遠く離れている友達が生きていると知ったとき、
とても嬉しくなります。
ああ、あの人は私の近くにはいないけれど、
同じ空の下で息を吸って吐いて、生きてるんだなあってさ。
なんか、なんていうんだろうね、会話しなくても
きっとどこかで繋がっているって思い込んで1人で勝手に
安心感を得ているだけなのかな?
そういうことがすべて幻想で、なんていったっけ、理想論だっけ?
よく知らないんだけど、突き詰めていったら悲しくなっちゃうよみたいなやつ。
あー、理想論じゃない、思い出した。
認識論だ。
物事の真理とか、そんなこと生きている間に答えなんか
出ないんじゃん?て思ってすぐに諦めてしまう(笑)
結局、思いたいように思うしかないし、もーそれでいいじゃんてね。
そうしたら、先日面白いことを聞きました。
私は仏教徒でもキリスト教徒でもないし、知識がなかっただけで、
仏教に詳しい人なら当たり前に知っている話なのかな?
八正道について。
正しいのか正しくないのかにポイントを置いて
自分の行動を決めるとするならば、
何をもって正しいとするのだろうか?という話題になったときのお話。
こういう話は宗教的であり哲学的であるので、
あまり日常的に他人と話す機会もないし (いたってフツーの凡人なもんでw)
ここにもあまり書かないようにしているのだけど、
まーたまにはいいかってことで。
「正しい」 とは何か?
私が聞いたのはこんな話でした。
1、真理は合っているかどうか。
自分本位にものを見ない。中道観。
2、調和のとれた与えられた諸々の関係。
ひいては世の中とよく調和がとれていること。
3、目的に合っているかどうか。
その時その場の目的に合った行動が出来ること。
なんだろね。難しいわ。だいたい真理がなんなのかを答えようとしたら、
ほんとにわからなくて頭から煙出んね^^;
だからそういうことはあまり深く考えすぎてはいけにゃいのよ。
真理はね、死ぬまでに理解すればいいし、
もしかしたらすでに知っているのかもよ?とかその程度に
かなり自分に都合よく思うことにしてる(笑)
死ぬまでとか言っても、死が生の一部だとか考え出したら
これまたキリがない!
で、結局、私にその話をしてくれた人は、
人生において、自分のしたいことをしたいようにしなさいって言ってました。
他人に迷惑をかけるんじゃないか?って考えて、
まったく一歩も動けなくなることがあるって私が言ったから。
動けなくなったとしたら、動けないんじゃなくて、
本当はそれは動かないんじゃないのか?とか考える。
選択したのは自分だろう?って。
本当に動きたかったら動けばいいんだもの。
結局は誰かと関わって生きていくんだから、
そんなに綺麗に傷つかないようになんてずるいのかもね。
今日は普段の自分の頭の中を公開してみましたこの記事で。
それというのも昨日もまたもや飲みすぎて、
たぶん小難しいことを考えることによって
自分の脳みそは酒でイカれてなんかいないんだよーって
そう思い込みたいんだと思います。あはは。