2008/12/9

ファジル・サイ・プロジェクト in Tokyo 2008  第4夜 デュオ with コパチンスカヤ  演奏会

ピアニストのファジル・サイをフィーチャリングする、「ファジル・サイ・プロジェクト」が4夜連続で行われている。その最終日、7日のヴァイオリンとのデュオ・公演に出かけた。お相手は、トルコ出身のサイに対して、モルドバ出身の才媛、パトリツィア・コパチンスカヤ。2人とも、いまヨーロッパでもっとも勢いのある、個性的な若手演奏家といえるだろう。私は、東響への初出演以来、サイはひいきにしている。一方、コパチンスカヤの勇名はよく聞いていたが、実演はこれが初めてだ。

まず、この2人、間違いなく基本的なスキルの高さが際立っている。伝統様式に則った模範的な演奏は、いつでもできる。アンコール・ステージにおいて、サイが披露した「エリーゼのために」が象徴的だろう。ああした基盤は、しっかりしている。だが、その曲がやがて、ポップで、ジャジーな音楽に変容してしまうように、彼らの発想の自由さはそれに飽き足らないのだ。彼らは彼らにしかできない、誰にも代わりの効かない音楽をやりたいのである。彼らのルーツの問題もあるだろう。だが、それだけではない。音楽家としてというよりは、ひとりの人間として、彼らはひとつの信念を抱いているのだろう。

最初の、ベートーベンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」は、その象徴的な演奏だ。トルストイがこの作品のもつ雰囲気を下地に、不倫を疑う夫が細君を殺害してしまう悲劇を描いたように、もともとデモーニッシュな感じのする作品だが、そこを巧く捉えた演奏だ。特徴は2つあり、トルストイが描いたように、艶めかしい男女の絆を象徴するように、よく煮込まれたヴァイオリンとピアノの響きの親密さが、この上もないほどに強調されていること。もうひとつは、中央アジアのステップ地方にまたがる2人のルーツを感じさせるように、開放的で、野性味あふれる演奏である。特に、第2楽章までは、これらの特徴がうまく噛み合い、他の追随を許さない個性的な、しかも説得力ある演奏に仕上がっていた。

第1楽章では激しい走区を巧みに使い、後者の特徴が際立っている。だが、サイのピアノもさることながら、コパツィンスカヤのヴァイオリンのフレージングの美しさ、リズムの処理の天才的なまでのバランス、もちろん、音色の美しさ、完璧なまでに整った音程の精確性などが素人の耳にもわかり、オーソドックスな演奏に勝るとも劣らない美しさを湛えていることが、特筆に値する。第2楽章は、ピアノとヴァイオリンの響きの結びつきの妙が訴えられ、第1の特徴が満載である。意匠を凝らした変奏の面白さが無類であり、ヴァイオリンの細かい音をつかったキュートな表情や、ピッチカートのふくよかな音色は驚くべきもの。2人はアイ・コンタクトもとっているように見えないが、完璧にお互いの動きを把握し、絶好のタイミングで、必要なアクションが起こり、しかも、強弱や細かいテンポの動き、フレージング、場面ごとに訴えたい要素が、奇跡のようにシンクロしている。

まるで、兄妹のようだ。

それでも、前半はまだ、控えめだったのかもしれない。後半の演奏曲は、曲目に対するオーソドックスなイメージをサラにして聴かねばならなかった。ラヴェルの「ヴァイオリン・ソナタ」は、まるで現代作品のような構造の崩し(もしくは、強調)がみられる。どこをどうするとあのような演奏になるのか、私のような素人にはわからないが、通常、ラヴェルの作品にイメージされるスイス時計のような精巧さ、オシャレな響き、すこしの物憂さというものが、あるものは限界まで強調され、別のものはまるで感じられない。いまにして思えば、「精巧さ」の限りない強調なのであろうが、にもかかわらず、響きの柔らかさはむしろ高められている。

第1楽章は、ピアノにさほど自由度がないはずだが、サイはぎりぎりまでルバートを粘って、コパチンスカヤのヴァイオリンに遊びをつくると、彼女もこれに応える。第2楽章「ブルース」以降は、もはや、お墨付きを得たようなもので、きわめて自由な演奏が展開される。気まぐれな音の動き、リズムの処理を目一杯に生かして、ラヴェルが踏み込みきれなかった夢の世界に、彼らがいとも容易く踏みいっていくのをみて、私は可笑しくなってくる。コパチンスカヤは、やたらとピッチカートがうまく、大事な1834年製「プレッセンダ」が壊れてしまうのではないかと、心配になるほどだ。その流れは次の楽章になっても、もはや戻ることはない。

よく知られた技巧的な「無窮動」は、ただ弾き上げるだけでも難しいはずだが、彼らにとっては朝飯前というところなのか。ここぞとばかりに響きを伸縮させ、楽譜の動きを最大限に膨らましてみせるのだから、たまらない。

セーケイ編によるバルトークの「ルーマニア民俗舞曲」は、もはや原曲からは程遠いが、生き馬の目を抜くがごとき技巧のキレ、そして、彼らのルーツにちかい作品での自然な息づかいに、嘆声が上がる。

最後は、サイ作曲のヴァイオリン・ソナタ。彼の作品は特徴があり、最初と最後に同じような旋律があり、中間は独特なメランコリックな響きと、民俗的なもの、当たり前のように配される技巧的なフレーズなどをひとめぐりして、元に戻ってきたとき、既に旧知のものとなっている素材が、先程とはまるで別のもののように聞こえてくる。ここで、聴き手を異世界にトラップさせ、単純だが、味わい深い体験をさせてくれる。「ブラックアース」がその典型だが、この作品もそうだ。内部奏法で、トルコの民俗楽器を思わせる響きをつくるのも、もはやお馴染みのことになった。この作品はフレーズの繰り返しが多く、和音の進行や、ヤマの作り方が、ライヒの作品にも酷似しているのが特徴となる。

何年も前からこの作品を弾いてきたように、すこしの澱みもなく、作品をひとめぐりしてきた2人。最初の部分に戻ってくると、わかっていても感情が昂ぶってくる。だが、それはサイの音楽の仕掛けに、もうひとつ大事な要素が加わったことにも関係している。それは、コパチンスカヤの演技力である。この日の演奏は、コパチンスカヤを主演とする一編の映画に等しかった。既に書いたような音楽的な遍歴が、この主演女優の人生を描き出している。最後、彼女はいちどは愛したオトコから離れていくように、常に向き合っていたピアノと別れを告げ、客席に正対して演奏しはじめる。そのとき、正にオンナは去っていった。このときの表情も、写真に撮っておきたかったぐらい。こちらをすこし見やったピアニストの視線に、もはや彼女の姿は入らない(あれは偶然なのか?)。そして、寂しげに音楽は閉じる。

なんとも、舞台芸術家ならばともかくとして、こうした音楽家にも「演技力」が必要なものだとは、初めて知った。この2人のパフォーマンス、決して模範的な解答ではなかろう。だが、ときに、このような視点の提供は、音楽の解釈が常に自由であるという、前提的なことを思い出させる。もちろん、クラシック音楽に是非とも求めるられる、フォルムの重要性を甘く見てはいけない。しかし、そういったものから、彼らは逸脱しすぎているのかどうなのか、私にはわからない。少なくとも、小曽根真が弾くモーツァルトと比べると、格段にフォルムの意識は高く、なんといっても、クラシック音楽家の演奏としての威厳は、まったく失われていない。

・・・Aにつづく。
0





コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




Powered by teacup.ブログ “AutoPage”