2009/10/20

プレヴィン カプリッツィオ with フェリシティー・ロット N響 A定期 10/18  オーケストラ

10月のNHK交響楽団は、今季から首席客演指揮者の椅子に座ったアンドレ・プレヴィンが指揮する。そのうちのA定期を聴いた。

メインは、リヒャルト・シュトラウスの『家庭交響曲』だった。前半2部はいささかまったりした演奏。夫と妻の主題が、けだるく絡みあう部分は妙にリアリティがあるが、響きは過度に抑制的で、どこかわびしい。全体的には管楽器の響きに総じて燦めきが感じられる分だけ、弦の内側からの押しかえしが弱いように思えて、響きに重みがないようにきこえたのが、退屈さにつながっていた。この年齢になったプレヴィンはときどき、こういう瞬間があって、思わぬところでがっかりさせられることがある。

アダージョを境に、穴倉から広い野に出ていくような昂揚が伴い、ようやく演奏に身が入ってくる。いたずらに響きを華やかにせず、ゆったりと「家庭」の実態を描いていくような演奏は、作家・プレヴィンによる「私小説」を読ませられる想いだ。

演奏会の冒頭を飾ったのは、ベテラン作曲家のなかでも人気の高いヴォルフガング・リームの作品『厳粛の歌』だったが、これはなかなか面白かった。リームは閉所恐怖症であるそうだが、作風もまた「閉所恐怖症」なのか、ひとつところに閉じ込められることをよしとしない。弦楽五部からはヴァイオリンが抜かれ、トランペットもオーボエもないという、低音の得意な楽器ばかりを集めた編成から、ずっしりとしたハードな響きで始まるこの作品も、くるくるとフォルムを変形させながら、発想が外へ外へと膨らんでいく。

フォルムの広がりとともに、それまで閉じていた窓を開け放つようにして、爽やかな空気を取り入れながら明るみへ聴き手を誘っていくのだが、最後はしんみりと落ち着いていく。プレヴィンは、こうした詩情の流れを柔らかく捉えながらも、十分に手ごたえのある音楽として提示した。最後、ずっしりふかい余韻があるのに、プレヴィンは「ここでおわり!」とでもいうようにパチンと指揮棒を鳴らし、剽軽なところをみせた。

この日の白眉は、リヒャルト・シュトラウスの歌劇『カプリッツィオ』の最後の場面。かつての名花、フェリシティー・ロットが、非常に難しいマドレーヌのモノローグを歌った。もともと大声を張り上げるタイプの歌い手ではないので、NHKホールのような巨大で、デッドな音響空間で歌うのには向いていないが、しかし、美しいとしか言いようがない。ディクションとか、言葉の表現というものを超越し、それをいかに美しく声にして、聴き手に届けるかというところに、ほとんどの神経が集中している。

ハープをバックに(劇では、その楽器を弾きながら)歌うソネットの部分を聴けただけでも、このコンサートに来た甲斐があった。

ロットも素晴らしかったのだが、間奏曲〈月光の音楽〉をしとやかに歌い上げて以降、オケの伴奏は終始、見事なものだった。特に、音色の柔らかさは、ほとんどピットに入ることのないN響の演奏とは思えない。声の細いロットへの寄り添い方も丁寧だし、劇場オケでしかできないはずの表現のしなやかさは、マドレーヌの味をハッキリと引き立てるものだ。

ところで、マドレーヌ(菓子)というのは、バターと小麦粉の奇跡的な出会いである。その名前に寄せて、この劇では、詩と音楽の奇跡の出会いが色恋に重ねられて、あくまでシャレとして表現されているわけだが、それを立体的にするのは、役者のうたう歌声とオーケストラの伴奏の、あまりにも、あまりにもとろけるような出会いである。そのことを表現するのに、これほど成功した演奏というものは、それほどあるわけではない。

ロットが歌いおわったあとの後奏は、両者の幸福な結びつきを象徴するものとなった。ゆったりと立ち姿をつくっていたロットが、おもむろにさっと両腕を広げ、一瞬の華やかな響きを迎える場面では、胸がぐっと来たものである。それに応えるように、なおさら丁寧に演奏をつくっていくオーケストラの、深いデリカシーも目立った。最後、しんみりと弾きおわる場面の、ふくよかな余韻の艶やかさ!

プログラム構成的にも、非常に興味ぶかいものがある。例えばリームは、プレヴィンの別れた奥さんと親交がある作曲家。N響に縁のふかいサヴァリッシュが、作曲時に助言をしている。『カプリッツィオ』の甘く、切ないカップリングは、N響とプレヴィンの出会いを象徴するもの。そこに、最高のゲスト、ロットの存在が加えられる。そして、別れてしまったとはいえ、ムター夫人との経験を思い出しながら、新しい家庭「N響」を象徴しようとする「私小説」的なシンフォニア・ドメスティカ。いずれの曲も、暗いところから、明るいところへ出ていくような、光(=響き)の操作が印象的だった。

後半2曲では、見せ場のある第2ヴァイオリンが特に重く賞されていたのも珍しいことだ。

【プログラム】 2009年10月18日

1,リーム 厳粛な歌
2,R.シュトラウス 最後の場面〜歌劇『カプリッツィオ』
 (S:フェリシティー・ロット)
3,R.シュトラウス 家庭交響曲

 コンサートマスター:篠崎 史紀

 於:NHKホール
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2009/10/3

スクロヴァチェフスキ ショスタコーヴィチ 交響曲第12番 読響 サントリー定期 9/30  オーケストラ

28日、再びスクロヴァチェフスキ&読売日本交響楽団の演奏を聴いてきた。今回は、ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」を中心とした演奏会である。

メインの曲の冒頭、いきなり始まる主題が暖炉にボッと炎が上がるような柔らかさで立ち上がったあと、しばしの推移を経てトランペットの吹奏に至るまで、ぎっしり実の詰まった音楽に驚いたが、その後、しまいまでこの緊張感が解けることはほとんどない。各パートに宛がわれた響きと響きのつなぎ目が丁寧にならされ、滑らかに、しかし、がっしりとスクラムを組むように、美しくも、手ごたえを残しながら推移していくのである。

例えば、この第1楽章最初のシーケンスで、2度目のトランペット吹奏のあと、フルートの低音と、それを拾うように声を伸ばすクラリネットのやりとりを思い出してほしい。さらに、その裏でティンパニーのベース音が、低音減の響きと符合して、いかにも生きているというような、ふかい響きで聴き手のこころをノックしてきたときのことでもいい。意外性はないが、こうしたオーソドックスなグルーピングに繊細な配慮を示す、ショスタコーヴィチの音楽性がここに象徴されているが、正に、このようなポイントが数えきれないほどあり、それを信じられないほど丁寧に磨き上げた演奏で、まずは響きの美しさに陶然とさせられた。

弦を中心とした精度の良さもあるだろうが、こうした惜しまぬ努力を細々と煮詰めていくことによって、音楽の響きは無類の美しさを獲得した。それは第2楽章の虐殺シーンを含む強音においても例外ではなく、第3楽章のアダージョで主体となる静かな場面では、なおさら強烈に輝く。

こうした音楽のミルフィーユ構造に、標題性のミルフィーユ構造が重ねあわされているのも特徴的である。周知のとおり、この作品はロシア第一革命に連なっていく「血の日曜日事件」を素材とした標題的な作品であり、映画的とも言われるような部分がある。しかし、映画よりも、音楽のほうが重ねあわせの構造をより大胆に使うことができる。

例えば、第1楽章冒頭のテーマは象徴的で、事件の結果、浮き上がってくる哀しみ、怒り、祈り、魂の克服などの要素を、一気に象徴できる。第2楽章の前半部分は民衆の請願行動の昂ぶりとして説明されるが、実際には、既に虐殺の場面と重ねあわされている。この「1月9日」のアレグロは、弦楽四重奏曲第8番の三連符のように、どこからともなく昂揚していくテーマを、金管と打楽器でたちどころに打ち砕いていくという構造的な特徴がある。

スクロヴァチェフスキはその最初のシーケンスを強調し、映画のように、ここはこの場面と分けられないような修羅場に来ていることを、まず聴き手に実感させ、それぞれのシーケンスを一回的に印象づけていく。引いては寄せてくるエピソードは、悲劇の重苦しさだけを象徴するのではなく、そこにへばりついている人々の生命力の確かさを同時に刻みつけるようである。オーソドックスな交響曲のやり方を利用して、これら象徴的な素材に託されたイメージを多層的に重ねていけば、作品にまつわる標題性を重ね合わせたり引き離したりするのは容易だし、それらを同時的にアピールすることも不可能ではないということだ。

そうした意味でも、無論、虐殺のシーンは重要だが、今回、その直後に訪れる沈黙の深さにこそ、演奏の力点が置かれていた。それはアダージョで引き延ばされ、とりわけ、ヴィオラのパート・ソロはひとつのクライマックスを構成する。もうひとつ、第4楽章のコール・アングレが、このイメージを引き継いでいる。しかし、これらの楽器は通常、ひどく地味な役割しか担っていない。そうした目立たないものへの愛情がここに滲み出しているわけだが、事件で亡くなった人たちの存在が、こうした楽器において、もっともよく代弁されているのは示唆的である。

第4楽章にも、スクロヴァアチェフスキは、さらに幾重ものトリックを見出しているように見える。これに先立ち、第3楽章のアダージョには、トリオ的な部分に僅かに明るい響きになる部分がある。これは民衆の勝利への伏線となるものだが、その部分をスクロヴァチェフスキはなるべく隠すようにしている。そして、第4楽章の革命歌を両義的なものに置きなおし、正に「警鐘」と題された標題の意味にアイロニカルな緊張感を付け加えている。

だが、いかにもショスタコーヴィチ的な癖のある諧謔ではなく、もうすこし、響きそのものの味わいに迫った演奏である点は、この指揮者の真骨頂をみる想いがする。この流れで、おもむろに最初のテーマに回帰する部分の緊張感は、むしろ圧倒的なものとなる。「雪解け」を信じないショスタコーヴィチの、目立たぬ存在から送られる必死の歌声が、例のコール・アングレに託されている。長いソロだが、前半部分の緊張感がすべてを物語っているようだ。さらにこの流れを追って、響きがもういちど昂揚していくのは、自然すぎるほど自然なことだった。最後、けじめはしっかりつけた上での話だが、どこか途切れるように終結するのも示唆的であった。

今回は1シーズンのなかでも、なかなか聴くことのできない、特別な出来栄えまで達した公演であったと思う。

【プログラム】 2009年9月30日

1、モーツァルト 交響曲第41番「ジュピタ」
2、ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」

 コンサートマスター:藤原 浜雄

 於:サントリーホール
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