2008/2/21
忘れた頃に『地球へ…』アニメ感想総まとめ アニメ感想
去る2007/09/22に最終回を迎えたアニメ「地球へ…」。突っ込みどころ満載の感想も同日どうにか書き終えることが出来ました。
2クール(半年)もの間、一つの作品をここまで追い掛けられたのは本当に久しぶりでした。偏にアニメのクォリティの高さ故! でありましょう。
さて、その最後の感想で書いたように、筆者自身の半年間の感想反省会を繰り広げたいと思います。思いっきり時期を外しまくってしまった――年明けちゃったし、もう二月だし;;――のは、ご愛嬌(ごめんなさい)。えへv
自分突っ込み、独り上手がお好きな方は暫しお付き合い下さい。

地球へ… Expansion Disc I 〜さよならを君に〜

地球へ… Expansion Disc II 〜君を想う宙〜
筆者はこの感想を書くにあたって、敢えて原作本を封印してアニメのみを追い掛ける方向に集中するよう努力しました。時折「原作ではこうだった気がする」と言うような発言を、幾度かしてしまいましたが。
大きく違ったのは他でもない、ラストへ至る展開と物語の底辺に流れるテーマでありました(後程詳しく)。
筆者が答え合わせをした結果、笑ったのはスウェナの存在(筆者感想中「スエナ」と記載してきました。途中で気付いたのですが、最後迄これで通してしまいました。今回の総まとめでは正式名称で書きますです;)。
原作に彼女、ちゃ〜んと登場していましたっ!!
でも、ホンのちょい役程度でしたが。技術者の彼と結婚する...の辺りで数コマ分、名前と顔が出たくらいで、ジョミーやサムと幼なじみという設定ではなかった。
なので彼女のアニメでの出世は大したものです。
というか、よくぞあそこまで自立し、誰よりも視野の広い女性に監督は育てたものだなぁ。
同じくジョミーの両親も(これは感想初期に少し書きましたが)、良い親(理想的な父母像と言いましょうか)になっていましたねー。
思うに、原作のジョミーの記憶に残る「マム(母)」はアニメ版の姿の様な気がします。原作の母は判で押した典型的マザーの忠実な子羊だった――ジョミーの発言に危険を感じ、通告して「ESP検査」をされた――ことを思うと...。原作で母親がチクって自分が検査をされたことをジョミーは知らない筈ですし。
マムがジョミーにしてあげられなかったことをスウェナの娘にしていたことを考えると、どこまでも「人としての感情を持った」両親として描かれたのがアニメ版と申せましょう。これはスウェナにもいえると思いますが。
血が繋がっていなくても娘は娘、と言ってのけたスウェナ。果たして現実世界で同じ事を言える人はどの位いるでしょうかね? 実子ですら平気で殺す世の中ですから。
アニメ版と原作の大きな「違い」は将にここに現れているでしょう。
原作のラストは、キースがGマザーに最後迄操られ自らの意思を封じられた上でジョミーに対して発砲(射殺)しています。操られたと判り愕然としたキースが、この後に「二度と私の心に触れるな!」と言うのでした。
そしてGマザーという表層意識(と言えばいいのか...)の下に眠っていたゲームで言えばラスボス的存在の男声のコンピュータが現れ、これまでのことの真実をキースに語り、キースがそれに対して「存在の消滅」を図り、ここで実体を無くしたジョミーに自らに対して手を下せ、と言いキースも命を失います。
更に取り残されたトォニィは、最愛のジョミーを失い言葉に出来ないほどの喪失感を覚え、そこに彼等を迎えに来たのが戦いの中で散ったかつての仲間達。彼等はトォニィに「身体を捨てて来た」「共に他の世界へ行こう」と誘い、その言葉を受け容れた彼も、この次元より姿を消します。ジョミーが願い、生まれてきた“超新生児”達は完全にその存在が無くなりました。
それ以外のミュウの大半は地球に残り、人間と共に荒廃した地球に於いて生きていく事が判ります。更にフィシスはソルジャー・ブルーが「僕の女神」と彼女を神格化して視ていた様に、地球の人間達にも受け容れられました。
エピローグでは驚くことに、ジョミーとフィシスが生まれ変わり、地球人ではない人種の人間として転生して出逢う...という終わり方をしています。
筆者は正直、上記に挙げた原作の一連の流れ(物語の終わり方)だけは、どうしても納得出来ないでいました。今回読み返してもその想いは全く変わらず。
一方、アニメでは、ミュウの人々も少しだけ常人とは違った能力を持っただけの「人間」として描ききりました。ミュウ全ての人(ジョミー除く)が障がいを持った人々として描かなかったのも、その所為でしょう(個人的にはこの設定は活かしても構わなかったと思うのですが)。アニメでは「超能力者」「ESP」という言葉が一切遣われていませんでしたし。「人間」として描くのに「超能力者」というネーミングは相応しくないですものね。
それが明白になったのはフィシスの
「誰でもない、人間よ」と言ったあの言葉。
超能力者でも、マザーでも、ましてや女神でもない「人間」なのだ、と。
そして荒廃した地球を人間は見捨て新天地へと旅立ち、その代表に任命されたのがトォニィ。彼も人間として生きることを決心したことになります。
(原作ではそれでも人間は地球で生きることを選択した筈ですが)
つまりアニメでは「ミュウの物語」ではなく、どこまでも「人間の物語」を貫いたのです。だから抽象的な転生や神格化した人物を作らなかった。
人間同士の戦い(コンピュータの介在はあれども)に、それらの要素は不要と判断されたのではないでしょうか。
筆者が、原作SFの世界で始まった筈が、最後の最後で唐突にFTにすり替わったようなそれは、なればこそしっくり来ず、逆にアニメでストンと腑に落ちたのだと思います。
また、現時代を風刺していた作品でもあったでしょう。かなり痛烈でしたよ。それはもう胸がスッとする程に(国の代表者達を並べて胸に手をあて正座させて観せたい位)。
ですから『地球へ…』という原料を上手く調理した作品だと、筆者が絶賛するのはここに根拠があります。
どうしたって原作ものはアニメの出来映えを比較して視てしまいます。原作寄り視点でみてしまうと(そして原作を絶賛する方には)「物足りなさ」を感じたかもしれないのですが、中途半端に良い原作を拾っては劣化させるアニメ作品が氾濫する中にあって、アニメにおける立ち位置がしっかりしている本作に対して、筆者の評価は高いのでした。
0
2クール(半年)もの間、一つの作品をここまで追い掛けられたのは本当に久しぶりでした。偏にアニメのクォリティの高さ故! でありましょう。
さて、その最後の感想で書いたように、筆者自身の半年間の感想反省会を繰り広げたいと思います。思いっきり時期を外しまくってしまった――年明けちゃったし、もう二月だし;;――のは、ご愛嬌(ごめんなさい)。えへv
自分突っ込み、独り上手がお好きな方は暫しお付き合い下さい。

地球へ… Expansion Disc I 〜さよならを君に〜

地球へ… Expansion Disc II 〜君を想う宙〜
筆者はこの感想を書くにあたって、敢えて原作本を封印してアニメのみを追い掛ける方向に集中するよう努力しました。時折「原作ではこうだった気がする」と言うような発言を、幾度かしてしまいましたが。
大きく違ったのは他でもない、ラストへ至る展開と物語の底辺に流れるテーマでありました(後程詳しく)。
筆者が答え合わせをした結果、笑ったのはスウェナの存在(筆者感想中「スエナ」と記載してきました。途中で気付いたのですが、最後迄これで通してしまいました。今回の総まとめでは正式名称で書きますです;)。
原作に彼女、ちゃ〜んと登場していましたっ!!
でも、ホンのちょい役程度でしたが。技術者の彼と結婚する...の辺りで数コマ分、名前と顔が出たくらいで、ジョミーやサムと幼なじみという設定ではなかった。
なので彼女のアニメでの出世は大したものです。
というか、よくぞあそこまで自立し、誰よりも視野の広い女性に監督は育てたものだなぁ。
同じくジョミーの両親も(これは感想初期に少し書きましたが)、良い親(理想的な父母像と言いましょうか)になっていましたねー。
思うに、原作のジョミーの記憶に残る「マム(母)」はアニメ版の姿の様な気がします。原作の母は判で押した典型的マザーの忠実な子羊だった――ジョミーの発言に危険を感じ、通告して「ESP検査」をされた――ことを思うと...。原作で母親がチクって自分が検査をされたことをジョミーは知らない筈ですし。
マムがジョミーにしてあげられなかったことをスウェナの娘にしていたことを考えると、どこまでも「人としての感情を持った」両親として描かれたのがアニメ版と申せましょう。これはスウェナにもいえると思いますが。
血が繋がっていなくても娘は娘、と言ってのけたスウェナ。果たして現実世界で同じ事を言える人はどの位いるでしょうかね? 実子ですら平気で殺す世の中ですから。
アニメ版と原作の大きな「違い」は将にここに現れているでしょう。
原作のラストは、キースがGマザーに最後迄操られ自らの意思を封じられた上でジョミーに対して発砲(射殺)しています。操られたと判り愕然としたキースが、この後に「二度と私の心に触れるな!」と言うのでした。
そしてGマザーという表層意識(と言えばいいのか...)の下に眠っていたゲームで言えばラスボス的存在の男声のコンピュータが現れ、これまでのことの真実をキースに語り、キースがそれに対して「存在の消滅」を図り、ここで実体を無くしたジョミーに自らに対して手を下せ、と言いキースも命を失います。
更に取り残されたトォニィは、最愛のジョミーを失い言葉に出来ないほどの喪失感を覚え、そこに彼等を迎えに来たのが戦いの中で散ったかつての仲間達。彼等はトォニィに「身体を捨てて来た」「共に他の世界へ行こう」と誘い、その言葉を受け容れた彼も、この次元より姿を消します。ジョミーが願い、生まれてきた“超新生児”達は完全にその存在が無くなりました。
それ以外のミュウの大半は地球に残り、人間と共に荒廃した地球に於いて生きていく事が判ります。更にフィシスはソルジャー・ブルーが「僕の女神」と彼女を神格化して視ていた様に、地球の人間達にも受け容れられました。
エピローグでは驚くことに、ジョミーとフィシスが生まれ変わり、地球人ではない人種の人間として転生して出逢う...という終わり方をしています。
筆者は正直、上記に挙げた原作の一連の流れ(物語の終わり方)だけは、どうしても納得出来ないでいました。今回読み返してもその想いは全く変わらず。
一方、アニメでは、ミュウの人々も少しだけ常人とは違った能力を持っただけの「人間」として描ききりました。ミュウ全ての人(ジョミー除く)が障がいを持った人々として描かなかったのも、その所為でしょう(個人的にはこの設定は活かしても構わなかったと思うのですが)。アニメでは「超能力者」「ESP」という言葉が一切遣われていませんでしたし。「人間」として描くのに「超能力者」というネーミングは相応しくないですものね。
それが明白になったのはフィシスの
「誰でもない、人間よ」と言ったあの言葉。
超能力者でも、マザーでも、ましてや女神でもない「人間」なのだ、と。
そして荒廃した地球を人間は見捨て新天地へと旅立ち、その代表に任命されたのがトォニィ。彼も人間として生きることを決心したことになります。
(原作ではそれでも人間は地球で生きることを選択した筈ですが)
つまりアニメでは「ミュウの物語」ではなく、どこまでも「人間の物語」を貫いたのです。だから抽象的な転生や神格化した人物を作らなかった。
人間同士の戦い(コンピュータの介在はあれども)に、それらの要素は不要と判断されたのではないでしょうか。
筆者が、原作SFの世界で始まった筈が、最後の最後で唐突にFTにすり替わったようなそれは、なればこそしっくり来ず、逆にアニメでストンと腑に落ちたのだと思います。
また、現時代を風刺していた作品でもあったでしょう。かなり痛烈でしたよ。それはもう胸がスッとする程に(国の代表者達を並べて胸に手をあて正座させて観せたい位)。
ですから『地球へ…』という原料を上手く調理した作品だと、筆者が絶賛するのはここに根拠があります。
どうしたって原作ものはアニメの出来映えを比較して視てしまいます。原作寄り視点でみてしまうと(そして原作を絶賛する方には)「物足りなさ」を感じたかもしれないのですが、中途半端に良い原作を拾っては劣化させるアニメ作品が氾濫する中にあって、アニメにおける立ち位置がしっかりしている本作に対して、筆者の評価は高いのでした。
0