2010/4/8

三分間俳句講座18  三分間俳句講座

人物を詠む。

俳句は「一人称の文学」と言われ、特に主語の明示が無いときは作者自身のことであると見なされる。
しかし、自分以外の人のことを詠みこむ事がよくある。
自分の配偶者から、通りすがりの人、物語中の人物まであらゆる人物を詠むことが可能である。
注意すべきは、自分以外の人物を詠んだ時でも、自分の眼がどこかに生かされている事ではないだろうか。
どこの誰とも知らぬ人の意味不明な行動を詠んでも、意味不明な句しか出来ない。
ある人物に対して作者が程よい思い入れがある時に俳句になるのだと思う。
何かの物語の中の登場人物の行動や考えでも、作者が共感できる事ならば、時間と空間を越えて表現できる。
これは俳句の楽しさだと思う。

しかし、思い入れが強すぎてはいけない。
これは「孫俳句」に名句なし。といわれる所以であると思う。
孫は可愛いらしい。
可愛くてしょうがないので俳句にしたとき、作者の主観が強すぎてつまらぬ俳句になるのだと思う。
可愛すぎて孫を冷静に観察できないのであろう。
私自身、孫はいないので良く分からないが・・・。

だた、子供に対して赤ん坊の頃、オムツを変えていて彼のウンチが私の手に付いてしまっても少しも嫌だとは思わなかった。
また、妻は離乳前後はウンチの匂いで食べ物の調整をしていた。
これは、自分の子供で可愛くて仕方ないから不快でなかったのだと思う。
子供が赤ん坊の頃はこのくらいの思い入れがないと世話は出来ない。
ある人に言わせると、孫に対する思い入れはそれ以上に強くなるらしい。
ちょっと、異常なことである。このような状況は俳句にしない方がよい。
ちなみに現在の息子の男くさい匂いにはげんなりしている。
あいつらの部屋に入るには酸素マスクが必要である。






2010/4/7

三分間俳句講座17  三分間俳句講座

情念俳句

昔、「キーハンター」というアクションドラマがあった。
その中で、岡田真澄がゲスト出演する回があった。
グーグルで調べて見ると1973年3月31日放送の361回目の「魔女と黒猫が踊る夜」らしい。
そこまでは分かるのだがその内容がわからないのが歯痒い。
私の記憶では、恋人を失った山荘の主人が、悪者を追って山に入り込んだキーハンターの野際陽子を助けるという話だったような気がする。山荘の主人は恋人を失ったショックから世を儚んで山に籠もっているのだが、たまたま山荘に逃げ込んだ野際が恋人と瓜二つなので恋人と思い込んでしまう。そして命をかけて野際を守ろうとするのだが、最後には射殺されてしまうと言う話であった。この純粋な山荘の主人にとても感動してた覚えがある。

昭和の中ごろ、実際にこんな世間離れした男がいるわけが無かったし、現在もいないであろう。
ヴィリエ・ド・リラダンの「残酷物語」の中にも喪った恋人の墓にこもる男の話があった。
しかし、男としてこのような感情は女々しい事であると言われがちだ。

でも、もし女性ならば、若い頃喪った恋人のために一生を捧げるというのは美しいと思われるかもしれない。
いわゆる「情念」である。
情念とは『感情が刺激されて生ずる想念。抑えがたい愛憎の感情。「―の炎を燃やす」』(デジタル大辞泉)
と定義される。そして女性的な感情の代表格のように思われる。
「キーハンター」の中で山に籠もり恋人の思い出と過ごす男は情念的であり、リラダンの恋人の墓に入る男も情念的である。
しかし、これは例外的なもので男の情念は女々しいとされる。
女性の情念は芸術的に表現される。
一番分かりやすいのは中島みゆきの歌であろう。
彼女の別れ歌や女歌はいまも多くのファンを魅了している。

俳句でも情念を詠んだ俳句は多い。
作者が意識するしないを別としても情念的になる時がある。
と、思い「情念俳句」で検索して見ると以外に少ない。

『寂しいと言い私を蔦にせよ(神野紗希)』くらいしか見つからない。

私は山頭火の
『うしろすがたがしぐれてゆくか』
は情念俳句だと思う。
この句の中にあるのは匂うほどのナルシズムであり、自己憐憫である。
山頭火の句の中にはこの手の作品が多い。

私自身も
『恋しくて蟇になりたる漢かな』などという句を作った事がある。
これは泉鏡花の「高野聖」をモティーフにしたものだが情念俳句であると思う。
後から上五がいけないので
『蟇穴をいづるは恋か小夜霞』と直した。

一般的に俳句では私情は小主観として嫌われる。
しかし、それをあえて強く出す事が「情念俳句」であると思う。
決まれば美しい句が出来上がる。











2010/3/29

三分間俳句講座16  三分間俳句講座

インターネットなる朧夜の架空都市・・・修司

社会性のある俳句

私がインターネットを始めてたのは、1998年頃だと思う。
まだ、電話回線でテレホーダイなどというシステムがあった頃だ。
当時ネットにはびっくり箱のような楽しさと夢があった。
その頃作った句であるが、今日はネットに架空都市という言葉が当てはまるかどうか分からない。
便利はとても便利だが、あまりにも現実に近くなりすぎているような気がする。
たぶん今ネットについて句を詠むと別の形になると思う。
でも、自分の中ではインターネットを詠みこんだ句としては、まだこれ以上の句が出来ていない。

十年経つと句が古くなることがある。
ことに社会性のある俳句を詠んだ場合古くなりやすい。
社会性のある俳句でも古くならないように詠むことは大切ではかと思う。

掲句はいつか詠み直さなくてはいけないと思っている。

練習・今日の新聞の記事から俳句を作ってみよう。


2010/3/28

三分間俳句講座15  三分間俳句講座

三分間俳句講座15

時間の旅をする

蓮華草の句を作ろうと思うと、息子が小さかったとき、近所の蓮華野で妻が息子に蓮華の冠を作ってやっていた日のことを思い出す。
やっと歩き始めたばかりの息子がちょこちょこと蓮華草を摘んでは妻に渡す。
妻はそれを少しづつ編んで最後には小さな冠になった。
それを息子にかぶせると息子はニコニコして喜んでいた。
もう、二十年以上前の話である。

人は誰でもある思い出があって、特定の言葉や味からその思いを蘇らせることがある。
その思い出を読み込むことも一つの方法である。
これを「俳句で時間の旅をする。」と言っていた人がいた。

ある季語を胸の中で反芻していると思わぬ記憶に出くわすことがある。
また、目の前の風景の中から過去のことを思い出すことがある。

俳句は一面時間の旅なのかもしれない。

しかし、過去の思い出ばかり頼りにしていると、片寄って似たような俳句しか出来なくなる。
その点は注意すべきである。



蓮華野に怪獣になる遊びして・・・修司



2010/3/24

3分間俳句講座14  三分間俳句講座

昨日のつづきです。

練習・菜の花や月は東に日は西に・・・与謝野蕪村

  切れ字「や」の働きと季語との関係を考えてみましょう。

この句も蕪村の代表句として、中学の国語の教科書に出てくる有名な句である。
意味を探るまでもなく、一読して風景が目に浮かぶ。

まず「や」の働き・・・。

この句を自分で絵に描こうと思った時、真ん中に菜の花を描くのではないだろうか。
一句の中心は菜の花である。
この句の上五の「や」は中心を示す「や」である。
もちろん季語は「菜の花」蕪村は菜の花の立ち位置から見た東西の風景を描いたのである。
沈み行く月と昇り来る太陽の対比はそのまま、地球を中心として風景であり、その地球の中心が「菜の花」なのである。

季語の働き。

もしこの句の上五を「有明や」とか「有明の」などとしても、一句の意味合いは通じる。
その場合は季語は「月」になる。
その時は一句の中心は「月」となるため、昇り来る太陽が見えてこないし、その壮大な風景は描けないと思う。
この句は「菜の花」という中心があってこそ生きているのだと思う。









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