2008/2/20

小川典子 ピアノ・リサイタル デビュー20周年記念 2/19  演奏会

ピアニストの小川典子が、デビュー20周年を自ら祝う、記念のコンサートに臨んだ。プロ奏者として20年ものキャリアを築くだけでも、そう簡単なことではないが、そのアニヴァーサリーをこんなホールで飾ることができる人は、さらに少ないだろう。会場としてこの人が選んだのは、ロンドンであればウィグモア・ホール、NYであればカーネギー・ホールといった格に相当する、サントリーホール(大)であった。それでも、この大きなホールが7割ぐらいまで埋まっているのは、健闘というところだろう。国際的に評価される実力とは裏腹に、国内知名度はずっと控えめであるのは惜しいが・・・。

小川典子のピアノは、一見(聴)するところ、とても奔放である。だが、実際には、その演奏は徹底したアナリーゼに基づいており、ナチュラルな曲想づけ、スッキリした音楽の流れを生み出している。一方、ときには聴き手からしてもヒヤヒヤするような(技術的に不安定なのではない)思いきったアタックや、この日のアンコール、リストの「ラ・カンパネッラ」でも強烈に印象づけたような、解釈の大胆さも指摘できる。20年前の彼女がどんなであったか、私には知る由もないが、これほど自由な演奏ができたとは思えない。正しくこの日の演奏は、小川がこの20年でどのような自由を得たかの報告であり、今後は、それをどのように扱っていくかという力強い宣言でもあった。

【作曲家とピアニストによる優れたダイアローグ】

メインとなるリストの「ロ短調ソナタ」が素晴らしかった。前半のドビュッシーは、なかなか実演に接することのない難曲で、小川の優れたプレゼンテーションに耳を傾けるかのような感じが先に立ったが、このような曲目では、まったく事情が変わってくる。このソナタは、若いピアニストたちがよく選ぶ曲目でもあり、実際、ここ何ヶ月かの間に、ジャン・=フレデリック・ヌーブルジェやイム・ドンミンの演奏で、この曲を聴いている。だが、ものが違った。

3つのテーマがモザイク画のように複雑に組み合わされた曲目だが、1つ1つのピースが、前半のドビュッシーのエチュードのように、しっかり磨きこまれていることがよくわかる。その上で、その継ぎ目までが慎重にデザインされ、研磨されていることで、小川の音楽のベースは相当に堅固なものになっている。揺らぎのない表現だ。それがあるからこそ、彼女はこの凝縮したソナタ1曲のなかに、様々な感情を詰め込むことができた。あるときは、昔を懐かしむようなメランコリックな表現、また、あるときには、いまを生きるような快活な響き、そして、もはや迷うことなどない同音連打の確信に満ちたハンマー・・・。それらは一見して、ばらばらなクラスタに過ぎないが、小川典子という存在が、こうした「力」を結びつけているのだ。

リストというと、技巧的で華やかな面ばかりが強調されがちだが、小川の演奏は、そうした面を背景に使いながらも、より深彫りした楽曲とピアニストの対話になっている。最後の強奏部分はそれまでの素材と同じものであるが、中間の重いダイアローグが楔となっており、これを背負って、正しく天に昇っていくような荘厳さを感じさせるようにメタモルフォーズしている。なお、こうした力強い打鍵でも、まったく音が濁ることがなく、小川のリストはまったくもって美しい。それを過ぎて、大詰めのフレーズも既に現れたものだが、序盤の種蒔くような芳醇な響きが、静謐な祈りの言葉の断片へとメタモルフォーズしている。このいずれもが、若いピアニストたちの絶対に到達することのない高みを、我々に見せてくれた。若者たちよ、この曲は君たちには弾けない!

【ドビュッシーの独特の構造感】

前半のドビュッシー「12の練習曲」は、癌におかされた作曲者が書いた晩年の作品である。この曲も「5本の指のために」「3度のために」・・・などと役割の決まっているエチュードの形をとっているが、そうした技巧的な要素をまったく忘れさせるぐらいに、小川の演奏からは深い思い入れが伝わってきたし、また、この上もない自由さを感じ取ることができた。そもそも、この曲には当時の音楽的なイディオムが豊富に取り入れられており、ドビュッシーにとって、その仕事の集大成的な意味をもっていたのかもしれない。

一般的には、6曲ずつ2部に分かれるとされるが、私はさらに3曲ずつ分けて受け取るのがいいと思った。そうすると、1曲目に自由な前奏が置かれ、2曲目にそのパートの心臓となるような部分が提示される。3曲目で意外な展開をみせながらも、最終的にはパート全体をしっかり締め括るという構図が明らかである。ただし、3曲の関係はそれぞれ独特であり、この点、整然とした規則性のあるバッハの「平均律」などとは、発想を異にしている。鼻歌のようなドレミファソファミレで始まる第1曲から、小川のアイディアは冴え渡っている。第2曲で早くも悠然と構えを築いた彼女は、第3曲をあまりにも自然な東洋的イディオムで彩りながら、颯爽と弾きあげる。このパートが、全体の印象を支配する鍵だとわかる。

第2パートから、かなり遊びが出てくるのがわかる。6度と9度の交代が優美な第4曲のしなやかなラインも印象的。第6曲の手ごたえのある響き。第8曲の舟歌風のスイング感も見事だ。パートとしては、肩透かしのような第3パート(7−9曲)の、ふうわりしたイメージが、特に印象的である。

ピースとしては第11曲が白眉で、最後のパートの心臓部分を構成するだけあって、小川も非常にユーモラスに演奏している。ドビュッシーというと、構造の堅固さを犠牲に使って、響きの自由な動きや、意外な輝きを求めた作家という感じがするが、彼女の演奏によれば、そうであっても、ドビュッシーの独特の構造感が演奏にとっていかに重要であるかが明らかだ。カッチリした古典的なゴシック建築ではないが、小川のイメージはガウディを思わせるような、ある種の自然さを獲得している。これは、並大抵の努力で実現するようなことではなく、ピアニストの真摯で、粘りづよい苦労を物語るものである。直線的な据わりのよさではなく、合理的な曲線の美が、彼女の描くドビュッシーの根底にあるのだが、そこに辿り着くまでに、小川はどれだけの犠牲を払ったのであろうか? こうしたデザインが、11番でもっとも徹底されており、正に息を呑む演奏であったといえる。

【小川の新しい決意】

藤倉大に小川自身が委嘱した「リターニング」は、数分のミニチュア的な作品だが、これが日本初演。ドビュッシーと、アンコールで演奏した「ラ・カンパネッラ」を繋ぐような、機械的な側面を、コンピュータを叩くような現代の響きで、アイロニカルに表現した。だが、曲としては焦点定まらず、前後の2曲からは、あまりにも見劣りがする。少しばかり手抜きな感じがするのも否めないところだ。サイトウキネンへの作品といい、ここのところの藤倉の作品は、かつての才気煥発な部分が薄れ、手馴れた感じで詰まらなくなっているようだ。小川としては、このような未来を担う若手作曲家からも必要とされる、もしくは、彼らにインスピレーションを与えつづけるような存在でいたいし、そうして上がってきた作品を、自ら演奏していくことも義務だという想いなのであろう。

【アンコールとまとめ】

アンコールは、リストの「ラ・カンパネッラ」と、ドビュッシーの「沈める寺」。後者は小川としても得意の曲目であるので、もはや驚くには値しないが、それでも、こころのこもった素晴らしい演奏で、彼女だから驚きこそないものの、ずっしり胸に響く、極上の演奏だ。前者は、右手を異常なほど効かせて、左手のしなやかなカンタービレで聴かせた。この曲はフジ子・ヘミングの十八番で、それが圧倒的に有名だが、比べるべくもないほど小川の演奏が凄い。右手の「鐘」の圧力が煩いほどなのに、そこから抜けてくる左手のカンタービレの透き通った美しさ!

これに象徴されるような、少年(なぜか少女ではなく、少年といったほうがしっくり来る)のようなピュアな部分が、小川典子というピアニストの最大の魅力かもしれない。彼女は物珍しい蝶を見つめる少年のように、目を輝かせてピアノに向かう。ずっとではなく、そういう一瞬を見せるときがある。そんなとき彼女は、実際、弾きながら、何かを見つけているのかもしれない。そんな表情を見せるピアニストは、なかなかいないように思うのだ。プロとして20年も続けたピアニストが、そんな表情を失わないでいることが凄い。私は彼女のピアノを弾くとき、毎年、年末のベートーベンを通しで聴くときに匹敵するほど、いろいろなことを考えさせられる。この日もそうだった。

とにかく、20周年、おめでとう。そして、今後のさらなる純化を祈る。
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