2008/12/7

渡邊孝(指揮/チェンバロ) タメルラーノ ヘンデル・フェスティバル・ジャパン  演奏会

三澤寿喜を実行委員長とするヘンデル・フェスティバル・ジャパンは、来年の歿後250年のメモリアルに向けて、2003年から継続的におこなわれ、講演会と演奏会の両輪で頑張ってきた団体だ。これまでは伺う機会がなかったが、その公演の質のよさは評判になっていた。ようやくにして、記念年の1年前の公演に間にあったわけだ。講演会はパスしたが、日本初演となる珍しい歌劇「タメルラーノ」を拝見した。なお、ドイツに生まれ、英国で活躍したヘンデルだが、この作品はイタリー語で書かれている。

休憩を除き、3時間を越える上演時間。演奏会形式。衣裳も普通。簡単な動きさえもつけない上演を選んだ。作品は全体としてみると華やかだが、どちらかというと、渋めと感じる人が多いだろう。観るほうにとっては、やや辛い環境ではある。こういう形でやるからには、かなりの自信がなければできないが、すこし疲れはしたものの(もともと体調が悪い)、高いハードルを十分に乗り越えるパフォーマンスだったと思う。外国人の助けを借りない公演で、このレヴェルまで辿り着いたのは、素直に凄いと感心する。

【作品と編成について】

この作品は、1724年の作。ロンドン時代の、もっとも充実した時期だったという。タメルラーノは、ティムール帝国を創建した英雄。数年前にエウローパ・ガランテが上演した、ヴィヴァルディの「バヤゼット」とまったく同じ素材である。バヤゼットの娘、アステリアと、ギリシアの王子、アンドローニコの恋仲を知らず、王者、タメルラーノが横恋慕。許嫁だったトレビゾンドの女王、イレーネ、虜囚のトルコのスルタン、バヤゼットの人間関係が、激しく絡みあう。

歴史絵巻を借りてはいるが、作品の本質に政治的なものはなく、親子の情や恋人たちの信頼と疑念、人間としての誇りと恥辱、怒りと喜び・・・などのテーマが、前面に掲げられ、音楽的な繊細さで結びつけられていくのは、先日のロッシーニ「マホメット2世」と同様である。

編成は小さく、この催しのための特別編成による「キャノンズ・コンサート室内管弦楽団」の編成は、vn:4(対向配置)、va:1、ob2、fg:1、ft:2、リコーダー:2、cl:2、vc:2、cb:1、チェンバロ(通奏低音)であるが、場面によっては役割を与えられていないパートも少なくなく、実際、この半分くらいで演奏するシーンが多かった。なお、指揮はチェンバロ弾き振りで渡邊孝が執ったが、オケもお馴染みの国内古楽団体、国内オケのほか、イル・ジャルディーノ・アルモニコ、レザール・フロリッサン、イル・コンプレッソ・バロッコ、ベルン響(副首席)などの一線で経験のあるメンバーが揃い、少数精鋭というところだ。コンサートマスターは、松永綾子か。

【アンドローニコとアステリア】

さて、演出がないので、話題の中心は歌手たちとなる。

この作品では合唱がなく、重唱も少ないし、ダ・カーポ・アリア(ダル・セーニョ・アリアを含む)を中心としながらも、多彩なレチタティーボ・アッコンパニャートとセッコにより、構成されている。このシステムは、歌手にとってきわめて辛い。エウローパ・ガランテの公演のように、1人1人の歌い手が相応の技術力をもっていることは前提として、役柄を演ずるに適した声や特性をもっていることも必要だし(その点、初演時のキャストと声質が紹介されているのは鑑賞の助けになる)、切れ切れではあっても、ひとつにまとまっていくチームとしての統一感がなくてはならない。その点で完璧とはいかないが、今回の上演は優れていた部分が多いように思う。

プログラムでは、当てられている歌いどころの多さなどを含め、バヤゼットが本質的な主役であると書いている。しかし、今回の上演をみる限り、バヤゼットの存在が浮かび上がってくるのは、後半になってからではないか。それまでは、若い2人(アステリアとアンドローニコ)のすれちがいと、結びつきが中心で描かれているように思われ、そこに権力者であるタメルラーノの横恋慕が絡む、典型的な展開になっている。

第1幕を締めるアンドローニコのレチタティーボ+アリア、第2幕を締めるアステリアのアリアは、きわめて印象的に出来ており、それもこうした印象を強める。例えば、第1幕の最終場では、深みのあるアッコンパニャートを歌ったあと、アリアでは激しい誤解と批判に曝されながらも、恋人の愛情を強く信じるアンドローニコの心情が吐露され、胸を打つものがある。そうした効果は、波多野睦美の情熱的ながらも、涼しく、爽やかな歌唱により、はじめて可能となるものだった。

アンドローニコは、本来はアルト・カストラートのために書かれた役だが、波多野は無理にオトコっぽさを出そうとせず、自然体で歌っているのが、逆に成功している。彼女の働きはこの上演を支えるキーとなっているが、後半はバヤゼットらに主戦場を譲り、作品の構成をしっかりと捉えた歌唱で、フォア・ザ・チームの姿勢を守ったことも評価したい。第1幕第3場、自らの呪われた役割を嘆きながら、アステリアの気高さを歌うアリアでは、「麗しきアステリア・・・」という一声だけで、彼の想いがはっきりとわかる。直後の行間に滲む感情にも、深みがある。抜群の表現力に加え、レチタティーボの美しさも無類だ。

さて、アステリアは、第4場の登場までにどんどんハードルが上がっていく。なにしろ、彼女が出てくるまでに、タメルラーノとアンドローニコが褒めまくるのだ。それに見合う声でなければ、誰も納得しない。その点で、佐竹由美の登場は、無事に済んだというべきだろう。鮮やかな桃色の花柄が浮かぶ、イエローのドレスもぱっと目を惹く。彼女の声はニュートラルで、波多野ほどの傑出した表現力はないものの、よく鍛えられていて、硬質な、美しい響きだ。

第2幕の最終場は、復讐を誓ってタメルラーノを襲うために近づいたのが、騒ぎが大きくなってしまったため、自分の計画をばらして、父とアンドローニコ、イレーネの信頼をとりつける場面だ。彼女は、それぞれの人たちに自分に非がなかったことを認めさせ、最後、自らのアリアで締める。佐竹らしい真っすぐな歌いくちで立派に締めたが、さらに、第3幕でギアが変わる。歌えば歌うほど、声が透き通っていく佐竹のパフォーマンスが、アステリアとバヤゼットが追い詰められていく場面で、いっそう輝くことになる。

【タメルラーノ】

この作品で、タメルラーノは名君と暴君の間を行き来する。前半では横恋慕はしながらも、人格者としての側面も見せている。だが、アステリアが旗幟を鮮明にしていくにつれて、かわいさあまって憎さ百倍ということになる。大きな人格と、それが破裂したときの恐さ。そうした役を女性が歌うというのは、ある意味では自然なことだが、難しい面もある。これも、初演時はアルト・カストラートの役で、メッツォ・ソプラノが歌うには、すこし困難そうな場面も含まれる。感情が高まり、早口になるのを表現するような急速なフレーズでは、例えば、カウンター・テノールが歌えばうまくいきそうな音域でのアジリタがあり、さしもの山下牧子もすこし辛そうな感じがする。

しかし、総じて帝王らしい強い声をPRできており、特にレチタティーボの歌い方には工夫もみられる。この役では、アリアよりもレチタティーボに特徴があり、そのため、アリアで若干の歌い損ないがみられても、良いタメルラーノだったと思う。怒りの場面の激しさも素晴らしいのだが、どちらかというと、紳士的に振舞おうとするときの歌唱の上品さや、優しさを表現する場面に持ち味がある。二期会でのシーザーのときと比べても、成長がみられた。

【バヤゼット】

そして、バヤゼット(辻裕久)である。前半に関しては、バヤゼットの人物描写は、(作品として)焦点が絞られていないと感じた。あしかし、辻はものすごく強い声、魅力的な美声ではないが、構造をしっかりと追った歌いくちが見事で、このフェスティバルの実行委員を務めるだけのことはあった。

第3幕で、バヤゼットの存在がぐんと表に出てくる。それが「発見」されるのは、第3幕の最初の場で、父親らしい毅然とした振る舞いを娘にみせたときだ。それまでは、すこし空回りだったバヤゼットの強硬な姿勢が、若い2人の未熟さを暴き、タメルラーノの欺瞞を衝く。そのとき、作品の真の主人公が階段を上る。第8場の後半で死を決意し、第10場で憤死するまでの場面は、圧巻だろう。付け足しだが、第9場のレオーネの口上のなかで、援軍の将軍が捕らえられたのを目の当たりにし、決意をさらに固める様子が伝えられるのは面白かった。普通はアリアで決意が歌われるところだが、第三者の客観的な報告で伝えられるという発想は珍しくも効果的だ。

いよいよ、第10場のアリアは技巧的にも工夫が凝らされ、あらゆる要素が絡みあって難しいナンバーだろう。ヘンデルはここで、静かな冥界の響きにバヤゼットの歌を乗せ、先日の「オルランド」の忘却の川でのシーンにも似た不思議な雰囲気をつくり、ときどき、ぬっと強い響きを歌わせては、無念のなか死んでいくバヤゼットの想いを固めていく。辻はこうしたパーツを丁寧に組み立て、内部に深く掘り下げられるバヤゼットのこころをイメージさせる。

最後の場で、タメルラーノ、アンドローニコ、イレーネ、レオーネによる4重唱となるが、これは明らかに、バヤゼットのためのレクイエムだろう。全編でもっともスイートで、シンプルな重唱は、いま思い出しても涙が出るほどだ。山下、波多野、背戸、牧野の声がよく溶けあい、よい歌手の組み合わせを選んだものだと実感させるパフォーマンスだ。

なお、あまり触れられないが、背戸裕子の個性的な発声は、イレーネの存在感を強めていたし、牧野正人の思いきった歌唱も、この役の不思議さをしっかり印象づける。アリアはひとつしかないが、この役は意外と美味しいところを歌う。例えば、先程のバヤゼットの決意を報告する場面があるし、さり気なく権力者を指弾する台詞があり、アリアの部分も、この作品のなかにある僅かに哲学的な部分を明かす。いわば、ヘンデルの控えめなメッセージが、このオトコに託されているように思えた。

プログラムによると、初演時にこのレオーネ役を歌ったバス歌手とヘンデルは、イタリー時代からの旧知の仲だったそうで、(当時は)彼らの間でしかわからなかったようなメッセージを、うまく埋め込んで笑いあっていたのかもしれない。

・・・Aにつづく。
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