自適随筆
私の思考だけで書いた文集
プロフィール
カレンダー
2008年
October
Sun
Mon
Tue
Wed
Thu
Fri
Sat
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
カウンター
本日のアクセス
昨日のアクセス
総アクセス数
最近の記事
私の考えや想いの文集
(無題)
(無題)
蜂鳥の左足・ウィツィロポチトリ
満ち潮の影響
記事カテゴリ
ノンジャンル (3)
健康に付いて (0)
歴史に付いて (7)
政治に付いて (3)
私の考え (17)
衣食住に付いて (7)
言葉・文字に付いて (53)
環境に付いて (7)
悟りに付いて (10)
霊界に付いて (19)
神の存在 (46)
精神に付いて (23)
意識とは (45)
生命に付いて (17)
生活 (21)
文化 (81)
故郷 (12)
技術 (0)
過去ログ
2008年10月 (1)
2008年9月 (1)
2008年7月 (4)
2008年6月 (1)
2007年12月 (1)
2007年9月 (4)
2007年8月 (4)
2007年7月 (5)
2007年6月 (2)
2007年5月 (4)
2007年3月 (2)
2006年10月 (3)
2006年9月 (1)
2006年7月 (1)
2006年6月 (2)
2006年4月 (2)
2006年3月 (1)
2005年11月 (1)
2005年10月 (3)
2005年9月 (1)
2005年8月 (3)
2005年7月 (2)
2005年6月 (2)
2005年5月 (14)
2005年4月 (12)
2005年3月 (4)
2004年8月 (1)
2004年7月 (1)
2003年7月 (1)
2003年5月 (1)
2003年4月 (3)
2003年3月 (10)
2003年2月 (8)
2003年1月 (18)
2002年12月 (12)
2002年11月 (11)
2002年10月 (2)
2002年9月 (6)
2002年8月 (9)
2002年7月 (5)
2002年6月 (2)
2002年5月 (3)
2002年4月 (5)
2002年3月 (8)
2002年2月 (10)
2002年1月 (6)
2001年12月 (2)
2001年11月 (1)
2001年10月 (6)
2001年9月 (5)
2001年8月 (8)
2001年7月 (2)
2001年6月 (2)
2001年5月 (10)
2001年4月 (14)
2001年3月 (24)
2001年2月 (20)
2001年1月 (21)
2000年12月 (5)
2000年11月 (8)
2000年10月 (2)
2000年9月 (4)
2000年8月 (9)
2000年7月 (1)
2000年6月 (6)
2000年5月 (6)
2000年4月 (2)
1999年11月 (1)
1999年8月 (1)
1995年7月 (1)
1995年5月 (1)
1994年7月 (1)
1993年10月 (1)
1993年9月 (2)
1992年2月 (1)
最近のコメント
朱鷺子さん 今晩は…
on
2012年12月23日
初めまして。 あな…
on
2012年12月23日
とても、シンクロす…
on
前人未到の布石に向かって
男編の文字には 「…
on
観極める
山城様へ 私は2学…
on
私の考えや想いの文集
リンク集
約束を護る
前の神のメッセージ
みいつ(総合HP)
私のポエム
いのちのアルバム
→
リンク集のページへ
検索
このブログを検索
QRコード
このブログを
ブログサービス
Powered by
「私の考えや想いの文集」
私の考え
此のHPには 私の考えによる 文章だけを集めました。
投稿者: jiteki5
詳細ページ
-
コメント(5)
|
トラックバック(0)
2008/10/8
「(無題)」
意識とは
表裏一体
18・3・24
シンメトリー(symmetry)と言って、人間の左右相性のバランスを説明する言葉が有って、其の理を否定する者はいない。「心身」との言葉も有って、心が有ることも皆が漠然としてではあるが認めている。だから、もうすこし意識の世界が、裏表に成っている事も認めるべきである。其れを、社会的に認めて公の場で研究しない限り、偽宗教家に騙される被害者はあとを絶たない。
私は23年間、此の目には見えない世界を、肯定して生きて来た。其れは、お金や花が空間から生じたり消えたりしたりする事や、急に別な世界が其処に現われたりする事を体験したからである。其の様な、不思議現象が起きなければ、私も他の人々と同じく、神の存在を今の様には信じなかったであろう。私は、其の神の世界を生きて20年以上を過ごして来た。そして、其の間、念い続けて来た事が、ようやく人々と共通意識として、認識できる処まで事態が進んで来た。だから私は、此処らでもう一歩前進しなければ成らないだろう。
と言うのは、「神・宇宙」の意思は先へ進むことで、存在する事が出来るからである。宇宙は、全てが振動することで成り立ち、存在をしているのである。と言うことは、先に進むこと自体が、存在を継続出来ることを意味しているので、振動を止めるわけには行かないのである。もし振動が止まれば、此の宇宙は瞬時に消滅し、永遠の闇に帰すだけだからである。
そして、其の宇宙の振動の存在を支えているのが、私達生命の存在自体なのである。
私達生命が存在しなければ、宇宙の存在も無意味なものとなり、存在自体の振動も停止するのである。
其の振動に、古代の人々が与えた名が「イザナミ(波)」である。そして、其の継続性の名が「イザナギ(凪)」なのだ。私達の存在は、其のナミ性とナギ性の二つの働きで存在し、生を継続させているのだ。其の働きを認識できるのは、脳の仕組みが有るからなのだ。其の脳の在り様も、シンメトリーに成っている。しかし脳は、左右相性に成っていて、其の働きは同じでも、左右が反作用を起こすことによって、一つの働きを完成さしているのだ。
其の働きを、例を挙げて説明するなら、人間の両手両足が有る。手は同じ仕組みで出来ているが、其れは鏡に映る映像と同じく、スッカリ反対に出来ている。足も同じだから、靴を左右反対に履くことは出来ない。足は、反対向きに出来ているから、交互に出す事で先に進む事が出来るし、手は、物を掴んだり子供を抱き上げたり出来るのである。
其れと同じ様に、脳の動きも出来ている。簡単に言えば、左脳が出す電気信号で右脳が反応し、右脳が出す信号で左脳が反応して、情報を創出しているのだ。其れは、自分の脳内だけではなく、男女間の脳でも行われている。脳は、身体全体の情報を管理するセンターである。だから、女性の身体の脳は雌用に出来ているし、男性の身体の脳は雄用に出来ている。其れが、両方相俟って、進化の道を歩いているのである。男女の脳の違いが、二つで一つの働きを醸し出しているのである。
そして更に、此の世の人間と、霊界の人間の意識も、左右対称に成っている様である。
私に、何かを告げて来る、霊界より上の神の声は女性だが、田記有子さんに告げて来る神の声は男性である。其れは、受身と働身の関係が、霊界と人間の間にも、次元を超えて存在する事を証明している。
其の世界を、もっと突き詰めて行けば、木の葉の表裏の関係にまで行き着く。其れは、太陽の方に向かい光りを受ける表側と、其の表側の支えに成り温度調整を図っている、毛が澤山生えた裏側の世界である。其の、裏の存在がなければ、表も存在出来ないのである。つまり其れが、表裏一体の世界で、片方だけの存在は在りえないのである。
其の、木の葉の表裏一体の関係世界が、我われ地球の生き物と宇宙の関係にも言える。
更に、宇宙の物質存在と、暗い宇宙空間の関係性にも、同じ関係見出すことが出来る。
木の葉の表裏は、自分の為に反対側を必要としているのではなく、相手側の存在を支える為に自主的に存在を始めているのである。おそらく、雌花と雄花の関係も、同じ様な関係から発生したものと考えられる。
動物の存在システムも、元の処は植物と同じだから、感情を外してしまえば、同じ次元で動いていると考えられる。其れが、人間の無意識にも存在して、我々の行動を支えているのだろう。其れは、死後の世界からも、同じシステムで働き掛けて来るのだ。
女性は、霊界からの働きを受け入れ、男性は霊界に能き掛けを起こそうとする。其のシステムが上手く調和した時に、此の世界は安定するのである。
此処のところ、其の原点の働きが明確に認識されて来ており、私は此のような文章を書く事に成ってしまった。上手く説明は出来ないが、是が宇宙の陰陽のシステムを理解する為の、参考と成れば幸せである。
其れに此の文章は、久振りに顕在意識だけで考えて書いた物だから、私自身の文章であると言える物である。(なんか全然面白くなさそう。すいませんです。ハイ・・・)
平成18年3月24日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2008/9/25
「(無題)」
政治に付いて
王の条件 2
20・9・25
今日は「王の条件」と告げられて、「なる程」と想う事が有った。其れは、現在まで、精神的な聖王と言うか、男性の成功者として伝えられている人々は、全員が無所有の生き方をしていると言う事である。
釈迦牟尼佛・老子・イエスキリスト・一休宗純・坂本龍馬・西郷隆盛・頭山満・渋沢栄一・ジッドゥ・クリシュナムルティ・和尚・・・其れに、其れ等の人々は皆宗教に依存する事を拒否している。
其れは、個人的、または団体の財産を管理する事は、本人の意識を三次元世界に釘付けし、自由な空間への創造心を失わせるからである。偉人とは、未来へのイメージを膨らませて、新しい価値観を創造し、其れを宇宙の営みである森羅万象の事象に、情報として送り込む事が出来る人間である。だから、個人的な物への執着が有れば、不可能である。其の中でも、1番の弊害は、恋愛感情である。人間にとって、恋愛感情は自分の精神が1番揺れた時に発生するモノだから、恋の漢字が乱に通じている事からも明らかである様に、男性にとっては乗り越えなければならない1番の踏み台なのである。
其の点に於いては、女性は子供を産み育てる事が本文・本能であるので、恋愛感情に乾きを覚えるのは致し方無い事である。だから、偉人には女性は少ないし、大悟した女性はいないのである。
しかし現代社会は、男性の方が、女性よりも恋愛感情や物欲に憑り依かれており、偉人が現れる気配が無いのは、寂しい限りである。
今月9月17日には、澤山のメッセージが送られて来たが、時間が無かったので、未だ其の事に付いて文章は書いてはいない。其の1部には、光に包まれた世界に、文章を入れる為の、蓋の有る空き箱が3箱現れたが、其の空き箱の中には未だ文書は1枚も入っていなかった。そして「極秘文書」との言葉が告げられて来た。
其のメッセージの映像から、私の是からの役割は、涅槃状態に於いて、次ぎの時節までの2666年の因縁を創造する事に有ると感じたのである。涅槃とは、釈迦や老子と同じく過去の2600年の記憶を取り戻し、次ぎの2666年先のイメージを創造する事なのである。
現代人の思考と言うか、文化の基礎は、2600年前に生きた人達の思考が基盤と成っているものである。其れは、其の時代を生きた釈迦や老子が、其の様に謂っているのだから間違いは無い。
2600年前(紀元5世紀)には、老子(中国)が(道徳・言葉・智慧)、釈迦牟尼佛(ネパール)が(悟り)、神武(宮崎)が(政治)、ピタゴラス(ギリシャ)が(数学・科学・五芒星)の分野を担って、新しい文化と言うか、人間の進むべき道を創出している。其れは、どれも現在の宗教と言うモノではなく、人間にとって必要な分野の創出である。そして、彼等が誕生した地は、北緯130度から135度の地域である。
(9月23日の文章。今朝のビジョンには、様々な人物や、場の映像が脳裏を過ぎ去り、2565との数字が現れた。其の数字が、紀元前565年の事であれば、孔子の生まれる14年前であり、ピタゴラスは14歳で、老子が13歳(2578年生説有り)で今の中学生の年代である。其れに、釈迦は未だ5歳であり物心は付いてはいない。後は、神武であるが神武暦は2660年を過ぎているので、神武天皇の没年である可能性がない分けではない。)
其の事実を考えると、救世の仕事とは、未来への因縁を創って、浮世の滅びを止める事に有る。其れが「メシア・マイトレイヤー・文殊菩薩」の役割であり、其の創造を司る意識が「意識の目・籠目・いづの目・ラーの目」と呼ばれている、肉眼には見えない「神・ゴッド・エホバ」の働きなのである。そして、其の意識の目が現れる事が、日本語の「お目出たい」の言葉であり、童謡に唄い継がれている「かごめ」の歌なのである。
今日判明した事は、英語で雄鹿は「ハート・hart」で、優美さの象徴の意味が有るとの事。漢字の綺麗の「麗・レイ」は「鹿+両角」の組み合わせで、立派な角が両方バランス良く生えている意味で、麗しい・優美の意味であるので、英語の概念と同じである。其れに、老子が生まれた土地が「鹿邑県」で、釈迦に由来する土地はミガダーヤ「鹿野苑・ろくやえん」で、何れも鹿に関係が有り、私の住む屋久島の名も「鹿島・ヤクしま」である。其の因縁を考えると、鹿の成育に適した土地と人間の精神発達条件には何等かの因果関係が有るのかもしれない。
其れに、未だ他の人は気付いて居ない様だが、屋久島の世界自然遺産に登録されている地域の地図は、踊る鹿男の形なのである。
話は脱線してしまったが、今日は、私の思考が新しい方向性を持ちながら、未だ誰も侵入した事の無い生命記憶の中に、触手を伸ばし始めた様である。此の様子だと、ミハエル・エンデの御霊等が、面白がって憑り依いて来そうである。
平成20年9月25日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2008/7/16
「蜂鳥の左足・ウィツィロポチトリ」
生命に付いて
蜂鳥の左足・ウィツィロポチトリ
20・7・16
今日は、幾つかのメッセージが有り、其の事は別紙に書いたのだが、気に成る事が有るので、此処に別けて記す事にする。昨日は、宮本武蔵の425回目の命日であった事が判った。そして、私が電気の発電の事に付いて文字を打っている処で、突然停電と成った。其れは、9時53分である。其の停電の原因は、5台も有る発電機の調子が悪くて、電気が発電所から送られて来なく成った為らしい。そして電気が送られて来たのは、0時39分である。
其の時間の数字を意味付けすると、9時53分は、9次元のゴミと読めるが、5月3日とすれば、憲法記念日なので「ククリの決まり」を意味する事に成る。そして、0時39分は「霊からサンキュウ」ともこじ付ける事が出来る。何故、其の様なこじ付けを私がするかと謂うと、其れ成りの理由が有るからである。
昨日、停電に成った時に私が書いて居た文章は、電気の発電とアースに付いてだったので、私の頭には発電機のコイルが浮かんでいたのである。其れを、現実の出来事と結び付けるのは、科学的ではないのだが、神の世界が全部電磁気信号の周波数・振動数で動いている理・ことを考えれば、私の脳波と地球のアース(マイナス電気・粒子)が繋がって共鳴を起せば、発電機の周りのアースに影響が現れて、モーターのコイルの磁気に影響が出るか、管理しているIT機器の磁気に影響を与える事も、考えられない事ではないのである。其れは、私が修行中に起きた事柄を考えると、大した事ではないのである。
私が、荒野で修行をして居る時は、屋久島の花崗岩を走っている石英の道筋の上で瞑想をして、第三の目である松果体(珪素・シリコン)と、其の石英の道の周波数・波動が共鳴した時に、岩が弾け飛んだり、其の石英の道筋に生えている草が焼け焦げたり、天気が急激に変わったりしたのである。
其れは、100円ライターに火が着く事で、科学的に理論は証明されている。石英に電子を送り込むと、何万倍にも増幅するので火が着くのである。其の理で考えれば、人間の生体電気で、額の松果体から磁気を発すれば、花崗岩を走る石英の線上で増幅され、島中の花崗岩に影響を与えて、島の磁気波動が変り、天気に影響が出るのは不可思議な事ではないのである。
其れに、私が此の世界に入った時には、大地の情報が赤龍と成って、私の身体に情報を送り込んで来たのである。そして私は、安房川の発電所から、宮之浦の工場に電気を送っている高圧電線の下に行って、高圧電線から大地にアースされている粒子を、身体に直接充電して、時空を操り、新しい時間軸を創造したのである。其の時、時空に穴を空けて、4311体の霊魂を現在の時間軸の中に集合させたのである。其の時と同じ事が、昨日起きたのかもしれない。
1昨日の夜、私の左肩から、右肩に移動した痛みは、5名の男性の姿の情報と成って意識の中から外に出て行った。其の数は、発電機の数と同じである。更に昨夜は、左肩の痛みが情報化されて映し出されて来た。其れは、左肩から前方に、何十人かの人達が、鎖状に列を組んで並んでいる情景であり、三次元世界に出て行くのを、今か今かと待っている姿であった。そして、「私達の仲間は 是まで 澤山殺されている。」との言葉が聞こえて来た。
何故、左肩の霊魂は殺された人が多いのかと言うと、其れは、平和や平等を唱える人々は、何時の時代も、権力者の手に拠って、殺されて来ているからである。其の代表的な人達が、イエスや、ガンジーや、キング牧師などである。其れに、日本でも天草四郎や、キリシタンが多く殺されている。其れに、2・26事件の人達も、国の事を想いながら死刑に成っているし、太平洋戦争に反対して殺された人達も多いのである。
以前の政治では、現在の様な議会制民主主義の国会は無く、政治を行う王の右手側の席に座るのが右大臣で、左手側に座るのが左大臣である。右大臣側が上座とされるのは戦争の時と葬式の時であり、通常の時は左大臣が上座であって、法制度を創り文化活動に力を入れていたのである。処が、軍隊が力を持ち悪政を敷く時は、左側の人達は力が有れば有る程迫害を受ける事に成ったのである。
今朝の映像は、早く平和な世の中に成り、其の殺された左側の人達が、活躍出来る時を待っているとの事ではないだろうか。其れは、神のプログラムが、三次元に近い次元にまで、下りて来ているとの事ではないだろうか。
そして其の事は、アステカ文化の神「太陽神・ウィツィロポチトリ(蜂鳥の左足の意味)」とも、関係が有るとの事ではないだろうか。何故、日本の芙蓉峰から、アステカの太陽の神の印が降りて来たのか、其れは、日本の八咫烏と関係が有るからかもしれない。
日本の「八咫烏・やたがらす」は太陽の使いとされ、足が3本有るとされている。其れは、アステカの太陽神である「ウィツィロポチ鳥(蜂鳥の左足)」と関係が有るのではないだろうか。日本の八咫烏は足を1本足され、アステカの蜂鳥は足を1本減らされているのである。
其れは、左足が神の足であり、右足が人間の足であり、神と人間は両足の関係である理を示している。
私に出て来る足は右足であり、左足が未だ出ては来ない。だから私は、未だ自分の足で歩き出す事に躊躇しているのである。しかし、私自身が直接歩き出す必要がないのであれば、私は蹴り出す足を引っ込めて、鶴の様に左足だけで立ち、右足は曲げて休めて居れば良い事になる。其れは、昨日、うさぎが耳を畳んだ事に続いて、右足も畳んで良いと言う事に成る。其れこそが、太陽の印である蜂鳥の姿であり、水田の真ん中で片足で立っている稲田の「案山子・カカシ」の姿ではないのだろうか。
アステカ文化と近いマヤ文化の神は、時間の操縦士であり、其の操縦士の臍から生える生命樹のチョッペンには、時を告げる鶏が止まっており、其の下の枝には、太陽と蜥蜴が左右にぶら下げられている。そして、時間の操縦士に捧げられる供物は、脈を打つ人間の生きたままの心臓である。其の儀式の意味は、トキを司っている物への恐れである。其の、マヤの蜥蜴とアステカの蜂鳥に共通するのは、太陽光線に拠って虹色に輝く身体である。其れは、鳩の首の毛色と同じモノである。
其れ等の事柄を考えると、古代人の神に対する考えや、恐れの心境が察せられてくる。漢字の「易」も、日(太陽)と蜥蜴の組み合わせであり、同じ文化が源流に有る事が理解出来るのである。其の、古代人にとって神秘であった世界が、現代科学の力で明らかにされつつある。其の新しい科学知識が、皆に理解されれば、宗教の世界は必要では無くなるだろう。
今朝は、他にも「(+)陽+(+)陽 = (−)陰+(−)陰」や「FPPZZ」の記号と文字が映されて来たのだが今日の処は此のぐらいで探索は止めて於こう。
今日は、枯れ葉マンが現れて、「わたしは 何処にでも 在る」との意味が伝えられて来たので、太陽の隠れた季節にも、確かなモノは何処にでも存在するとの事であろう。其れが、冬間には眠ってしまう樹木からの声なのか、大地を括っているアース-コントロールからの意志なのかは未だ判らない。
明日は、素戔鳴尊を祭る大山神社の1年に1回の祭りである。4月30日にビジョンに現れた大蛇が、どの様な動きを始めるのかも、解かって来るのかもしれない。何故なら、北海道から素戔鳴尊に呼び出された女性が、2008年2月8日に其の神社で「此の島には 私が計画した事が有り 其れが是から始まる。」と、告げて来ているからである。
平成20年7月16日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2008/7/5
「満ち潮の影響」
生命に付いて
満ち潮の影響
15・9・28
今月、25日・26日・27日と3日間、今年最後となる磯物捕りに出掛けた。 そして、25日と26日に2日とも、或る時間に達すると、脳の後頭部や胸の奥底の部分から、性的衝動が起きて来て、知り合いの女性に無性に会いたくなったのである。2日間は、其れがどうして起こったのか分からなかった。
昨日27日も、島の南西側に出掛けた。昨日の風向きは北東だったので、南西に行けば風下になるので凪ぎだと考え、湯泊の先の海岸に向った。私は、凪だと決め付けていたので、途中で海の様子を見ないで磯まで下りて行った。そして泳いで岩場に到着すると、大きな波が岩の上にまでかけ上って来て、貝取りは出来ない。しばらくは、干潮に成れば海面も下がって波も穏やかに成るかと想い、岩場の上で亀の手を取りながら休んでいた。静かに座って、波の動きを眺めていると、フト昨日の性的衝動が何だったのかが解って来た。
磯物捕りを続けていると、満ち潮に成って来ているのは、生物の動きで知る事が出来る。波の洗い岩場の先では、急な斜面にへばり付いていた嫁笠(女性が、祭りで頭に被る笠のような形で、殻の背の上には、富士壺や海草等を着生させているので、花笠の様に見える貝)が、自分の定位置から這い出して岩苔を食べ始めるので、カモフラージュがばれるのである。動き始めると、岩と貝殻との間に隙間が出来るので、マイナスドライバーの様な鉄の道具を隙間に差し入れられるので、嫁笠貝を岩から剥がす事が出来る。他にも何種類かの蟹達が、餌を採る為に海中から岩場へと上がって来るので、藻蟹が取れ始めたら満ち潮に成っている証拠となる。
貝類だけではなく、引き潮で深海に出ていた岩礁に住む魚達も、餌を探しに浅い岩場へと入って来る。岩場から魚釣りをするのも、この時間帯である。満ち潮に成ったら、魚も食事の時間なので、餌に食い付き易いのである。海岸に住む生物は、潮の満ち引きが生活のリズムに成っているのだ。海の生物が産卵をするのも、満ち潮の時間帯である。其れは、海草に産み付ける卵や精子が、沖へ流されないで、受精され海草に能く付着する為である。
人間のお産も、自然分娩では満潮時に産れると云われているし、逆に、死を迎え息を引き取るのは、引き潮時だとも云われている。地球上の生物で、海に誕生した物は全て、満潮に産卵する事が、遺伝子の中に記憶されているのだろう。
それらの事を想っていたら、自分の脳裏や胸の奥側で何かが満ち潮の時間になると動き出すのは、自然の営みから発生する現象だと納得出来てきた。
19年前、私が長い断食に這入り、水ばかりを何日も飲んでいると、大潮の時は水を沢山飲み、小潮に成ると水分の取り方が少なくなる現象が有ったので、変だなと感じてはいたが、それらの事も、月の重力と自律神経との間に、何等かの関係性が有るのかも知れない。
農家が使用するカレンダーや暦は、太陽暦で良いが、海で生活する人のカレンダーは、旧暦の暦が無いと仕事にならない。潮の干満や潮の流れが前もって分かっていなければならないのだ。
人間は、暦を見ながら潮の干満を調(よ)んでいれば良いが、暦を持たない生物は、自分の体中に暦を持っていなければならない。時間を刻む時計は必要無いが、自然のリズムを読み込む体内時計は必要なのである。
時には、桜の木の様にリズムを読み違え、狂い咲きをするものもあるが、どんな小さな植物の種子でも、時を計るセンサーを持っているのである。
人間も同じ地球上の仲間である。潮の満ち引きで、体のセンサーが反応するのは、不思議な事ではない。私がそのセンサーを取り戻して、満ち潮に反応したと言う事は、人間も未だ自然のリズムを感知出来る能力を失っていないという事だろう。其の能力を取り戻すのは、都会に生れ育った者には無理であっても、田舎で生れ育つ者達がしっかりと感じて行けば、人類全体も大きく脱線しないのではないだろうか。
現在の文化は、全て都会から発信されており、田舎に暮らす人達も、都会人の生活リズムに合わされてしまっている。
この処、地方分権とか言われ出しているが、地方に権限が移行されても、都会型の価値観に合わせられるのであれば、分権の意味も大した事ではない。寧ろ、政治的には都会型であっても、文化を地方発信型にすれば、人類の幸福は達成されるかも知れない。
生命の本質を忘れ去った人達が、大事な事を決めるのは、何処かが変しいと言うべきである。
私が一番驚いた事は、人間の体を視る医者が、生物の単位を取らなくても成れるとの事である。医者こそ、生物の體の仕組みを知り尽くすべきではないのだろうか。
現在は大事なお産が、医者の都合によって、土・日を避けて行われたりしているとの事である。自然の法則に反する為には、薬を使用したり手術をしたりするのであろう。其の様にして産れた子供達に、潮の満ち引きが分かるように成るだろうか。生物の研究を全くしない医者には、私の話しなどは、馬の耳に念仏なのかも知れない。日本では、医者はエリートコースの一つとして考えられているが、生物の営みを大事にしない人々が学問をしている建物は、釈迦の教えを実行しない僧侶が住んでいる寺と同じではないだろうか。
昔は、医者を神父や僧侶が兼ねていたのである。それは何故なのか、医者も僧侶も神父も、基本的な学びが同じ処に有ったからであろう。銀座の高級クラブに、不動産屋と肩を並べて、医者や弁護士が騒いでいるのを神が喜ぶ分けが無いのである。
私は、「人間を整理する」と神に告げられて、来年で丸20年と成る。世界中に新しい価値観を持つ人達は随分と増えては来たが、その人達が社会の主流と成るまでには未だ至ってはいない。科学の発達で、人体の仕組みや宇宙の成り立ちは、認識し易く成って来たが、未だ遺伝子の仕組みは見えても、其の働きは解明されていないのである。
此れからの時代は、仕組みよりも目に見えない働きの方に、視線を移すべきではないのだろうか。そう成れば、私の感じている世界も一般常識と成ると想われる。何しろ昔は、私の様な人間が普通の人間、当たり前の人間だったのであるから、流れさえ変えれば、人類の幸福を完成させるのは昔よりは楽な筈である。
大潮が過ぎ、今日から小潮である。私の身体の中の水も、大人しくなって来ている様である。
平成15年9月28日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2008/7/5
「隠れ上手」
意識とは
隠れ上手
15・9・28
今年は、春から屋久島を取り囲む堆積層の海岸を、殆んど一周磯物捕りをしながら回った。未だ、点々と足を踏み入れていない場所も残ってはいるが、大体の処は頭の中に景色として納まったと想う。屋久島がどの様に形成されているかを調べたのは、地質学者の他は、私ぐらいの者かも知れない。内陸部や、海の魚の研究は、ガイド業の人達が、仕事にプラスに成るので行って居るが、島全体の地質を調べても、他の人は余り得には成らないだろう。
私は、子供の頃から海に遊びに行って、岩の姿形を見ながら「どうして こんな色や 形に成っているのか」と、疑問に想っていた。其の疑問が、更に膨らむ事に成ったのは、19年前37歳で師に捜し出され、神の修業に入った時である。
仕事を一切止め、家族も妻の実家に帰り、師の下(もと)で、精進潔斎を進めて行ったら、私の意識は、石や岩に吸い込まれる様に、捕りこまれて行ったのである。岩に補足された意識は、島で半年間修業をし、続いて、全国を一年程回る事と成った。
モーゼ・イエス・マホメット等、世界の宗教の祖に成った人は、皆岩山に導かれている。日本でも、役の行者・空海・王仁三郎等が岩山で修業をしているし、それは現在でも修験道として伝わっている。その事を考えると、私が神の修業に入って、岩石や岩山にとりつかれたのも、当然の事と言える様である。
過去の彼等は、修業が済むと、人間社会に対して活動を始める事に成り、どうして自分が岩の世界に導かれる事に成ったかの研究は行っていない。
私の行動は、彼等の疑問をも、解決する事にも繋がっているのかも知れない。
私が、今年の春から島の岩の様子を調べ始めて解った事の副産物に、イソモン(耳貝科・アナゴ)の生態が有る。イソモンは、磯物捕りの一番の目的相手の貝なので、磯物捕りと言えばイソモンが主体であり、序(つい)でに捕れるウマンコ(宝貝)、ニシンコ(螺貝)類を沢山捕っても、それらは外道なので、自慢には成らないのである。
イソモンは、アワビやトコブシと同じ耳貝科で、人間の耳の形に似ているので耳貝と呼ばれる一種である。イソモンはニシンコ・ウマンコと同様の呼び名はアナンコである。耳貝は、平貝で殻が片側しかないので、岩に張り付いていないと身を護れない。
石鯛や瘤鯛・蛸等から身を守る為に、しっかりと岩にへばりついていなければ成らないのである。其の為に、岩の割れ目の隙間や、穴の中に身を隠しているのである。其のイソモンは、潮が満ちて来て、海水が上昇している時に、穴から這い出て岩苔を食べて生きている。人間がイソモン捕りをするのは、大潮で海水面が下がって、岩場が干し上がっている時である。
イソモン捕りが出来る時間は、干潮の2時間前から潮が満ち始めて1時間くらいの、計3時間ぐらいの間である。満ち潮に成ると、海水が岩場に打ち寄せて来るので、潮が満ち始めてからは長くはやっていられない。
イソモンが居る場所は、堆積岩の堆積層の隙間や、海胆(ウニ)が刺を使って、自分で空けた住家の空家を借りたりしている。場所によると、珊瑚礁の隆起した部分の、隙間や穴にも住んでいる。
私がイソモン捕りを続けていて気付いた事は、隠れ上手のイソモンが生き残り、子孫を増やして来ているとの事である。岩の平らな所に付いていたのでは、直ぐに潮が満ちて来れば、堅い歯を持つ石鯛等に食われてしまう。そして、見付かり易い場所の穴に住んでいるのは、人間に見付かって食われてしまう。だから、現在生き残っているイソモンは、隠れ上手な遺伝子を受け継いでいる仲間という事が出来る。
イソモン捕りは、素人と玄人の差がハッキリしている。上手な人が何kgも捕っているのに、下手な人は数個しか捕っていない。イソモンが、どんな場所にどの様に隠れているかの情報が無ければ、見付け出す事が出来ないのだ。その様な情報は、数回他人の話を聞くとか、本を読んだだけでは、とても得られるものではない。何10回も現場に行き、実際に隠れているイソモンを発見して、情報を積み上げてこそ可能と成るのである。
イソモン捕りは、とにかく隠れる事を必死で磨いて来たイソモンと、人間の知恵競(くら)べである。人間が勝ってしまえば、イソモンは居なくなるし、人間が負けてしまえば、イソモンを食べる事が出来なくなる。其の知恵競べは、今後も続けられるであろう。
私は1度捕った場所には、2度と行かない様にしている。隠れ上手なイソモンが、生き残って子孫を増やしてくれる事を願うからである。
堆積岩の磯は、潮が引くと岩一面に開けられた穴に、海胆が全部住んでいる。屋久島の海胆は、卵巣が小さく中身が少ないので、島の人は捕って食べないので、岩場中海胆だらけである。其の海胆が、死んで居なくなった穴に、イソモンが這入り込んで住んでいる。だから、海胆1000個位にイソモン1個位の割り合いであろうか。
私はイソモンが増え易い様に、イソモンを1個捕ったら、海胆を5個位は潰して空家を増やしている。其れは、イソモンが1個でも住んでいる所は、岩苔も豊富でイソモンが住み着くのに環境が適しているからである。見付け易い所に、イソモンが増えれば、隠れ上手のイソモン迄を、探し出す事は少なくなるかも知れない。
私が、今日本当に書きたい事は、イソモンの事ではなく、隠れ上手の遺伝子のことなのである。私が座右の書としている「道徳経」は、中国の老子の書き残した書物である。老子は、国を出る時に自分の考えを5000字にして残して置かなければ、存在を知られる事が無かったのである。
私の師も、「自適さん、名前を世に出さなければ生きて行けない人は、二流の人間だからね。一流の人は、名前を出さないでも生きて行ける人だよ。」と教えてくれた。だから私も、師の教えを守る為に、師の名前や住所を明らかにする事は出来ないのだ。
私の大事にしている本に『「虹と水晶」(チベットの密教の瞑想修行)ナムカイ・ノルブ著、永沢哲訳、法蔵館発行』がある。この本に出て来る主人公のチベット人も、隠れ上手な人間の一人である。
チベットの精神世界でも、ダライ・ラマの様に、現象世界を維持する為に、現れ上手な人と、真実の神の世界を支える隠れ上手の人の、両輪が存在する様である。
日本でも、天皇家は表を現す為の現れ上手の役目であり、それを陰で支える神主の役割がある。今では、神主も現象界の世界に肩を並べている様なので、私の言う隠れ上手の人とは言えないだろう。
私は、18年間全国を回って、隠れ上手な人達を何人も探し出したが、殆んどの人達が年老いて亡くなってしまった。その人達の子供さんや、孫も隠れ上手の道を止めて、出世してしまい、隠れ役を止めてしまっている。此のままでは、隠れ上手の血筋は消えてなくなってしまいそうである。
隠れ上手で生きようと想っていても、生活がし難いし、力が強まるとテレビやマスメディアに乗ってしまい、隠れ人とは言えなくなる。日本では、もう岩山にひっそりと暮らす、仙人らしき杖を突いた老人の姿は見られなくなった。
昔の成功者とは、社会で成功した者が、山中で静かに余生を過ごし、大事なことの相談相手と成っていく事であったのである。「出世する」とは、人間社会に出て行き、成功する事の意味だし、「立派」とは、人間社会の中で、自分流の派を立てて維持を続けられる事の意味を言い表しているので、出世とか、立派の言葉は、隠れ上手な生き方とは道が異なっている。
現代社会は、出世とか立派な生き方が優れていると考えられているので、自分の能力も考えないで、無理矢理出世しようとするので、後に引けなくなり、失敗すると自殺したりする羽目に陥る。今の様な状況が此のまま続けば、人間個人だけでなく、社会全体がヒステリー症状に陥り、人間の精神は崩壊してしまうのではないだろうか。
その前兆として、学生の登校拒否や大人の職場放棄が起きて来ているのであろう。それらの人々は、隠れる事が好きなのではなく、現れ出る事が苦手で、自分を守る為に、閉じ籠りに成っているのである。其れ等の人々を救う為には、出世とか立派に成るとかの、概念の他の言葉を創り出さなければならないのではないだろうか。
現在の学校教育は、出世する為だけが目標と成っている。社会の表に立つ事だけが、教育として行われており、弁論大会は有っても、人の話しを静かに聴き取る訓練の授業は行われていない。
つまり、社会の表側に立つ人だけに都合の良い教育内容であり、人々の支えに成る、陰の力に成る人の自信に繋がる教育が置き去りにされているのである。此のまま進めば、隠れ上手の人達の血筋は消えて無くなり、目立ちたがり屋だけの血筋ばかりが、力を得て増えて行く事に成る。
日本の伝統で言えば、天照界だけが強くなり、月調界が弱くなって行く事である。現在の日本は、明治の改革で、天照大神だけが表に出され、他の月調の命や、須佐之男の命は祭神から外されて来た。明治6年に、明治天皇を伊勢神宮に参拝させ、外国にまで天照信仰を広げ様としたのである。日本には表ばかりではなく、月調の世界として、隠れ上手の生き方が片面で大事とされていたのである。その世界を現す言葉として、「あの人は奥床しい」との単語が存在したのである。奥床しいとは、「奥」の意であり、現れ部分ではなく、「奥を行く」の意味である。
人間社会の喧騒から身を隠し、人間の本質の処に静かに身を定め、社会全体を視定める目が、必要とされる時ではないだろうか。以前は、出家と言って、山中の寺に身を置き、家庭も持たず、隠れ上手の人間に成る世界も有った。現在では、寺に入寺しても寺の中での出世競走や、立派に成らなければとの葛藤がある。だから、本当の意味での隠れ上手とは成れない。
中国の老子の言葉にも、「退いて先をとる」とか、「谷に身を置け」とか、人間が自分に打ち勝って強く生きるには、如何に隠れ身に成るかを諭す言がある。
イソモンが、如何に隠れるかを考えて生き続けて来た様に、人間も如何に社会風情に流されないで生きて行けるかを、考え続けて行かなければ成らないのではないだろうか。
その念いが断ち切れた時に、社会全体は糸の切れた凧の様に、根本の処を失って、当て所無くさ迷う事に成るのではないか。
私は其の様な事を想いながら、穴の奥で、住家の色と同化したイソモンの姿を探し続けている。10月からは、昼間の潮は引かなくなるし、風も水も冷たく成って来る。もう来年の春の大潮まで、イソモノは人間に捜し出される事も無いので、安心して暮らせるだろう。
イソモノだって、天敵や人間が居なく成れば、進化が進まないのではと、勝手な理屈を考えながら、今年のイソモン捕りの物語りは終りを迎えた様である。
平成15年9月28日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2008/7/3
「人間の深層心理」
意識とは
人間の深層心理
20・7・3
今日7月3日は、私の日本国中の家離・たびが2日に終って、新しい人脈に接触し、新しい世界を歩き始めた記念すべき大事な日である。其れは1985年の事だから、其の日から既に23年が経過している事に成る。
其の日の朝、宿泊していた京都府網野町の温泉料理旅館のご主人に、曹洞宗の寺である龍献寺の安井桂造禅師を紹介され、其の安井桂造氏から、亀岡市に有る西光寺の田中真海禅師や、大月の森山大行禅師や、伊豆の村上光照禅師を紹介された。そして、亀岡の田中真海氏から、次々に鎖を辿る様に新しい人脈が繋がって、私の今日が在るのである。
何故、最後に泊まった宿が木津館でなければ成らなかったのか。其処に、不思議な神の世界の神秘が隠されていたのである。其の木津館では、押田神父等のグループである9月会議が開かれていたのである。そして、私が新しく人間社会・世間に侵入する入り口は、禅宗の道からと成ったのである。其の入り口が違っていれば、現在の私の世界は変ったものに成っていたであろう。
日本では、曹洞宗が1番釈迦の悟りの世界を継いでいるものであるし、老子の世界にも近いのであろう。だから、私の意識体とも、スムーズに溶け込んだのではないだろうか。曹洞宗で禅に親しんだ事で、私には待つと言う1番大事な精神構造が出来上がったのである。其れが出来ていなければ、昨夜宇宙の霊的な圧力が掛かって来て眠れない時に、24年前の様に耐え切れなくなって、夜中に外を徘徊する事に成っていたかもしれないのである。其れは、一度始まってしまえば、なかなか止められない世界である。其の事は、松尾芭蕉や種田山頭火の行動心理を見れば良く解かる事である。
其れは「歌・言葉」を通して、神霊の世界に触れ会う事は出来るが、王・皇帝と成って立ち止まり、国造りをして、民の生活を護る事は出来ないのである。今朝、其の事を考えて居て、イメージに浮かんで来た事は、王の立場は視線を真っ直ぐにして世間を視る事である。反対に、仏陀の様に瞑想をして霊的世界に触れる者は、目線を下げたり、目を瞑ったりして、下向きに目線を下げて、世間を見ない様にするのである。其の様に、三次元に接する者と、四次元である絶対世界に意識を向ける者は視線が異なることが分る。
其れに、今朝気付いた理は、生物の意識の方向が、動物型の生殖機能は後ろに付いているので後ろ向きに成っており、植物は花が生殖機能なので上向きと成っていることである。其の理・ことを考えると、人間の女性が化粧をするのは、下半身に向いている意識を、鏡を見て化粧をしたりする事で、上に上げ様としている行動なのかもしれない。其の様に考えると、人間の深層心理の1部が見えて来る様な気がする。其れに、男女がキスをする行為も、下半身に有る意識を上に移動する為の行為なのではないだろうか。
そして、其れ等の本能から逃げる行為が、出家をしたりして異性から離れる事なのかもしれない。確かに、目で異性を見たり、異性の声を耳にしたりすれば、下半身に有る本能が刺激されて、意識が反応するのは確かな事である。其れは、其れが大事な本能であり、其れが無ければ遺伝子の存在が途絶えるのだから、大事なことであり罪ではないのである。だから、出家をしたり、山に籠ったりする事は、本能との戦いと言えるだろう。
其の本能に気付き、生命のシステム・法・ダルマに目覚める事は、悟りではあるが、其れを逆に考えると、悟りの状態は完璧な自我意識と言えるものでもある。其の様に考えれば、佛教は大きな矛盾を抱えている事に成る。そして弁財天の働きは、物を管理し必要な者に物質を与える立場だから、遺伝子の存続の為に、子供を生み育てる女性に物を与える事は、当然の理と言えるのだ。だから、男性は其の女性の為に、弁財天の使いとして、女性に物を与える役割を果たしているのであろう。
其の様に考えると、此の世界は、女性や雌の為に、全てのシステムが組み込まれている事になる。其れが、此の地球の大自然の真理なのだ。だから、古代の人達は其れを知っていたからこそ、此の目に見える世界を「色・シキ」の漢字で現したのであろう。
「色」の漢字は、前屈みに成った女性の後ろから、男性が乗っかってセックスをして居る象形文字である。其の漢字の意味からも、古代の人達にはセックスは罪ではなく、神聖な行為として考えられていたのであろう。だから、現代社会の歪んだ考えは無かったと想われる。しかしそう謂っても、現代社会の其れは、とても神聖な行為とは言えない事は確かである。
せめて、弁財天が喜んで物を与えてくれる様な、社会体制を整えて行かなければ成らないだろう。其の為には、真実を求める人々が手を取り合い、理想郷を創らなければならないのだ。そうする事に拠って、神々も人間の生活を支えてくれるのである。そして全ての生命の、陰陽のバランスが調和する様に、是から取り組んで行かなければ成らないだろう。其の為には、本気に成って、新しいシステムを立ち上げなければ成らないのだ。其れが、是からの私の社会貢献と言う事に成るのではないだろうか。其れが、立派に成人した息子の姿を見た、私の社会への感謝の気持ちである。
私は是から、王の立場で目線を真っ直ぐにしなければならないのか、其れとも少し俯いて三日月の目で瞑想し、慈悲の心で静かに座っていなければ成らないのか、其の方向性は今日の処は未だ判らない。
平成20年7月3日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2008/6/30
「日月神示」
霊界に付いて
日月神示
20・6・30
今日は朝、埼玉の高橋伸氏のビジョンに、承久の乱で北条泰時に因って隠岐の島に流された「後鳥羽上皇・ごとばじょうこう(1180年8月6日〜1239年3月28日)」の事が出て来たと云うので、後鳥羽上皇の事を調べていて、面白い事が解かって来た。
其の1つが、後鳥羽上皇・天皇は和歌を拡げた功績も有るが、刀や家具等に菊の紋を刻んだとの事である。そして、後鳥羽天皇は天皇家の家紋に日月紋を使う様に成り、其の日月紋は、後醍醐天皇(1288年11月26日〜1339年9月19日)の息子が十六菊花紋の錦の御旗を使うまでは、続いていたとの事である。
其の日月紋は、「日」が太陽で天照神を意味し、「三日月」が調読命を意味しているらしい。その日月紋と、岡本天命に起きた「天之日津久神・あめのひつくかみ」での「日月神示」と関係が有るのなら、其の日月神示に有る「此の日本から起きる 神一厘の仕組み」には、後鳥羽天皇と後醍醐天皇の意志が関係している様に思えてくる。
其の2人の天皇は、両方とも隠岐の島に幕府の権力で流されているのである。だから怨念が残っていて私に革命の念いを伝えて来るのは理解できそうな気がする。
其れに、聖徳太子や天智天皇や昭和天皇の様に、はっきりと其の霊魂が関わって来た事も有るので、私に起きた4311体の霊魂の「神霊の思頼・みたまのふゆ」には、多くの天皇霊が関わって来ているのだろう。
─引用開始─ ・・・日月紋「日月」は[じつげつ]と読みます。日月紋は太陽と月を象った紋です。太陽は天照大御神、月は月読尊を表します。 歴代天皇の即位の際正面に鳥形の幢、左右に日月像の旗を立てるようになったのが、文武天皇の大宝元年(701年)正月朔日の朝賀の礼を受けた時からであると伝えられています 。
錦の御旗・錦の御旗が日月紋を使うようになったのは後鳥羽天皇(1185年)から後醍醐天皇(1339年)の間であると言われております。
日月の家紋
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afjpkamon.htm
其れに、6月26日には「うたい出す」との言葉が告げられているし、後鳥羽上皇は和歌の世界に力を注いだ事でも有名な天皇である。後鳥羽上皇
─引用開始─ ・・・・・後鳥羽院(ごとばいん)は中世屈指にして史上有数の歌人であり、その歌作は同時代および後代に大きな影響を与えている。
院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年(1198年)一月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会・歌合などを行うようになった。院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物であった藤原定家の歌風につよい憧れを持っていたらしく、正治2年(1200年)7月に主宰した正治初度百首和歌においては、式子内親王、藤原良経、藤原俊成、慈円、寂蓮、藤原定家、藤原家隆ら、九条家歌壇・御子左家系の歌人に詠進を求めている。・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87
ウィキペディア辞典
これ等の事柄からすると、高橋伸氏はやはり天皇家の血筋に霊的に関わりが有るのではないかと想えて来る。高橋伸氏は今朝、白い猫が数匹、首の周りを人懐こく動き回るビジョンを見ている。すると夜のテレビ番組で、アフリカの白いライオンの事が放送されており、黄色の母親ライオンから白いライオンの子供が生まれている映像が流されていた。其の白いライオンは、地球が氷河期の時に、北極の熊や狐の様に、獲物を狙う為に白い毛をして居たライオンの遺伝子が、時々現れるものであると説明されていた。
其の事から考えられるのは、天皇の血筋がどこかで、別の枝先にスメラミコトの霊魂・たましいを現す可能性が有る事を示している。高橋伸氏は私より4歳年下なのだが、何故か私の兄の様な気がすると謂っている。其の原因は、もしかしたら海幸彦と山幸彦の関係が有るのかもしれない。私は子供の頃から、山に遊びに行くのが大好きであった。そして高橋伸氏は、海に囲まれた喜界島で育っている。其の事を考えると、2700年前の血・霊・チが、お互いの中でざわめいているのかもしれないのである。
岡本天命の日月神示には、「南の島に埋めて有る宝を 使う時が来る。」と書かれている。其の、南の島の宝が霊魂の事であれば、今私のビジョンと高橋伸氏のビジョンが連動して来ているのは、当然の成り行きとも言えるのである。
19・12・3 の文章
http://moon.ap.teacup.com/20060403/478.html
・・・今朝のメッセージは、陽の光が当っていない御所の建物が映り、其の正面に立っている旗を揚げる為の、細長くて高い柱が、3本ぐらいに折れて崩れ落ちるのが見えた。そして、其の柱は「美智子旗」を揚げている旗柱である事が知らされて来た。そして「ジャガー」との言葉が有った。其の後、白をバックにして横に黒い帯が有り、其の中に電子掲示板の様に文字が左側から右側へ流れる映像が現れ、其の文章の文字の中に「・・・高橋・・・」の文字が見えた。・・・・
今朝の映像は、私の意識が未来を創造する情報を、ITに何回アップしようとしても、アップ出来ない中で現れて来た。其れは、美智子旗を降ろさなければ、新世界が始まらないとの意味なのかも知れない。其れを、ジャガーの霊が知らせて来ているのだろうか。・・・
此の「高橋」が高橋伸氏の事であれば、ジャガーも猫科なので、今日の高橋伸氏のビジョンと関連性も有る。そして、美智子柱が崩れるとは、現在の天皇家の「血・霊・チ」はスメミマとしては薄らいでいるとの事ではないだろうか。
其れに、いま福ちゃんが来島して居るが、福ちゃんには「詩の神様・言霊の神」が付いている様に想える。
ふくちゃんさんの日記 「その風は南から吹いてきた」
ミクシィ
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=855832150&owner_id=4509931
お久しぶりです いま屋久島にいます
梅雨の東京を抜け 風とおしの良い地へ行きたいと想い この身をここ屋久島へと運んだ こちらは段々と夏が張り出して来て 湿り気を帯びた南風が吹いて行く
水の流れが心地良い 水の流れはいのちの凪がれ 生命とはどこからともなく凪ぎ進んで行く南風のように想える
水はごうごうと音を響かせ 一瞬一瞬に生れては流れて行く
その流れを眼で認識していると ある瞬間 すべての時が静止したかのような感覚が僕をつつむ それは何かとても清廉な全体に包括されているような歓喜の刹那
水の響きは深い緑を放つ森と交響し その響きの内に音の水晶があって その水晶は風によって磨かれ輝いている
飛沫を走らせながら光の珠が白銀の空間に炸裂している その光の滴にはこの世界が反射している
森の苔むした碧は歓喜を約束する証明となり またいのちを照らす照明となる その時 その森で静かに起こるすべての出来事が調和して輝いていた 舞い降ちる木の葉も意志をもち 風を伝って水の流れに統合されて行った
僕は 静かに水の響きに耳をすませていると 一羽の美しい白い蝶が僕の周りをひらひらと舞いながら この瞬間を祝福していた
その蝶とぼくと森と水とすべてを繋いでいたのは風だった
その風は南から吹いてきた
19・4・24の文章
http://green.ap.teacup.com/applet/20060818/20070424/archive
・・・・今朝の明け方の映像には、宮崎県の高千穂に有る高い橋を渡った先に、社の様な物が有り、其の社に100円・10円・1円の硬貨を奉納する場面が有り「福」の漢字が映って来た。
「福」の漢字の意味は「神様に 御供えする酒も 瓶(かめ)に 口一杯に有る。」との意味で、物質に満たされているとの意味である。福は、福禄寿の福でもあるので、経済活動が始まるとの意味なのかも知れない。そうであれば、稲荷神が食べ物の神であり、商売の神とされるのも間違いではないとも言えてくる。・・・・
此の様に、私のメッセージと人名等、人間関係や世間の風も其れらしく変りつつある。此のまま、急激に時代の風が動き始めれば、高橋伸氏に送られて来た映像の様に、屋久島に多くの人々が足を運ぶ様に成るのではないだろうか。其れは、人々が自分の中に流れている「血・霊・チ」を思い出す作業の一環なのかもしれない。其の意味でも、屋久島は、日月神示の「南の島に埋めてある宝」の言葉に相応しい島であるとの事に成るであろう。
屋久島に、古くから伝わる民謡の「まつばんだ」の文句は、「屋久のお山を疎かに思うな 金の蔵よりまだ宝 チョイサヨ チョイサヨ」である。「チョイサヨ チョイサヨ」とは、朝鮮語で「めでたいな めでたいな」の意味であり、「まつばんだ」とは中国の雲南地方の概念では「神の集まる座・場」の意味が有るとの事である。
其の民謡のうたからも、昔から屋久島の山岳には、秘められた何かが有ると言う事に成るのである。其れを考えても、私や高橋伸氏に起きている事は、ただの妄想ではない事は確かであろう。
平成20年6月30日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2007/12/28
「自分の視覚意識が戻る」
生命に付いて
自分の視覚意識が戻る
19・12・28
今年も一般社会的には、残り3日で、今年が締め括られる事に成る。しかし其れは、人間が創り出した社会の事であり、宇宙には何等関係の無い事である。宇宙のプログラムは、人間サイドとは別な形で動いており、其の影法師として、人間活動の世界が存在しているのである。
其の宇宙の存在と、人間社会のカルマ・業との間に、神霊界と人間の霊魂の世界が在るのだ。私は、1984年6月4日に、其の人間社会のカルマから脱出し、宇宙意識と、神霊界と、霊界人の存在に接触して来た。其の出来事は、日記として記録は有る程度は残して来たが、其れは毎日の記録であって、私の自我意識の総括は未だ行なってはいないのである。
今朝のビジョンで、物の形が、水色の透明な光の中に消える映像を見たので、其の映像は、是から生涯、私の記憶から外れないであろう。其れは、透明な水色の光の世界が、何の物質も無いし、意味着けされたものも一切無い世界だからである。其の映像が頭の中から外れない限り、其処にはどんなカルマも生じ様がない。其れは、もう仏像やマンダラや鏡等が必要ない世界である。
今日は事務所に出て来て、パソコンの前に座ると、頭が左の壁の方に引き付けられるので、其方を見ると、壁の桟に丸い木の節目が1個有る。其の節目を視ていると、木の枝も輪切りにすると、丸い渦巻きが有る事が解かった。其れは、極当たり前の事なのだが、其れには大きな意味が有る事が認識されて来た。
真っ直ぐに、上に伸びて行く幹を輪切りにすると、大きな輪の年輪が有る。そして、其の幹には、四方八方に枝が伸びている。其の枝を輪切りにすると、枝にも其の枝の太さに見合う、丸い年輪が有る。其の理・ことを、人間社会の人間の在り様に当て嵌めると、人間社会の意識構造が見えて来る。其れは、どんな人間でも、自分自身の年輪を刻んでいると言う理・ことである。
其の、1本の木の構造を思い浮かべると、36億年の時間を掛けて進化して来た、地球生命の系統である、生命樹の構造も理解されて来る。永い時間を掛けて、大きく育った木に着いている枝は、多くの枝の中から生き残って来た枝である。其の生き残っている枝が、現在生きている地球生物の遺伝子の分岐を表わしている事に成る。そして、途中で日光が当らなく成って枯れて行った枝が、過去に滅びて行った生物種である。
しかし、中心である幹は、寿命が有る間は中心の年輪を保ちながら、周りに着いている枝を支えて行くのである。
其の様に考えれば、人類の生命樹は今700万年の年輪を刻みながら、未だ未来に向かって伸びて行っている事になる。其の幹の梢に成る者が、スメラノミコトなのである。そして、其のスメラノミコトは、永遠に梢に存在するのではなく、1年間を掛けて上に伸びたら、春に自分の頭の上に次なるスメラノミコトを立てて、其の生命を支えて行くのである。其れが、生き物全体のシステムなのである。
だから、現在地球上に大繁殖している人類は、自分の存在の自覚と、其の責任を痛感しなければ成らないのである。此の侭、人類の我儘放題が再現無く進めば、其の生命を支えている太陽其の物が、エネルギーを閉ざしてしまう事に成る。其の理が、天照大神の岩戸隠れの物語として、比喩されて来たのであろう。
私は38歳まで、屋久島の自然の中で暮らして居たので、古事記や、聖書や、佛教等に意識は穢されてはいない。其れに、父母が特別な宗教や、思想に被れてもいなかったし、家の中に仏壇や神棚も設置されてはいなかった。其れ等が、今回の神のプロジェクトにとって幸いしたのであろう。それと1番大事なことは、此の世界自然遺産に登録された屋久島の大自然の中で産まれ育ち、第一次産業に身を置いて、私の意識が積み上げられて来た事である。
其れに加えられるのが、18年間の全国の旅暮らしである。其の旅の間に、神社や寺院の在り様を粒さに自分の目で監察し、都会の社会状況も学び、文明文化の何たるかも研究して来た。そして5年前に再び島に帰り、新しき目線で、屋久島の暮らしと自然環境を見ながら、自分の意識の成長過程も把握する事が出来た。
今日は28日で、御用納めの日である。其の日に、私の意識が変容し、現実的な視野で物事を認識しているのも、人間の意識と暦の不可思議な関係である。(此処で左手の中指にカモ(神の電気信号)が有る。)顕在意識である、相対世界に目を向けても、神の御加護は続いている様である。
来年が、どう言う年に成るのかは判らないが、良い方向に事象が進んでいる事は間違いないだろう。是がとり合えず、私の還暦での人生の総括と成るだろうか。農家に生まれの中学卒の私が、この様な文章を綴っている事自体が、私にとって1番の奇跡と言えるのかも知れない。神の世界と、父母と、人間社会に対して改めて感謝である。
平成19年12月28日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2007/9/19
「殻を脱ぎ捨てる」
意識とは
殻を脱ぎ捨てる
19・9・19
今朝のメッセージで、私の意識も新たな展開が必要になって来たような気がする。其れは、肉体が老化しても、永遠の御霊が宿っていれば、意識は、純粋な若者の様に物事を考えられると言うことである。
其れが、中国で考えられている「老小」との言葉の世界ではないだろうか。老小とは、老人の中に、少年の心が同居している様子を意味し、普通の生活では、子供の様に自由に遊んでいる老人が、大事な時には、何百年も生きている仙人みたいな顔や、仕種に、変わる事を言い表している。
其れは、確かな見識の有る良寛さんが、「大愚良寛」と、自分の事を卑下しながら、子供と鞠つきをしている姿に似ている。其れは、頓智で有名な、一休さんの遊び心にも、通じるものなのかも知れない。
今朝の霊夢は、私自身の意識が何処までで、霊界人の霊魂が何処まで働いているのか、それに、人間の意識の上に、宇宙の意識がどれだけ関わっているのかの、区別が着かない。区別が着かないのは、人間霊の意識の他に、光りの世界や、水の有る世界が映し出されて来るので、其の演出を、誰が行なっているのかが、定かに成らないからである。
今日感じた事は、其の説明が、上手く、言葉で表現出来ないと言うことである。イエスの言葉には「父と子と精霊の御名」と有るが、其れは、自分が子で、父が天の神で、他に多くの精霊・御霊が存在して働いていると説明している。其の、天の父とは、本当に男としての父なのであろうか。
其れだと、ゴッドも、エホバも、アラーも、皆、男性神に成ってしまう。果たして、「宇宙神・サムシンググレート」が、男性神と言えるのであろうか。
今朝、私が、ビジョンの中で体験した世界は、永遠の魂しいが、人間の身体を取替えながら、認識作業を続けていた。其れが、私の意識だったのである。
其れは冥界の出来事であって、目を開けて、此の世の景色を見れば、窓の外には屋久島の景色が有り、虫の声と潮騒の音がしているのである。
しかし、私が23年前に体験した世界では、此の現実の世界が変容して、不思議な事が何度も起きた。
其れは、「色即是空・空即是色」の言葉を、確かな真実として、実感出来るもの・現象だったのである。
その現象を起こした者が、精霊の力なのか、宇宙の意識なのかの区別は、私には出来ないでいる。
其の時の不思議は、私の個人意識が其れを求めるのではなく、私に其の様な世界が在る事を、認識させるものであった。其の現象は、私が、神と霊魂の存在に対して、疑いが消えてからは、起きなく成ったのである。
しかし、此の三次元の現実世界で、物質現象としては起きなく成っても、此の三次元の裏側に、其の力が働いていて、此の世を管理している事は、日増しに強く感じられる様に成って来ている。
其の現象の1部として、私へのメッセージも有るのだろう。
今朝は、広島の谷君より電話が有り、昨日9月18日は、多くの人が、クォンタム・リーヴ(次元上昇)が有ると、騒いでいた日であった事を伝えて来た。
私は、其の言葉を初めて耳にしたのだが、其れを聞いて、私の意識も、其れに合っていた事が判った。
昨日、私のビジョンの中で、8次元から9次元への扉が開けられたのも、宇宙の働きだった事になる。
私以外にも、多くの人がクォンタム・リーヴを体験したのであれば、其れは、私の自我意識とは関係なく、事が進んでいる事になる。其の先端意識が、誰の頭脳を通過して、全体に影響を与えているのかは定かではないが、屋久島の花崗岩の山や、私の意識も、其れに関わりが有る事だけは間違いないだろう。
私は、宗教組織も持っていないし、弟子も、信者も、1人も居ないので、自分の意識の管理だけに、意識を集中出来ている。だから、今朝の様な、幾つもの場面の映像を、言葉に置き換える事が出来るのである。其の事を考えると、私は其の為に生かされているような気がする。
何故、私が、此の様な状態に在るのか、其れは、私の身体を器として、何者かが使用しているからであろう。私が毎日見ているビジョンは、其のモノが、私の脳を使っているからであろう。そして、其のモノが、私の肉体を使い、こうしてパソコンを打たせているのだ。
其の存在は、其の作業が終われば、私の肉体を脱ぎ捨てて、新たな肉体を捜しに行くのであろう。其の霊魂が、私本人のものなのか、私の意識とは全く別のものなのかは、私自身には区別が着かない。
今日感じた事は、エジプトのピラミッドも、マヤの神殿も、私の中に存在している意識体と同じモノが、自分の意識を確立する為に、作り出したモニュメントに過ぎないということである。
其れは、既に必要ではないから捨てられた物であるのだ。其の意識体は、現在・いま世界中に拡大されているインターネットの中に、磁気信号として潜り込んでいるのである。
だから、インターネットとパソコンと、電波塔やアンテナは、皆、其の為の器と成っているのである。
当分は、其の殻は、脱ぎ捨てないのではないだろうか。何故なら、其の世界は、いま成長段階であるからである。
そして、私の身体も、意識も、其の為に利用されているのである。だから、24年間仕事を持っていないのに、こうして生かされているのである。
其の証拠は、私に、他の事はさせない様にしている事で、明らかである。其れは、私の行動を自由にして措き、私の身体を100%自由に使う為である。
其の事に気付けば、少々馬鹿らしく成るが、7人もの子供を与えられ、其れを人質とされているのだから、其の子供達を救う為にも、此の作業を止める分けには行かないのである。
執り合えずは、2012年12月23日までは、此のまま、其のヤドカリ虫(虫は龍の略字)を追い出す事なく、付き合って行くしかないのであろう。
この様に、パソコンに向かって、毎日文章を打っているのも、誰の意識なのか分かったものではないのだ。
其れが、自我と所有を離れて、自由に在るとの事ではないだろうか。こうしていると、無言ではあるが、自分に、行為が伴っている事だけは、明らかである。其の行為が、宇宙のシステム其のものと言えるのかも知れない。
其の、何者かに付けられた名が、「はたらき」の意味の、当て字の「神」である。「神様」とは、目に見えない働きに名付けられた名であり、目に見える物は一切神ではないのである。だから、神を見る為には、色が着いていて視覚に捉えられたり、匂いがしたり、味がしたり、手で触れる物から逃れ、冥界を見る「瞑想」が必要なのである。其れが、六根清浄の意味なのである。
其れを、本当に実行しても、こうして毎日遣らされる事が有るのだから、一切を捨て去る事を恐れては成らないのである。
私の果たしている役割は、全てを捨て去った人間が、何不自由無く暮らして行ける事を、皆に知らせる事にあるのかも知れない。
平成19年9月19日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
1
2
3
4
5
| 《前のページ |
次のページ》
/38
記事
画像
新着順
過去順
◇teacup.コミュニティカテゴリ
ホビー
グルメと料理
ファッション&美容
音楽
エンターテインメント
アニメ・マンガ・ゲーム
スポーツ
レジャー
暮らしとファミリー
健康と医学
パソコンとインターネット
学校と教育
ビジネスと社会
その他
Copyright (C) GMO Tea Cup Communication, Inc. All Rights Reserved.