もない」と話を聞こうともせず、ミッキーの名を出せば、「まだ、あんなクズとつきあっていたのか!」と怒鳴って追い返そうとします。たぶん、フランクの事件や裁判から、息子の本性を思い知らされて失望したのでしょう。

そのフランクの本性を誰よりもよく知っていたのは、かつて一緒に悪事に手を染めていたミッキーです。フランクが厄介ごとに巻き込まれる端緒をつくった友人のトラビスに、「フランクは怖い奴だ」とミッキーは怖気を隠さず告げます。「あいつは殺さない。一晩中かけて両手両足を切り、両眼を抉り出すやつだ」

手下に使っていた犯罪ボスのミッキーですら、フランクと面と向かえばどこか気圧されるというのに、いかに息子とはいえ、フランクの苛立ちや怒りの充満を眼前にしても、無視を続け、怒鳴りつける父親チャーリーとは、考えてみればただ者であるはずがありません。

冒頭、建設現場の仕事を終えて帰って来たフランクは、庭の柵づくりのためにハンマーを振るっています。トントンと釘を打ち込むところを乱暴に叩くので、ハンマーがそれて手を切ってしまいます。痛みより苛立ちに顔を歪めるフランク。「本性」は最初から出ていたし、「本性」は変わることはないのです(どんな英語を「本性」と訳したのでしょうか?)。

どうです。そんな映画です。観たくなりましたか。

ただし、怒りと苛立ちの塊のようなフランクですが、父親にはなにがしか敬意を抱いている様子があり、面倒ごとばかりに巻き込むヘタレな悪友のトラビスとの間にも、わずかに交情らしきものが見られます。

ミッキーに魂消るほど脅かされたのに、勇気や根性などかけらも持たないはずのチャラいトラビスが意外な行動をとります。トラビスなりの贖罪なのでしょうか。そんなところが、わずかにな救いといえば救いでしょうか。

JCOMのオンデマンドTVでみつけました。2017年公開、わずか11日間で撮影されたという低予算映画です。セットはなく衣装はありもの、予算のほとんどは俳優のギャラが占め、そのキャストも犯罪ボスのミッキーの手下はニコひとりだけという小品です。監督はこれがデビュー作というトニー・ジェルミナリオ(Tony Germinario)という人です。

日本語のレビューはまだなく、英語のレビューをいくつか拾い読みしてみると、以下のような感想が平均的なところのようで、私もほとんど同意します。

Though there are some solid performances and below-the-line work on display in Bad Frank, there is little else to recommend it by. However, its occasional high points do give the impression that several of the folks involved have bright futures, particularly lead actor Kevin Interdonato.

バッド・フランクは、この映画製作に関わった人々にとってひとつの実績となり、優れた演技パフォーマンスもありますが、それ以外の点ではお勧めできません。しかし、時折高得点が与えられるのは、関わっている人々の明るい未来が開けている印象を抱くからでしょう。特に主演のKevin Interdonatoです。(Google翻訳の意訳)

「それ以外の点ではお勧めできません」が強烈です。「それ」が指示しているのは、performances の演技と、below-the-line work の映像や脚本や演出などスタッフワークですから、映画の出来自体は褒めているのです(低予算で短期間に撮られた割には、という皮肉もあるかもしれません)。「それ以外の点」には、たぶん、前述のような「救いがない」キャラクターや物語が含まれるのだと思います。

まず、ミッキー役のトム・サイズモアの名前に惹かれて、この映画を観る気になりました。有名俳優は彼だけ。ほかのキャストや監督などはまったく未知でしたが、たしかに、フランクを演じたケビン・インタードナートが圧倒的でした。

醜男(ぶおとこ)に近い容貌ですが、いまにも破裂しそうな暴力衝動をオーラのようにまとっていました。直接的な残虐描写はほとんどないのに、暴力そのものを感じさせるのは演技力の賜物というだけでなく、彼自身の資質なのでしょう。

ケビン・インタードナートはその見かけどおり、ブルーカラー出身でイラク戦争にも参加した海軍の元兵士で、帰国後、コミュニティカレッジに入ったようです。

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バーで話すフランクとチャーリー。数少ないドラマ場面です。

ほかには、フランクの父チャーリーを演じたレイ・マンチーニ(Ray 'Boom-Boom' Mancini)の詩情ある表情が印象的でした。ハリウッドの老俳優の一人と思っていたら、なんとメーキャップによる老け役で、演技素人の元プロボクサーだそうです。

トム・サイズモアは戦争映画を含む暴力映画、犯罪映画の暴力的な脇役としてとても有能な俳優です。教師や気弱な中年男など平凡な男を演じることは想像できません。ひさしぶりに元気な姿をみましたが、若いころより痩せていて、何かの病気ではなく節制のおかげならけっこうなのだがと案じています。

(止め)
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2018/6/26  0:22

今夜は寅さん映画です  

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たかが世界の終わり

「天才監督」と誉れ高い「美男俳優」のグザヴィエ・ドランがカンヌ映画祭でグランプリ(パルムドールの次)を受賞したフランス・カナダ映画です。

この2016年のカンヌ受賞のときグザヴィエ・ドランはまだ26歳。初監督したのは20歳そこそこにしてすでに6作目を数え、そのいずれもが世界的な注目を集め高い評価を得ているという人です。

というと、ジャン・リュック・ゴダールのような若き天才監督の前衛的作品を想像しがちですが、ご安心ください。これは私たちにはおなじみの寅さん映画です。邦題を「家族はつらいよ」としてもよかったくらいです。

寅さんにあたるルイを演じる氷のような美青年はギャスパー・ウリエル、知らない名前でしょうが、「羊たちの沈黙」シリーズの近作「ハンニバル・ライジング」で「人食い」ハンニバル・レクター博士の若き日を妖艶に演じました。

寅さんをあたたかく迎えるさくらは若き名女優マリオン・コティヤールです。その夫である博(ひろし)ヴァンサン・カッセルです。サッカーならジタンのようなフランスを代表する俳優です。あの美しくかわいかったナタリー・バイは三崎千恵子のおばちゃんになってしまいました。満(みつる)もいます。新人女優のレア・セドゥという人です。

キャストをおさらいしてみます。

車 寅次郎=ルイ(ギャスパー・ウリエル)
諏訪 さくら=カトリーヌ(マリオン・コティヤール)ルイの兄嫁
諏訪 博=アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)ルイの兄
おばちゃん=マルティーヌ(ナタリー・バイ) ルイの母親
諏訪 満=シュザンヌ(レア・セドゥ)ルイの妹


寅さんは京成電車の柴又駅から歩いてとらやに帰ってきますが、ルイはタクシーで帰郷します。「知らせてくれれば車で迎えに行ったのに。お金がかかったでしょう」と家族からいわれるほど長距離をタクシーに乗って帰れるのですから、寅さんと違ってルイは金はあるようです。

そして、寅さんは年に数回は柴又のとらやに帰ってきますが、ルイの帰郷は12年ぶりのことです。

もちろん、家族は大歓迎でごちそうを用意して待っています。それぞれが近況を語り、昔話も出ますが、ルイと兄嫁カトリーヌは初対面です。ルイが不在の12年の間に結婚したのでしょう。年若いシュザンヌもルイが家を出たころは、まだほんの少女でしたから、兄との思い出もなく気心もわかりません。

兄のアントワーヌの弟ルイへの接しかたはどこかぎこちありません。帰ってきた寅さんを迎えるときの博がちょうどそうですね。寅さんを好きなんだけれども、渡世人気どりの風来坊と世帯持ちの工場勤めでは境遇が違いすぎて、面と向かうと話が弾みません。風に吹かれているような寅さんの笑顔をまぶし気に見て、すぐに顔を伏せてしまうのが博です。

母マルティーヌは少年の頃のルイのまま、子ども扱いしてハンサムだきれいだと大喜びです。寅さんが声を荒げて誰かと言い合うと、「嫌んなっちゃうよ、いつまでも子どもみたいな喧嘩して」とかっぽう着の裾で涙を拭くおばちゃんと同じです。

えーと、後先になりますが、いわゆるネタバレします。したってかまわないでしょ。寅さん映画では観る前から、誰しもおよその筋立てを知っているのですから。

帰宅した寅さんは多弁にそれぞれやご近所の近況を尋ねながらご機嫌伺いに励むのですが、ルイはあいまいな笑顔を浮かべて寡黙に立ち尽くしているばかりです。カトリーヌが知人の話をしていると、「ルイが退屈しているのがわからないのか」と夫が叱りつけます。この兄はなぜかダイニングテーブルに付かず、立ったまま室内をうろうろして、それぞれの話に要らぬつっこみを入れます。

「退屈なんてしていないよ。どうしてそんなことをいうんだい」とルイがとりなします。「そうよ、兄さんはいつもそんな風に話を台無しにするんだから!」とシュザンヌ。そう満も親である博やさくらに、寅おじさんにもときどき食ってかかりますね。シュザンヌも満のように若者らしい夢や希望を抱いていて、家を出たがっています。が、なかなかそのきっかけがつかめず、自分を持て余しているのです。

歓迎のイベントから、いつもながらの家族に戻っています。いっしょに暮していないと共通の話題が見つからないし、初対面のカトリーヌやまだ幼かったシュザンヌを前に、そう12年以上前の昔話ばかりできないわけです。ルイの家族それぞれの性格や内面は次第にわかってくるのですが、ちょっと変だなとこのへんから思うでしょう。

誰もルイの近況について尋ねないのです。ルイもまた話そうとしません。そして、なぜ12年も帰らなかったか、なのになぜ12年ぶりに帰って来たのか、かんじんなところに誰も触れません。なぜなのでしょうか。

ルイの内面についてはまったくといってよいほど語られることはないので、観客にもわかりません。そういえば、寅さんも自分語りをしません。家族の話題や問題に反応して意見を述べたりはしますが、自分については尋ねられても受け流すか話を逸らすことが多くて、自らの考えや気持ちを率直に伝えるという場面は思い当たりません。

満がピアノを欲しがっていると聞いて、おもちゃのピアノを買ってきて、「ま、気持ちだからよ」と得意顔をする。本物ではないと泣き出す満と苦い顔の妹夫婦を前にして、しくじったとわかって動揺しながらも、「おふざけじゃないよ」と毒づいてしまう、傷ついた気持ちを露わにすることはあっても、それ以上のことは語りません。

語ってもわかるはずがないと寅さんは決め込んでいるからです。自分たちとは違う人なんだとわかってくれるだけでいいと思っているからです。ルイもまた、家族とは住む世界が違っています。

ルイは新聞が特集記事を組むほど著名な劇作家であり、芸術家なのです。そのうえ、ゲイです。家族はこの12年間のルイの活躍を知っており、家にいた少年時代からゲイであることも知っています。

寅がテキ屋をしながら旅暮らしに明け暮れ、渡世人を気取っていることをとらやの一家が知っているように、ルイの家族もルイが普通の職業とは芸術家であり、ゲイとして生活していることを受け入れているのです。

私たちもまた、渡世人や芸術家、あるいはゲイを知りません。知りたいという気持ちもさほどないはずです。私たちが知っていて、知りたいと思うのは、たがいを思いやりながらも、ときに気持ちがすれ違い、思わぬことで傷つけ合ってしまう、私たちの家族のことです。

私たちが懐かしさに唇を緩めるのは、さくらや博、おいちゃんやおばちゃん、満やタコ社長、御前様の顔がそろったときなのです。とらや一家が寅さんが引き起こす騒動によって泣き笑うときに、いっしょに泣き笑っているのです。「寅さん映画」ではなく、「とらや映画」なのです。

寅が、「印刷工場(こうば)の工員風情の家でピアノとは笑わせるぜ」とせせら笑うと、博は、「兄さんは気楽な身分でいいですね」とせせら笑い返します。ルイの兄のアントワーヌも、「気取ったいいまわしをしやがって」とルイからつい出てしまった書き言葉使いに鼻白みます。

ルイはじつは余命わずかと知って帰郷したのですが、それを言い出せぬままパリの家に戻ると団らんの場で告げます。突然帰ってきて、突然家を出てゆく寅と同じです。

わずか一日足らずの滞在ですから、ルイは寅よりひどいですね。びっくりした家族に動揺が走ります。「これからはちょくちょく帰ってくるよ、シュザンヌも僕のパリの家へ出てくればいい、いろいろ相談に乗るよ」とルイはいいますが、家族のショックは冷めやらぬままです。

兄のアントワーヌは、工具をつくる工場で働いているのですが、「俺がどんな仕事をしているか、ルイは何の興味もないだろう」と妻に不満げに言っていますから、もっと弟と話したかったはずです。

こんな場面がありました。旧家を尋ねようとするルイに、兄が車で送ろうとする道すがら、兄弟二人きりになります。車窓から故郷の風景を眺めているルイに、「覚えているか?」とアントワーヌ。少年時代のルイの恋人がガンで死んだことを教えたりします。

アントワーヌにとって、演劇やゲイなどはまるで理解の外なのですが、ルイを受け入れているのです。そして、弟ルイにも自分を受け入れてほしいと心奥では求めているのです。裏切られた思いのアントワーヌはルイを引き留めるどころか、すぐにルイの旅行カバンを持ち出して荷物を詰めはじめます。

(何も今すぐというわけでは)と困惑気なルイには顔を向けず、「すぐに出れば、パリ行きの列車に間に合う、俺が車で送ってやるよ、さあ、急ごう」と一心に荷物を詰め込む手を止めません。意固地になっているアントワーヌをなじる母マルティーヌ、「兄さん、止めて! 私はもっとルイ兄さんを知りたいっ」と泣き出すシュザンヌ、呆然と夫とルイの顔を交互に見遣るカトリーヌ。

そのうち、アントワーヌが激してきます。「みんなでそんな風に俺を責めて、まるで化け物扱いしやがって! 俺がいったい何をした、何が悪いっていうんだ!」。寅さん映画では脇役中の脇役の博が場面をさらったのです。ここでは一家の異物である寅さんと一家の大黒柱の博が合体しています。

ドーベルマン」などアクション演技で鳴らした平目顔の顎が尖った凄絶美男のヴァンサン・カッセルが、無骨でとっつきにくい田舎町の工場勤めのおっさんになりきっていて、その老け顔に驚きました。そんな夫に振り回されながらも、人知れず心を痛め、愛していることを瞳の色だけで訴えているけなげで優しい妻を、あの変幻自在で女デ・ニーロといわれるマリオン・コティヤールが演じて、新境地を見せています。

タイトルは、「たかが世界の終わり(It's Only the End of World)」。余命わずかといっても、「たかが私の世界の終わり」に過ぎず、家族の物語は続いていく。劇作家ルイの独白のようです。寅さんもまた、似たようなことをどこかでいっていたような気がします。「風の吹くまま、どこで野垂れ死のうと、かまやしねえよ」とね。ルイも寅さんも意気がっています。

この映画を観ると、「男はつらいよ」とはどんな映画なのか、よくわかります。たとえば、「たかが世界の終わり」は舞台劇を映画化したものですが、「男はつらいよ」も映画より舞台劇がふさわしい構造であることがわかります。舞台劇だすると、狂言回しは寅さん以外にはいません。

狂言回しは舞台の進行に奉仕する重要な役柄ですが、主役ではありません。というより、登場人物には数えられません。NHK朝ドラのナレーターを思い浮かべればわかります(「半分青い」では風吹ジュンでしたっけ)。

ルイはやがて死に、家族の思い出の中で生きていくのですが、寅さんもまたとらやの家族が語る思い出の中の人物にも思えます。つまり、寅さんはとっくに死んでいるのです。この映画も、ルイの死後、12年ぶりにルイが帰って来た日のことを家族が回想している映画だという見方もできます。

そんな風に考えてみると、ルイや寅さんについて、いろいろとつじつまが合わないことも、納得できる気がします。家族とはかならず思い出なのです。生きていようと死んでいようと、思い出とともに家族は生き続けていくのです。

(止め)
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