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2018/6/21  3:20

自分の高校の制服が欲しかった・・・  自我(エッセイ)
 けっこう他人から制服を譲ってもらう人も多いようですが、私の高校の制服もそうでした。

 中学の時は作っていただきましたが、高校の時は家にお金がなく、また詰襟でよくある制服だったので譲っていただいた制服で行きました。

 ただ嫌味なのか私が行きたかった高校の制服で、もう3年間着られているのでテカテカでした。
 しかも寸法が少しあっていなくて、着ていて変な感じでした。

 友人たちからも寸法があっていないと言われ、着ている年数が違うので色が変色してきてしまったので、1年くらいたって両親に「寸法が合っていない感じで、新しく作り直せない?」とねだったのですが、「贅沢言わないでまだ着られるでしょ?何とか3年もたせて!」と言われ、もう覚悟を決めて3年間着ました。

 最後に着たのは祖父の葬儀の時、卒業した年の年末でした。

 大学も学生服しかないのかな?と思っていたのですが、時はバブルで大学でも学生服は急速に廃れていました。
 両親もさすがに新しいスーツを買ってくれ、新しい気持ちで大学に行けました。
 でも・・・就職活動の時も冬服のままで就職活動することになりましたが・・・。
 まだ青山とか安い紳士服店が発展する前であり、バイト料をつぎ込むつもりにはなれませんでした。

 自分の貯金で学費の1/3程度を賄っていたので、お金はありませんでした。

 高校に入って詰襟が好きになり、今でも詰襟の制服を見ると「青春だなあ」と思ってしまいます。
 でも私の青春は少し変色し少し寸法があっていない詰襟の制服・・・新しい自分の制服が欲しかったです。
 制服をくださった人には悪いですけど。
 やはり・・・寸法がきちんと合った自分の制服が着たかったです。
 正直恥ずかしかったし・・・みじめでした。

 眼が悪くなった時も最初度が合っていない他人の眼鏡をかけさせられて、レンズが黒っぽかったので「サングラスをかけるな!」と先生に怒られ、渋々作ってくれましたけど、何でああだったのかな?とは思います。

 とにかく世はバブルでも、私の家はお金がなかったのでしょうね。

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タグ: エッセイ 自我 幸福

2018/5/17  1:44

岡田有希子さんの遺書はもう公開してもよいのでは?  自我(エッセイ)
 岡田有希子さんの自死から三十三回忌、もうそんなになるのですね、
 毎日新聞の記事を、途中からとばし読みですが読みました。
 記事は陳腐な内容ですが、時間の経過を感じました。

 昔のアイドルブームは、岡田有希子さんの死をきっかけに終焉しました。
 それは自死の理由がファンに説明されることがなかったからです。
 プロダクションは遺書は金庫に隠しました。

 一説には遺書の中に明らかに彼女の思い込みを思われる箇所があり、本人に聞いても客観的事実として認められない、もし公開するとその俳優は役者生命を断たれるので公開しなかったと言われます。

 その俳優さんは野島伸司ドラマで芸術家の役をし、最後に主人公に刺されることになります。
 実は不治の病に冒されていて、最後は最愛の娘に見守れ外国で死にたかったということを言った。
 そして・・・自分は刺されて当然のことをした・・・自分は罰を受けて当然なのだ・・・そのようなことを言った。
 岡田有希子さんのことがあったので、何か重苦しく感じました。
 ただ私がそのドラマを観たのは小平の職業大にいた時、「勉強にもなるし、何かこのあたりを舞台にしたドラマを鑑賞しよう」と思い観たしだいです。

 その俳優さんは人徳のある方で、多くの人に尊敬されて亡くなりましたが、最近・・・今生きている俳優さんをターゲットにしていると思われる怪文書が、ネットに出回っています。

 こうなりますと、そろそろ遺書を公開した方がよいのではないでしょうか?

 私は特別ファンだったわけではない、デビュー曲とそのあと数曲がよいと思っただけで、あとは特別な関心はありませんでした。
 しかし私は20代後半に大病をし、幸い最悪のウイルスには感染せず命も無事でしたが、いろいろなことができなくなってしまいました。
 ふと相模原市の国道413号線にあったCDショップで、岡田有希子さんのCDを何枚か購入しました。
 死と向き合った中で、彼女の声が聞きたくなったのです。

 でも・・・何も感じませんでした。
 デビューしばらくの歌はたしかに好きです。
 しかし人気が急上昇しだし名曲と呼ばれた歌は、ひじょうに技巧をこらした歌い方をしているのですが、何か魂を削りながら歌っているようで、痛々しく感じられました。
 少し聴いて捨てはしませんが、もう私には必要ないと思いました。

 私は長期療養とはなったが生きられた。

 「ゆっこが死んだからこそ、私たちは生きないとな」と思った。

 しばらくして街で、野島伸司ドラマの主題歌になったレベッカのフレンズが流れていました。

 遺書が公開されないから彼女の死の真相はわからない、ただ私たちが若さでどんな光を放っても、決して照らせない暗黒がこの世にはあるのだなと思った。

 ゆっこは亡くなって怨霊になったとは思えない、きっと神となり高度成長の時に生まれた世代を見守っているのだと思います。

 彼女は亡くなっても光輝いている、彼女は勝利者なのですよ。

 (ニッポンへの発言
キーワード 岡田有希子の三十三回忌=中森明夫 2018.5.16)
https://mainichi.jp/articles/20180516/dde/014/070/006000c

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2018/4/9  2:47

両親には大切に育てていただきました  自我(エッセイ)
 私は別に両親のことを恨みに思ったり、そういうことはないのです。
 大切に育てていただきましたしね。
 ぼんさんでいいのですよ。
 すべて過ぎたことです。

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2018/4/8  5:54

私は暴力塾をやめたので期待されていなかった  自我(エッセイ)
 私は小学校の頃に暴力塾をやめたので、親の期待が薄かった。
 別になんということもない、ほとんど寝ていなかったので成績が下がり続けていたし、木の棒で頭を殴られ失神し肺炎になり身の危険を感じた。

 それだけのことである。

 実は親は塾に入る前から暴力がひどいことを知っており、知り合いの子が自殺をしたいとまで思いつめていたのを、親にすすめてやめるよう励ましたというのだ。

 その子については話だけ聞いており、やめたあとも教師は目の敵にしていた。

 おそらく私の親が、やめるようすすめたことも知っていただろう。

 ここがうちの親の面白いところだが、他人の子におこったことが自分の子にはおこりえないと思うのだ。

 なぜそう思うのかわからないのだが、親も若かったのだろう。

 私は入塾したあと、なぜ自分が目の敵にされたのかわからなかった。

 性暴力事件があってからさらにひどくなったので、不潔だと思われているのかと思っていたが、どうもそれだけではなく最初からつけ狙っていたようだ。

 それはともかくやめて成績はV字回復したが、親は異様なほど私には根性がなくモノにならないと思い込んだようだ。

 祖母も体が小さい子なので、同じように考えていた。

 なので・・・「この子に学歴はいらない」と考えていたのだ。

 結局・・・高校で優等生すぎると運命に抗うことは難しい、あのような感じで滅茶苦茶やっていて正解だったのかもしれない。 

 まあ結局は私のお金を1/3使って大学に行った。

 首都のど真ん中にある大学生だとアルバイトと思うようだが、大学周辺が田畑とゴルフ場ではアルバイトもない、そのかわり物価やアパート代が安いのでそれで切り詰めるのだ。

 父の死後に1/3のことを知って残念だったが、そういえばお金なかったなと思う呑気なところは、どこか親に似ているのかもしれない。

 父とはあまり会話がなかったが、死後いつも私のことをほめていたと聞いた。

 部活動のことを評価してくれてはいたが、不思議な感じがする。

 それにしても行った大学は祖父母のお導きでしょうね、あんなことありえないもの。

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2018/3/26  4:31

中学時代の模擬試験の失敗  自我(エッセイ)
 前にも少し書きましたが、高校進学が学区外になったきっかけになった模擬試験について思い出すことを書いてみます。

 当時の神奈川県は厳しい学区制がしかれていたので、模擬試験は学区がどこに属するのか書き、その学区の高校の合格確率を出力していました。

 ところがある模擬試験で学区を2つ書ける試験がありました。
 私は書いても意味がないと思ったのですが、「そうだ、友達との話のタネにしよう」と考え、中学校の学区を書きました。

 結果は案の定、1位校にはわずかに届かないが2位校の2校は併願で届く、私の母校となる横浜日野高校は専願で確実と出ていました。
 2位校と横浜日野高校はほとんど差がないのですが、当時は学区が変わり最寄駅が学区から切り離され不振に陥っていたのでそうなりました。
 友人と見せあい「やっぱりそんな感じなんだね、惜しいなあ学区が同じなら同じ高校に行けるのに」、「うん・・・」そんなやりとりをしていました。
 小学生の時が「高校は学区の高校に行くように」と、役所からも親からも言われていたので、友人と別れるのは辛かったですが当然と考えていました。
 迷いはまったくありませんでした。

 ところがそれを見て色めきたったのが両親でした。
 両親は学区内の高校の、あまりの不便さに悩んでいたのです。
 それにまったく友人のいない高校に、息子を行かせることにも不安感を感じていました。

 学区外は枠がなければ入れない、どんなよい成績をとっても枠がなければ駄目、中学の先生から何度言われても聞く耳持ちませんでた。

 私は学区内の高校に行きたいというのを、怒鳴られ続け2ケ月くらいで翻意を余儀なくされました。

 今でもあの模擬試験で、中学校の学区を書いたことに後悔があります。

 しかし「これも運命だったのかな」と思っています。

 大学についても、祖父が亡くなってすぐに祖父のふるさと近くの大学になった不思議な縁があります。

 高校の合格発表を中学の皆で見に行った時、帰りに日野公園墓地に眠る仏様に報告してくると、何人もの仲間が離れていきました。

 あの幸福感を私も欲しかった。

 私は心の中で泣いていて、納得できない気持ちを抱えていました。

 合格したのにうれしさはありませんでした。

 心は氷点に達し凍りついていたのだと思う。

 氷を融かしたのは高校時代の友人たちです。

 勉強は大学に行けるかわからない、家に祖父が来なければ行けなかったかもしれません。

 まったくやる気になりませんでした。

 定期テストの範囲も調べたことがありません。

 それでよく中程度の成績を維持し大学に行けたな、そんなことを最近思っています。

 大学のほど近くに何気なくある祖母の姓の地名、あそこが発祥地とは思いませんでした。

 会ったことのない祖母も導いてくれたのでしょうか?

 似ている孫がいると聞いて、「かわいいと思わないし会いたくもない」と言った祖母でしたが、あの世から力をくれたのかもしれません。

 現にあの大学に行き、私の運命は開けていったのですから。

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