是は 私の御影石の墓石です。
其れは 123の二乗149のモノリスです。
佛陀とは
佛陀とは、インドの言葉「buddha(ブッダ)梵語」の音訳で、この世に身を置くうちに悟り(覚醒)を得た人を呼ぶ呼び名である。
特に、ブッダとして インドの2500年前の釈迦族のシッタルーダが有名である。
現代社会で、佛・仏(ほとけ様)と呼ぶのは シッタルーダ・釈迦が原型と成っているのである。
覚醒とは、全宇宙の情報と 自分の情報が合体(同調)し、宇宙の神秘を体得し、未来の宇宙に影響を与える事である。
現代用語で言えば「オール・チャンネル」か「フル・チャンネル」の人と 云えるだろうか。
17年7月20日

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ブッダ・仏陀・Buddha
生きとし生ける物の為に此の喰を受く

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2018/1/25
闇と光の世界
30・1・24
今朝のメッセージの映像は、先ず、私が昨日、禊ぎ祓いの前の世界に触れると言うか、昔の写真を見て、禊ぎ祓いの前の世界を思い出した所為か、私が屋久島を鬼ケ島だと思う程、私の財産を盗んだ人、貸した金を返さない人、何頭もの肉牛代金をくれない家畜商人、私に売った土地を二重売りしてしまう人、宝石の代金を支払わない人など、私に迷惑を掛けた人々が次々に映し出されて来た。
次に、暗い世界に、柱か、トンネルか、河川か判別できない、真っ黒な長い物が映し出されて来て、其れは細い物なのか、太い物なのかも、はっきりしない物であった。
私は、其れ等の映像から、自分は闇の世界に入ってしまって居り、自分は神の世界へのチャンネルが切れてしまって、守護霊・守護神も居なく成ってしまっていると考え始め、意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「1時47分」であったので、私は其の数字を「147・いしな・石名」と記憶した。
そして、再び眠ると、高い岩山が映し出されて来て、其の中腹の岩場の崖を斜めに、左側から右方向へと、次々に人々が歩いて登って行く様子が映し出されて来た。
其の人達が向かって居る先の方に目を遣ると、大きな洞窟が森の中に有って、何等かの神様が祭祈されている事が理解されて来た。
次の映像は、とても大きな洞窟の中が映し出されて来て、其処には年配の女性の教祖が居て、信者の人達が其の周りに数人居る事が判った。
其れから、私が其の教祖の様な女性と、神様の事に付いて話し始めると、其の教祖の姿が白くはっきりと見え始めて、段々と其の洞窟の中が輝き始め、最後には全体が日中の様に明るく成って来る映像が映し出されて来た。
其れ等の映像に付いて長らく考えて居たが、内容が理解出来ないので、起きて時計を見ると、7時25分であった。
そして、ベッドから降りて立ち上がろうとすると、頭の中に「名前を知らない」との言葉が一言告げられて来た。
私は、其の「名前を知らない」の一言で、今朝のメッセージは「言葉・真言・マントラ」に関係が有るのだと理解されて来て、其れが、昨日私に手渡された「綿の様なふわふわの真っ白い二本の棒」と関係が有り、其の棒は「言霊・ことだま」の世界に関係が有るのだと思った。
其れは、一昨日の文章に書いた「・・私が自分の頭脳と言うか、意識を探ると、黄金色の盥(たらい)の様な丸い器が映し出されて来た。其れは、ドーム野球場の様にとても広く、プールの様な丸い壁が周囲に有る空間であり、其の中には、水だけではなく物が一切何も無いので、私は、何も認識できないと謂うか、「言・事・こと」が生じない場面である。・・・」との事と関係が有り、何か、文字・言葉が一言有れば思考が動き出すし、物が一個有れば、其の物の名前で思考が動き出すが、文字も物も無ければ、人間の意識は全く動かないと言う理・ことを示唆している事に成る。
其の理・ことが、昔の人達と言うか、仏教の流派であるチベット密教の人達が「マントラ・真言」の世界を考え出し、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」を本尊としたのであろう。
其れに、聖書(ヨハネによる福音書)には「はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった。」とも有る。
そして、其の事は、仏教(釈迦経典)の法華経に有る「十二因縁起」の内容と関係が有り、一昨日の黄金の盥の存在は、其の釈迦牟尼佛の十二因縁起の内容を逆転させて、新しい「真言・マントラ・ロゴス」を組み上げて行かなければ成らないと事になるのであろう。
「法華経の十二因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/
1)無明(本来根源的な無知)は、行(形成力)の
縁(原因となるもの)である。
2)行は 識(認識作用)の縁である。
3)識は 名色(名称と形態)の縁である。
4)名色は 六入(眼・耳・鼻・舌・身・意 の六つの領域)
の縁である。
5)六入は 触・そく(接触)の縁である。
6)触は 受(感受)の縁である。
7)受は 愛(妄執・耽溺)の縁である。
8)愛は 取(執著)の縁である。
9)取は 有・う(生存)の縁である。
10)有は 生(生まれること)の縁である。
11)生は 老・死・憂・悲・苦・悩の縁である。
12)したがって
無明が滅すれば、行が滅する。
行が滅すれば、識が滅する。
識が滅すれば、名色が滅する。
名色が滅すれば、六入が滅する。
六入が滅すれば、触が滅する。
触が滅すれば、受が滅する。
受が滅すれば、愛が滅する。
愛が滅すれば、取が滅する。
取が滅すれば、有が滅する。
有が滅すれば、生が滅する。
生が滅すれば、すなわち 老・死・憂・悲・苦・悩が滅するのである。
キー「真言・マントラ」
2009/8/21今朝のメッセージの映像は、是までに無かった内容で、最後に「マサシ」との言葉が告げられて来た。
「マサシ」を検索して見たが、「正し・正しく」との言葉しか無いので、今朝のメッセージは「正に 是しか 他に無い」との意味の内容で、弘法大師空海が奥義として絡んで来ているのかも知れない。
弘法大師空海は、釈迦仏教ではなく「大日如来・マハー・ヴァイローチャナ」を御本尊とする密教の信者で、真言宗の開祖である。
「真言」とは「マントラ」の訳で「マントラ」とは「マン」が「考える・モン・悶」の意味で、「トラ」は「容器・サラ・皿」の意味で、「マントラ」とは「言葉は 人間が考える為の 器である」との意味である。
其れは、釈迦牟尼佛の訓えである、法華経の中の「十二因縁起」の内容とは反対に成っている。
釈迦は、人間は言葉を使用する事で意識が生まれ、悩みが発生するので、言葉を使う事から脱しろと訓えている。
処が、真言の訓えは「言葉(マントラ)で 宇宙の森羅万象を 動かす事が出来る」と言うモノである。
其れは、・・声明と呼ばれ、「声明(しょうみょう)」とは、日本の伝統音楽の一つ。仏典に節をつけたもので、儀礼に用いられる宗教音楽である。日本では、梵唄(ぼんばい)・梵匿(ぼんのく)・魚山(ぎょざん)ともいう。旧字体では聲明と書く。・・・と 説明されている。 ウィキペディア辞典
しかし、其の他にも、「ヒンズー教」の訓えには「弁才天・サラスヴァティ」が在り、「弁舌」を司るとされている。
「弁才天・サラスヴァティ」のもとはインドの水の神で、水の流れる美しい音から、音楽の神とも言われ「妙音天(みょうおんてん)・美音天(びおんてん)」とも呼ばれていたらしい。・・
弁才の意味である「河川の音」は、私には深い関わりが有る。
現在、私が寝泊りして居る宿舎は、建物の前後が河川であり、其の両方の川の合流地点の三角地に寝泊りしているので、一晩中水が流れる音がしている。
其れに、出雲に住んだ時も、四国に住んだ時も、寝泊する建物は川の直ぐ横に在る建物だった。そして、安房の自宅も川べりであり、産まれた実家も川の横に在り、実家の横には、山から竹の筒で引いて来た水が、一日中流れ落ちる音がしていたのである。
其れを考えると、私は、水の流れる音がする場所でないと、住めないのではないかと思えるぐらいの感じが有る。
其れは、私の守護霊が、河川の水音で生きる「弁才天・サラスヴァティ」だからなのかも知れない。・
「正し・まさし」http://green.ap.teacup.com/20060818/1247.html
2014/10/15・・昨日前を走る車のナンバーが「 3・21」であったのは、弘法大師空海の存在が関係有るとの示しであり、今朝のメッセージで、私に、次々に書面が届けられたのは、「真言宗」の開祖である空海の意志に、関係が有るのではないだろうか。
「真言」との言葉は、インドの「マントラ」の訳であり、マントラとは「マン」が「考える・人」の意味であり「トラ」は「器・皿」の意味で、マントラとは「言葉は 考える為の器」であるとの意味である。
其の事を考えると、今朝のメッセージの映像に映し出されて来た大事な文章類は、其の「真言・マントラ」の世界を意味しており、全て「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の意志に適う言葉を持って、編集し直さなければ成らない理・ことを、示唆して来ているのであろう。・・・
「真言(マントラ)」http://green.ap.teacup.com/20060818/3230.html
2014/10/6昨日は、「大切な事」との言葉が告げられて来て、其の単語の意味は「大きく切り分けること。また、その切り身。」である事が判った。
其れで、私が是まで「大切に」と使っていた言葉が、正しい物ではなかった事を知った。
昨日は、文章をアップした後、前の文章の校正に移ろうとすると「ゼロからの改革」との言葉が有ったので、女神のブログを開くと、続きの言葉が告げられて来た。
「貴方に 求められているのは ゼロからの改革です。
貴方にとって最も必要なのはゼロから 全てを考え直す事です。
何故なら貴方の他には ゼロから物事を考える事ができる人が居ないからです。
他の学問を積んだ人達は 誰かが思考した事を土台としているので
其の土台を外してしまうと 物事を考える事が出来なく成ってしまうからです。
其の事にこそ 禊ぎ祓いの儀式が必要なのです。
何故 禊ぎ祓いが必要なのか
其れは 頭を空にする必要があるからです。
人間の頭が 空に成らなければ
此方の情報を 受け入れる事が 出来ません。
其れに 此方の情報こそが 進化を齎す物であり
人間の考えは 自分の脳で考える事ですから
宇宙との チャンネルとは成らないのです。
其の意味でも 貴方は常に無心で在る事が求められているのです。
良いですか 新しい次元の始まりですから
余計な事を 考えてはなりませんよ。 」
「カオス(裂け目の中)の人間」http://green.ap.teacup.com/20060818/3220.html
2008/1/9・・其れは、人間が言葉にしたり、文字化した情報が、何等かのシステムの中に、全部記憶されており、昨夜其れが、長い時間を掛けて回収箱に回収され、整理が続いていた事を見せられたものである。
其れは、大日如来が、此の世の総べての「言葉・マントラ」を、管理しているとの事が、真実である事を示して来ている。
其れに、今朝の最後のメッセージの、真珠色に輝く器と、「正装ではなくとも」の言葉は、「ピエロ」のキーワードさえ使えば、簡単に解けて来る。
其れは、ピエロ姿の正装をしなくても、道化の言葉は、真珠色の「器(マントラ・真言)」であるとの意味になる。
其の事さえ解ければ、私が今朝、長時間掛かった「みいつ・トランス」の作業は、是まで此の三次元世界に積もって来た、言葉の概念や文字を、全部大日如来の身体から拭き取って、消し去ったと言う事に成る。
其れは、映画の「ゴースト-バスターズ(幽霊退治)」成らぬ「ロゴス-バスター」の行為である。
ようやく、今朝は、長年の釈迦牟尼佛の憶いが、完遂した事に成るのではないだろうか。・・・
「大日如来の記憶」http://green.ap.teacup.com/20060818/606.html
2001/8/13「萑・カン」http://wave.ap.teacup.com/20060106/181.html
2005/5/21「高みへ導く」http://wave.ap.teacup.com/20060106/294.html
2008/10/9「波流・はりゅう」http://wave.ap.teacup.com/20060106/337.html
2009/2/26「黄金の竹簡」http://wave.ap.teacup.com/20060106/362.html
2011/4/19「言葉は身体から創られている」http://wave.ap.teacup.com/20060106/437.html
2013/5/6「岩戸開き」 http://green.ap.teacup.com/20060818/2677.html
2016/7/9「天地自然と人間」http://wave.ap.teacup.com/20060106/676.html
2017/9/3「大山祇神の本体」http://moon.ap.teacup.com/20060615/305.html
此の文章の中には『・・「ヒンズー教」の訓えには「弁才天・サラスヴァティ」が在り、「弁舌」を司るとされている。「弁才天・サラスヴァティ」のもとはインドの水の神で、水の流れる美しい音から、音楽の神とも言われ「妙音天(みょうおんてん)・美音天(びおんてん)」とも呼ばれていたらしい。・・・』と書いて有るのヒンズー教にも関係が有りそうである。
其れは、私が子供の頃から、水音を聴いて育ったので、小川のせせらぎの音で、とても癒される事と関係が有りそうである。
昨日の鞄の中の「(五千円+千円=六千円)+二千円」の紙幣は、お金の事ではなく、数の事を示唆しており、「三途の川の渡し賃(六文銭)六千」に、私の「二千」が足されるとの事は、私が二本の棒を姿の見えない神に手渡された事と関係が有り、其の二本の棒が「にほん語の言霊」を意味しているのであれば、私の言葉・マントラで、人々が無明(なやみ・名病み)の世界から、悟りの世界・彼岸へと渡る事が出来ると言う事に成る。
其れを考えると、一昨年の6月19日のビジョンで、天空を翼にする女神(鵬・ほうおう)が、私に手渡した皿に載せられた三個のタルト(渦巻き)の一個が、人間の「言葉」の世界であると言う事に成りそうである。
其れを考えると、今朝のメッセージは、人間の社会生活に関係が有り、人間の「悪事・悪意」は言葉が正しくないと謂うか、使用が間違っているからであり、言葉が正しく理解されて、真実(真言)が話されれば、世の中には「善事・善意」が満ちて、無明が解消されると謂う事に成る。
其の為には、先ず、学校の教員や、宗教者達が、禊ぎ祓いを行なう必要が有るし、正しい教育に拠って育てられる事が求められる。
【三途川】(さんずのかわ、さんずがわ)は、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。三途は仏典に由来し、餓鬼道・畜生道・地獄道を意味する。ただし、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教[1]からギリシャ神話[2]にまで広く見られるものであり、三途川の伝承には民間信仰が多分に混じっている。
伝承(編集)
「渡し舟」
平安時代の末期に、「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡し船によって渡河するという考え方に変形する。
三途川の渡し船の料金は六文と定められており、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が、以来ずっと続いている。現在では「文」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭(冥銭)が使われることが多いようである。
「賽の河原」
三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら)と呼ばれる。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。
賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。
【賽銭(さいせん)】とは、祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭のこと[1]。元は金銭ではなく幣帛・米などを供えた[2]。
賽は「神から福を受けたのに感謝して祭る」の意味[3]。
概要
参拝者は賽銭箱に金銭を投入した後、神社なら2拝2拍手1拝、寺院なら合掌し、目を閉じながら神仏への願い事やお礼を心の中で唱える。賽銭箱が存在していない地蔵や神体の前にも、時おり参拝者によって賽銭が置かれることがある。博物館に展示されている仏像、神像の前にも賽銭が置かれていることもあり、「賽銭をあげないでください」と注意書きしてある場合もある。
賽銭は願いを聞いてもらう対価ではないとする説もあり、日本書紀の「罪を素戔嗚尊に負わせ、贖罪の品々を科して差し出させた」というところから自身の罪を金銭に託して祓うとする説(浄罪箱)と、賽銭箱に硬貨を入れる音で罪祓う(鈴と同じ)とする説がある。
歴史
古来神仏に祈願する場合、主として五穀を紙に包み奉納した。貨幣経済の進展に伴い米・雑穀よりも銭貨が増え、しかもそのまま神前に置かれたので自然発生的に銭貨を受ける賽銭箱が生まれた。戦国時代の僧侶快元の日記である『快元僧都記』によると、1540年(天文9年)に散銭櫃(さんせんびつ)なる箱が鶴岡八幡宮に置かれたという記述があり、これが賽銭箱が記録に残る日本最古のものとされる。室町時代に伊勢参宮や本山詣が庶民に広がり、賽銭を奉る風習が定着したといわれる。
ウィキペディアフリー百科辞典 2018/1/24現在
私の両親は、神社やお寺にお参りする事は無かったので、私はこれ等の世界には全く関係無く育って来た。
其れに、私は、父親から一度も「勉強をしろ」と謂われた事が無いし、一度も暴力を振るわれた事が無い。
だが、社会では、子供の頃から是でもかと謂う程の、辛い目に遭い続けて来た。其の所為で、「土肥無庵」に捜し出された時に、何の抵抗も無く、直ぐに謂われる通りに実行する事が出来たのである。
私に今謂える事は、「鬼ケ島」であると思っていた屋久島は、「神の島」であったと謂う事であり、「日月神示・天津日嗣神事」に有る「善悪併せ呑む人物」との事にも、関係が有ると言う事にも成るであろう。
2015/12/3今朝のメッセージの映像は、私の人生の中で、苦しい思い出と成っている、私の土地や財布を盗んだ人物や、裏切って行った人達が、次々に幾人も登場した。
だが、其の人達は、暗い世界の悪人としてではなく、自分の役割を果たしたとの自負を持って、明るい世界に登場したのである。
其れ等の映像が続いた後、本日が12月3日である事が強調されて来た。
其れは明日12月4日が、私が1984年6月4日に、此の神の世界に入った時、「後16年半しかない」と告げられて、其れは2000年12月4日であり、其れが、明日で31年半と成る事と関係が有った。
そして、其の日を前にして、私の苦しみの原因と成っている人々の思い出(記憶・情報)が、アカシックレコードから消去されるとの事が示されて来た。
其れは、明日12月4日を前にして、私の意識から、苦しい思い出(禍・わざわい)が消去されて、私は安らかな人生を迎えられるとの理・ことを、示唆している様である。
今朝の「愉伽さん」のビジョンには、皆で「君が代」を歌って居り、愉伽さんが大きな口を開けて、ハッキリとした大きな声で歌うので、観て居た人達がビックリして居たとの事である。
そして、次に、自分の先祖よりも古い時代の、古代人と呼ぶべき男性二人が登場して、深海まで連れて案内すると言い、一緒に海に飛び込んだとのことである。
其の後に、高校の男子生徒や、小学生ぐらいの子供達の教育の世界が、映し出されて来たとの事である。
其の愉伽さんのビジョンからも、本日「大君・御祖神(みおやかみ)」の世界が完成したとの事が示されて来ており、其の事を、未来社会を担う子供達の教育に、生かして行かなければ成らないと言う事なのであろう。
昭和19年6月10日(時の記念日)に、千葉県成田市台方の麻賀多神社の境内に在る「天之日津久神社」の祠の前で、岡本天明に始まった「日月神示・日嗣神事」には、「善悪併せ呑む人物」の事に付いて記されている。
「月光の巻」第二十七帖
はらひは結構であるが、厄はらひのみでは結構とはならんぞ。それは丁度、悪をなくすれば善のみの地上天国が来ると思って、悪をなくすることに努力した結果が、今日の大混乱を来したのと同じであるぞ。
よく考えて下されよ。善と申すも悪と云うも、皆悉く大神の肚の中であるぞ。大神が許し給へばこそ存在してゐるのであるぞ。この道理をよく会得せよ。
はらふと申すのは無くすることではないぞ。調和することぞ。和して弥栄することぞ。
第二十八帖
厄も祓はねばならんが、福も祓はねばならん。福はらひせよと申してあらうが。厄のみでは祓ひにならん。福のみでも祓ひにならんぞ。厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。この判り切った道理が何故に判らんのか。【悪を抱き参らせよ。善も抱き参らせよ。抱くには○にならねばならんぞ。】
第三十帖
心のいれかへせよとは新しき神界との霊線をつなぐことぞ。そなたは我が強いから、我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我のむしが生れてくるぞ。我の病になって来るぞ。その病は自分では判らんぞ。わけの判らん虫わくぞ。わけの判らん病はやるぞと申してあるが そのことぞ。肉体の病ばかりでないぞ。心の病はげしくなってゐるから気付けてくれよ。人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。この病を治すのは、今日までの教では治らん。病を殺して了ふて、病をなくしようとて病はなくならんぞ。病を浄化しなければならん。悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。【悪を抱き参らせて下されよ。】
其れに、明日12月4日は、其の岡本天明の生誕118年日でもある。
「悦・エッ」http://wave.ap.teacup.com/20060106/623.html
何れにしても、私はイエスキリストが試された「悪魔・鬼」との勝負に、勝ったと謂う事に成るのであろう。
2007/1/9今朝のメッセージは、映像は伴っていないのだが、確かに三つの世界が存在する事が知らされて来た。
其れは、是までの私が、認識している世界ではなく、私の認識外のもっと深い所に、存在する働きで、此の世が動いているらしい。
そして、「鬼の手柄」との言葉が、告げられて来た。
今朝のメッセージは、昨日の老子の存在と繋がりが有るような気がする。
と言うのは、老子の言葉に「始めに(一)が在り、(一)から(二)が生まれ、(二)から(三)が生まれ、(三)から総てが生まれた。」と有るので、其の(三)の「世界・次元」が今朝開かれ、三つの世界が、動き始めたのではないだろうか。
そして、其の(三)の世界の一つが「鬼の世界」であり、私が、今朝の次元にまで、達する事が出来たのは、其の鬼の働きの御蔭様である。
西洋では、「鬼」や「龍」は悪魔とされているが、東洋では両方とも、神の働きとして容認されている。
新訳聖書では、イエスを最後に試した鬼は、悪魔とされているが、私に現れた其の鬼は、学びの学校で、一番力の有る「校長先生」の立場の者であり、卒業試験の先生として、最大の善である「大天使」が、鬼の姿に化けている物なのである。
其の試験の問題は、「現在 生じている世界の 管理権限を総て与える。」との条件を、出して来るのである。
其れを、其の侭受けてしまえば、合格の認可を受ける事が、出来なく成るのである。
其の問題の意味は、此の瞬間までに築き上げられて来ている文化・文明は、全て過去の物であるから、其れを管理する権利を貰う事は、過去に意識が向かう事に成り、未来を創造する権利を、失う事に成るのである。
神は、未来を創造する者に力を与えるのだから、過去の財産や権力に意識が囚われる者は、使えないのである。・・・
「鬼の手柄」http://green.ap.teacup.com/20060818/146.html
2009/10/22・・ 昨日の映像で、私の意識が辿り着いた、山の上の村に有った家は、どうやら神の家の様である。
今朝のメッセージの映像は、昨日の続きであり、其の家の中から始まった。
今朝の映像の始まりは、明るい光に満たされた家の中で、其の家の中の部屋・空間は、壁も天井も無く、照明器具も無い。其れに、ベッドや布団も無いし、家具類も一切無く、テレビや電話機も無い。
其れに、カップ麺の様な乾燥食品等を持ち込んでも、鍋やガス台が無いので、食べる事が出来ないのである。
そして、自分の肉体が無く、意識だけしか存在しないので、話す相手が居ないから、言葉や文字が必要ないのである。
其れに、今朝気付いた事は、昨日のメッセージの映像で、足跡の様な配置で、AとBの文字札の様な物が、道路に有ったのは、出て行った人達の物ではなく、私が、崇のリンガ・塚に辿り着く前に、最後に脱ぎ捨てた物であったらしい。
そして、出て行った数名の人達は、私の身体から、抜け出した者達(霊魂)だった様である。
どうやら、私の身体には、昨日のメッセージの映像に現れた、世界で一番高い山に有る「神の村」に住んでいる者達が、人間界に降って来て、私に憑依して居て、私の修行が済んだと言うか、私を、目的地まで辿り着かせたので、身体から抜け出したモノ・現象である様だ。
そして、其の旅で履かせられていた履物が、文字の足袋・たびだったのである。
だから、崇の「リンガ・塚」の前で、最後の履物であったAとBを脱いだのである。だから、「B・左足」が下に有り、「A・右足」が上の方に有ったのだ。
私は、最後に、右足に履いていた「A・阿」を脱いで、裸足に成り、崇のリンガの前に、五体投地をして居たのである。
そして、其の私の身体から、最後まで残っていた霊魂が、脱魂して行ったのである。
其の、何も物が無い、光の空間から外に出ると、遥か下の地上に、エジプトのピラミッドの様な、四角錐の建築物が一個存在し、私の意識は、其のピラミッドの中から抜け出て、上空に在る事が判った。
どうやら、山上の光の空間は、ピラミッドの中の王墓と関係が有り、私の意識は「崇・一番高い山」の中に住むモノであり、ドル札に描かれている「メイソン・石工」の「プロビデンスの目・意識」が、今朝「崇・嵩・ピラミッド」から外に出て、天空に上って居た事に成るのである。
だとすれば、「石工・メイソン」の神である「ルシフェル」が、人類を救う為に地上に降りて居たのが、今朝、元の光の天使に戻った事を、意味しているのではないだろうか。
「石工の秘儀」石工の秘儀には「岩の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 生ける力のダイナモ・dvnamoを 正しく応用する事であると知るとき 彼は 結社の神秘を学びとり ルシフェルの力は 彼のモノと成る。」と有る。
「ルシフェル」の名は、ラテン語で「光を運ぶ者」を意味し、日の出前に輝く「明けの明星・金星」の意味である。
其の金星は、弘法大師空海が、室戸岬の岩の上に座って居る時に、口中に飛び込んで来たとされている。
其れに、私が生まれ育った実家の裏山は、「明星岳」と呼ばれており、私は子供の頃から、其の明星岳によく登って居た。
そして、其の明星岳には、ドル札のプロビデンスの目の部分に当たる所に、丁度、岩が目の様に飛び出している。
何故かと謂うと、「南無妙法蓮華経」とは「釋迦の法華経の教えに帰依しなさい」との意味だが、其の釈迦の法華経の訓えには「十二縁起」の教えが有り、其の内容は「言葉を 一切忘れれば 永遠の神の光の中に 返る事が出来る」との意味である。
其の「永遠の神の光」の世界こそが「阿弥陀・アミターバ(計り知れない光)」だからである。
私は今朝、其の「阿弥陀・アミターバ(計り知れない光)」の世界に返って居たのである。そして、其の意識の存在が、本来の「ルシフェル」の世界なのである。
しかし、其の大天使「ルシフェル」は、大悪魔「ルシファー」と呼ばれてしまっている。其れは、人間が勝手に、闇の世界と、光の世界に、意味付けをしているからである。
【意識こそが光なのである。】
だから、「阿弥陀佛」とは「アミターバ・計り知れない光・無量光」であり、「アミターユス・計り知れない愛・無量寿」と、されているのである。
我々の存在する、此の大宇宙は、138億年前に、光のビッグバンから始まった世界で、其の光の速度で拡がっている138億年の空間・風船から外は、永遠の闇が広がっているのである。其の138億年の光・時間の壁は透明で、外側が透けて見えるので、夜は闇なのである。
其の、何も無い、闇の空間が無限に広がっているので、此の我々の存在する宇宙は、光の世界として、拡大して行く事が出来るのである。
だから、光の天使は、闇の世界が存在するからこそ、活動が可能なのである。其の様に考えると、闇の世界に棲む魔王など存在しない事に成る。
「イエスキリスト」を、最後に試す為に現れた悪魔は、大学校の校長先生であり、卒業式の日に、一番優秀な卒業生を一人選んで、最後の試しを行うのである。
何故、私が、其の様な事を言えるかと謂うと、私も、同じ試験を受けたからである。・・・
「光の部屋」http://green.ap.teacup.com/20060818/1313.html
此の文章の内容からすると、今朝私が起こされた時間が1時47分であり、私が其の数字を「147・いしな・石名」と記憶して、朝ベッドから起き上がった時に「名前を知らない」と聞こえて来たのは、人類が未だ真実の「神(はたらき)」の名を知らないと言う事が、示されて来ているのではないだろうか。
其の様に、宇宙の情報を捕捉すると、人類全体で認識できる神名を、設定・命名いなければ成らないのではないだろうか。
そして、其の名は「147・いしな・石名」であり、其れは人間の意識(たましい)のチャンネル体である第三の眼である「松果体(珪素・シリコン)」と関係が有り、人間に汚されてしまった「ルシファー・ルシフェル」の名に、新しい名前を与える事である。
2009/2/8・・其の映像の意味は、花崗岩の「磐座・いわくら」の中に、五分野の秘密が隠されており、私の意識は其の秘儀を学び終えたので、岩戸から外に出て、自分の足で漕ぎ出すとの意味ではないだろうか。
其の、私の意識が、何者のものであるのかは良く解からないが、外から岩戸を抉じ開けた「手力男命」のものではなく、磐座の中に潜んで居た何者かである。
其れは、釈迦牟尼佛や、弘法大師空海や、出口王仁三郎等が、岩の洞窟の中に籠って、何かを得た事と関係が有るのではないだろうか。
其れに、モーゼもイエスもマホメットも、神から岩山に呼び出されてもいる。
其れ等の事柄を考えると、岡本天明の日月神示に書かれている「148の救世主・石屋のメシヤ」が、今日から走り出したとの事なのかも知れない。
「石工・メイソン」の秘儀として、次ぎの様な文言が有る。
【石工の秘儀】(岩の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 生ける力のダイナムを 正しく応用する事であると知るとき 彼は 結社の神秘を学びとり ルシフェルの力は 彼のモノと成る。)
此の、秘儀なる文章に拠ると、ダイナムとは発電機の事であるから、花崗岩の持つ磁気と、自分の生体電気の発生チヤンネル体である「松果体(シリコン・珪素の結晶体)第三の目・額(ぬか)」の、振動が同調すれば、岩に記憶されている「ブッダ・スメラ王(アカシック-レコード)」の記憶が、ダビングされると言う事である。
そして、そう成れば「久遠実成・くおんじつじょう」の意識が覚醒し、三千世界をコントロール出来ると謂う理・ことになり、宇宙の事象の渦巻きは「石工・メイソン・149」の物に成ると言う理・ことである。・・・
「天つ宮事もちて」http://green.ap.teacup.com/20060818/1039.html
其れに、今朝私の頭脳・意識を使っていた物が、其の「ルシファー・ルシフェル」であったのであれば、今朝の映像で洞窟の中に存在した「賽の河原の神」(奪衣婆、アヌビス)」の正体を解明しなければ成らないと言う事に成る。
【アヌビス】はエジプト神話に登場する冥界の神で、リコポリスの守護神。「聖地の主人」「自らの山に居る者」「ミイラを布で包む者」などの異名を持つ。
平成30年1月24日
礒邉自適

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2010/9/3
149の謎
22・9・3
今朝のメッセージの映像には、山の絵が現われ、13の数字が示されて来て、其の謎解きが長く続いた。
其の絵とは、小さなピラミッド型の山の背景に、其の山を囲う様に円形の山が有り、更に、其の背景には長く伸びている山脈が有って、徐々に高く成って行く其の山脈の峰は、画面上には見えなかった。
そして、其の山の映像は、丸い山が数字の「4」に関係が有り、果てしなく遠い高い山の峰は「9」であり、合わすと13である理・ことが示された。
其の数字からすると、小さな三角の山は「1」であり、「1・4・9」が並んでいる事に成る。
「1・4・9」の数字は、「1・2・3」の二乗「1(1×1=1)・2(2×2=4)・3(3×3=9)」である。此の数字からすると、今朝は岡本天明の「ひふみ神示・123神示(日月神示)」の謎が、明かされて来た事に成るのではないだろうか。
「149」は「いしく・石工」であり、「石屋・148」の住人である。
岡本天明の「日月神示・ひふみ神示」には、「日本に 148の救世主が現われる」と書かれている。
其の事を考えると、愈々、其のトキ・時節が来た事を、今朝は神が示して来たのではないだろうか。
今日は9月3日で、明日は9月4日である。
其れを考えると、明日9月4日1時に、新時代の幕が引かれるのかも知れない。
其の様に考えると、私は、今朝の映像で示された、山の配置が成されている場所を探し出して、其処に、自分の身を置く必要があるのかも知れない。
今朝は、是まで、長い間気に成っていて、解けていなかった13の数字が、4+9=13である理・ことが示されて来て、幾分気分が楽に成って来ている。
其れに、「1」のピラミッド山が、自分の位置と言うか、自分の存在を示しているのならば、私は、山の存在と、自分の立場の関係性を、初めて認識した事にも成るのである。
今朝の映像の、山の配置からすると、奈良の三輪山が御神体(御室山・みむろやま・巳室山)であり、神社の施設は、其の山を拝する拝殿である事の意味も、納得出来る。
そして、中国の風水で、長く伸びる峰の突端が、龍の頭であると考えられている理・ことも、今朝の映像で、山の背景に峰が続いていた事で、理解されて来る。
其れに、更に意識を拡大すれば、アステカの「雨を齎す神」大蛇神が、八段積んだピラミッド・神殿の頂上から地上に降りて来て、頭をもたげている意味も、何となく、繋がりが有る様な気がして来る。
そして、我々日本人が、高見に見ている「天御中主」と「高御産巣日神・たかみむすびのかみ」「神産巣日神・かみむすびのかみ」の「造化三神」も、地上に下って来れば、「天御中主」は大蛇の鼻に当たり、「高御産巣日神」と「神産巣日神」の二神は、大蛇の両目に当る理・ことに成る。
其の様に考えると、古事記にある「伊邪那岐命(イザナギのみこと)」が、黄泉比良坂(よもつひらさか)を下り、再び地上の「伊邪那美命(イザナミのみこと)」の所に向かえば、鼻(すさのお)・右目(あまてらす)・左目(つきよみ)の働きが、伊邪那岐命の頭中に戻る事に成る。
そして、全ての物語は、元に戻って消えてしまい、人間の意識は無垢の状態に返るのである。
其処には、拡大して来た意識を、元に巻き戻した、霊留・ひとの意識が存在する。
其れは、三室山に意識を戻した「大山祇神・山の巳」が、ピラミッド山にトグロを巻いて休んでいる理・ことに成る。
そして、其のイメージは「大巳貴神・おおなむちかみ」の働きが、役割を終えて、静かに休んでいる姿でもあるのだ。
今朝のメッセージの映像は、人類が、是まで積み上げて来た創造のイメージが、終局を迎えている理・ことを、意味しているのではないだろうか。
其れは、地上の動物の、潜在意識の原初にまで、私の意識が辿り着いたと言うか、爬虫類から始まった人間の意識の源が、顕かに成ったと言う事なのかも知れない。
此処まで、私の意識が辿り着けば、是まで、地球に記憶されて来た生物の情報が、整理されると言う事なのではないだろうか。
其れは、情報過多に陥っている現代社会の人々の頭脳を、無垢にする事は出来なくても、幾分かスッキリさせる効果はあるだろう。
其れは、「弥勒菩薩・マイトレーヤが 現われて 新しい情報を齎し 無明の世に 灯りを齎す」との、伝承とは多少異なるかも知れないが、人間の迷いを無くすとの意味合いなら、合っているのではないだろうか。
其れ等の事を考えると、日本の神道の「祓い給え 清めたまえ」の行法は、世界に誇れる、真理を伝える伝統であると謂えるのかも知れない。
今朝のメッセージで、私は、先月のテーマであった、人間の意識の内側に有る「如意宝珠」の中味と、人間の意識の外側に拡がる、自然の山並みとの対象が、気に成って来る。
イエス-キリストは、「貴方達は 何所から来たかと訊ねられたら 光の元から来たと答えなさい」「神は何かと 訊ねられたら 此の大自然全てと答えなさい」と、謂っている。
其れは、イエス-キリストも人間意識の内側のイメージと、外側のイメージの、区分けをして居た事が、理解できる言い回しである。
私は、昨日、熊本県の芦北を16頃出発して、途中久留米のベスト電器でPCの修理をし、必要な買い物をして、19時に福岡県浮羽市の「江藤敬介氏宅」に到着した。
そして、「岡部賢二氏」と江藤敬介氏と三名で、22時頃まで、楽しい時間を過ごした。
今日は、浮羽を9時頃出発して、大分市に向かい「酒井英俊氏」の事務所で関係者が集まり、「松山さん」も参加して、是からの事に付いて、話し合いが行われる事に成っている。
今朝のメッセージの映像は、其の場に挑む、私の心構えの為に、示されて来たモノなのかも知れない。
「149」の数字は、アメリカ映画に「モノリス」として登場した、月の裏側に立っていた花崗岩の石碑の、縦・横・高さの比率でもある。
其れを、考えた人の意識は判らないが、「石工・149」の働きは、無意識の世界にあるのだろう。
其れが、世界中の人々の無意識にイメージされた時に、時代は大きく変化するのであろう。
其の様に考えると、明日9月4日1時の時間設定が、気に成るのは私だけではないだろう。
平成22年9月3日
礒邉自適

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2008/9/8
先達(せんだつ)
20・9・8
本日9月8日は、大本教の出口王仁三郎が「9月8日には12の秘密が有る」と、謂っている日付であり、明日9月9日は九の陽数が重なる「重陽の節句」である。
今朝のビジョンは、簡単に云えば、私が先達として、歩き出さなければ成らない様子が伝えられて来た。
其のビジョンとは、「111=91(13×7)」の数字と、初代から始まった系図の一番下に、私の名が書き込まれており、私が一番下の弟子であるが、私が時間の最先端である事が示された。
そして、私自身が車を運転して、新しい道路を造る現場に行く場面が現れた。
私は、車を運転しながら、唇に白い紙を二枚咥えて居た。
しかし、現場に着いて、其の紙を見ると、其の二枚の紙は、設計図などではなく、未だ何も書き込まれていない白紙の物であった。
どうやら、今朝のビジョンは、昨日のメッセージで「大修者」「動いてみるか」と、告げられて来た事の、続きの様である。
私は「動く」とは返答していないのに、神霊界では、既に、次の段取りに入っている様である。
先ず、数字の「111」は、物事の始まりと、終わりを意味しているのだろう。
「一」は始まりであるが、物ごとが始まる時には、既に、物は「三」に分かれており、三方向に分かれる事自体が、始まると言う事であろう。
そして、物事が終焉を向かえる時も、「三」に返ると言う理・ことである。
今朝の映像には、丸い透明なガラスの様な容器が、六段重ねられているのが映し出され、其れが上の分から、順番に右の方に下ろされて、「三・二・一」の状態に並べられた。
其れは、人間の意識の組み立ての基本を、説明して来ているのではないだろうか。
六段の容器は、「三・二・一」の反対の「一・二・三」にも並べられるが「二・二・二」にも並べられる。
其れは、中国の易の原点をも示唆しているのかもしれない。
其れが、明日の「九」と言う、一番の陽数であれば「三・三・三」の数字になり、易の式 其の侭である。
それに、其の「三」自体が、「一」は小さく「一・一・一」に、分けられるので、「三」自体が「九」の数を含んでいるのである。
中国の、老子の道徳経の一節には「始めに 一が有り 一から二が生まれ 二から三が生まれ 三から全てが生まれた」と在り、其れが「道教」の始まりと成り、現在の易の世界が在るのである。
大本教の流れを組む、岡本天明氏の日月神示には「老子だけを内に祭り 他の神は全部外に祭れ」とある。
其の神示からすると、今日から、其の「神一厘の仕組み」が始まるとの事であり、出口王仁三郎の遺言である9月8日の秘密が、開いたと言う事なのかもしれない。
出口王仁三郎が、生前に鹿児島の知り合いである鹿児島出身の政治家・床次竹二郎の弟、「真廣」に渡した手紙・遺書に「現在・いまの宗教は 全て偽物だ 本物が現れたら 大本も終わりだ。其の本物は鹿児島から 下駄を履いて チャラチャラ遣って来る」と云っていたとの事である。
其の出口王仁三郎は、私に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」でマクロビオティックの創出者である「桜沢如一」に次いで、二番目に現れ、私に下駄を履かせて、毎日歩く訓練をさせたのである。
そして、三番目に現れたのは「宮本武蔵」であった。
そして、私が、1985年7月4日に、京都府亀岡市の湯の花温泉に在る、杉岡判太夫政房氏の経営する「憩いの家」の温泉に入りに行くと、私の様子を見た宿の主人である「杉岡判太夫政房氏」が驚いて、私に「今日 此処に泊まってくれないか」と云った。
私は、其れを断る理由も無いので、泊めて貰う事にした。
そして夜、食事が済んだ後「此の本を読んでくれ」と云って、渡してくれた本が東京で「さすら」を主催していた「金井南龍氏」の本であり、其の中に、先ほどの手紙の内容が書かれていたのである。
次の日、杉岡氏に勧められて大本教の本部に行くと、係りの人が出て来て会館に通された。そして、広間に座ると、右隣りに出口王仁三郎の霊が出て来て座り、前方から「出口ナオさん」が、紐に玉を通した櫛玉を、三方の上に澤山乗せて持って現れ、其れを王仁三郎に手渡したのである。
「鴻基始・こうきし」http://star.ap.teacup.com/2007313/32.html
「儀式開始」http://green.ap.teacup.com/20060818/749.html
話を、数字の世界に戻すと、何故か、「111」を割る式が、「13×7」だったのである。だが「13×7」は、「91」である。
其の意味する処は、何であろうか。
其れは、111に返るか、辿り着くまでが、「13回×7年=91年」か「13ヶ月×7=91ヶ月」の月日が掛かるとの事であろうか。
其れとも、もっと大きな、サイクルの数字なのであろうか。
其れとも、91年は私の寿命であり、91ヶ月は、私の是から取り組む「仕え事・しごと」の期間なのであろうか。
若し、其れが仕事の期間であれば、61歳+7年と7ヶ月と成って、69歳の4月8日と成るので、4月8日は釈迦の誕生日であり、69は「タオ・道」のマークである。
そうすると、私の「111」の完成は、69歳の4月8日となる。
そして「91歳−69歳=22歳」で、私の隠居生活は、22年間あると言う事に成る。
今朝は、其の件に関してか、初代から現在まで続く、代々の系図が現れた。
その系図は、左上が一代で、下方に順番に横書きで2・3・4と、代々の名前が書かれており、其の列は横に四段有って、私の意識の存在は一番右側の下の最後の所にあった。
私は、昭和62年2月26日に、京都の亀岡市に在る「田中真海老師」の大雲山西光禅寺で在家得度式を行い、「真悠護法居士」の戒名を受けている。
其の事に関係するのであれば、私は「釈迦牟尼佛」の弟子として、81代目の弟子である事に成る。
其れか、霊界の天皇霊に関係があるのなら、平成元年1月7日の夜中、私の心臓に飛び込んで来た「昭和天皇」の124代が関係ある事に成る。
其れは、神武天皇が初代であるから、それより前の「天照大神 →「忍穂耳尊・おしほみみのみこと」→「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」→山幸彦 →「鵜草葺不合命・うがやふきあえずのみこ」の五代を足して、129代にしなければならない。
更に、其の上には、天神七代・【陰陽×七代=14。「伊邪那美命・いざなみのみこと」から「国常立命」】プラス 造化三神(高御産巣日神から天御中主)計17神が、存在する。
今朝、其の代々の系図が現れた意味は、「時間・トキ」の概念を意味しているのであろう。
系図では、「釈迦牟尼佛」や「天照大神」が一代・初代であり、彼等が名簿では一番上に位置しているが、其れは、過ぎ去った過去の世界の人であるので、彼等が生きていた世界は、既に消えてしまって無いのである。
在るのは、我々が生きている、今日の「いま・現在」だけである。
其れを考えると、今の瞬間・トキを生きる我々が、最先端に位置するので、一番と言う事に成るのである。
だからこそ、私に「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きて、過去世を生きた4311体もの霊魂が、憑依して来たのである。
其の、過去世を生きた霊魂は、私の身体に憑依して、行動を共にして来たので、全ての事を理解して、昔の意識ではなく成っているのである。
そして、人類の未来社会を構築して、自分達も、新しい此の三次元世界に、生まれ変わりたいのである。
其の為には、自分達が生きて行く為に、未来社会を良い物にしなければ成らないのである。
しかし、彼等は、私と違って、此の世には肉体を持たないので、自らは手も足も出せないのである。
其れに、私以外には、彼等の意志を受け継ぐ者が居無いのである。
だからこそ、私に、ぼつぼつ動き出す事を、要求して来ているのではないだろうか。
其れは、未だ、道無き所に、新しき道を造る事である。
其れも、設計図も無く、道の行く手も決っていない世界である。
そして、其の道は、此の三次元の物の世界と、精神世界の両方の道である。
今朝は、其の他にも、動物のビーバーが現れ、数匹の子供を一人前に成るまで連れて歩き、育てて居る場面が映し出されて来た。
其の映像の意味は、全ての生き物は、命懸けで子供を一人前に成る迄、育て上げなければ成らない理・ことを示しているのだろう。
そして更に、沼から最初に陸に上がる、毛の薄いオットセイみたいな動物が一頭現れて、此方を見ていた。
その映像の意味は、人間の先祖が、葦の生える沼から誕生した理・ことを意味しており、釈迦牟尼佛や、神武天皇等から始まる系図は、ほんの短い間のモノであり、生命の存在は、永遠の時を重ねて来ており、その繋がりは、ビーバーの親の様に、一生懸命子育てを続けて来たからこそ、現在・いまが在るとの事ではないだろうか。
今朝のメッセージは、生物的な私の「血・DNA・遺伝子」の代々の繋がりと、釈迦牟尼佛からの精神的な価値観の繋がりと、神武天皇からの国体である政(まつりごと)の繋がりの、三系統の認識を、私に迫って来たのかもしれない。
其の様に考えると、最初に出て来た「111」の数字は、その三本の系図を、源に還って考えろとの事ではないだろうか。
先ず、其処のところを明白にしないと、DNAの繋がりである、姓名以外の二つの道の設計が、出来ないと言う事なのかもしれない。
しかし、其の三つの系統の流れを、理論的に組み上げれば、未来創造の基本的な枠組みは、自から見えて来るのではないだろうか。
其の様に考えれば、今朝のメッセージは、是から、私が取り組むべき道標を示して来ていると考えられる。
其れは、やはり、神霊界が存在し、私にヒントを与え続けていると言う事である。其れが、日本の伝統である「惟神の道」と言う事ではないだろうか。
そして、其の道の最先端に「先達・せんだつ(先に達した者)」として立っているのが、此の私と言う事なのであろう。
其れは、以前の私ではなく、老子の謂う、天が「嗇・しょく」として育て上げた「大修者」と言う事なのではないだろうか。
平成20年9月8日
礒邉自適


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2008/9/4
救世とは全ての物に対応すること
20・9・4
昨夜は、また神のエネルギーが掛かって来て、良く眠れなかった。
しかし、是まで、侵入した事の無い次元に辿り着いたので、刺激的な世界だから、難儀と言うわけではない。
其の世界は、是まで、誰も言葉に変換していない世界である。
其れは、小説や映画にも、表現されていない世界だから、楽しい意識体験をしたと言えるであろう。
詩人である「ゲーテ」も、芸術の大家である「レオナルド・ダ・ヴィンチ」も、視覚が相対世界の視線なので、其の世界は、見たくても見てはいないだろう。
其れは、仏教で言う処の「色即是空・空即是色」の色の世界を、具体的に説明すると言う事に、なるのではないだろうか。
其の、最初のビジョンが現れたのが午前1時であれば、9月4日1時で「941」の時間設定が起きた事に成る。
941とは「149」の反対向きで「123」の二乗でありモノリスの「149」の割合と成る。
941の数字に関係有るのは、1914年には第一次世界大戦が始まり、1941年は太平洋戦争が始まっている。
今朝のメッセージは、其れ等の人間界の歴史よりも、人類に取って、一大事と言える出来事かもしれないのである。
言葉では、「紫微垣・しびえん」との言葉が有るので、古代では、其の世界に侵入した者が在る事は間違いないが、其の世界に付いて、具体的な説明はされていない様である。
其れは、老子の表現の中には無いので、老子は其の世界には、侵入してはいないのではないだろうか。
老子は、完璧に、文字の世界を頭に納入していたので、其の文字が意識の壁と成って、見てはいないのであろう。
釈迦は、近い処には、辿り着いているかもしれないが、悲しい事に、其れに当る言葉や文字が無いので、説明不可能だった事は考えられる。
今朝の次元は、イエスが一番近い次元に達して居たかもしれない。
何故なら、其れは、悟りとか理論の世界ではなく、此の三次元を構成している物自体に、直接対応する事だからである。
そうでなければ、イエスが、パンや魚を無制限に現象化させたり、死人を生き返らせて、歩かせたりは出来ないからである。
しかし、イエスの言葉には、其れが、何故そう成るのかの説明は一切無いので、イエスは悟ってはいなかったのだろう。
悟っていれば、人間界の権力などに対応して、磔と成って、殺される様な行為を、する筈も無いからである。
今朝、私が体験した世界は、真実の神の領域である。
其の領域とは、此の世に存在している一切の物は、神の意志が、其の侭投影されている物・現象であり、存在する物は、全て神の意志に適っている物ばかりであると、言うことである。
其れは、どんな悪事であれ、其の悪事は、人間に「善」を認識させる為の、お手本であると言う事である。
だから、二度の世界大戦も、人類に、新しい認識を与える為の、神の謀・はかりごとなのである。
其の様に捉えると、人間には、一切罪は無いと言う事に成るのである。
若し、人間に罪が有るとすれば、其れは、人間を創出している神に、罪が有ると言う事に成るのである。
今朝の次元に、私が辿り着いた理由は、9月1日に、紫微垣に通じる道に至って、葦の芽の門を潜り、2日には陰陽の磐座と文字(言葉・法律)の世界を通過し、昨日3日は緑の細胞質の命の源に帰還したからであろう。
だから、其の緑の細胞質と、宇宙のミネラル物質と、太陽光線が織り成すシステムの裏側に、私の意識は侵入して、此の相対世界を映し出している、ホログラフィの原版を、神の視線として視ていたのである。
其の視覚は、全宇宙を創造管理している神の視線である。
イエスは、其の視覚を使える次元に侵入したので、奇跡の数々を起こせたのである。
今朝のビジョンは、イエスがキリストとして、為そうとしていた事(プログラム)が、2000年振りに、高い次元で始まろうとしているのではないだろうか。
だからこそ、密教とされている神の神秘の世界を、私を裏側に誘いこんで、極一部を覗かせたのかもしれない。
其れは、仏教で言う処の帝釈天の網の一部が、剥がされた事を意味し、老子が感じていた天の網(宇宙の情報網)が、裏側から見えたとの事である。
今朝見せられた裏側の世界は、此の世のあらゆる物・現象を、起こしている真実の「理・ことわり」である。
其れは、神の意志が、裏側(四次元)の壁に情報を張り付けているからこそ、此方側(三次元)に物・世として、投影されて来ていると言う理・ことである。
だから、此の世に、其の理に一人も気付く者がなければ、神の意志は、希望と言うか、やる気を無くして、情報を管理する事を、止めてしまうのである。
そうすれば、此の世は、一瞬にして、無の暗黒に成ってしまうのである。
其れが「色即是空」の意味なのである。
今朝の映像は、此の世に、人間を生産しているのも、人間の縁を結んでいるのも、仕事をさせているのも、其れに対する環境を創り出しているのも、食べ物を与えているのも、全部、其の神の意志である理・ことが示された。
其れは、神の側から見れば、平面(二次元)に、切り絵の様に貼り付けてある物ごとの世界が、人間側から見れば、奥の深い謎の世界であり、奥が見えないので四次元の神秘として、捉えられていると言う事である。
其の、透明な平面の壁に張られている、一番上の切り絵の映像は、昆布の葉に、所々茶色の斑点が着いている物だった。
其の意味は、ミネラルやアミノ酸を食べる微生物が、昆布の葉に取り付いている事を、意味しているのだろう。
其れは、人間の意識の源も、其処に在る事を示唆しており、神の意志が、地球生命を、海のミネラルとアミノ酸から育て上げて来た事を、示しているのではないだろうか。
其れは、昨日のメッセージの映像で、私の意識が、進んで行った緑の回廊の先が、植物が、海から陸に上がる前の「海草」の次元まで、繋がっていた事を意味している。
そして、一番強烈な場面は、沼地の土の中から、生き血を吸う「蛭・ヒル」のお化けの様な生き物を、標本にする為に掴まえて、瓶に閉じ込めて蓋をしようとするのだが、力が強くて、触覚を瓶の口の外に出すので、なかなか蓋が閉められないのである。
其の内に、私が根負けして逃がしてしまいそうなので、側を通った弟に、殺虫剤を持って来させ、弟が、其の生き物にシューと一回吹き掛けると、其の生き物は、劇薬の塩酸を掛けられた様に、ジューと音を立てて、真っ黒に成って焦げてしまい、漂本に成らなくなってしまった。
其の意味は、此の人間社会に、ダニの様に他人に喰い付いている人間も、悪魔の様に振舞っている人間も、人間の意識が進歩する為に、全部、神が用意した物・現象であると言う事である。
だから、其れに、劇薬を掛けて殺してしまえば、此の世から悪の漂本が消えてしまい、善の意識が育たなく成ってしまうと言うか、善悪の両面世界を、認識が出来なく成ると言うことである。
其れを考えると、私の人生に関わって来た人々が、80%は悪い人間であった事の意味も、理解出来てくる。
私が、現在・いまの人格に成長出来たのは、私を助けてくれた20%の人達は勿論であるが、私が死ぬ想いをさせられた複数の人々こそ、私を強く育ててくれた、恩人であると言う事に成るのである。
私は24年前、修行の最終段階で、イエスの時と同じ様に、凄い形相の「悪魔・鬼」が現れて、其の悪魔に試されたのである。
しかし、私は、聖書のイエスの物語を読んでいたので、いよいよ最後の段階だと意って、奥歯を噛み締めて、その幻覚と戦っていたら、其の悪魔は「バレたか」と云って、突然私から離れて「天使」の姿に変ったのである。
何と、悪魔とは、学校の校長先生みたいな存在で、其の時節の卒業生の中で、一番優秀な生徒を、悪魔の姿で試す、最高レベルの大天使だったのである。
其の事からも解かる様に、此の世界には、真の悪魔は存在しないのである。
其れは、毎年台風がやって来て、強い風雨で木々を丈夫にする働きや、森の老木を倒して、新しい種子が芽生える為の、光が当る空間を造ったり、大雨を降らして、川のゴミを海に流したり、大波で、海岸地域を大掃除するのと同じ働きであり、大きな意味が有るのである。
其れは、大自然の働きの、大いなる儀式とでも言えるようなものなのだ。
私に、其の悪魔が出て来て試される儀式がなければ、此の世界に入って24年間、不利な状況下に置かれても、他人を恨む事無く、行動する事が出来なかったであろうし、現在の私の意識も無い事に成る。
今朝の映像では、大きな道路を車で走れば、目的地には早く到着するが、裏道を徒歩で歩く時の様に、他人との出会いが起き無いし、詳しい現場の情報も掴めないとの事が示された。
其れは、私が、何故24年間も回り道をして、紆余曲折が有ったのかが、理解されるものである。
神の存在は完璧であっても、其れを認識するのは、此方側の人間世界である。
だから、此方側に「義人」としての働き・受け皿がなければ、神は、動きが取れないのである。
其の受け皿として、選ばれる人間が「天に油を注がれた者」の意味の「メシヤ・救世主」なのである。
其のメシヤの役割は、神の目線で、此の三次元を管理出来る者の事である。
其の役割を果たす為には、私心が、一切有っては成らないのである。
其れが、日本の神社の伝統である「禊ぎ祓い」の儀式なのである。
そして、其の禊ぎ祓いの儀式が、正しく行われた者の働きこそが「すめらぎ」と呼ばれる、「籠目・ラー・いずのめ・天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」を有した、「スメラの命」である。
其の「すめ大神」の「すめ・澄目・素目」こそ、今朝、私が体験した、神社の鏡の裏側から、此方側の世界を見る「目線の目」なのであろう。
此処まで打ったら、岡山県の赤木さんから電話が有り、「今朝 自適さんが夢に出て来て、実家の古い家を壊すのを 手伝ってくれて居た。」と、知らせて来た。
其れは、私の働きが、古い建物を壊し始める事を、意味しているのだろう。
と言うことは、古い体制が、愈々壊され始めるとの事ではないだろうか。
其れが、9月15日から始まるのかもしれない。
平成20年9月4日3時6分
礒邉自適

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2008/6/20

」
予行練習
20・6・20
先月30日から始まった、今回の動きは、昨日午後9時で一応終了した。
しかし、今朝のメッセージで、「予行練習」との言葉が告げられ、新しい組織図と言うか、「命持ち・みこともち」の配置図の様なモノが表れた。
其の言葉で、一遍に、今回の疲れが噴出した感があり、今朝は身体が怠い。
本来なら、無事に今回の儀式も終り、大事な事も判明したのだから、満足感の充足が訪れる筈である。
しかし、其れ等の事が皆予行練習であり、是から、本格的な組織図と言うか、神々の働きを支える、人間模様を組み上げて行かなければ成らないとなると、満足感より、倦怠感が覆いかぶさって来る。
昨日は、朝から「高橋夫妻」と「森山さん」と話して居て、昨日のメッセージに、黒い球石が二個現れた事を思い出した。
そして、其の球石が何を意味しているのかも解かって来た。
森山さんには、素戔鳴尊の妻である「櫛稲田姫」の霊魂が憑いているとの事なので、昨日のビジョンに、稲刈りの光景が現れた事の理由も解けた。
そして、二個の球石は、素戔鳴尊と櫛稲田姫の霊魂の御魂石として、麦生集落の森山に在る「大山神社(祇園さん・素戔鳴尊が御祭神)」の祠に、納めなければ成らない物である事が判った。
其の、麦生集落の森山の「大山祇神」には、今年の4月29日に私は初めて参詣し、祠の中に御神体が何も無いので、近くに有った黒い石を、御神体として納めて帰って来たのである。
すると、其の夜のメッセージに、大きな黒い大蛇が、社の裏の磐座から出て来た。
其の黒い大蛇の事は、4月30日に書いてあるので、其方を読んで頂ければ良いのだが、昨日のメッセージでは、其の祠の石を「夫婦(陰陽合体の形)」にしなければ成らないと、言う指示である。
私は、其のメッセージの意味が理解出来たので、大山祇神の祠での「紀・トキの祭り」が終了してから、真下に位置する海岸に、四名にて黒い球石の陰陽・ペアーを探しに出掛けた。
そして、「大山邦博祭主」の自宅で、直合が始まる16時前に、其の一組の球石を、祠に納める事が出来た。
不思議な事に、森山さんには、是ほど美しい円形は無いと言える程の、球石が直ぐに見付かったのである。
其れは、用意されていたかの様に想える出来事であった。
そして森山さんは、自宅の神棚に納める、陰陽のペアーの花崗岩の球石も捜して、持って帰る事に成った。
其れ等の事柄を考えると、今回の「紀・トキの祭り」には、多様な意味・働きが含まれていた様である。
其れに、今回、兵庫県宝塚市から参加した「岩長さん」は、「森の石松」の事をPCで検索したら、私の文章が出て来たので、私のHPを見て参加したとの事である。
其れに、沖縄万博を記念して発行された2000円札の裏の、「十五夜」の言葉と「あかつき」の言葉がキーに成っているので、私の文章に親近感を覚えたとの事である。
今回の第三回大山祇神の「紀・トキの祭り」は、天気にも恵まれ、24名の参加で和やかに行われた。
しかし、其れは、是から起きて来る事の、露払いにしか過ぎない様である。
私の周囲に、是から、何が起きて来るのかは解からないが、本格的に意識を集中しなければならなく成る事は、間違い無い様である。
だからこそ、24年間の修行が、必要だったのかもしれない。
24年前に、何故、杖を持たされたのかも、追々と明らかに成って来るだろう。
「自適の今日」http://wave.ap.teacup.com/894019/
平成20年6月20日
礒邉自適

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2008/5/17
真事の言の波 風
20・5・17
本日5月17日は「世界電気通信の日」と決められており、現在189カ国が加盟している。
其れは、人間が此の三次元世界で、自分の顕在意識で創り出した「文化」や「文明」の情報を、遣り取りする為の手段として開発して来た、電波に拠る通信システムの「記念日」とされているものである。
今朝は、其の世界に付いて、私に能く考えろとの事の様である。
今朝のビジョンは、私が所有している金銭の半分を、何かを購入する為にITで送金したら、品物が送られて来ないで、問い合わせ先も判らず、困っている場面であった。
今朝の映像は、其れだけだったので、其の映像から、私は様々な事を連想して居た。
先ず「半分・5割・50%」だけを送った事である。
何故、「1分・1部・1割・10%・1部分」とか「全部・10分・10割・100%」ではなく「半分」だけであったのだろうか。
其の理由は
1) 自分の事を護る為に 半分残した。
2) 見えない相手なので 全面的に信用出来なかったから。
3) 私にも 自我意識が残っている事を示している。
4) 神の世界に入るのには 全部を預けなければ成らないことを示している。
5) 昔と違って 現在のIT社会の仕組みは 相手が何者かの確認が出来ないので 偽りが蔓延っている事を意味している。
6) 自分の物は 半分は 天か皆に返さなければ成らない。
等が考えられるが、私にも能くは解からない。
今朝、此の映像で、私の琴線に触れたのは「偽り」の言葉である。
「偽」の漢字は「人+為」の組み合わせで、「天意が為す事・天為」に対して、「人意で行う物ごと・人為」を意味している。
しかし、其れは中国文化の概念であって、「大和文化(日の本のくらし)」の概念ではない。
「偽・ギ・いつわる・にせ」【解字】形声。「人+為(爲)」音符の爲・イは、人が手を加えてつくるの意味。人がつくりごとをする、いつわるの意味。
【字義】(一)@いつわる。あざむく。㋐うそをいう。㋑見せかける。ふりをする。また、まねをする。Aいつわり。うそ。つくりごと。「虚偽」Bにせ。贋・ガン。「真偽」Cかり(仮)。また、かりに。一時。しばらく。D人為。自然のままなのに対して、人が意志や手を加えること。Eならい。(習)。後天的な性。(二)@うごく。うごかす。A変わる・変える。 漢語林
では、元々の日本語である「いつわり」とは、どの様な背景を持っている言葉なのであろうか。
其処の処が、はっきりと自覚出来なければ、今日から、世界に向けて「情報発信・マイトレイヤー・彌勒」が出来ないのである。
「いつわり」の逆の言葉は「まこと」で、漢語林で「まこと」の漢字を調べると、「允・忱・実・忠・信・亮・悃・真・悾・誠・惊・・・」等19文字も有る。
其の中で、使われている文字を調べて、簡単に並べると次の様に成る。
・「允・イン」頭の秀でた人の象形で、知的で誠実な傑出した人の意味を表わし、転じて、まことの意味を表わす。
・「忱・シン」心が他にそれずに一事に専心する。の意味。
・「実・ジツ」 家の中に財貨が行きわたる。満ちる。の意味。
・「忠・チュウ」中にあってかたよらないこころ。の意味。
・「信・シン」発言に嘘が有れば処刑する。の意味。
・「亮・リョウ」ものごとに明るい人・明晰。高い位置に在る人。の意味。
・「悃・コン」心が変らず、均質であるとの意味からまことの意味を表わす。
・「真・シン」中身が一杯に詰まっているもの。いつわりが無い。の意味
・「悾・ク・コウ」心中になにもない。邪心がない。の意味
・「諒・リョウ」相手の心を思いはかる。まごころの意味
・「誠・セイ」完成して安定している。安心できる言葉、まことの意味を表わす。
此の中で、「まこと」に当られる一般的な漢字は「真・誠」であり、熟語には「真実」「信実」「誠実」「事実」が有る。
其れに「実(じつ)が有る人」とかの使い方もある。
其の「実・真」の漢字は、両方とも、中身が「全部・10割・100%」詰まっている意味であり、「惊」は「心+京」でとても大きな心の意味であり、「誠」は完成した心の意味であるので、やはり大きな器に中身が均質に詰まっている意味になる。
其れ等の事を考えると、今朝のメッセージは、電気通信の情報には、中身が半分しか詰まっていないとの意味に、成るのではないだろうか。
其れは、真実ではなく、偽りの情報が多いとの意味にも、受け取れる。
其れに、「いつわり」に漢字を当てると「五割・いつわり」と成り、洒落言葉にすれば「半分」の言葉と同じ意味が、現れて来る。
其の様に考えると、今朝のメッセージは「いつわり」がテーマであるのかなと想われて来るのである。其れは、「割が合わない」との言葉にも通じている。
そして、其の他に、「わり」の付く日本語には、「ことわり(理)(断わり)」「かかわり(関わり)」「さわり(障り)」「おわり(終わり)「かわり(代わり)(変り)」「すわり(据わり)(座り)」「まわり・(周り)(回り)」等が有る。
其れ等の「わり」に付いている音霊は「いつ・こと・かか・さ・お・す・ま」等である。「いつわり」の「いつ」は「御陵威のイツ」「何時のイツ」数字の「1のいつ・5のいつ」が有る。
其の言葉と、付き合わすと「いつわり」とは、「真実」か「時間」を割り込む事を意味しているのかもしれない。
其の様に考えれば、是から、世界に通信する情報・言葉が、「真実(正しい中身が均一に詰まった物)」にならなければ成らない理・ことを、示唆しているのではないだろうか。
そして、「まこと」とは「真事」と、漢字にしても良いのかもしれない。
今日は、其れ以上の事は解からないので、明日のメッセージを待つ事にしたい。
「世界電気通信の日」http://www.shokabo.co.jp/keyword/2001_5_ITU.html
平成20年5月17日
礒邉自適

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2008/5/6
4000人の仲間
20・5・6
昨日は、正午から、安房に在る屋久島町の施設である総合センターで、「AZAMIさん」のコンサートと「小杉を考える集い」のシンポジウムが有ったので、其れに三時まで顔を出した。
そして、其れ等の催しが終ってから、シンポジウムの司会をされた、熊本の松下生活研究所の「松下修氏」と30分程話した。
私は、熊本には10年程住んで居たので、エコ関係の目ぼしい人間には、殆んど会って居ると意って居たのだが、松下修氏と会って、何故是まで縁が無かったのか、不思議な気がした。
松下修氏は、月に一度程のペースで、屋久島を訪れているので、次の来島時からは連絡を頂く事に成った。
「シンポジウム様子」http://wave.ap.teacup.com/894019/775.html
其れ等の事柄に、関係が有るのかどうかは判らないが、今朝のメッセージは、生活に関係が深い内容のモノであった。
其れは、昨日メッセージに有った、三段階に別ける学びの世界にも、関係が有るのではないだろうか。
今朝のメッセージは、4000人との数字が現れ、4万円代の金銭の感覚も伝えられて来た。
其れは、先ず、4000人の仲間を募れとの事と、家賃と水道光熱費、其れに交通費等を除いた衣食の生活費を、4万円代で暮らせる様に、考えろとの事の様である。
そして、御飯茶碗やオカズの皿等が、セットに成って映って来た。
其れは、それ程贅沢な物ではないが、個人的な優しさが伝わる食器類であった。
其れは、波動の良い陶芸家を探して、その人が制作した茶碗を、皆が使用する事で、同じシリコン・珪素信号を受信するとの、意味が有るのかもしれない。
其れに付いて、私の体験を述べると、私が一度目の旅から帰って、無庵師匠の自宅で師と向かい合って、食事をして居た時に、小皿を左手に持つと、突然其の小皿から、強い電気が左腕に流れて来た。
私は、慌てて、其の小皿をテーブルの上に置いて、「先生 此の皿は 誰が制作した物ですか。」と訊ねると、唐津の人間国宝の中里無庵作(1985年4月11日〜1985年1月5日)であるとの事だった。
其れから一週間程は、眠る為に目を閉じると、瞼に見た事も無い様な器が次々に現れるのである。
後に、本屋で陶芸関係の本を見ていて、其の中の一つが有名な長次郎(?〜1589年)の茶碗である事が判明した。
其の現象は、中里無庵の霊魂が電気・磁気信号として、皿を通じて、私の手に流れ込んで来た事を意味している。
其れは、手を使って物作りの世界に居た人達の霊魂は、其の物を通じて、手に流れると言う事である。
其れと、異なるのは、昭和天皇の霊魂が死んだ1月7日の夜に、直接私の心臓に飛び込んで来た事である。
其れは、天皇は物作りをしないで、精神の世界で生きているから、直接「心臓・こころ・ハート」に流れるとの事であろう。
其れ等の現象から理解出来る事は、物の世界には、物を通じて人間の「意識・情報・霊魂」が時間空間を越えて、流れる事を示している。
其れが、御守りとか、形見分けの世界を創り出し、またミイラやお墓を作る事にも、繋がっているのだろう。
特に、珪素・シリコンの性質・波動は、人間の霊魂の通信物質として、有効だとの事であろう。
焼き物の陶器を作る粘土や、磁器を作る珪石は、珪酸塩鉱物を主とする物で、珪素やアルミの他に、様々な物質が混ざっている物である。
【珪酸塩鉱物】地質学や天文学におけるケイ酸塩は岩石の種別の一種であり、ケイ酸塩鉱物を主成分とするものを示し、火成岩、変成岩、堆積岩の多くがこれに含まれる。地球のマントルや地殻は主にケイ酸塩によって構成されており、他の地球型惑星についても同様である。 地球では、地殻の形成、および部分的な融解、結晶化、分画、変成作用、風化、続成作用などの過程によって多種多様なケイ酸塩鉱物が生成してきた。地表付近においては生物もケイ酸塩の生成に寄与している。プランクトンの一種である珪藻はケイ酸塩からなる被殻を作り出す。深海の沈降物は主に珪藻の被殻からなっている。
ウィキペディア辞典 現在記載
上記の理から、今朝のメッセージの事柄を検討すると、同じ周波数を持つ食器を、4000人が日々の三度の食事に使用する事で、4000人の波動のネットワークが出来上がり、共通意識が生じて、大きな力・パワーを発揮し、人類全体の潜在意識に影響を与え、宇宙の情報を、変える事が出来るとの事なのかもしれない。
其れに、今朝のオカズの皿には納豆が有ったので、大豆を始めとする豆類を、食料として多く使用しろとの事であろう。
其れが、生活費を4万円代に抑える、秘訣と言う事ではないだろうか。
私は、豆腐や揚げが大好物なので、其れには大賛成である。
其れと数日前に、豚カツと鰯の干し物を焼いたのが出て来たので、其れ等の食品も、稀には食べて良いとの事ではないだろうか。
豚は元々猪であるから、森林に住んで繁殖力が強い動物であるし、鹿と同じく適当に退治しないと、農作物の栽培に被害を齎す物である。
其れに、豚は人間の残飯で養う事が出来るので、環境に対する負荷は少ないであろう。
其れと、鰯や鯖や鯵や秋刀魚等は、プランクトンを餌にして大量発生する物であるから、其れを養殖のハマチや鰤の餌にするのではなく、直接食べる事は、地球環境に対して、害を与える事にはならないのである。
今朝のメッセージは、先ず日本の伝統である、「食国の政(おすくにのまつりごと)」を、4000人の仲間を創って始めろとの事ではないだろうか。
其れは、私に起きた、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」の最初に姿を現した、桜沢如一の憶いが、実行に移されるとの事であろう。
桜沢如一は、湯川秀樹等と共に、新しい世界政府を創る運動を起している。
今朝のメッセージは、其の桜沢如一や湯川秀樹等の霊魂が主体に成って、イメージを送って来たのではないだろうか。
其の原因に、一昨日来訪した野中浩君が、関係有るのかもしれない。
何故なら、彼は佐賀県唐津市の生まれなので、東京から唐津に向かい、先祖のお墓を捜し回って、寺を訪ねたりしてから、直接、屋久島の私の所に来ているのである。
だから、私が、其のお墓の霊魂を吸い取ったので、作夜は眠れないで、今朝は磁器や陶器の器が映って来たのではないだろうか。
私にも良くは解からないが、霊界人達は、具体的に何かを始めている様である。
其れに、関係が有るのかどうかは解からないが、今朝は、東京の女性から屋久島に旅をしたいので、自然食の宿を教えてくれと書き込みが有った。
やはり三段階の学びは、食文化から始まるのではないだろうか。
漢字の、「謂」や「體」「祷」「壽」の文字の意味が、再認識される時代が訪れるのであろう。
平成20年5月6日
礒邉自適

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2008/3/25
等身大の情報選択
20・3・25
今朝の様子では、確かに、神霊界の様子が変化して来ている様である。
其れは、昨日、紫色の情報の流れの川に、釣り針を数多く下げた事に、関係が有るのだろう。
其れは、精霊や神の情報・メッセージを受け取る事から、自分が、森羅万象の流れに釣り針を無数に下げて、直接に情報を釣り上げる事を意味している。
其れは、既に私の意識が、過去に生きた者達の希望や情報を受け取って、其れに従って行動する事から、自分自身が、森羅万象の川の流れから情報を汲み取って行動する事に、舞台が変化している事を示唆しているものである。
其れは、私が24年前に受けた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が終った事を意味し、是からは、私自身が、自分の意識で、自由に情報を選択・チョイスして、行動しなければ成らないと言うことである。
今朝、私が釣り針に引っ掛けた情報は、私が果樹園の樹木に、農薬の水溶液を動力噴霧器で散布して居ると、木の枝に下がっている蜂の巣に農薬が掛かり、蜂が死んでしまう映像が映されて来た。
次には、5月23日の日付が現れた。
其れから、女性の意識が現れ、自分に必要な情報を選び始めた。
其の女性の意識は、アルファベットの小文字で表され、複数の意識体が在る事が解かった。
そして最後に、「等身大」との言葉が脳裏に浮かんで来た。
「等身大」の言葉を、PCで検索すると、@人の身長と同じ大きさであること。A現実的で身近に感じられること。と、載っている。
今朝現れた「等身大」の意味は、Aの「現実的で身近に感じられること。」の方であろう。
其の言葉から、私が理解出来る事は、是からは、神のお告げとして、皆に話すのではなく、自分の体験や考えに基づいて、話をしろとの事ではないだろうか。
其れだと、自分の考えとして、言葉を放つ事に成るので、是までとは違い、自分の発する言葉に、責任と義務が伴う事と成る。
そうであれば、是までの様な文章も、書けなく成るであろう。
そして、話す内容が「等身大・現実的で身近に感じられること。」だから、抽象的な事や、雲を掴む様な話は、出来ないと言う事にも成る。
其れが、どう言う意味であるのかは、未だよく実感を持てない。
今朝の幾つかの場面は、其のヒントに成る物を、私の潜在意識が、森羅万象の流れから釣り上げたものではないだろうか。
5月23日の日付で、私が思い出すのは1999年5月23日の日付である。
其の日は、埼玉県上福岡市に住む「佐々木将人氏」が、靖国神社に勤めている息子に、自分の跡目を譲る儀式が行なわれた日である。
其の儀式に参加する為に、出雲から東京に出かける朝、ドイツ語で「ルーヴェン-デス」との言葉が告げられて来て、其の意味を調べると「風上に向かって 正確に 船首を向ける。」との意味であった。
其れに、其の事を書いた2003年2月14日には、私の母親「礒邉芳子」と、既に亡く成っている弟「農夫成」が霊夢に現れ、「伝承」の事が、テーマに成っているメッセージを受け取っている。
其れは、1999年5月23日のメッセージの内容が、父親(佐々木将人氏)が息子に跡目を譲る儀式であった事と、重なっている。
「き」2003・2・14 http://star.ap.teacup.com/170606/246.html
「記」2003・2・14 http://star.ap.teacup.com/170606/245.html
今朝の映像で、情報を選んでいる女性の意識の名が、アルファベットの小文字で記されていたのは、「母音」を意味しており、大文字の「Father・ファザー」の「父・神父・ゴッド」と、対比するモノで、女神を意味していたのではないだろうか。
其れは、私の潜在意識に巣くっていて、情報を選択しているモノが「女神」である事を意味している。
その様に考えれば、女王蜂が中心と成って「子孫・DNA」を伝えている蜂の生態が、関係が有ると言う事になる。
何故、今朝のビジョンに、其の蜂の巣に農薬が掛かり、蜂が死んでしまう映像が映されて来たのだろうか。
其れは、人類が、自然に対して公害を出し、生命圏を犯している事を、示唆しているのかもしれない。
其れは、私の潜在意識に住む女神が、地球全体の生命の源に、繋がっている理を、示して来ているのではないだろうか。
其の事を考えると、人間の男性は、天に対して、意識を持つ事は出来るが、地球全体の生命には、無頓着であるとの事に成る。
だから、直ぐ戦争を始めたり、平気で環境を破壊したり出来るのであろう。
今朝のビジョンは、私の潜在意識が「万物の霊長」として、未来に向かう情報を「選択・チョイス」して居た事に成るのだろう。
其れは、イエスの言葉が「天の父よ」と言っている事とは対象的で、神は女神が元であり、地球其の物が、神の住いである理・ことになり、「ネイティブアメリカン・Native American」が、地球環境を「母なる大地」と呼ぶ事や、日本人が女性の役割を「畑」に例えるのと、同じ気持ちである事に成る。
其れに、現在使われているギリシャ神話の大地の女神「ガイア」の名も、同じ概念から生まれた物であろう。
其れ等の事柄を、中心に考えて行けば、自から、考えは「等身大」に成って来るのではないだろうか。
現実的にも、私の周りの動きは、村造りや、学びの場の建設に向かって、動き出して来ている。
だからこそ、私が、神のお告げだとして、物事を云うのではなく、自分の考えとして、言葉を発する必要があるとの事ではないだろうか。
其れは、役所に通用する言葉を使うとの事でもある。
其れが、神の意識に適った方向に向かう為には、男性の性格である花粉・種蒔きの行動や、高い建造物(リンガー)を立てるのではなく、身近な環境や、畑を護って行かなければ成らないのだ。
そして、其の答えは、自分の身体の中に、潜在意識として存在する、雌のプログラムに在るのである。
其れが、釈迦牟尼佛の謂う、自分の中に内在する「ホトケ・生命」であり、老子の謂う「雌の立場に身を置く」との意味であろう。
其れ等の元・源は、36億年前から、永遠に繋がっている「DNA(絡む陰陽の蛇)」の存在なのである。
其れが「タオ・道」のシンボルと成り、現在まで伝えられているのだ。
今朝のビジョンは、霊界からのメッセージではなく、自分の「生命・いのち」自体が、現状を、森羅万象の中から選択・チョイスしたのであろう。
だからこそ、古代から「蛇・エラブ・選ぶ」の言葉が、使用され続けているのだ。
平成20年3月25日
礒邉自適

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2008/3/24
時間の流れ
20・3・24
今朝見せられたビジョンも、私に対するメッセージと言える様なモノではなく、ただ「宇宙の情報が、私の頭脳の中を通過して行った。」と、言った方がよいものである。
其れを、何と、言葉に表現して良いものかは解からないが、「宇宙の時間の流れが見えた。」と謂った方が、良いのかもしれない。
「森羅万象の流転・しんらばんしょうのるてん」との言葉があるが、其れが、映像にて見えたと云っても、間違いと言う事には成らないだろう。
其れは、日本の古事記や、旧約聖書の物語や、ギリシャ神話などの、童話の様な話より、現実味が有るのではないだろうか。
此処まで科学が進んでも、数千年前の誰かが霊視したビジョンを、恰も其れが真実の様に、伝え続けるのは、好い加減に止めるべき時節に、至っているのではないだろうか。
人間の「頭・あ球」も鴨の雛鳥と同じく、刷り込み情報で、意識を組み込んでいるのである。
だから、誰かが善意で行なった事でも、サンタクロースや、桃太郎や、かぐや姫などと同じく、実在しない幻の人格の存在で、純粋な子供達の意識を、汚す事を、もういい加減に止めなければならないだろう。
其の理・ことは、2600年前に、釈迦牟尼佛や、老子が、既に説明しているのである。
其の、釈迦や、老子が、説いたのは、「人間の存在こそが 此の宇宙の時間(森羅万象の流転)の最先端の姿である。
だから 全ての事は 自分自身の肉体に 内臓されている。」との理である。
何故、其の理が、一般的な情報として広がらないかと言うと、其れが一般常識に成ると、政治や、宗教組織の存在で、生活をしている権力者が、権力を失うからである。
イエスキリストが謂う様に、皆が、税金を納めるのを止めれば、国と言う会社組織は潰れてしまうし、釈迦牟尼佛が謂う様に、皆が出家してしまえば、現在の経済の仕組みも、崩れ去ってしまうだろう。
しかし、そう成っても、人間が滅亡する事はなく、協力し合えば生きて行けるのである。
寧ろ、国に都合の良い教育制度が無くなれば、人間の意識は自由になり、森羅万象の流転と一体化するので、平和な生活が営まれるであろう。
今朝、私の脳裏を通過して行ったビジョンは、頭に詰め込んでいる偽情報を消去してしまえば、皆の頭にも映る映像であり、其れは、此の世に存在する全生命の、潜在意識として流れている情報なのである。
今朝のビジョンを、読者がイメージ出来る様に、言葉にすれば「紫色(高周波)の情報が流れている川に、餌(目的)を付けない釣り針を、透明な糸に結んで、長い竹竿に数多く下げて、対岸の岸にまで渡し、其の針に掛かった情報を自分の物として、人生を組み込んで行く事」と、説明出来るであろうか。
其れが、「運命」との言葉の意味ではないだろうか。
其れは、現在の教育制度の様に、過去の誰かが決めた概念を、子供の頃から無理矢理に食べさせられ、消化不良を起したり、便秘に成ったりしている様子とは、異なる情報収集である。
其の点に於いては、私は、環境に恵まれていたと言えるだろう。
私は、父親に「勉強をしろ。」とか「進学しろ。」とか一度も云われた事も無いし、一回も殴られた事も無い。
私の父親は、ただ私が育つ事に、協力してくれただけである。
だから、私は、自分で好きな様に、人生を歩いて来たのである。
私は、昨年還暦の歳を過ぎ、今年は61歳目の人生を生きている。
還暦とは、「12干支×10回の120年(大還暦)」の半分であり、60歳は大往生に向けての、折り返し地点である。
だから、自由に人生を送れば、此の処私が観ているビジョンは、皆が観る事が出来る世界なのではないだろうか。
其れは、神や、仏を、拝む事ではなく、自分の遺伝子情報の「過去・現在・未来」の世界を、自分の脳に映し出す事である。
だから、釈迦牟尼佛は「信じられるモノは 此の自分の肉体だけである。だから精進しなさい。」と謂い、老子は「恍なり惚なり 惚なり恍なり。」と、宇宙のエネルギーの中に、自分を潜ませる理を説いているのである。
彼等が、自分の意識を住まわせて居た世界こそが、紫色の情報が流れている川面であったのだろう。
其の、紫色の川の「水源・みなもと」こそ、「神・上・かみ」と呼ばれている「紫微垣・しびえん」であろう。
其の、宇宙時間の流れの源である紫微垣こそ、人間が求めている「帰命・祷り・ナーム・リリジョン・religion」の対象世界なのであろう。
其れを理解出来るのが、釣りで有名な「太公望・たいこうぼう」の話であり、「人間万事塞翁が馬」の話の「塞翁・さいおう」の心境なのであろう。
だから、太公望や塞翁は宗教の元には成らず、日本の落語の様な世界で終っているので、「罪・つみ・積み」が無いのである。
其れは、日本の「一休さん」や、「良寛さん」の世界の様なものであろう。
彼等の様に生きれば、2000年間も「キリスト様」とか「仏様」とか、365日・24時間休み無く呼び出され、苦労する事も無いのである。
今朝の映像は、「天に仕える」とは、どう言う事であるのかを、悟れるモノである。
其れは、「大日如来(紫微垣の源)」の情報が、此の三次元世界にスムーズに流れ出す為に、「スメミマ」として「無償・無欲」で、身体を森羅万象の流れに提供する事である。
其の姿を現した物が、女神の「観音菩薩」の姿であり、其れを地上で受けている姿が、男性の結跏趺坐の「大日如来」であるのだろう。
だが私は、結跏趺坐の仏や、身動きできない皇帝の姿には興味は無いし、餌や針も付いていない釣竿で、魚釣りをする事は退屈である。
其れにいまは、子供と鞠つきをする体力も無いだろうから、此のまま、毎日を過ごすしかないであろう。
昨日から、感じている事は、私への認識を促すメッセージが無くなり、情報が素通りし始めた事である。
其れは、「馬耳東風」の様な具合であるので、是からは、私も楽に成るのではないだろうか。
平成20年3月24日
礒邉自適

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2008/3/14
源へ還る意識
20・3・14
今朝のメッセージの映像は、雨期で湿った大地を、山へ向かって這い上がって行く「いのちたち」の最先端に、私の意識が存在している事が示されて来た。
そして、私の母親や、29歳で亡く成った弟が、私の進む道を、支えて居てくれた事が示されて来た。
今朝のメッセージの映像は、私が男性だから、精子のカルマを潜在意識に持っているからかも知れないが、陸に這い上がった動物が、水が流れて来る「源・水もと」へと、這い上がって行く原因を示しているのかも知れない。
其れは、稚鮎や、鰻の稚魚や、鮭が産卵の為に、川を必死に遡って行く事に似ていて、人間の意識も、自分の生命の源が、水の存在に関係が有る理を、無意識で知っているのではないだろうか。
後6日で、「春分の日(20日)」であり、春の彼岸の中日である。
私達は、子供の頃から、春の彼岸には、「川を 河童が山に上って行き、秋の彼岸には、山から川を下りて行く」と、聞かされていた。
今朝のメッセージの映像は、其の事が、満更嘘でもない様に想われるものである。
其れは、人間の意識の中に「源・水もと」に引かれる潜在意識が潜んでおり、山の泉に、神が住むと考えられ、「御嶽・みたけ・ウタキ」信仰が生まれる原因と、成っているのではないだろうか。
だからこそ「川上・かわかみ」との言葉が有り、「神・シン」を「かみ」と呼び、自分の事を「みずから」と自覚するのかも知れない。
其れを科学的に考えれば、森林を形成している植物は、皆、数億年前に海から陸に這い上がって行った物であり、其の植物の活動で落ち葉が生まれ、其の落ち葉を微生物が分解して、森の栄養であるフルボ酸鉄が生まれ、其のフルボ酸鉄を含んだ水が川を下って、水田を肥沃にしている。
更に、其の水は海に流れ出して、植物プランクトンの餌と成り、其の植物プランクトンが動物プランクトンの餌と成り、其の動物プランクトンが小魚の餌と成り、其れを鰯や鯖が食べ、其れを鰹やマグロが食べているのである。
其の理を考えれば、生命の源は森に在る事に成り、其の生命・いのちの元に意識が還ろうとするのは、当然の事と謂えるであろう。
其の潜在的な生命情報が、人間に、神・上の世界を創造させているのであろう。
だから、古代に同じ様なビジョンを見た者が居て「人間は 粘土(アルミと珪素の化合物)で創られた」と謂い、其れが、旧約聖書の物語に成って来たのであろう。
更に、最初に創られたアダムの骨から、イブが創られたと有るのは、動物が海から陸に這い上がる時に、カルシウムやミネラルを蓄える貯蔵庫として、甲殻ではなく骨格を用意した事を、潜在的に感じ取って、説明したものではないだろうか。
聖書も、コーランも、仏教経典も、みな人間が、言葉や文字を発明したからこそ、伝えられて来た物である。
だから、言葉や文字がなければ、宗教も無いと言う事に成る。
そして、言葉や文字がなければ、全ての人々が、私の様に、毎日見る夢を真実の世界と憶いながら、生活して居たのではないだろうか。
だからこそ、学校が無い自然の中で、生活して居る現住民は、夢を大事に考え、其れを見せてくれる精霊を、神として来たのである。
だから、学校が出来て、聖書やコーランや経典を、机の上で勉強する様に成れば、神やブッダは、本の中に閉じ込められ、もう夢の中には現れなく成るのである。
昨夜は、ベッドに着き眠りに入る前に、「あつらえる」との言葉が伝えられて来た。
私は「イスラエル」ではないかと疑問に意ったが、やはり「あつらえる」との言葉である事が分った。
朝 PCで其の単語を検索すると、
*あつら・える【誂える】動ア下一] あつら・ふ[ハ下二]
@自分の思いどおりに作らせる。注文して作らせる。「洋服を―・える」2) 人に頼んでさせる。
と有るので、ついでに似た言葉を検索して見た。
*しつら・える〔しつらへる〕【▽設える】
[動ア下一] しつら・ふ[ハ下二]《「しつらう」(四段)の下一段化》
こしらえ設ける。備えつける。「庭に物置を―・える」「部屋に飾り棚を―・える」
*こしら・える〔こしらへる〕【×拵える】こしら・ふ[ハ下二]
@ある材料を用いて、形の整ったものやある機能をもったものを作り上げる。また、結果として不本意なものを作ってしまう。「弁当を―・える」「藤棚を―・える」「家を―・える」「こぶを―・える」
A手を加えて、美しく見せるようにする。化粧したり衣装を整えたりして飾る。「顔を―・える」「身なりを―・える」
B工夫を巡らし、ないことをあるかのように見せかける。「話を―・える」「うわべを―・える」
C手を尽くして、必要なものを整える。用意する。「頭金を―・える
D友人・愛人などを作る。「女を―・える」
Eなだめる。とりなす。 国語辞典より
此れらの言葉から、理解出来ることは、「あつらえる」は他人に注文して作らせる意味であり、「しつらえる」と「こしらえる」は、自分で物を作る事を意味している様である。
何故、昨夜「あつらえる」の言葉が告げられて来たのであろうか。
私が、昨日書いた文章は、儀式の件と、藤原の姓に付いてと、虚空蔵菩薩に付いてである。
虚空蔵菩薩に付いて触れれば、弘法大師空海の「虚空蔵求聞持法・こくうぞうぐもんじほう」の世界がある。
虚空蔵菩薩とは、─引用開始─
・・・「虚空蔵」は文字通り「虚空を蔵する」の意で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。・・・・ 〜引用終了〜 ウィキペディア辞典
と有り、弘法大師空海は、四国の室戸御崎で其の事に成功したと伝えられている。
其の事と、今朝の私のビジョンとの関係性は何であろうか。
私は、昨日の夕食で「タラの芽」の天麩羅を腹一杯食べたが、其の事で、自然との結び付きが深く成ったとの事であろうか。
弘法大師空海は、「虚空蔵求聞持法」を行じて、其れに成功し「金星・明けの明星」が自分の口に飛び込んで来る現象を体験して、大悟したと伝えられている。
其の弘法大師空海の霊魂が作用して、今朝のビジョンを私に送り込んで来たのであろうか。
そうであれば、生命の最先端に立って居る意識体は、弘法大師空海のモノであった事に成る。
今年の「春分・彼岸の中日」は3月20日だが、弘法大師空海の1173回目の命日は、次の日の21日である。其の日まで、残り7日である。
昨夜の「あつらえる」とは、其の日までに、何かをあつらえる必要が有るとの事であろうか。
若しかしたら、17日から来島する前田氏と4名の方々に、何かを伝える必要が有るとの事なのかも知れない。
前田氏は、「自適さんが考えている事を 企画書にして 丹治氏に渡してくれ」と云ってもいる。しかし、私には、企画書を作成する技がない。
其れに、神が私に求めて来ている事は、地球全般の事に付いて、全てを網羅する情報の組み込みである。
其れが、大日如来の化身である虚空蔵菩薩の意志であり、弘法大師空海の本願であれば、私一人の能力では手に負える事ではない。
だからこそ、「あつらえる」との言葉を伝えて来たのではないだろうか。
屋久島では「了解」の意味の言葉は「ジャー・ジャー」か「よー・よー」と云い、鹿児島弁では「じゃっど」と云う。
昨夜、藤田さんに、オランダ語で「イエス・yes」を何と言うのかと聞くと、「ヤー」でスペルは「ja」との事、それだと屋久島の安房の方言である「じゃー・jya」や「よー・yo」は、「ヤー・ya」と、同類の言葉である事に成るのではないだろうか。
私は、24年前の1984年6月4日(旧暦5月5日)に、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受け、其れから、其の霊魂・精霊・神霊の云う事を聞いて行動して来た。
しかし、其の霊魂に対して、明確に「はい」とか「イエス」との返事を返してはいない。
何故かと言えば、返事をしなくても、其の前に、私の意識を占有し、手足の動きや、言葉を支配しているのだから、答えずとも、其の様に働いていたからである。
つまり、抵抗しても無駄だったからである。
しかし、昨夜の様に、他人に向けて「あつらえる」事を依頼するのであれば、他人を、此の世界に引き込む事に成るので、おいそれと「いえす」と答えられないのである。
何故、今に成って、私の意識が「返事・応答」を気にするかと言えば、私の応答しだいで、精霊や神霊が動く時節が、到来している様に感じるからである。
其れに、今朝のビジョンでは、生きとし生ける物達の最先端に、自分の意識が在るとの事だから、人類の都合だけで、返事をする分けには行かないのである。
其れは、万物の霊長の立場として、「衆生一切・生きとし生ける物」の全体的バランス・調和を、図らなければ成らないからである。
今朝、私に理解出来る事は、地球上の全生命には、基本的な処に共通の「データソース・DataSource」が存在し、其れが、生命全体で情報を共有していると謂う事である。
其れを、仏教では「仏の世界」と呼んでいるのであろう。
「誂える」とは、スーツを新調する意味でもある。
其れは、是まで着ていた服を、脱ぎ捨てる事でもある。
其の理・ことを考えれば、此処から先は、どんな宗教やイデオロギーも、脱ぎ捨てて、掛からなければならないと言う事でもある。
果たして、全く新しいスーツを、何処に発注すれば良いのだろうか。
其れも、データソース・DataSourceの中に、既に組み込まれているとの事であろうか。
そうであれば、私は是からも、現状維持を続ければ良いと言う事に成るが、今日の処は、是以上の事は分らないので、明日のメッセージを待つしかないだろう。
平成20年3月14日
礒邉自適

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