此のHPには 私の考えによる 文章だけを集めました。
〜「人が生きるという事」の内容 〜
平成15年5月3日
一、私生活
1.友人
2.父親の存在
3.家族のかたち
4.島の状況
5.年寄りの存在
6.教育の程度
7.体験した仕事
8.体験して来た趣味と遊び
二、体験からの考察
1.食物
2.人体
3.思考の発達
4.夢の影響
5.文化良否
6.言葉の壁
7.言葉の力
三、公共性
1.私の社会への係り
2.神仏との関係性
四、新しい文化の創造について
1.子供達の教育
2.成人の生涯教育
3.正しい知恵の蓄積
4.インターネット・システムの活用
五、人間の基本的な決りについて
六、今後の指針として
七、私の人生観
平成15年5月3日 現在の思案
2017/10/20
奪う
19・5・20
先日、鹿児島市で本屋に立ち寄り、白川静氏の字通を手に取り開いて見たら、其のページに「奪」の文字が有り、奪の漢字の字義は「人間が死んだ時に、自分の懐から鳳凰の魂が奪われる。」との意味であることが載っていた。
其れを見て、私は納得出来るものが有った。
「奪・ダツ・うばう」【解字】会意。金文は「衣+雀+寸」。衣服の中にはいっている小鳥を手でとりだすさまから、うばうの意味を表す。のち奞+又。奞は、羽ばたくの意味。はばたく鳥を手にする、うばうの意味を表す。
【字義】@うばう。とる。㋐取りあげる。しいて取る。㋑うち取る。㋒盗む。かすめる。Aうしなう。なくす。Bみだす。乱れる。・・ 漢語林より
何故、私の意識に、鳳凰が卵を産み落としたり、両腕の翼を拡げて、全てを支えたりする感覚が訪れたりするのか、其の原因は、私の意識自体に、鳳凰の存在が繋がっているからなのだろう。
鳳凰とは、無の世界に森羅万象を創造し、時間を生み出している存在其の物ではないのだろうか。
人間は、其の鳳凰の意識の現れとして、存在している物だから、死を迎える時に、其の意識の本体である鳳凰が、身体から抜け出して行くのだろう。
「ヒト」とは、出雲弁では「霊が留まる」との意味で「霊留・ヒト」である。
其の意味は、妊娠すると言う事は、先祖の霊が宿るとの意味であるが、其れを更に深読みすれば、人間の「身体・空だ・うつせみ」に宿る物こそ、宇宙意識の本体である鳳凰の霊が宿るとの意味なのかも知れない。
其の様に考えれば、中国の荘氏の鳳・おおとりの概念も、まんざら大法螺とは思えなく成って来る。
何故、荘氏が「至人」との語を使用したのか、其処のところを思索する必要が、あるのではないかと思えて来た。
平成19年5月20日(旧4月4日)
礒邉自適
2017/10/17
惟神の世界
29・10・17
私に指示をして来る「女神」や「男神」は、私が自分で何か始め様と考えると、其れを止めて来るし、反対に何もしないと決めて居ると、行動する様に仕向けて来る。
其の矛盾と言うか、神霊の遣り方・手法を能く考えて見ると、其れこそが「惟神道・かんながらみち」の世界の有り方を示しており、神に仕えると言うか、神道を歩く者は、自分の考えで物事を興したり、自分は何もしないと考えたりしては成らないと言う事であり、自然の流れに身を委ねて行かなくては成らないと言う理・ことなのであろう。
其れは、一般的に考えれば優柔不断な生き方であり、世間では無責任な人間であると言われそうな生き方でもある。
平成17年(2005)5月9日には「かんながらのみち」の題で次の様に書いて有る。
私は、「惟神の道」が、こんなに難しいモノとは想わなかった。
惟神の道とは、「見てもいけない。聞いてもいけない。教えてもいけない。」との世界である。そして、一切言挙げせずとある。
私は21年前、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受けて、それに身を徹して行動して来たが、未だ多くの人達に、その世界が理解される処までには、事が進んではいないのである。
其れは、何故なのであろうか。
私が、此処まで来て感じる事は、それこそが惟神の道で、人々には明確には見えなくとも、神霊の計画は着実に進行しているとの事であろう。
全体的に見れば、私の知る範囲では、全て問題なく進んでいる。
其れと反対に、問題ばかりだと思う時は、私自身の自我が働いている時である。
自分の自我を止めて、座禅や瞑想をしていれば、全てが調和して、神霊の意・おもいが、上手く進んでいる事が理解出来る。
その、全てが上手く進んでいる事を自覚出来ることが、仏陀であり、道(タオ)の実践者であると言えるのだろう。
そして、其れが、親鸞上人の晩年の境地である「自然法爾・じねんほうに」だろう。「自然法爾」とは、「人為を加えず、一切の存在は自から真理に適っている事。また、人為を捨てて神仏に任せきること。」と、広辞苑には載っている。
それは、老子の道徳経の一説「自然無為(自然そのままで、作為がなければ自ずと化す)」と同じ世界である。
人間は、その言葉と、意味は知っていても、なかなか実行出来ない。
それは、人間が動物の一員であり、動く事が本能であるからだろう。
植物の様に、一箇所に止まる事が難儀なのである。
だからこそ、古人が、座禅や瞑想の方法を考え出したのであろう。
しかし、私が21年間「惟神の道」を実行して来て思うのは、座禅や瞑想にこだわる事自体が、また不自然な事であると謂うことである。
座禅や瞑想をして、意識的に一箇所に止まる事は、惟神の道を実行する事にはならないのである。
惟神の道とは、神霊の思頼を受けて、神霊に身を任す事であるので、無理に止まる事は、神の役に立たない事に成ってしまう。
「惟神道・かんながらのみち」とは、自分の自我意識を働かし、自分が行動する事を止めて、神霊の働きに身を任す事である。
惟神の道を、実行して行くのが難しいのは、その境目が判らないからである。
自分自身の意識で動いているのか、神霊の働きが、自分の無意識に入り込んで意識をプログラムしているのかの区別が、難しいのである。
道を、実行すればするほど、人間社会で生活している人々には、理解不可能と成って来る。
世間の人々が、理解不可能と成れば、神霊の意志を言葉に変えて伝えても、人々が受け付けなくなる。
人々の信頼を得ながら、神霊の働きに身を任せて行く、そのバランスの調整が一番大変である。
親鸞の言葉も、老子の「道徳経」も、釈迦の「法華経」も、彼らが晩年の心境を述べたものである。荘子も、「至人(逍遙遊)」道を修めて、その極致に達した人間の事を謂っているので、人間は確かな人生を歩めば、同じゴールに辿り着く様である。
彼らが、何歳の時に、その様な心境に達したのかは、判らないが、私も58歳に成って、ようやくその立場が、理解出来る様に成って来た。
彼等と、同じ立場を実行しようと意えば、もう若い人達に、自分の考えを無理に合わせる必要は、無い様である。
そろそろ、自分の名である「悠々自適」の暮らしが実行出来るのだろうか。
その様に成れば、惟神の道は、一番易しい理と成るのだがどうであろうか。
平成17年5月9日
此の文章を書いてから、すでに12年が経過しているが、それ程自分の意識が成長しているとは、感じない。
其れは「惟神道・かんながらみち」と言う世界がそう言うモノであり、不変のモノはそれ程変化が無いと言う理の証拠なのかも知れない。
其れを考えると、惟神道とは正に個人的な世界のモノであって、他人には全く影響を与えないモノ・世界なのであろうか。
平成29年10月17日
礒邉自適
2017/6/2
藤山幸盛小父の思い出
29・6・2
私は、中学を卒業して其の儘実家の農業の手伝いを始めた。
処が、17歳の秋に、父親が49歳で突然病気で死亡し、長男である私が其の儘一家の主と成った。
そして、19歳から肉用牛である黒毛和牛の多頭飼育を始め、30頭を超えた所で黒毛和牛の値段が暴落し、私は農家としては、屋久島一番の借金を抱え込む事に成った。
そして、其の儘ではどうにも成らないので、昭和43年の秋に鹿児島県立市来農芸高等学校に学んで居た、弟の正也(当時16歳)に電報を打って帰島させ、休学の手続きをして家業を手伝って貰う事にし、私は、何とか生き残る為の道を探す為に、彼方此方と動き始めた。
其の時に、船行集落に住む「藤山幸盛」氏に出会うと、其の幸盛氏(屋久島では通称 幸盛おじ)が「お前の親父には 試された事が有る」と謂うのである。
私が、其の事に興味を示すと、其の経緯を話してくれた。
或る日、幸盛小父が私の実家を訪ねると、私の父親が「藤山君 焼酎を飲むか」と謂うので、「飲む」と答えると、丼を持って押入れの戸を開け、中から甕を出して、其の丼にドボドボと焼酎を注ぎ始めたので、幸盛小父は、「礒邉さんは頭があまり良くないな。丼から次に、何に移すのだろうか。」と思って居ると、其の丼の儘、幸盛小父の前に持って来て置いたとの事である。
幸盛小父は、「此のまま飲むのか」と訊ねると、「そうだ」と謂うので、両手で持ち上げると、自分の顔が、丼の水面に映って見えたとの事である。
其れで、躊躇したが、「礒邉さんは 自分の事を試しているのだな」と思ったので、其の儘一気に飲み干すと、私の父親は、其の様子を気に入ったとの事であった。
其の事で、私は幸盛小父に親しみを覚えたので、自分の現状を話し始めた。
すると、幸盛小父は、次の様な事を話し始めた。
或る所に、毎日焼酎ばかり飲んで居る人が居て、飲んだ焼酎瓶を床下に積み上げていたら、或る時一升瓶が値上がりして、金持ちに成ったとの話であり、其れは、「人生は 何がどう成るのかは、後に成って見なければ 判らない。」との比喩を示すモノであった。
其れに、馬小屋から馬を引き出して、私を馬に乗せて「姿勢を正して 胸を張れ」と謂って、手綱を引いて馬を歩かせてくれたので、私は堂々と周りを眺める目線を、覚える事にも成った。
私は、其の幸盛小父の話と指導で、眠れなかった日々が穏やかに成り、救われた様な気持ちを感じたのである。
其の幸盛小父は、とても風変わりな生き方をして居たので、一般的には「幸盛ボッケ」と呼ばれていた。
其れは、停留所に馬を連れて立って居り、木炭バスが到着すると、馬と一緒にバスに乗ろうとして断られたり、無免許でオートバイを運転して居て警察官に止められ、交通違反だと謂われると、「自分は乗ってはいない」と謂い、警察官がエンジンに触って「熱いじゃないか」と謂うと、「エンジンを掛けたまま押していた」と謂い、警察官の勤務時間が過ぎる五時まで、押し問答が続いて、警察官が諦めて帰ってしまったとの事などである。
其れ以外にも、多くの逸話が残っており、私は数年間付き合いをして居たので、その幸盛小父の生き方や仕草に付いて身近で観察できたので、其の幸盛小父の人と成りに付いては理解できている。
幸盛小父は、元気な時は夏に、田代海岸の川の側の林の木に、竹を渡してテントを張り、川の流れにビールを冷やしていて、腹が空いたら、海に潜って魚や伊勢海老やトコブシ貝を捕って来て、流木を集めて火を熾し、焼いて食べる生活をして居た人物である。
そして、自分でベニヤ板を組み合わせた箱舟を作って、近く磯の入り江に繋いでおり、夕方から小さな船外機で、1時間程掛けて安房の川沿いに有る酒場に出かける事が有り、私は誘われて、箱舟の中に流れ込んで来る海水を、バケツで汲みながら、お供をした事も有る。
其れに、或る日の昼間に、一人で幸盛小父の自宅を訪ねると、幸盛小父は家中の畳を剥いで、一部屋に全て積み上げて、其の上に座ってビールを飲んで居り、横には、何ダースものビール瓶が入ったケースが置かれていた。
周囲の様子を見渡すと、家中の障子や襖が外され、押入れの布団や棚の衣類など全ての物が床の上に出されており、天井板も全て外して下に降ろしているので、其の家の様子は、建てたばかりの柱と壁だけの家の様に、成っているのである。
私は、其の様子を見て「幸盛小父 どうしたのか」と訊ねると、「女房に腹が立ったので 追い出してから 此の様にした。」と謂うのである。
私は、其の幸盛小父に「後片付けが 大変ではないか」と謂って、其の日は退散した。
其れから、後日再び訪ねて見ると、奥さんが庭にて一人で、天井板に水を掛けながら、一枚一枚束子で漉すって洗って居り、家の中を覗くと、家の中は綺麗に掃除されて元通りに成っていた。
其の様な正確の幸盛小父は、年取ってから牧野地区の山手に有る果樹園を購入して、其処に小さな木造の家を建てて一人で生活を始め、池を造って鯉を飼い、魚屋から廃棄する頭や骨・腸などの魚屑を貰って来て、池の上に渡した網の上に置いて、其れに蠅が卵を産み付けて、蛆が水面に落ちるのを鯉が待っている様子を、眺めたりして居た。
其の幸盛小父の家には、悩みを抱えた人達や、酒を抱えた人達が度々遊びに来て居たので、私の様に救われた人々や、機知・アイデアを授けて貰った人達が多く居たであろう事が、予想できる。
私は、屋久島を出る前に、其の幸盛小父には「葬式代を先に渡して措く」と謂って、三万円を手渡して旅に出たので、其れが幸盛小父との最後の接触と成った。
今日は、以前の事を調べていると、明日6月3日の日付の文章が有った。
2004/6/3・・私達人間が、自分を認識するシステムは、どうなっているのだろうか。
それを一口で謂うなら、親の姿を見て育ち、その摺り込みが土台に成って、その基本からのズレ具合で、自分の意識を積み上げて来ていると謂えるだろう。
自分の基礎的な部分は、親の行動が本と成っているので、私達は、他人から自分の親を否定(侮辱)されると、無性に腹が立って来るのである。
親ばかりか、自分が信じて学んだ師や教師の否定も、自分が侮辱を受けた様に感じてしまう。
其れは、自分の価値認識が、他人の姿を借りているからである。
人間が、学ぶと言う事は、他人の姿、其れも、自分に都合の良い方を選んで、摺り込み続けると言う事になる。
だから、「まなぶ」とは、「まねぶ・まねる」から変化した言葉というのも、頷ける。
私達の自己認識とは、人真似の上に成り立っているのだ。だから、最大の問題は、自分が信じて真似た相手が、道や法から外れていると、自分も道や法から外れてしまう事になる。そう成らない為にも、自分が真似る相手の真実性を、チェックし続けなければならない。
世界中には、多くの宗教が存在するが、それも皆、最初の処に、人間の誰かの存在がある。仏教は、インドの「釈迦」に由来するし、カトリックは「イエスキリスト」に由来している。
現代人は、数千年前の彼等の、知識や行動を拠り所として生活し、自己認識の「ずれ」を起こさない様に、努力して来た。
その点、私自身の事を振り返って見ると、無宗派の家庭に育った私には、父や母の姿の他には、何も対象人物が居ない。
両親が、単独で山野に生活を始めたので、祖父母の影響も皆無である。
私の自己認識は、父母の姿や行動が規範と成って、組み込まれていると考えられる。宗教・哲学・思想が、他人を通してではなく、父親の生き方のフィルターを通して、感知されて来ているのである。
私の意識は、屋久島の自然の中で生活する父親の姿を、写し取って出来あがっているのだ。特に父親が、私の17歳の秋に、49歳で亡くなってしまったので、老化して行く父親の姿は、私の記憶の中には残されていない。
私には、働き盛りの父親の姿しか、意識に組み込まれていないので、画面が、静止画像と成っているのである。私の意識は、父親が亡くなった事で固定化され、土台が、揺れや移動を起こさないのだろう。
背景の自然も昔に近いし、私は生まれ育ってから、故郷の移動も無いので、無意識の土台となっている映像も、安定していると言える。
57歳のいま、自分の意識を探っても、57歳の自分は無く、自分より若くしてこの世を去った、父親の姿を見詰めていた、子供の頃の自分しか、私の意識の内側には残っていない。
私は、高校にも大学にも進学していないので、学園生活の思い出も無いし、地元の小学校と中学に通っただけなので、学校自体も、故郷の景色の中に納まっている。・・・
「自己認識」http://moon.ap.teacup.com/20061108/491.html
此の文章の内容は、全く記憶には無いので、文章を書き残すと言う事は、自分の魂しいの訓練と言うか、魂磨きに無くては成らない物であると言う事に成りそうである。
其れは、老子だけが晩年に、自分の考えを5000字にて「道徳経」に残せた事と関係が有り、死後、誰にも世話を掛けていないし、迷惑も掛けてはいない事の理由でもあるのだろう。
平成29年6月2日
礒邉自適
2017/1/13
季節と食べ物の関係
29・1・13
今朝のメッセージの映像には、「季節」と「食物」と「人間の躰」の関係性に付いて、示されて来た。
其れは、昨日のメッセージの映像に映し出されて来た、水瓶の中に浸されていた陶磁器の食器の世界と関係が有り、様々な食べ物と、人間の関係性が示されて来ているのであろう。
そして、其の食べ物の存在は、水の世界の中に存在すると言う理と関係が有りそうである。
今朝のメッセージは、昨日の「鏡開き」の文章と関係が有り、私に、新たな世界を切り開けと言う事が示されて来ている様である。
其れは、是まで傳えられて来ている「身土不二・しんどふじ」や「医食同源・いしょくどうげん」等の概念を、超えて行く世界と言うか、段階であると謂えるだろう。
今朝のメッセージと言うか、私の脳意識のチャンネルの変化は、昨日の文章に次の様に書いた事と関係が有り、自分の意識の中に、新たな「階段・階層・段階・神(はたらき)名」の「踏み段・梯子」が、創られて来た事に成るのではないだろうか。
・・其の「羽毛を生やした蛇」の存在は、現在化石の発掘で明らかに成って来ている、鳥の先祖が1億2500万年頃に存在した「羽毛恐竜」であるとの事で、現実の物と成って来ており、我々の脳裏に潜んでいる潜在意識の中の飛翔するモノの正体が何であるかも、想像が付く様に成って来た。
其れは、タイムトラベルで時空間を旅しなくても、我々のDNA・遺伝子の記憶の中に、其の時空を旅するセンサーが存在して、チャンネルを合わす事が出来れば、何時でも自由に「ククルカン・ケツァルコアトル」の意識と接触が出来ると言う事であり、其の世界をジオラマとして展示している物が「時間の操縦士」の姿なのであろう。・・・
1億数千万年前に登場した、数々の「羽毛恐竜」の存在に付いては、寒さに対応する為に、皮膚の鱗を羽毛として進化させた物であり、体温を冷やさない事で血流を維持し、其れに拠って活発に動く事が出来るので、他の動物・獲物を捕獲出来たと言う理・ことである。
其れは、動かない植物を餌とする菜食恐竜とは、躰の仕組みや行動様式が異なる事を意味し、其の差こそが、動物が食べ物を得る為に、自分の肉体改造を続けて来た事を示しており、其の生命の仕組みの延長線上に、我々人類も存在する事に成る。
我々人類は、羽毛(衣類)が必要の無い熱帯地方(アフリカ中央部)で、6500万年前に類人猿から分離して、寒冷地に移動しても火で暖をとり、洞穴や小屋に住んで、衣服を着る様に成ったので、体毛を必要としなく成って来ている。
だが、植物は移動が出来ず、体温調整が自分では出来ないし、他の防御が不可能なので、熱帯地方の「無年輪植物・常緑樹」以外は、動物の冬眠と同じく、冬期は落葉して眠りに入る事で身を護っている。
其れ等の動植物の存在・はたらきは、全て源は同じなので、脳を持つ動物と同じ様に、植物にも意思が有ると言う理・ことに成る。
其の世界こそが、「生命・いのち」と呼べる世界であり、其の世界を創り出しているのが40億年±2億年前に誕生した、原始生物の「DNA・遺伝子」の存在である。
其れを考えると、生命・いのちの源・意識の源は、40億年前に誕生した事に成り、我々の生命年齢は40億歳であると言う理・ことに成る。
其れは、1億2400万年前に登場した「羽毛を持つ蛇(ククルカン・ケツァルコアトル)」の意識は近年の物であると言う事に成り、我々は自分の命の始まりのスパン(span)を、広く考えなければ成らないと言う事に成る。
そして、其の考察の基準に「食べ物」と「肉体細胞」の関係性を、置かなければ成らないのである。
其れは、キリスト教・イスラム教の原点・参考本とされる、旧約聖書に記されている「神は初めに 男を自分に似せて創り、次に男の肋骨から女を創った」との非科学的な言葉を、消去しなければ成らないと言う事でもある。
科学が無い古代社会では、人間に理解できない世界は、「神」とされて来ている。
其の神の世界は、「夢」の世界と直結しており、誰かの夢に映し出されて来た世界を、神の世界として伝播して来たのが、宗教の世界である。
(其の解決の為にも 夢を生み出す食生活・環境を 自分自身で管理する事が重要である)
そして、其の概念や価値観が社会体制の中に取り込まれ、強力な政治体制(権力)が生まれて、人間を戦争や、無明の世界(迷信)に、引っ張り込んで来たのである。
其れを誰かが、何処かで改めない限り、現在の無明の世界は晴れないと言う事であり、無益な戦争も無くなる事はないのである。
其れを行う者が、現れる事を願うのが「メシヤ・キリスト・彌勒菩薩・マイトレーヤ」信仰と言うか、人類の待望感なのである。
だが、其れは、自分自身の意識改革でなければ成らないのである。
何故なら、「メシヤ・キリスト・彌勒菩薩・マイトレーヤ」が現実として登場しても、是までの様に、其の存在に追従して生きて行くと、何も解決出来ず、死後は再び無明(無間地獄)の世界に落ち込んでしまうからである。
其れが、釈迦牟尼佛の教えの真髄である「出家」と「覚醒」の世界であり、其れに必要であるとされている「精進」の世界が、今朝示されて来た「季節」と「食物」と「人間の躰」の関係性を悟る事なのである。
そして、其の三つの世界は、全て「水」の「存在(循環)」の中に存在する物なので、宗教の教祖である「釈迦、イエス、伊邪那美命」が水浴びをして、神の世界に入った事が、どう言う事であるかも、理解されて来る事になる。
今朝のメッセージの映像は、簡単な物であったので、文章の内容は、殆どが自分の顕在意識に拠る物であると言う事に成る。
其れは、昨日の女神の言葉に有った「貴方には 昔の事を思い出させる力が有ります。其れは 問題解決の糸口に成りますが、進歩を妨げる要因にも成るのです。ですから 昔の事を追及するよりも、新しい思考を生み出す事が大事なのです。・・・云々」との事が、現実の事として動き出すと言うか、開始された事に成るのではないだろうか。
其れは、私自身にも新しい認知力を導き出す事であり、人類全体にも、新しい時代の学問を開く事にも成るのであろう。
其の様に考えると、人類の総合無意識の世界に、新しいステップが生まれる事に成り、世界中の宗教で、階段状のモニュメントが建設されたり、絵画に天への梯子が描かれて来た事の原因が理解できる。
其れ等の一切の無明が祓われれば、人類の潜在意思・無意識の闇は晴れて、明るい未来・真実の神(はたらき)が、誰の眼(意識)にも顕かに成って来るであろう。
其れが、昨日の「鏡開き」の本当の意味であり、私の無意識に潜む女神の存在だけではなく、全天空の「神(はたらき)」が一斉に動き出すと言う事であり、「神仏」も「鬼神」も是から、忙しく成ると言う事であろう。
*生命史
2015/8/19「〆 括り」 http://green.ap.teacup.com/20060818/3569.html
2016/7/30「大関を超えた」 http://green.ap.teacup.com/20060818/3940.html
2015/10/14「転輪の管理」http://green.ap.teacup.com/20060818/3625.html
2015/10/4
「アカシックレコードのバージョン」http://green.ap.teacup.com/20060818/3615.html
*人類史・地球史
2015/7/28「生命の歴史本」http://green.ap.teacup.com/20060818/3547.html
2007/10/28「地球の割れ目」http://white.ap.teacup.com/miitu1223/988.html
2004/8/19「神の証明(四)」http://moon.ap.teacup.com/20061108/549.html
2016/6/21「夏至の日」http://green.ap.teacup.com/20060818/3893.html
2008/8/1「真人(まことびと)」http://star.ap.teacup.com/2007313/492.html
2016/10/12「未来への予兆」http://green.ap.teacup.com/20060818/4017.html
*水環境
2015/3/16「泉の女神」http://green.ap.teacup.com/20060818/3394.html
2009/3/16「神の内側へ」http://green.ap.teacup.com/20060818/1078.html
2013/11/1「自分自身を生きる」 http://green.ap.teacup.com/20060818/2857.html
2014/5/26「しあわせなくらし」http://green.ap.teacup.com/20060818/3080.html
2011/5/30「天津霊継」http://green.ap.teacup.com/20060818/1944.html
2013/3/17「道理が鈍い」http://green.ap.teacup.com/20060818/2625.html
2013/7/28「生活風習の切り換え」http://green.ap.teacup.com/20060818/2761.html
2015/6/23「尊厳」http://green.ap.teacup.com/20060818/3507.html
2013/7/31「日本人の心」http://green.ap.teacup.com/20060818/2764.html
2015/4/14「祭り事のレベルアップ」http://green.ap.teacup.com/20060818/3427.html
平成29年1月13日
礒邉自適
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