2009/9/2

男らしく破天荒に生きん・・・・男性保育者研修  

 偶然と必然は紙一重。幼稚園に積まれた竹を想いつつ夕刻、扇ヶ丘幼稚園に三々五々男性保育者の面々が集合。本日は北陸学院大学の金森先生を講師に「生きる力を持つ子どもの教育とは?」という根源的なところを探る男性保育者研修である・・・・・と書くと堅苦しいが、要は本物に触れることで真髄とまでは言わないにしても「何か」を掴む、男たちの研修会。何せ金森先生が一人で作り上げた竹の遊具が、扇が丘幼稚園(第一幼稚園にも)にあるという。それを見るだけでも値ある、と想うのだ。



先ず集まったメンバーから金森先生自作の園庭にある竹遊具を見せてもらう。「小屋」「木の上の家」「ブランコ」「滑り台」などだが、どれも一人でするには十分すぎるほどしっかりとした作りで驚嘆する。竹の素材の軽さ、強さなど存分に生かし、大人が乗っても遊べるのが楽しい。男たちも入れ替わり乗っては遊んでいた。子どもたちの遊び具合が見えないのが残念だが、話を聞く限りでは作業中から子どもたちは嬉々としてその製作過程から楽しみにしていたようだ。縄の結び方を見ながら子どもたちもブランコなどで真似ていたり、作業工程に合わせて道具を取ったりする子もいて、「見て学ぶ」(「真似ぶ」)の好例と、扇が丘の幼稚園の先生たちも太鼓判。子どもたちの前で見せる大人の腕前が子どもたちに与える教育的効果はいかばかりであろうか。それも一人でなされたことに信じられない想いと我がの力不足に口惜しさも入り混じる・・・・。
扇が丘の園庭が大きく見えるのは単純に空間的な広さだけではなく、そうした手作り感覚の遊具の存在が転々とポイントになっているからであろう。

 その後、保育室をお借りして金森先生の「講義」の開始。
いきなり糸くずを渡されて「こねこね・・と遊んでみて」と言われる。くしゃくしゃになりながら糸くずが綿に変わっていく・・・実は「それが子どもの遊びからの発見」。それが綿でしかも二種類の綿の違いなどを観察しながら、自然科学や綿の歴史、社会との関わりなど多角的な世界へと話が広がる・・・と遊びの話から広がる学びの世界が導入部位である。実際の繭、あるいはメガルカヤ(注)などの希少な実物を見せてもらいながら、男たちの好奇心を掻き立てつつ、話は進む。メガルカヤの種はもらったので来年育てよう、と心に誓う。それまでに無くさなければ・・・、だが。

(注)メガルカヤ〈雌刈萱〉 花期は7〜9月。 山野に生える高さ70〜100pの多年草。葉は広線形で、ざらつき、やや白っぽい。上部の葉腋から短い枝をだし、小穂が6個ずつ集まった穂をつける。6個の小穂のうち結実擦るのは1個だけで、ほかは雄性。結実擦る小穂には太い褐色の芒がある。こいつがすごいのは水分を含むと自己回転をして潜っていくことだ。実際金森先生はそれを実演。ゼリーに回転しながら潜っていく様に釘付けとなった。自然ってすごい。)

さらに谷川俊太郎の絵本『あな』の読み聞かせ。子どもの世界について想像力を膨らませる絵本だ。大人と子どもとの世界観、感性の乖離をそれぞれ絵本から読み取る。子どもの視線がどこにあるのか? 何を楽しんでいるのか? 遊びとはそもそも何か?・・・・絵本『あな』から見えてくる様々な示唆を実際の自分たちは保育の中で感じ取っているだろうか? そんな問いかけを交えた話を導入の第二段に据えていよいよ本論へ。

金森先生の授業風景のビデオ映像。一年間にわたる長い期間での収録だが、15分ほどに凝縮したそこから伺える金森式授業論の具体的な様子を、教育上のキーワードなどを黒板に記しながら分かりやすく解説していく。「人格的いのち的人間的存在」、「他者を心に住まわせて生きる」、「ボディコミュニケーション」等々・・・。
「いのちの教科書」など、生と死の授業は金森式授業の核になるポイント。種、田んぼ、川(犀川や満願寺山、あるいは地域の身近な場)などの自然を舞台にした教育など、子どもたちを温かく包み込むのではなく突き放した力と冷静な観察、多角的な広がりのある授業の枠組みには、プロフェッショナルな人の助太刀を乞い、また綿密な下準備にも裏打ちされている、という。ビデオに出ていた川遊びする子どもたちや崖登りの山も金森先生は幾度も足を運び十分そこで何が出来るか、下調べをし尽くしている。
また若者にも広がる自殺者年間3万人時代の今日の世の中を「自死的傾向社会」と金森先生は指摘し、そうした背景を生み出す家族や社会の構造的な課題も解説、そこに向き合う姿勢が核にあるからこそ、保護者たちにも共感的に受けて入れられているのだろう。
「ボディコミュニケーション」など、随所に出てくる子どもっぽさの本質にある身体を触れ合う、ぶつかり合う「こねこね遊び」は脳を鍛え、人間関係を造り出す元になり、「どろこんどしゃぶり授業」は、仲間との連帯感を生む協同性と健康、自然などとの調和を生む第一級の授業要素として捉えていて、幼稚園生活にそのまま援用できそうな手法も随所に見え隠れ。合間の質疑で先生の生い立ちや能登での飼育農家での生い立ちや大学時代の負けん気、あるいは青年教師時代の破天荒ぶりなどの話を織り交ぜつつ、金森方式の授業論が出来上がるエネルギー、骨子は十分男性保育者にも伝わった・・・ような気がする。

しかし、こうした骨格太い教育の中身をどう僕らが実践するか? 頭で分かっていても果たしてできるかどうか? それが本当にその教師(保育者)の授業(保育)足りえるか? 借り物ではなく本心から自分が伝えたいものを持っているかどうか?が個々に現場で問われんだよなあ、とつくづく感じながらこの日の研修を終えた。
1






※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




Powered by teacup.ブログ “AutoPage”

[PR] 介護事務資格mapネット 土地サーチmap