2011/10/31 | 投稿者: 鹿苑院

1つ前の記事にアップした浅川さんのライブ映像が素晴らし過ぎて。
懐かしいやらかっこいいやらで、今日のオレは1日中あの時代にいた気がする。
木曜DEEPERはすげえ熱かったんだって、どこにも負けないぐらいメチャクチャだったんだって、それを忘れてどうする。あの時代をリアルに体験してるんだよオレは。
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2011/10/31 | 投稿者: 鹿苑院



なんと浅川さんじゃないか! あの無茶苦茶で破天荒で一切収拾が付かなかった最低で最高で最強な木曜深夜をオレたちは忘れていないよ!
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2011/10/31 | 投稿者: 鹿苑院

なんかすごい画像見付けちゃったんだけど。



何年前になるのかな、熱かったよなこの頃は。林原さんも堀江さんも浅川さんもいるんだもん。昔のプロレス中継見てたら猪木のセコンドに橋本と前田と藤原がいるような、そんな心持ちだ。(いや、違うかな)
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2011/10/31 | 投稿者: 鹿苑院



力拔山、兮氣蓋日本武道館。
これが俺たち黒ネコ同盟の底力だよ。
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2011/10/31 | 投稿者: 鹿苑院

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2011/10/29 | 投稿者: 鹿苑院

豊臣秀頼が誰の子なのかということは昔から様々な憶測を呼んできた。実父が豊臣秀吉ではないとすると大野治長説が最も広く囁かれているが、他に石田三成説や名古屋山三郎説もある。

しかし、私の意見は秀頼の実父は豊臣秀吉本人に紛れもないと思う。
そもそも秀吉の子ではないとする説が出てきたのにはいくつか根拠があって、

1.秀頼は巨漢であって小柄な秀吉に似ていない。
2.秀吉は子に恵まれなかったのに淀殿だけ妊娠したのはおかしい。
3.大野治長は最期まで秀頼を裏切らず一緒に死んでいる。

ということが挙げられているが、1つずつ論破していこう。

1はよく挙げられる話だが、実はよく考えるとおかしな話だ。子が必ずしも父親に似ると決まったものだろうか。隔世遺伝ということもあり、秀頼の母方の祖父に当たる浅井長政は巨漢であった。巨漢なのは彼に似たのだと考えれば説明は付くし、逆に大野治長や石田三成がそこまでの巨漢であったという話は聞いたことがない。そもそも秀吉が小柄だったのも遺伝的なものだったのかどうか。周知の通り秀吉は貧しい農民の出身であり、小柄なのは成長期に充分な栄養を摂れなかったからで遺伝子のせいではないという可能性もある。
2は確かにある程度の説得力がある話で、あれだけ女好きだった秀吉になかなか子が出来なかったのは不思議ではある。ただ、秀吉は長浜城主時代に早世したが石松丸秀勝という実子を設けており、「種なし」ではない。
3は親子の情ゆえに秀頼を裏切ることが出来ず最期まで付き従ったのだというのだが、これに至っては何をか言わんやというほどに馬鹿馬鹿しい話であり、こんなものは根拠にならないことはよく考えればわかるだろう。忠義な家臣はみんな主君の母親と不倫したが故の忠義だとでもいうのか。大野治長を愚弄するにも程があるし、当時の状況を考えてみれば豊臣家の上層幹部として反徳川の急先鋒だった治長が降伏したところで殺されるのは目に見えている。逃げても全国指名手配でやはり無駄だし、そんな無様な死に方をして汚名を着るくらいなら潔く主君と最期を共にしようというのは武士の考え方として自然である。

結局のところ、秀頼の実父を秀吉以外に求めようというのは淀殿を姦婦に貶めることで悪役に仕立てた徳川幕府のプロパガンダの後遺症に過ぎない。なるほど秀頼が秀吉の子でなく大野治長や石田三成の子だとすれば、これを攻め滅ぼしても徳川にとっては「主家殺し」ではなくなり、悪辣な印象は薄らぐ。そういう背景を考えると、やはりこれは「意図を持って作られた話」という結論が出てくると思うのだがどうだろう。
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2011/10/28 | 投稿者: 鹿苑院

高校生になって本気で自分の進路を考えなくてはならなくなった時、私にはひとつの譲れないポイントがあった。ずばり、「好きな物を仕事にしない」。これである。

世間では「好きな物を仕事にしよう」というが、私はそれが嫌だった。私の好きな物で職業になりそうな物といえば、例えば歴史があるが、考えてもみてほしい。仕事にするということはそのことへの責任も生まれるし、ストレスがそこから発生することもある。私にとっては諸葛孔明も徳川家康も、歴史の世界の住人はいつでも屈託なく話せる気の置けない友達なのだが、それが利害関係のあるビジネス上の渇いた付き合いをする仲──時にはストレス源になる相手──になるのがたまらなく寂しかった。

だから職業を考える時、たいして思い入れのない物を選ぶのが私にとって絶対条件だった。ストレスや怒りで汚されてもたいして惜しくない物を選ぶ。この原則に従って今の仕事も選んだから、ぶっちゃけ平日はつらく、休日は何よりも待ち遠しい。そして休日ともなれば歴史の世界という遊園地で遊びほうけるのである。最近は毛利元就という友人が一緒に遊んでくれている。
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2011/10/25 | 投稿者: 鹿苑院

曇鸞大師は最初は仙人に弟子入りし、不老長寿の方法が記された仙経を授けられたものらしい。これを手に入れた喜びの中、洛陽に立ち寄り菩提流支三蔵に

「こんなん貰っちゃいましたよ。いいでしょ?」
と自慢したところ、菩提流支三蔵は
「不老長寿の法なんてあるわけねーだろ! つまらんもん貰って喜ぶんじゃねーよ、ペッ!!」
と酷評したらしい。ちなみに「ペッ!!」とツバを吐いたのはオレの創作ではなく、曇鸞大師の事跡を記したどんな書物にでも載っている史実である。

「そんなもんよりこれを読め」
と手渡されたのが『観無量寿経』で、これを読んだ曇鸞大師は確かに不老長寿の仙経の馬鹿馬鹿しさに気付き、これを焼き捨ててしまったという。その後は『観無量寿経』を中心に浄土教の研究に励み、山西の地に念仏を広めた。この曇鸞大師を浄土七祖の3人目とする。親鸞聖人の「鸞」の字はこの曇鸞大師にあやかったものである。

ちなみにもしナメック星の最長老に菩提流支三蔵ほどの気骨があったら、宇宙最強の極悪人が「私はあなたたちのドラゴンボールを集めているフリーザという者です」と不老不死の夢を語っても「不老不死なんてあるか! これ読んで出直せ!!」と観無量寿経を手渡しただろう。そしてフリーザは浄土教の偉大な高僧になっただろう。
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2011/10/22 | 投稿者: 鹿苑院

10月22日は我が遠祖・桓武帝が平安京(京都)への遷都を行った日である。

そもそも桓武帝がこの遷都を行った理由は弟の怨霊に悩まされたことと、平城京(奈良)では肥大した寺院勢力が政治に介入することが多かったためにこれを避けるのが目的とされる。後者の目的のために桓武帝は平安京には寺院の建設を禁止したが、何故か京都には寺院が建てられ続け、寺といえば京都というくらいになってしまっている。この観点から見れば桓武帝の目論見は完全に失敗しているが、この失敗が日本の文化・思想・建築・芸術史上に残した足跡はあまりに偉大である。

さて、1月には上洛します。
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2011/10/21 | 投稿者: 鹿苑院

昨日は市役所で市民税を払ってきた。結構痛い額だが、ぶっちゃけオレは他の人に比べれば税を払うことに抵抗がない方だと思う。税は正常に使われたらすなわち住民のためのサービスに使われるはずなので、納税は必ずしも損ではないと思うからだ。税金は正しく使われていないじゃないか!という反論もあると思うが、はっきり言ってオレは税金の無駄遣いをセンセーショナルに書き立てる偏向マスコミよりは行政を信じる。日本の行政は完全に清廉潔白ではないにしても、そこまで劣悪でもないと思う。

野田総理が進める増税法案にしても、それが震災の復興のためならそれほど躍起になって反対することもないのではないか。義援金という名前なら喜んで出す人がいる。義援金を出さない人を人非人のように言い立てた人もいる。同じ人が「義援金」が「税金」に名前が変わった途端に死ぬほど文句を言うのも私から見れば不思議な現象である。
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