仏像とは何か

2014/3/23 | 投稿者: 鹿苑院

比叡山焼き討ちの直前、由緒ある仏像の焼失を恐れて諫止しようとする明智光秀に、信長はこう言い放つ。「光秀は知らぬらしい。あれは木と金でできておるのだ」──

昨日、茶道の最後の稽古をしてきた。相変わらず懇意のNさんとくっちゃべっていた。この人は愛国者ゆえに神道は好きだが仏教は嫌いという人だが、こんな質問をしてきた。仏像は仏そのものなのか、それとも仏を表しているものに過ぎないのか、と。彼は初詣でお寺に行ったのはいいが、仏像を拝むように言われたが木を拝む気にならなくて拝まなかったのだという。
オレはまずこう答えた。「仏像なんて拝みたくなかったら拝まなくてもいいんすよ」。拝まなかったら災いが起こるとか、仏教はそういう宗教ではないのだから。

次いで、以下のような話もした。
我が宗派(浄土真宗)では仏(阿弥陀如来)は色も形も無い、パーソナリティではなく概念であると考えており、それゆえに紙に墨で「南無阿弥陀仏」とだけ書いたものを最良の本尊とする。形をはっきり表さず抽象的であるほど本来の仏に近いからだ。ならば何もない空間に向けて掌を合わせるだけでもいいんじゃないかと言われそうだが、オレはこれへの反論の言葉は持たない。実際、親鸞聖人の憧れの人だった教信沙弥というお坊さんはそうしていた。
ただ、それだとピンとこないし拝みにくいのでギリシャの神像に倣って擬人化する試みがなされた(浄土真宗の成立とは話が前後するが)。それにあたって誰をモデルにしたらいいのかといえば、そりゃまあ釈尊じゃないのということになった。だから特に如来部の仏像はみんな釈迦如来とそっくりなのだ。

だから、Nさんの質問へのオレの答えは一応後者になる。ただ、こうも付け加えておいた。Nさんは木を拝む気にならないと言ったが、オレも日本人だからやっぱり神道的なアニミズムから脱けきれてはおらず、木そのものも何か神聖なものという感覚がある。プラスチックやコンクリートでできた仏像より木彫のほうがなんかありがたいような気がするのはこのせいだ。材料が何であっても仏像の信仰的な意味での価値は変わらないはずではあるけれど。
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2014/3/24  13:14
 

大乗仏教の戒律の根本聖典になる『梵網経』の戒文を学ぶ連載記事です。 




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