奥出雲は 稲田姫に纏わる 日本の古代の神話の故郷です。
瑞 穂の国造り
瑞穂の国造り
日本人の知恵は、水田の土手や川の堤に、毒の草をモグラ除けとして植えて増やし、黄金の稲穂の色と 赤いまんじゅしゃげの花を 日本の故郷の景色と成しました。
地球の自然と 共生する 新しい生き方の方法論の創造は、我々の時代に掛かっている様に想います。
まんじゅしゃげ 人と仲良く 赤い花


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投稿者: jitekiisobe
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出雲は伝説の地
国造りの神話は現在の代にも息づいています。
スサの木から学ぶ事
太陽のエネルギーは、緑の力に因って物質化し、森は水の循環を支えます。
緑は陸のあらゆる動物を育くみ、海の魚達にも多くの栄養を送り続けています。
この事に昔の人々は気付いており、日本では3000年もの昔から植林を行って来ました。
その始まりは、スサノオの尊とその次男イソタケルの命と伝えられています。
和歌山県が紀(木)の国と呼ばれているのも、この親子が木を植えた事に由来し、五十猛命は大八洲国(日本国)に青山に成した功績により「有功之神」とも称せられたとあります。
五十猛命の妹神「大屋津姫命」と「抓津姫の命」の二柱神は、木種を司り植樹の功により紀伊の国にまつられていて
宮崎県高千穂神社では、この二人神の神楽舞が現在まで続けられています。
五十猛命は、出雲地方には数ヶ所の神社の祭神となり、全国でも植林の神として祭られ続け、
日本人の魂の中に、木を大切にする事をしっかりと根着かせているのです。
現在人類にとって一番の問題は、森林の減少にあります。私達人類を含む生物は森林の滅亡と共に亡びます。
21世紀は、人類にとって最後の価値判断を迫られる時代となるでしょう。
その重大事の解決策として、木のネットワークを開設致します。
明るい未来を築く為に、皆様のお知恵を出し合う場としてご利用下さい。
大国主の国造りの地出雲より
2000年12月24日

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投稿者: jitekiisobe
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2009/11/21
遠い過去の思い出
21・11・21
今日は、明日から、明後日に掛けて行われる「新嘗祭」の為に、自分自身の禊ぎ祓いを行わなければ成らない日である。其れに、日付も「21・11・21」で、バランスが取れている日でもある。
今朝のメッセージは、確かに今日の日付に相応しい内容の様であり、最後に、名前はいま思い出せないが、男性歌手の声で「遠い過去の思い出・・」の歌が流れて来た。其の歌の歌詞で、霊界の物語は、全て過去の思い出である理・ことが解った。其れに、今朝は「秀吉」の御霊が、介入して来ていた様である。其れは、天下取りの手法を、示すモノなのであろう。
其れは、明日「新嘗祭」の儀式が、表向きには行われるが、神界では「大嘗祭・大譲祭・おおにえのまつり」と成るらしい。其れは、明日から「転輪聖王・チャクラヴァルティン」が動き出して、宇宙の大車輪が回り始める理・ことを意味している。昨日の高橋智恵美さんへのメッセージに有った、復活の台座に「ヴィシュヌ神」が着いて、「父の愛・慈悲」を齎すとの事が、其れに関係が有るのだろう。
其の事と、関係が有るのか、今朝は事務所に出て来てPCの前に座ると、女神の声で「愈愈ね」と告げられたので、女神のブログを開くと、後の言葉が続いて出て来た。
・・・其れが、「事象の特異点」の働きであり、「転輪聖王・チャクラヴァルティン」の働きなのです。ですから 貴方が 25年前に回した「時間・とき」は 回り続けているのですよ・・・
「愈愈ね」http://moon.ap.teacup.com/20060103/272.html
「年譜」http://star.ap.teacup.com/170606/156.html
先ほど、神奈川の高橋智恵美さんから電話が有り、今朝のビジョンを知らせて来た。
其の内容は、真っ白に雪を頂いた、チベットの「チョモランマ(エベレスト)」が現れ、次に、虎や、ライオン・獅子が、複数現れて、魂しいが抜け出て、体だけが残る獅子と、そのまま取り残される獅子が、別けられていたとの事である。そして、魂しいが抜け出る方が、良い獅子だったとの事である。
獅子の体は、エジプトのピラミツドの横や、日本の神社の入り口の鳥居の前に、置かれている物であり、ローマでは水の守り神として、浴場やプールに置かれている。
其れに、世界最高峰の「エベレスト」の名は、イギリス人の測量士の名前であり、地元での呼び名はチベット語の「チョモランマ」で、其の意味は「大地の母神」であり、サンスクリット語では「デヴギリDevgiri(神聖な山)」という意味である。
其の「大地の母神」や「神聖な山」の意味の、世界最高峰の山と、百獣の王の獅子の魂しいの関係性を考えると、高い魂しいの物が登場する理・ことを意味し、昨日の高橋智恵美さんのビジョンに現れた、復活の台座に座った「ヴィシュヌ神」に関係が有るのではないだろうか。「ヴィシュヌ神」は「メール山」の中心に住むとされており、メール山もヒマラヤ山脈の一部だから、意味的にはさほど違いは無いだろう。
・「ヴィシュヌ神」三神一体論では、3つの最高神の1つで世界を維持する役目があるとされる。一般には、4本の腕を持ち、右にはチャクラ(円盤、あるいは輪状の投擲武器)と棍棒を、左にはパンチャジャナ(法螺貝)と蓮華を持つ男性の姿で表される。そのためチャトゥルブジャ(4つの武器を持つ者)という称号も持っている。
メール山の中心にあるヴァイクンタに住んでいる。ヴァーハナ(乗り物)はガルダと呼ばれる鳥の王で、鷲のような姿をして描かれたり、鷲と人を合わせた様な姿で描かれる。神妃(妻)はラクシュミで、ヴィシュヌの化身に対応して妻として寄り添っている。
―引用終了― ウィキペディア辞典
今朝の私へのメッセージの映像は、何処か建物の中の、部屋の入り口に、私の2度目の結婚で生まれた長男「崇靖・しゅうせい(高き所に立ち 国を安らかにする の意味)」が1人で立って居り、私を誘うので、私は其の狭い入り口に向かった。すると、其の入り口の両脇の壁には、色々様々な形の蜂の巣が、下から上まで澤山着いているのである。私は、其の狭い入り口の蜂の巣を、刺激しない様にしながら通り抜けた。
そして、其の部屋の中には、フアックスの電話機が着いた大型のコピー機が有った。私が、其の側を通ると、其のコピー機の中から、長さが短くて、頭が黒く、胴体の白い蛇が、一匹出て来た。私は、其れが自分の方に這って来たので、噛まれてはいけないと想って、スリッパを脱いで数回叩いた。すると其の蛇は、またコピー機の中に隠れてしまった。
其れから暫くして、私が何処かに電話を掛けようとして、受話器を持ち上げると、何と、其の受話器に繋がっているコードが、先ほどの蛇の体なのである。私はビックリして、慌てて受話器を電話機に置いた。そして、是は、如何なっているのだろうと想い、其のコピー機を見て居ると、其の機械は温度が上がっているらしく、時々、白い水蒸気が立ち上るのである。
其れで、白い蛇が、熱で死なないのかと想って、電話機の方を見ると、受話器の横に数字が点滅しているのである。私は、其の点滅している数字を良く見ると、「2・08」と成っていた。私は、其の数字を見て、「グリンクラブ」に関係が有るのだと想った処で、その場面は終わった。
「2月8日・天つ宮事もちて」http://green.ap.teacup.com/20060818/1039.html
「2月9日の日付」http://green.ap.teacup.com/20060818/179.html
「「素戔鳴尊」http://moon.ap.teacup.com/20060615/130.html
何故、「嵩靖」が立って居た入り口に、蜂の巣が澤山着いていたのかを考えると、私に1994年3月22日に告げられて来た、「風 麥東 陶・ふうれんとう」の言葉に関係が有るのだろう。蜂の巣は、六画形で、隙間を作る事なく空間を埋めて行く形である、そして「素戔鳴尊・すさのおのみこと」の働きを現す、亀甲紋の形でもある。
「風 麥東 陶・http://wave.ap.teacup.com/20060106/5.html
其れに、「素戔鳴尊」のメッセージが、北海道から来た女性に2月8日に告げられた、麦生集落の森山に有る「大山神社」では、私が緑の日である4月29日に参詣して、球石を奉納したら、次の日のメッセージの映像に、真っ黒の大蛇が、其の祠から外に出たがっている姿が現れた。其の麦生集落は、昭和55年に村造り日本一に輝いて、天皇杯を授与されてもいる。
「助け蛇が目を覚ます」 http://green.ap.teacup.com/20060818/734.html
私が、数日前気付いた理・ことは、其の真っ黒の大蛇こそ、北方の守り神である「玄武」であり、亀の体に巻きつく大蛇なのである。だから、「玄武」の名には、黒を意味する「玄・ゲン」の文字が使われているのである。
そして、「武・ブ」の漢字は「止+戈」の組み合わせで、「止」は足の象形で、行くの意味。「戈」は、ほこの象形。武は「ほこを持って戦いに行く」の意味である。
【字義】は、たけし。強い。勇ましい。威力。武徳。の意味なので、「荒神様」の名を持つ「素戔鳴尊」の働きにも繋がる様である。
其の様に考えると、「素戔鳴尊」が祭神の神社が「亀甲紋」である事と「黒い大蛇」の関係性が、「玄武」の働きと重なって来るし、村落の背後の北方の山に「素戔鳴尊」を祭る事の意味も、理解できて来る。
今朝の次の映像は、私が、電話連絡をしようとしていた先方に、出掛けて行くと、其処は何処かの市町村の役所の広い会議室で、市長か、町長の様な人間が居て、会議が行われていた。其の会議の議題は、市町村の是からの行政の中に、食に関わる人材を入れて、新しく部署を創るかどうかであった。其れは、「食国の政・おすくにのまつりごと」を、役所の中に、創設しなければ成らない理・ことを、意味しているのであろう。
其の議題は、明日新嘗祭が行われる事と深い関係があり、日本の「御饌殿神・みけどののかみ」「台所の神」「荒神様」の伝統が、復活するとの事であろう。其れに、京都の祇園神社の主祭神である「素戔鳴尊」の役割は、祇園精舎の守り神であるとの事。
其の「祇園神社」の「祇園」の名は、「ジェータ太子」が、釋迦牟尼佛に自分の土地を寄付し、其の土地に木を植樹した事に由来しているとの事である。
其れは、「素戔鳴尊」が、息子(いそたける)や娘達と一緒に、日本各地に植林をしているので、其の意味でも働きが共通しているのである。
「 顔を見せた釈迦」http://star.ap.teacup.com/170606/687.html
私は、其の会議が終わったら、先に外に出て、渡り廊下に置いて有るスリッパを手に取り、外に出て来た町長の足元に揃えて置いた。すると、其の町長は「貴方は誰か」と云うので、私は「後で 名刺を持って 町長室に伺います」と答えたのである。
其の行為は、織田信長に対する、豊臣秀吉の行為と同じである。其れは、今朝のメッセージには、天下取りに成功した「豊臣秀吉」の記憶が、作用している事に成る様である。其れを考えると、私に起きた4311体の「御霊の思頼・みたまのふゆ」は、過去の霊魂の憶いの集大成であると言う理・ことに成る。其れを想ったので、今日のテーマは「遠い過去の思い出」とした。
しかし、昭和天皇の御霊は、遠い過去の思い出はなく、平成元年1月7日の夜に私の心臓に飛び込んで来たモノ・現象である。しかし、2月24日の大喪の日には「吾身 既に遠く 良き世を 願い奉る」と告げて来たので、時間とは、螺旋構造に成っていて、過去の世界への近道が有る様である。
其れこそが、素数の0点が円周率で現れ、其の点は一直線上に有るとされているが、実の処其の線は、1本線で直線に見えるが、螺旋構造で空間を構成しているのではないだろうか。
だからこそ、日本では、玄間の上に7・5・3の稲藁のシデ「三五七縄・しめなわ」を下げるのであろう。其の様に考えると、玄間とは玄武を迎える門の意味が有るのかも知れない。其れに、「ヴィシュヌ神」の乗り物は、「ガルダー」で「鳥の王」だから鳥居とも関係が有る。
今朝の映像には、私が直接、魚屋に電話して「直会・なおらい」の魚を注文した。処が、其の直会には魚を食べる人の参加が少なく、私も現在、魚を食べられないので、断りに行くと、既に大きな鯛や石鯛が数匹2枚におろされていて、調理済みなので買わなければ成らない様に成っていた。私が値段を訊くと「5万円」との事であった。私は結局自分で自腹を切る事に成ったのである。
其の映像の意味を考えると、日本では、神様には必ず鯛などの魚をお供えするが、是からは世界中から人々が参加するので、魚は其れ程、大量には必要ないと言う事であろう。其れに、集まって来る神霊も、生臭いのは嫌がるのかも知れない。
其れを考えると、是からの新嘗祭には、やはり玄米が大事であり、祇園精舎のルールである精進料理が、合っているとの理・ことではないだろうか。其の様に考えると、今朝役所の会議で出されていたテーマは、「桜沢如一」が世界に広げた「マクロビオティック・Macrobiotic」の世界の体験者を、役所に入れるかどうかに有ったのかも知れない。
其れは、人の上に立つ指導者は、「食育」の原理を知っている「玄人・くろうと」でなければ成らないと言う事に成る。
「桜沢如一の霊魂」http://green.ap.teacup.com/20060818/126.html
「御饌殿・みけどの」http://green.ap.teacup.com/20060818/1103.html
と言う事は、やはり「食国の政・おすくにのまつりごと」には、無精白の穀物が必要であると言う理・ことであろう。何故なら、玄米や無精白の穀物には、松果体の元である「糠(珪素・シリコン)」が、多量に含まれているからである。
其れ等の事柄を考えると、「イエスキリスト」が謂った「一緒に食事をしなさい」との意味や、日本の「同じ釜の飯を食った仲」との言葉は、「直会い」の概念が元に有り、世界共通の「政・まつりごと」なのかも知れない。
今朝のメッセージの映像の中では、私は会議を覗いている時に裸だったので、町長の前に出て行く時に、傍に掛けて有った上着とズボンを身に着けて出て行った。そして、事務所に帰って名刺を探して居ると、事務所の中に女性事務員が入って来て「キャーツ」と叫ぶので、私は慌てて金庫の中に身を隠した。
何故、1昨日の映像には、星野智子が裸で電子版で宇宙の説明をしており、今朝は私の方が素っ裸であったのだろうか。其れは、明日の新嘗祭に向けての、禊ぎ払いの意味も有るのかも知れないが、良く考えて見れば、旧約聖書に出て来る「アダム」と「イブ」は、林檎の実を食べて自我意識が生まれる迄は、2人とも素っ裸である。
其れを考えると、星野智子と私は、神の世界である「エデンの園」に、復帰している事に成るのではないだろうか。
そして、其の「エデンの園」こそ、仏教で言う処の「祇園精舎」であると言う事に成るのではないだろうか。だとすれば、やはり、私は屋久島に止まって「祇園精舎・エデンの園」を、完成させなければならないと言う事に成る。
「ルーアンの道」http://star.ap.teacup.com/2007313/427.html
ブログには、何処にも書かなかったが、1昨日は「あんまり無理しないで 長丁場なのだから」と告げられた。其れで、少しゆっくり出来る心算であったのだが、2日連続で多数のテーマが告げられて来た。忙しく成るからこそ、「あんまり無理しないで」と告げて来たのであろう。其れは、神の何時もの手法である。何処まで、此の作業が続くのか見通しが効かない。
今日は、先ほど、村造りのオーナーから電話が有り、次の段取りを頼まれてしまった。そして、其の後に、弟から電話が掛かり、私の長男に、昨日男子が誕生した事を知らせて来た。是で、私は未だ一度も顔を見た事は無いが、孫が三人出来た事に成る。
ビジョンの中では、素っ裸に成っても、まだまだ現実世界では、色々な事柄が起きて来る。
平成21年11月21日
礒邉自適

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2009/3/9
本当に必要な物
21・3・9
今朝のメッセージの映像は、山で木を伐採している現場が映されて来た。其の伐採している木は、家を建てる為の材料ではなく、紙を作る為のパルプや、置物にする物や、活け花をする為の器や台などで、人間の暮らしに、どうしても必要な物を造る為のものではないのである。
私が、其の現場で働いて居ると、年配の男性が1人現れて「疲れたか」と私に云うのである。私は、其の男性の云った一言で、自分の身体や気持ちを判断し、確かに疲れている事を実感した。
そして、明け方に現れた映像は、パソコンのマイドキュメントの場面が現れて、其処に平仮名の多い文章の題・テーマが、縦に澤山並んでいた。其れは、私が是から書いて行かなければ成らない事のテーマが、並べられているのだと感じた。其の題目の文字に平仮名が多く使われていたのは、平易な言葉で易しく書き現せとの事ではないだろうか。
今朝のメッセージの意味は、現代社会の人間が、生活に必要の無い事ばかりを行い、疲れている理・ことを示唆して来ているのではないだろうか。其れは、生活にどうしても必要である事柄を、再検討と言うか、再認識する必要が有ることを、示唆しているのだろう。
良く考えて見れば、人間の生活に必要な物は衣食住に関する物であり、近代社会には生活に必要ではない物や情報が多過ぎるのである。特に、大都会に有る物事は必要ではない物が多過ぎる。其の為に、森林が破壊され、河川や海が汚染され、環境悪化を招いているのである。そして、人間の暮らしは穏やかに成るどころか、益々喧騒に覆われ、多忙に成り、不健康に成って、未来を担う子供達からも、笑顔や楽しさが失われてしまっているのである。
今朝のメッセージで、森林の作業現場に現れた男性は、日本国中に植林をしたと伝えられている、素戔鳴尊の次男「五十猛命 (いそたけるのみこと)」ではないかと想われる。何故なら、其の男性が私に「疲れたか?」と云った謂い方が、「いい加減に 気付いたらどうか」との意味合いを含んでいたからである。
其れは、昨日の文章に書いた安藤昌益の「日本の権力が封建体制を維持し 民衆を搾取するために 儒教を利用してきたとみなし 孔子と儒教を徹底的に批判した」との文言にも関係が有り、現在の政治経済の仕組みは、国民が自分の健康や、家庭の精神的平和を求めるのではなく、其れ等を犠牲にして動き回って、エネルギーを消費し、税金を多く納める様に成っている。
其れは、聖者とされている「釈迦牟尼佛」や「老子」や「イエスキリスト」の教えに反するモノである。
「五十猛命」は全国に植林を進めた事で、植林の神様として祭られているが、全国の製材所の守護神として祭祈されてもいる。其れを考えると、今朝現れて、無暗に山の木を伐採するなと謂う男性は、確かに五十猛命の御霊だったのかも知れない。
今朝現れた男性が「五十猛命」であれば、もう少し厳しい口調で私に云っても良かったと想うのだが、其れを優しく遠慮がちに云って来たのは、是から私に色々と書いて貰う事が有るからかも知れない。そして、其の事は、皆に理解出来る様に易しく書かなければ成らないと言うことであろう。
其れが、私に可能かどうかは、是から徐々に明らかに成って来るのだろう。
平成21年3月9日
礒 邉 自 適

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2008/9/10
神の家に帰り着 く
20・9・10
今日の日付は、カトリック暦では2008年9月10日なので、「8・9・10」と順番に並んだ事に成る。其の数霊と、関係が有るのかどうかは判らないが、今朝は初めて私の意識は神の家に辿り着いて座って居た。其れは、私の意識が「帰命・ナム・アーメン」した事に成るのだろう。
宗教の本質とは、「宗教」の単語が「宗(おおもと)の教え」との意味であり、其れは明治維新で西洋文化を導入した時に、英語の宗教の単語である「リリジョン・religion」の意味の「再び神と結ばれる」を、日本の神の概念と同じであると考え、「宗(おおもと)の教え」と訳した物である。
其の根拠は、日本の神(目に直接見えない働きの意味)は、人間は自分の罪穢れを禊ぎ祓いすれば、「神・かみ・カム」其のモノに成れると考えられていたからである。だから「再び 神と結ばれる」との概念は、日本のおおもとの教えと同じであるとされたのである。
其れを、其の様に訳した明治の学者が誰であるのかは判らないが、其の人物は、仏教の「帰命・ナム」の概念にも影響されていたのかもしれない。若しかしたら、其れよりも更に深く根本原理を知って居たのであろうか。
日本語の「いのり」には、漢字の「祈・キ」を使用しているが、祈の「示+斤」の組み合わせは、祭壇の前で足を折り曲げて、祈りをして居る人の姿を、横から見た映像の象形文字である。しかし、以前は「祷り」と書いていた様である。「祷・とう」は「示+壽」の組み合わせで、「壽・ジュ」は「長く連なる。ひさしい。」の意味であるから、「祷」は「神を祭る祭壇の前で 永遠の時間・トキを想い願う」との意味合いである。
そして、日本語の「いのり」の「いの」は帰るの意味である。現在でも、地方の方言では、家に帰る事を「ぼつぼつ家にイノ」と云うので、「いのる」の日本語は「帰る・還る」の意味であり、「祷る」仕種は、神仏の懐に帰る為の、精神的な儀式を意味しているのである。其れは、ミレーの晩鐘に描かれている、夫婦の祷る姿にイメージが重なるモノであり、神に対する感謝の意味合いも含まれているのである。
本来の祈祷とは、商売繁盛や合格祈願等の欲望を煽るものではなく、自分や家族の罪穢れを祓い、病気などの悩みを祓い取る事、詰まり精神的な癒やしを意味しているのである。「癒・ユ」の漢字は「病+舟+刃物+心」の組み合わせで、「丸木舟の中を 刃物で削り取る様に、相手の病を削り取って 心を安らかにする」の意味である。だから宗教とは、相手の悩みや不安を取り除いて、安らかにして遣るべき世界であるから、戦争などを起して平和を乱す事ではないのである。其れ等は、現在の宗教とは反対の所にあり、聖戦とかは本来の宗教には在り得ないのである。
其の様に考えると、私が今朝到達した映像の世界は、「宗教・リリジョン・religion」の究極の世界だったのであろう。今朝の私のビジョンは、私の意識が、様々な色彩をした植物の葉に包まれた世界に在り、静かに座って其の感触を楽しんで居た。
其の世界は、老子の謂う「恍なり惚なり 惚なり恍のなり」の、薄紅色と言うか、桃色の光の粒子の中に包まれ、自分が光か、光が自分かの区別が着かない恍惚感に浸っている世界ではなく、其の光のエネルギーが、あらゆる植物の葉の形と成り、美しく光彩を放っている世界である。だから、恍惚世界から1歩、物の世界に踏み込んでいると謂えるだろう。
私は、其の余りの美しさと、気持ち良さに、此処は何処だろうと想って、周囲を見渡すと、其処は神の家の中である事が解かった。其の家は、壁や屋根は無く、ただ家の形に木の枠が組まれているだけであった。私が、其の家の形をしている木の枠組みを見て、「神の家の中に座っている」と理解したら、其の木の枠組みは消えてしまい、元の美しい木の葉だけの世界に成った。
次の場面は、里の水辺に美しいピンク系の装いをした女神が立っており、山の上を見ると青い色を基調とした装いをしている観音菩薩が立っており、右横を見ると実が実っているバナナの木を背景にして、男性のブッダが最高の表情をして座っていた。
此の映像の意味は、大地を司る神は女神であり、水が流れる里の管理はサラスヴァティ(宗像三女神)が行い、山岳は観音様・菊理姫(奥津・中津・辺津)が管理しているとの事ではないだろうか。そして、意識と謂うか、理論や悟り(7光)の世界は、仏陀やスメミマの男神が司っていると謂う事である。
其れを数字的に表現すれば、女神が3で、男神が7で、3組合わすと「3・3・7」と成る。
次の映像は、何処かの演劇場で女性歌手が舞台で歌を唄う場面であった。会場には、男性客が大勢来て観客席に座っている。そして、女性歌手が舞台に現れたのだが、司会者が上手く司会進行が出来ないので、歌手は歌い出せないで困って居るのである。
私は首にカメラを提げて、写真を撮って居たのだが、其の状況を黙って見て居られなく成り、舞台の上に出て行って様子を探った。すると、司会者がメモっているのは、過去に流行った歌の資料だけで、女性歌手が歌おうとして居る新曲の題名も、其の歌のエピソードも書いていないのである。それで司会進行が出来ないで、歌謡が始まらなかったのである。
其の意味は、女性歌手が弁財天を意味しており、弁財天は新しい歌詞を創作し、新しい曲を演奏したいのに、司会進行係の男性が昔し流行った歌の情報しか知らないので、先に進めないとの意味であろう。其の、昔し流行った歌・詩とは、2600年前の釈迦のお経や、2000年前のイエスの聖書を意味しているのではないだろうか。
イエスは、ヨルダン川の水で禊ぎをして精霊に満たされ、釈迦は、池で水浴びをしてから悟っている。其れは、どちらも、水の神である「弁財天・サラスヴァティ」の力に拠って、弁舌の世界に目覚めた事に成るのである。だから、是から新しい歌詞を歌う事に成る男性神も、水に拠る禊ぎを済ませた男性であると謂う事に成るのではないだろうか。
そして今朝最後に現れたビジョンは、60歳ぐらいの右目を大きく見開いている男性の右顔が現れ、私を其の右目で視て、目線が合ってから向こう側に消えて行った。其の目の表情から察せられる人物は、達磨禅師である。と謂う事は、バナナの木を背景に座っていた男性は釈迦牟尼佛で、達磨の意識は、其の釈迦牟尼佛の真実の姿を見たとの事を、私に知らせたのかもしれない。であれば、今朝私が帰り着いて居た神の家に、私を案内したのは猿田彦神ではなく、達磨禅師であった事に成る。其れは昨日書いた、釈迦の弟子が81代目にして、カルマが解かれたとの事が当っていたのではないだろうか。
達磨さんが笑ったhttp://star.ap.teacup.com/170606/887.html
考えて見れば、私が1985年の7月2日に全国の旅が丹後半島の網野町で終わり、3日の朝、宿の木津館の主人に案内されて、着いた処が禅宗の龍献寺だったのである。其の龍献寺の住職である安井桂造氏の紹介で、新しい人脈に繋がり始めたのである。
其れまで、全国の旅の案内をしたのが猿田彦神であったので、7月2日を持って私の案内役は猿田彦神から達磨禅師へとバトンタッチが行われた事になる。其れは7月2日で、肉体的な旅から、精神的な旅に切り替わった事を意味している。私の旅を、其れまで支えていたのが猿田彦神である事を知ったのは、北九州市小倉の旦過市場の近くにある小さな猿田彦神社での出来事からである。
猿田彦の神http://star.ap.teacup.com/170606/1078.html
猿田彦神社 http://star.ap.teacup.com/applet/170606/303/trackback
人間の深層心理http://moon.ap.teacup.com/20061108/390.html
先ほど埼玉の高橋伸氏より電話が有り、今朝見たビジョンの内容を知らせて来た。今朝高橋伸氏が見たビジョンは、何処かのコミュニケーション-センターらしき建物の会場に、明るい光の世界を求めて、中年の女性ばかりが押しくら饅頭の様に、ギュウギュウに澤山集まっており、霊能者的人物が登場するのを待って居たとの事である。
其れは、私が見た女性歌手が歌う会場に男性客が集まって居たのとは反対で、人気の有る霊能者の男性の講演に、澤山の女性が集まっている様子を示している。
其れは、男性を集めるのは女性の力で、女性を集めるのは男性の力であるという事になる。
此処まで書いたら、急に睡魔が襲って来たので事務所のソファーに横に成ると、何処かの森の中の、水が流れる谷川の丸い花崗岩の岩が現れて来た。そして、其処の岩の上が神の座であり、其処に座れる者は、其処に2度達した者でなければ成らない理が、文章にて示されて来た。
其のビジョンの意味は、文字が読める者である事、そして一度其処に達しただけでは駄目であるとの事である。其れは何故かと謂うと、一度だけの体験では、其の人自身が其の事に取り組むのに一生懸命で、自分が何を行っているのか、客観的に観る事が出来ないからである。処が同じ人間が、同じ場に2度目に立つ時は、前の体験が参考に出来るので失敗もしないし、1度目とは違い、拠り良き道の選択が出来るからである。
だからこそ「転輪聖王・チャクラブルティン」とは転生を必要とするのであろう。
其の映像に現れた場所は、以前大阪に出かけてホテルに泊まった夜に、ビジョンに出て来た谷川の岩であり、以前には其の岩の上に3匹の「豸・チ」が居て、其の中の豸がピョンピョンとリズム的に飛び上がって居た場所である。しかし今日の映像には、其の岩の上には豸の姿は見られず、其の豸の霊魂・たましいが私の中に在って、私を其の岩場に上げ様と働いていた。私は、其の意識に逆らいながら、其の場所こそ、出雲で言う「熊熊しき谷」である事を理解した。「熊熊しき」とは、「神神しき」との意味で、「熊野大社・熊のおおやしろ(神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の「神」の意味で、「くま」の気配が強くする谷の意味である。
豸(かいたい) http://moon.ap.teacup.com/20061108/87.html
左の門を出た http://moon.ap.teacup.com/20060403/66.html
其れは、大陸から持ち込まれた神ではなく、日本列島に古くから住む蝦夷やアイヌの神である。「熊熊しき谷」こそ、アイヌ語の「カムイコタン・神居川谷」と同じ背景を持つ言葉であり、沖縄文化の神祭りの場である「御嶽・ウタキ」にも通じる世界である。それこそが、アニミズムの原点であるのではないだろうか。そして、其の世界には、背景に同じ決まりが存在する。其の決まりとは、「神の棲む 神聖なる地は 木の枝を折ったり 苔を剥いだり 落ち葉を除いたりしてはならない」と謂う事である。
出雲の「熊熊しき谷」の入り口には、素戔鳴尊と櫛稲田姫の長男である「湯山主」と、妻の「木花知流比売命 (このはなちるひめのみこと)」が祭られている神社が有る。木花知流比売命は、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と姉妹で、大山祇神の娘である。其れを考えると、今朝の映像に現れた女神は其の2人であり、右側に座って居た男性はインドまで飛んで行って、釈迦の霊魂・たましいと成った「大山祇神・大己貴(おおなむち)・大物主」だったのかもしれない。そうであれば、今朝の木の葉の褥は「木の葉な散る姫」の木の葉の世界であり、私の意識は「森依体・グリンマン」として、素戔鳴尊の霊魂と成っており、長男の嫁ごに大事にされていた事にも成るのだ。
神の世界は、時節毎に同じパターンで繰り返されているので、「神・はたらき」が重なって来るのは、当然の成り行きである。其れは、年の始めに立てられる、譲り葉に其の訓えが秘められているのだろう。
今朝、私が到達した神の住む家とは、其の事象の決まり事が秘められている、聖なる森の情報が集約された異次元空間であったのだろう。其処に、私が案内されたと言う事は、私が豸の霊魂・たましいを内在したからであろう。だとすれば、決まり事を秘めた聖なる言葉を判断する、天秤計りの重石調整の権を、私が手にした事に成る。其の意味は、私が此の世界に入った時に、神に持たされた杖が、真実の力を発揮する時が来たとの事ではないだろうか。
9月15日は敬老の日であるが、大山祇神の8月の研究会の日でもある。そして17日からは、3組の人間が屋久島入りをする。いよいよ其処から、具体的な動きが三次元世界に現れて来るのではないだろうか。
今日の昼間の映像で、私の意識は1点に絞られて来た。其れは、自分の中に内在された、言葉の番神である一角獣の角先にである。其れは、神社の鳥居の左側に座っているユニコーンと同じ意味を持つ。是で、私は他人の行動や、言動に対して簡単に「吽・うん」と頷く事が出来なく成った。
其れは、最早12時間も経たない内に、神の家から出されて仕事場に復帰している事に成るのである。
平成20年9月10日3時45分
礒 邉 自 適

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2007/11/21
御饌殿の神(みけどののかみ)
19・11・21
昨夜も、前日と同じくなかなか眠れない夜を過ごした。そして理解できて来た事は、是が「スメラミコト・皇命」の「スメ・素目」が開いている状態だと言うことである。
「スメ」とは、仏教で言う処の「第三の目・アジナーチャクラ」が開いている状態であり、其れを科学的用語で言うと「シリコン(珪素)の純粋な結晶体である松果体が活発に働いてメラニン物質が激しく放出され、其れに因り脳内のシナプス活動が盛んに成り、宇宙の珪素の周波数とシンクロ・同調し、森羅万象の変化を即す状態。」と成るだろうか。
其の状態が起きている人が、インド国では「ブッダ・仏陀」と呼ばれ、中国では皇帝と呼ばれ、日本やイスラエルでは「ミカド・帝」と呼ばれ、シュメールでは「スメラ」と呼ばれ、エジプトでは「ラーの神官」とされていたのである。そして、其の者が宇宙の森羅万象の流転(事象の変化)と、人間社会の活動の間に存在して、トランス(中継役・取次ぎ)をして「情報・気の流れ」を調整するので、其の働きを「みいつ・御陵威」と名付けたのである。
其の状態では、完全に脳が休み無く働くので、個人的な意識の休み時間がなく成るのである。其の状態を人間サイドに起こす為の部屋が「あめのおふすま」であり、天皇の大嘗祭が行われる儀式の建物であるのだ。
そして、其処で行なわれる儀式は、台所の神「御饌殿の神・みけどののかみ」を招霊して、人間の始祖である「御祖神・みおやかみ」と「直合・なおらい(共に食事をする事)」をして、永遠の霊魂と自分の魂しいの合体をして、現世を生きる人間の智慧を拡充するのである。
其の為に、其の儀式の前に、自分の個人的な我意識を「祓う・消去」する為に、清水に拠る禊ぎ祓いの儀式(鎮魂)が必要なのである。
私は、其の儀式を24年前の6月4日(旧暦5月5日)に師の手を借りて済ましてある。其れは、イエス‐キリストがヨハネの手を借りてパプテスマを受けたのと同じであり、日本の神道の神であるイザナギの命が小戸のあわぎ原で禊ぎをした事と同じで、インドの釈迦が池で水浴びをして悟った出来事と同じである。
今朝未明には、お酒の香りが漂って来て、鹿肉を焼く臭いや、焼き芋の香り、其れに漬物の沢庵の臭い、次に柑橘のカラタチの香り等が、次々にして来た。其れは、何処かの祭りで行なわれている新嘗の祭りの儀式の香りが、時空を超えて感知されて来たのであろう。
其れは、私の意識が拡大して、トランスを起こしており、何処かの空間に接触して居た事に成る。其の、食べ物の香りに拠って拡大して行く働きこそが、御饌殿の神である「豊受の神・うかのみたま・保食神(うけもちのかみ)・けひの神」等の、熊野神系統なのであろう。
其れは、視覚や聴覚の働き(神)ではなく、臭覚の神(はたらき)である。其れはまた、私に告げられて来ている「今度はハナから」のメッセージに繋がるモノでもある。
臭覚を司る鼻の働きは、ガス(空気中の香り)を感知する事である。其れは、視覚や、聴覚や、味覚や、触覚などの機関よりも、先に発生した生物の感覚器官なのであろう。其の臭覚に目覚める事が、蛇の脳が目覚める事でも有るのだ。
不思議な事に、蛇や、蜥蜴や、蟻食い(オオトカゲ)等は、鼻で臭いを嗅ぐのではなく、先が2つに割れている舌を空中に出して、臭いを感じ取るのである。其れは、ガス感知器が舌の先に有る事に成る。
何故、舌の先は2つに別れているかと言うと、動物は目や耳が2つ有る事で、三角計測が出来て、方向が確定するからである。蛇は、舌の先が2つに別れている事で、微妙な香りの強弱(香りの濃度差)が計測され、空気中を流れる蛙の臭いなどの方向や距離を確定出来るのである。
昨日のメッセージで、「母音の構成」と「ガスの色」と有ったが、どうやら今朝のメッセージは、昨日の続きであり、昨日は人間の言葉世界の解析に成ったが、今朝のメッセージは、言葉世界より古い次元の、臭い感覚に触れて来ている様である。
其れは、言葉が大脳皮質から生まれたモノであり、ガスの色を検索出来るのは、古代皮質である古代脳・蛇の脳であると言うことだ。其れを考えると、御饌殿の神は、蛇や蜥蜴の神と言う事に成って来る。
そうだとすると、やはり天照系の神より、三輪の神である蛇神の方が、次元的には古いと言うか、神・はたらきの基礎に在ると言うことに成ってくる。
其れだと、熊野の神は、天照系の霊系(概念の虜)ではなく、縄文系の国津神である大山祇神系の(概念・憶い)に流れ込んで来る事になる。そう考えれば、私に「紀・トキの祭り」を告げて来た大山祇神の働きが「トキ・時空」を司ると言う事も、納得出来てくる。
今朝理解出来て来た事は、人間の潜在意識の中核には、蛇の脳が自立神経として働いているのだから、人間の脳の中にも、2枚に別れた舌のシステムが、思考の土台と成っているはずである。
其のヒントとして、昨日のビジョンに私の師が左右2つに別れて、此方に向かって歩いて来たのであろう。私は其れを「明暗」と言葉にしてしまったが、其れは「表裏」と表現した方が当っていたようである。そう考えれば、密教の大日如来の働きが「金剛界」と「胎蔵界」に別けられているのも納得出来てくる。
其れは、人間の脳も、自分を認識する為には、二箇所から焦点に意識を向けないと計測が出来ないことを示唆している。だから、脳は左右2つに別けられているのである。
其の脳の仕組みに、古代の人は気付いていたので、情報選択の事を「エラブ・選ぶ」と云って、古代語の蛇(エラブ)の名を、自分の意識の仕組みに与えたのだ。其れは、中国の漢字の「選」が、「進むか 止まるかの選択を 自分の中で2つの物が競っている。」との意味なので、同じ概念から出来ていることを示している。
其れが、旧約聖書で悪く表現されてしまったので、蛇や、龍は、悪者と考えられる様に成ったのである。
旧約聖書の概念を組んだ人間が、生命の本質に辿り付いていれば、東洋と同じく、蛇は仏陀の護り神であり、智慧の神であり、老子のタオ・道のシンボル等と同じにされたはずなのである。エジプトのラーの神官の手にする杖も、陰陽の蛇が巻き付いてシンボル化されているし、モーゼの杖も、地に投げたら蛇に変ったと有るので、西洋でも其処までは蛇は智慧の神だったのである。マヤ文化やアステカでも、蛇は神であり、アフリカでも蛇に進化する前の蜥蜴が神の使いである。どこから、蛇が悪者に成ってしまったのかは私にも解らない。(蛇は 約9千万年前に蜥蜴から手足を引っ込めて進化した物であると言われている。)
此の様に考えて来ると、1昨日からの私の意識は、蛇や蜥蜴の脳である古代皮質の次元まで「帰命・祷る・還る」している事に成り、眠りをコントロールする自律神経が高ぶって来て、目覚めていると言うか、異常に成って来ている事に成る。其れは、古代の霊魂が、時空を超えて関わりを持って来ていると考えても良いのだろう。其れはまた、2600年振りに宇宙が変化して来ている事でもある。
其の変化に対応する為に、今回の私の人生が有るのだ。私は、ようやく24年前に師に云われた、私の役割が何であるのかが、身体を持って理解出来て来ている様に想える。
師は、私に会った時に「私は 第七次元まで行って 宇宙霊界を見て来たが 其の先にどうしても行けないので 私が付いているから 其の先を見に行ってくれ。」と頼まれ、其の旅を是まで続けて来たのである。そして其の師は、6年前に彼の世に旅立ってしまったのだが、今度は霊界から私の旅を支えてくれている様である。
其れは、胎蔵界に未だ身を置いている私に、金剛界から応援しているのだと考えても間違いではないだろう。私の意識は、波動性と粒子性のカオスの中で、新たな事象に意味付けを行い、事象の変化に影響を与えているのである。其れは、本来スメラノミコトやミカドの仕事だったのである。其の役割を、私は個人的に行なっているのだ。
其れは、此の現実世界の人間には誰にも認められない世界ではあるが、霊界人が皆して総合的に取り組んでいる事なので、何とか先に進んでいるのである。
パソコンとITが有る御陰で、札幌や東京や岐阜などから新しい人脈が形成されつつある。作夜も、岡山のスーリアさんに繋いだ高橋さんより長いメールが有り、どんどん事が動き出して来ている事が分かった。今日は、5人からメールが有り、事が急速に動き出している事が理解されて来た。其れも、新嘗祭の御饌殿の神の影響かも知れない。
今日11月21日は、第1回スピリチュアルタイムの前夜祭を、京都府亀岡の憩いの家で行なった日(1987年11月21日)であり、明日22日は奈良市の大倭会館で全国から72名が集まって会合を開いた日である。
早いもので、其れから20年の月日が経過している。其の20年前のテーマが、精神的なトキ(時間・時節)の始まりの意味の「スピリチュアル‐タイム」だったのである。「十年一昔」との言葉が有るが、此の流れの速い現代社会において、既に20年が経過してしまっているのである。
其の時40歳だったわたしは、既に60歳の還暦を迎えてしまった。其の私に、未だトキの神が頼って来ているのである。
何とかして、此のシステムを若者に理解して貰って継いで行かなければ成らないのである。其れが、日本の本来の役割であり、日本人のアイデンティティなのである。
此の美しい国土だからこそ、其れが可能なのである。日本列島から蛇神が去る時は、人類の魂しいの死を意味するのではないだろうか。其れは、白山菊理姫の終焉をも意味するのである。何とか、今年も明日と明後日に掛けて行なわれる新嘗祭の儀式が、無事に済む事を切願するものである。
私の意識は、1昨日は隣の口之永良部島の視察をして居たが、今朝は種子島の視察をして居た。国津神かクニトコタチの神が、国土の見回りの範囲をだんだんと広げつつある様である。
平成19年11月20日
礒 邉 自 適


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2007/8/9
鬼神の神楽
19・8・9
今朝のメッセージの映像は、昼も、夜も、鬼の面を付けた男性が、神楽舞を続けている場面が映されて来た。
其の後、水を送水しているポンプが故障して、水が送れない場面や、水道送水管が崖崩れなどで何箇所も切断されて、水が流れない場面が映されて来た。
そして最後に「V字型」との言葉が伝えられて来た。
今朝のメッセージは、いよいよ鬼神の行動が開始される事を意味し、先ず其の手法として水が止められる事を意味している様である。其れに因って、経済がV字型に落ち込む事を告げて来ているのだろう。
しかし、其れはV字型であるので、一時的な現象である事を示している。だが、経済は生き物であるから、一時的にでも底を突けば、経済は停止し、現在の経済システムは崩壊し、全部0から遣り直しと言う事に成るだろう。
特に、大都市は水が止められれば機能が停止し、経済的なダメージは大きい。水が止められれば、電気が来て居ても、食事も出来ないし、トイレも風呂も使えないので、生活は出来ないし、クラーも使えないので空調設備も機能しなく成る。
今朝のメッセージは、取り合えず、鬼神が水の供給を止めて、人間の傲慢さに、お灸をすえるとの事ではないだろうか。
鬼神は、ナマハゲの姿で、子供達を脅し、悪い事を止めさせる役目を果たす者である。其の脅しが、いよいよ大人社会に行なわれるとの事である。其れは、不動妙王が牙を剥いて、剣を振り回し、悪い者を退治する事と同じ意味である。
イエスキリストが予言している様に、1番先を進んでいる者達が、其の罪を問われる時節が迫って来ているのである。其れは、反対に捉えれば、新しい体制が生まれる可能性が高まって来ている事も意味しているのである。
私は、24年前に、其れまでの活動を止め、反対の世界に心身を注ぎこんで来た。其れまでの活動とは、山を削り、谷を埋め、道路を造り、電気や水道を引いて、建物を増やし、人間の数が増加する事を、善い事として考えて行動をしていた事である。
其れが、師に捜し出されて「自適さんは 是ほど大事な自然を破壊して よく神に殺されなかったですね。」と云われて、自分の其れまでの行動を反省し生き方を180度転換したのである。其の私の行動と、同じ事が、人類全体に求められるトキが来たのである。
しかし其れは、ノストルダムスの大予言のハルマゲドンとは違い、規模の小さいモノ・出来事なのである。何故なら、ノストルダムスの大予言は回避されたからである。ノストルダムスの予言には「バビロンの繁殖と共に 別な者が現れれば 私の予言は回避される。其の別な者とは 経線に沿って上って来る者である。」と有る。
バビロンとは、古代の都市の名前であるので、都市が繁殖すると言う事は、其の都市の機能を支える為に、自然が破壊されて行くと言う事である。だから、別の者とは、環境を護る働きの人達・グループの事なのである。
其の人達が現れ、人間の価値観が変化して来た為に、大きな人類削減対策が弱められる事に成ったのである。
私は23年前に、核弾頭を使用する第三次世界大戦の映像を見せられ、其の解除を条件として、是まで神の支持に従って来たのである。
今朝は、其のプログラムは既に解除されており、今後は鬼神の行動に任される事に成った事を知らせて来たのではないだろうか。
其の鬼神の機嫌を損なわない為には、山に木を植え、自然の森を復活し、水の循環を護る事である。其れこそが、奥出雲の横田町に有る「鬼神神社」の祭神であるイソタケルの尊の働きなのである。イソタケルは、父親のスサノオの尊や、妹2人と、木の苗を育て全国に植林をした人である。だから、全国の製材所や、木材関係の社の神は、イソタケルの尊と成っているのである。
今回の旅でも、宗像の木材市場で、右足に強いカモ・(神の電気信号)が有ったので、其のイソタケルの尊の意志の存在は明らかである。
出雲だけではなく、宮崎の高千穂神社のお神楽にも、イソタケル兄妹である「大屋津姫命・おおやつひめ」と「都麻津姫命・つまつひめ」の姉妹が、木の種を蒔き、苗を育てる神楽が、現在でも33番の中に含まれているのである。其の伝統が、現代まで伝えられているので、天皇が植樹を行なうのである。
今朝のメッセージで明らかな様に、人類にもたらされる災害を小さなものにするのは、地球の環境保全しかないのである。其れに1番背いているのが、京都議定書に署名をしないアメリカ政府の行動である。今朝のメッセージからすると、其のアメリカに1番強いお灸が据えられるのではないだろうか。しかし、日本も、国内の森の木は切らなくても、外国の森を破壊しているのだから、アメリカと同罪であると言えるだろう。
私は23年前に、屋久島の地図に断層を見付け、其の線を辿ると、矢筈岬から開聞岳に通じ、久留米の水天宮、大宰府天満宮、宗像大社と通じており、其れが東経130度30分の線上である事が判明したので、旅が始まったのである。今回は、其の線上を1番北の端の「神湊・こうのみなと」から、1番南の開聞岳の枚聞(ひらきき)神社まで一気に下って来た。
そして、枚聞神社には、午前5時10分に着いたのである。
5・10の数字は、私は太陽からのメッセージを受けて、京都の大徳寺の境内で、杖を突いた写真を撮った日であり、後に、佐世神社のスサノオが手植えした御神木や、横田町のイソタケルの祭る伊我猛神社の境内の御神木に、私を案内して下った、横田町生まれの安部忠宏氏の誕生日でもある。
今回の旅でも、イソタケルの尊の霊魂の働きが、強く認識されたのである。そして、今朝の場面の、鬼神の神楽が昼夜を問わず舞われると言う事は、事が急速に行なわれるとの事ではないだろうか。
私は、其の事に因る、V字型の現象が、出来るだけ小さく、短い期間である事をただ祈る事しかない。
今日は、長崎の原爆投下の日である。旧型の原爆1個で莫大の被害が出たのである。現代の核弾頭は、1弾頭で其の何千倍もの威力が有るのだ。
私にとっては、第三次世界大戦のプログラムを、神が外した事だけでも、此の24年間の苦労が報われた事に成ると言えるであろう。
平成19年8月9日
礒 邉 自 適

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2007/1/3
ドラゴン丸
19・1・3
今朝の映像は、白い大きなボートが現れて、船の名前は「ドラゴン」と言う名前であることが分り、船長は「148.石屋・メイソン」だと告げられた。
そして、其の船に乗るには、船長に頼んで自分の情報を宇宙の本機に送って貰わなければならないらしい。自分の情報を148の船長に渡すと、其の情報が弾丸の様にトンネルの中を飛んで行って、其れが本機で分析され、合格の分は文字が書かれた白い切符が返って来て、不合格の分は真っ黒で何も文字が書かれていない切符が返って来るらしい。
文字の書かれている切符を受け取った人は、駅から汽車に乗る事が出来、着いた所には、先導車と護衛のバイクが着いているバスが待っていて、其のバスに乗って訪ねた先には「保食神・うかのみたま」神社が在った。
今朝のメッセージは、今回の旅の1番重要な内容が含まれているようである。昨日、出雲の安部忠宏氏と3月13日に阿蘇の日宮幣立神宮で「瑞穂の国」発足の儀式を行う事を決めてから、「イザナミ」の御陵の在る比婆山を越えて広島県側に降りて、檀上宗謙さんの西光寺を訪ねた。そして、1時間くらい3名で話した後、外風呂に冷泉を溜めて薪で沸かし湯浴みをした。風呂から上がりしばらくすると、背骨の下から何番目かが変調を起こした。其れは、此のお湯に何等かの薬効が有るからだろう。
昨日は、御霊の思頼の名簿が映り、日蓮聖人の名は52番目にあり、1番は弘法大師空海に成っており、何故か、私の意識は其の名簿を土台として上に在った。どうやら、私の意識は弥勒菩薩であるように感じられた。
処が、夕食の後、自然に瞑想状態に落ち入ると、屋久島の山岳が現れ、其の山岳のエネルギーが動き始め、次元が変化したのが理解出来た。
其の後風呂に浸かっていると「世間から遠ざかれ」との言葉が来た。其の言葉から、達磨禅師の意識を感じ取った。
其れらの意識の変化から、達磨禅師は御霊の思頼の4311体の御霊の中に入ってはおらずに、其の外側に居るようである。其の理由を考えると、達磨禅師は自分の行為を何もしていないし、自分の役目であるマカカショウから伝えられている仏陀の訓えを、慧可に無事に伝える事に成功しているので、何も現世に対して遣り残している事柄が無いので、私の身体を使う必要が無いからであろう。
其のように考えると、4311体の御霊は、全て、自分のカルマを残して此の世を去ってしまった人達の霊魂だと言うことになる。私は、其れ等の霊魂に23年間心身を占有されていたことに成るらしいのだ。
しかし、其れも、昨日一応の段階を終えて、屋久島の山が、次の段階に向けて動き出した事に成るのだろう。
先ほど、檀上宗謙氏と抹茶を戴きながら話をしていると、西光寺には2年前に弥勒菩薩がイメージに現れたり、井戸水が出る様に成ってからは、古代人の壁画に描かれている、精霊の印である球が沢山写真に現れる様にも成って来ている。
今朝気付いた事の1つに、昨日霊夢に現れた飛び出た2つの目玉は、西光寺の裏縁で水を貰いに訪れる人達を、縁側から見詰めている蛙の置物の目である事が判明した。と云うことは、私の意識に、其の湧き水に宿っている霊魂の意識が、昨日入り込んでいたことに成る。
其れは、此の寺の水神が、出雲まで私を向かえに来ていたことにも成る。
今回の旅のコースは、屋久島〜葦北(どれみ村)〜広島県比婆山(イザナミの御陵・熊野神社)〜奥出雲(鬼神神社)〜船通山〜佐世神社〜日御碕神社〜西光寺〜琵琶湖のちくぶ島(弁財天神社)と指示されていたので、残りは明日スーリアさんと岡山で会ってから、琵琶湖の弁財天に、是までのお礼を済ませて、屋久島に帰る予定である。
今回の旅は、今までに無い中身の濃いものであり、次元変化を齎すものでもあった。
屋久島に帰れば、出雲の安部忠宏氏と連絡を執りながら3月13日の儀式の準備をしなければ成らない。
今朝は、其の安部忠宏氏の姿が現れ、皆に「新たに・新たに・・・」と挨拶して居た。其れは、古い価値観を捨てて、新たな価値観を持って国造りを始めるとの意味であろう。
其れは、安部忠宏氏が大国主の御霊を有しているとのことであろう。安部忠宏氏が大国主の役割なら、私の働きはスクナヒコの役割と成るだろうか。
近頃のメッセージは、確かに現実的な世界に関するものが多い。其れは、神の計画が実行に移されて来つつある証明であろう。
今回、同行して居る巫女さんも、毎日起きる不思議な事や、自分に関する事柄の謎が解きほぐされて行くのでビックリしている。其れは、私の23年間の体験の積み重ねの認識と、其れからくる理解力が有るからだろう。今回の旅で、私自身も、自分の修行の結果が確認出来たことに成り、有意義なものと成った。
是からは、助かりたい者は「うかの御霊」の神社に参詣し、食べ物の神・はたらきを修行しなければ成らないようである。
今夜は満月なので、寺にて数名で満月の宴が催しされる。
私も、ようやく自分の人生を楽しめる時節を向かえたのではないかと想っている。
平成19年1月3日
礒 邉 自 適

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2006/10/19
出雲の神々が動き出す
18・10・19
今朝の映像は長い物語に成っていた。其れは未来への新しき道が切り開かれるもので、空には虹が掛かり、龍が地上に水飲みに下りて来る映像も含まれていた。其の動きを地上でコントロールしているのが出雲の安部忠宏氏で、其の安部忠宏氏が主催する集いには岡山のスーリアさんも参加しており来賓の挨拶をして居た。しかし私の姿は其の場にはなく、私の意識は安部忠宏氏の背後霊と成って、安部氏のする事を認識しているだけなのである。其れは、今朝の私の意識が、安部氏を動かしている霊魂の意識と重なってしまっていたからであろう。
私が安部氏に初めて有ったのは、丁度10年前の10月16日で、其の日は伊勢神宮の神嘗祭の日である。私は其の日、広島の渡邊さんが主催するセミナーで話しをする事に成って、京都の「京都ドレミ村」から広島に向った。セミナーが始まる時間が迫って来た頃、安部氏より電話が掛かり少し遅れそうだとの事である。私は、神々の国出雲からワザワザ来る方なので到着する迄待つ事にしたのである。安部氏は車で15分くらい送れて来たが、車には水が沢山積まれていて其れを皆で飲むことにも成った。
私は安部氏に側に来るように云い、安部氏の時計を借りて情報を読み取ると、安部氏の背後には出雲の偉い神々が付いている事が解った。私はその夜、安部氏の自宅に向う事に成ったのである。そして、出雲には日本に初めて国造りを行った神霊が沢山住んでいることを知ったのである。今朝のメッセージは、其の時代の神々が再び動き出す事を見せられたのであろう。
古代人の考えでは、此の水の惑星を管理している神は水の神であり、其の姿は龍であるとされている。其の水神が、マヤ文明やアステカのククルカーンであり、インドのサラスヴァテイやブラウマン等の蛇やアナコンダ(大蛇)などである。世界中のピラミットは、其の龍に対する雨乞いが原形と成って建築されたものである。
中国での国造りには、四方神が祀られるが、智慧の神は太陽が昇る東方の神で青龍である。青龍は、水の神だが智慧をもたらす神でもある。今朝現れた、虹色に輝く空から水飲みに下りて来た龍は、其の青龍であろう。そして、其の龍は地上の水を飲んで空に戻ると、身体を小さくしてトカゲの様に成り、其の姿はシバ神の様に身体をクネラセ始め、手足を動かしていた。シバ神は、創造と破壊を司るとされる神だから、是から新しき創造の為の破壊が始まるとのコトではないだろうか。
其の新しき御代の創造が、3000年振りにまた出雲から始まるとのことであろう。其の為に、神々は出雲の安部忠宏氏の心身を使っているとのことなのである。私のHPの杖を突いた写真は、京都の大徳寺で1996年撮影した物だが、其の日は安部氏の誕生日の5月10日であり、8月23日に霊夢に現れた木は、安部氏が現在住んでいる出雲の佐世神社の境内のスサノオの尊が植えて6代目の神木であり、9月11日に霊夢に現れた木は、安部氏が産まれた所の横田町のイソタケルの尊を祭る伊我多氣神社の御神木だったのである。http://moon.ap.teacup.com/20060904/
私は安部氏に会う前に、其れ等の情報を皆知らされて居たのである。其れは、人智を超えた神界の存在が有ったらばこその出来事である。
今朝は、其の安部氏が出雲の地で皆を案内している映像が続いた。皆が、最終的に新しき世界に上る道は、スサノオを祀る出雲須賀神社の奥の宮である磐座に上る道である。其の道の入り口には、実際には無い桑畑が広がっていた。其の意味は、蚕の服を着て出雲の浜に上陸して来た知恵の神「少彦名神(すくなひこなのかみ)」の存在を示すものであろう。大国主の尊が、天津族が気に入る国を造り得たのは少彦名の智慧・情報が有ったからである。少彦名は絹の衣を着て、医療技術を始め様々な暮らしの手法も知っていたのである。「少彦名・すくなひこな」の名は「宿禰彦の名」の意味で「貴人の男の名」の意味である。其れは、「智慧の主である貴人が 大衆に身近に接する。」時の、親しみを込めた呼び名、其のものであるのだ。其れは、古代の武内宿禰や野見宿禰等の名に使用されている宿禰の元の意味であろう。
私は全国を18年旅して来たが、其れは4311体の霊魂の中の、日本の神々の神霊の思頼・みたまのふゆの為の鎮魂が主な目的であり、最後に神社の掘り起こしをさせられたのが、愛媛県大洲市に在る少彦名神(すくなひこなのかみ)の御陵である。今回の旅も、最後が其の神社の秋季大祭に参加して次の日に叶代表のPCに少彦名に関するHPを3つ創ってから帰って来た。其の結果が、今朝のメッセージであろう。九代龍王水神の御旗が出来て立てられれば、愈々新しい次元の始まりである。其れは、強烈な人類全体の大禊ぎの幕開けでもある。
其れが始まれば、もう皆 自分や自分の家族を守る事に精一杯で、他人の事に構って居られる者は誰も居なく成るであろう。全てが、其々の自己責任で行なわなければ成らないのだ。まさにサバイバルの始まりである。
しかし其れは、厳しくて残酷な事に見えても、其れは神が地球全体の調和を図るもので、其の生存競争に生き残る力が無い者は自然淘汰されて当たり前なのである。人間以外の全生命は、皆そうやって生きているのだから人間だけの甘えは許されないのである。
自然の正しい「道・タオ・ダルマ」は、本来そう謂うものなのである。其の理を忘れて、エゴ丸出しで生きて居て、最後にそうなったからと言って神に文句を言うのはお門違いなのである。
今朝の映像からすれば、神有り月の出雲で神々が集まり、新しき計画を企てたとの事ではないだろうか。来年の3月13日までに、何をすれば良いのかは未だ私にも告げられて来ない。分かっている事は、禊ぎの日が近づいて来ていると言う事だけである。
平成18年10月19日
礒 邉 自 適

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2006/10/9
自然との共生
18・10・9
今朝の映像は、人間が削り取った山の修復をどうするかがテーマであった。山は、昔から神の住まいであり、敬う事の対象だったのである。
それが現代では、何の恐れも無く削り取ったり穴を開けたりしている。其れは、地球に意思が有るとすれば痛みを伴っている事だろう。
何故、其の様なイメージが映されて来るのか。其の要因は、出雲にはスサノオの尊と其の息子の次男イソタケルや娘2人が木々を植林して、環境保全に勤めた事の情報が、自然環境の中に記憶されているからではないだろうか。
私が出雲の地に縁が出来たのも、やはりスサノオの尊とイソタケルの霊魂の為せる業・わざであった。私が、京都の大徳寺の近くに住んでいた1996年8月23日には、安部忠宏氏の住む下佐世の神社に生えているスサオオの尊が植えた木が霊夢に現れ、9月11日には安部忠宏氏が生まれた横田町のイソタケが祭神の伊我多氣神社の境内に生えているご神木が霊夢に現れた。其の二本のご神木の事は、見た事も聞いた事もない神社の木で、其の年の11月に安部忠宏氏に案内されて実在する事が始めて判った物である。
何故、其の様な現象が起きたのか。其の出来事こそ、霊魂が不滅である証拠と成るものである。
日本の天皇が、何故植林をするのか、其れは3000年にもわたりスサオオの尊とイソタケルの行為が伝え続けられているからである。昨日は、午後タタラに使う砂鉄が採取されていたかんな流しの地を訪れた。だから、其の昔の映像が映されて来たのかも知れない。
何れにしても、是から人類の未来社会を構築して行く為には、スサオオの尊とイソタケルの霊魂の存在を無視する事は出来ないであろう。11日には、和歌山のイソタケルの終焉の地と伝えられているイタキソ神社に参詣して宮司さんと話す予定である。其の前触れとしての、今朝のメッセージではないのだろうか。
近頃のメッセージから考えられる事は、人間が新たな心構えで生きて行けば、神々は其れを支援する方向が見えて来ている。其の流れに、どれだけの人々が組するかは分からないが、人類の未来に幾ばくかの希望の光が燈っていることは間違い無いだろう。私も、其の灯りを心の糧として、今後も進んで行かなければならないのだ。
平成18年10月9日
礒 邉 自 適

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2006/9/23
意宇の杜 阿太加夜神社の国引き碑
「八雲立つ出雲の国」と高らかに宣言するヤツカミズオミツヌノミコトは、「初めて造った国だから小さく造った。よその土地を縫い合わせてクニを大きくしよう」といい、国引きをはじめる。最初に朝鮮半島「志羅紀」の三埼から、「くにこ・くにこ」と土地を引き寄せ、次に「北門の佐伎国」から引き寄せ狭田国をつくり・・・・・
http://72.14.253.104/search?q=cache:4gTp67vQVBUJ:www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/izumoyatuka.html+%E6%84%8F%E5%AE%87%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%96&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1
阿太加夜神社
出雲郷地内の意宇川のほとりにある神社です。出雲国風土記に記され、古くは国造家一族にゆかりのある社としてまつられ、中世以降も代々出雲国守の崇敬を受けた神社です。また、松江城山稲荷神社との間におこなわれる神幸式「ホ−ランエンヤ」は、日本三大船神事として有名です。
http://homepage3.nifty.com/m-asanuma/yutarou_010.htm
[場]八束郡東出雲町出雲郷
[アクセス]JR揖屋駅から車で10分
[問]0852-52-3468

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2006/9/9
自分の中に住む白蛇
18・9・9
今日は、9月9日で重陽の節句であり、18も9+9の合計数である。其れに、ククリの日で白山権現菊理姫にも関係がある。ククリとは、神霊界と人間界が結び合う・括り合うとの意味であろう。
昨日から、私の心身が変調を起して来て、具合が悪いと云うまでには至らないが、何だが落ち着かない。其れは、大本教の出口王仁三郎の謂う、「9月8日の12の秘密」が表世界に現れ始めたからであろうか。私の神事の始まりは、出口王仁三郎に下駄を履かされた事が切っ掛けだが、其れより前に、白龍が私の身体にトグロを巻いて来て、私の左手の掌の上に丸い地球を乗せ、管理する様に云い、私の頭を切り離して地球と重ねてしまい、私の胴体の上には龍神が自分の頭を据えてしまったのである。
其れは、身体は自分の物だが、其の胴体には白龍が巻き付いており、頭は龍の頭と取替えられ、自分の頭は地球として左手の上に乗っていると言う、説明し難い有様である。
其れは不思議な感覚で、自分の頭が地球で、身体とは分離されており、自分の意識は屋久島の岩山を通してでなければ、身体に還れないのである。私は、自分の意識に辿り着く為には、宇宙から地球に帰り、屋久島の花崗岩の岩を経由しなければ、手足の付いている肉体には帰れないのである。其れは、自分の意識が自分ではなく、何か得体の知れないモノと摩り替わっている事に成る。
今朝、明確に成って来たのは、其の得体の知れないモノとは「ククルカーン」なのである。ククルカーンとは、アステカの神で、8段積んだ石のピラミットの階段から地上に降りて来る水を齎す大蛇である。其の、8段の階段の段差に出来る隙間の三角部分が、蛇のトグロを巻く7つの空間なのである。其れは、八段の又に住む「やまたのおろち・八又大蛇」なのである。私の身体に巻き付いて来たのは、其のククルカーン・括る神(くくるかんさあー)だったのである。
私は、1985年3月5日に初めての旅の途中で、島根県の出雲大社に参詣した。其の時、導かれる様にして、大国主命を祀る大社と、天の穂日を祀る北島さんの間に有る川筋の道を、山の方に向かって歩いて行った。1kmくらい坂道を登って行くと、其処にあまり大きくない社が1つ在る。私は其の社にお参りし、大社の参道の近くにある旅館大島屋に宿泊した。
すると、夜中に、其の山の社から、女のコケシみたいな物がピョッコン・ピョッコン・ピョッコンと下りて来て、宿に寝て居る私の布団まで遣って来た。すると、其れに対応する様に、私の身体から直径30センチくらいで、長さ2mくらいの白い蛇の様な物が抜け出し、コケシに導かれ大社の方に向かって進み始めた。私の意識は、其の白い大蛇と一体に成って、空中を移動して行った。其のコケシと白い蛇の様な物は、大社の表側から社の壁を抜け、後ろに在るスサノオを祀る社に行き、更に其の社も抜けて、後ろ側の岩板の土手に突き当った。すると、其の途端、其の白い蛇の身体の様な物は、白い光りと成って爆発して消え去ってしまったのである。其の光りの現象の後、私の意識は又宿の布団の中に在った。
其の映像を、今朝思えば、屋久島で私に入り込んだ白龍が、出雲大社の裏山に住むコケシ神(シャクジ神?)に導かれて、大社の裏山の磐座に還った事に成る。出雲大社の裏山は、弥山と呼ばれて居るが、地元では昔から蛇山と呼んでいるらしい。其れは、奈良県の三輪神社の三輪山(三室山)と、同じ言い伝えを含んでいるものである。どうやら、出雲も三輪も白山も、同じオロチが関係している様である。其のオロチを信仰する、古代の国津神・祇(くにつかみ)から稲田姫を奪って妻にしたのが、渡来系の素戔鳴尊なのであろう。
私の体にトグロを巻いて来た龍神は、7回トグロを巻いて、頭を其の上に出している、祖母山の水神と同じモノだったのであろう。
今朝のメッセージ映像は、歌舞伎役者の大物が出て来て、様々な顔をしたり、身体を動かして、色々な動作を繰り返した。其の役者の四方に、弟子らしき男性が現われると、其の舞台は水に覆われ、海中の舞台の様に成った。其の水の中で、5名が歌舞伎を演じ始めた。其の様子は、無重力の中で手足をバタつかせている様な感じである。其の時、私の意識は、其の様子を見ながらエラブ(海蛇)の意識に成って居て、水中を揺ら揺ら漂いながら其の様子を眺めて居た。
そして、大国主命の名と、瀬織津姫の名が気に成っていた。其れは、先日現われた般若男が大国主で、お婆さんが瀬織津姫でコケシ神の様に想われるものである。
今朝、出雲の件を思い出したのは、日本の歌舞伎の始まりは、出雲のお国さんの川原芝居が基に成っているからである。出雲のお国さんを動かした本体こそ、弥山のオロチだったのかも知れない。今朝感じた事は、昨日「臭」がテーマで鼻の働きだったが、今朝は五感「視・聴・嗅・味・触」の内、物に触れる「触」の世界が現われて来た様である。蛇は手足が無いので、臭いを嗅ぐ鼻の感覚の次は、身体が触れる物の感覚なのかも知れない。其れは、食欲を離れた処の性衝動の、触れ合いの出来事に関係があるのではないだろうか。
赤子が、母親の子宮の羊水の中から外に出て来て、水の肌触りからイキナリ接触するのは母親の肌である。羊水に浮かんで居た柔らかい肌が、イキナリ硬い母の手に抱き上げられるのである。其の時に感じた不安感がトラウマと成り、死ぬまで意識を左右していると考えても何等不思議はない。人間が野生の猿と同じく、スキンシップを欲しがるのも、そこ等辺に原因が在るのではないだろうか。蛇が雌雄絡み合っている姿を、神の姿と重ね合わせて憧れる人間の意識は、多分此の「触」の世界に要因が隠れているのかも知れないのである。
そう言えば、歌舞伎役者が水中で行なっている仕種は、産まれたばかりの赤子が、産湯のタライの中で、手足をバタつかせている様子にソックリであった。
現在、人気の有る歌舞伎役者の仕種と、タライの中の赤子の仕種と重ねて見れば、生命の基本原理は、赤子も大人もあまり差が無いのではないかと想えて来る。歌舞伎役者は
顔に隈を描き、特別に表情を引き立てているが、其の顔の表情の世界こそ「想」を現すことにある。
私は今朝、事務所の横に在る汲み取り便所が汚れていたので、水で洗いながら掃除をした。ホースで便器を洗っていると、勢い有るホースの水で下が攪拌され、臭いが立ち上って来た。其の時、顔をしかめた私の顔は、歌舞伎役者に負けないくらい良い演技をしていたかも知れない。其の無意識の表情こそ、物と人と蛇が括り合った瞬間ではないだろうか。
私の内に存在するオロチの意識こそ、全ての生命の意識の源なのだろう。万物の霊長とは、人間自身ではなく、人間の意識の中に住んで居て、時には答えが見付からず、手足をバタ突かせ身もだえしている、蛇・エラブ(選ぶ)の事のではないのだろうか。
何故、ブッダの背後の護り神が、7又頭のオロチなのか、其の答えも見えて来たようである。白蛇が別れて働く時、7色に別れるのである。其の時、プリズムの役割を果たすのが神社に備えられている鏡や、イシス神の頭上の鏡なのだ。鏡・かがみの名が、カカチ・蛇と同語であり、正月に7段重ねられるカガミ餅は、其のままククルカーンのトグロを巻いた姿なのである。其の括る働きが、白山菊理姫で、瀬織津姫の別の姿なのだろう。
平成18年9月9日
礒 邉 自 適

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2006/9/4
十六の島・うっぷるい
島根県にある出雲大社は、島根半島に在るが島根半島には「十六島」と書いて「ウップルイ」と読む地名の所が在る。
アイヌ語でウップルイとは「我が水の道」の意味だそうだ。
ウップルイをそのまま漢字使いにすると「宇振い」と成り「千早振る」の言葉と連動してくる。
水の道が、宇宙を振る事であり、魂に関係するならば、水こそ神に一番近いものであり水の思い出は一番大事な事と成ってくる。
それが理解出来れば、禊の字の持つ意味が真実味を帯びて感じられるであろう。
出雲地方では、木と岩と水の在る場所を「熊々しい谷」と呼ぶ。「熊々しい」とは、神々しいの意味だ。インドでは、一本の川には一匹の神霊であるアナコンダが住み着いていると伝えられている。
宍道湖は 伝説の 緋伊川の河口湖である。

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投稿者: jitekiisobe
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2006/1/31
あそびにおいで
18.12.31
今朝は。午前8時に熊本県葦北町に存在するドレミ村の天波博文宅を出発し、広島県庄原のイザナミの御陵と伝えられている比婆山の麓に有る熊野大社に4時過ぎに着いて参詣し、島根県の横田町に有るイソタケル神社に5時半頃着いて参詣し、宮司さんと少し話した後「鬼神神社」に着いて鳥居の前に立つと「あそびにおいで」との言葉が来た。
其の時は、何の意味だろうかと想って居たが、船通山の「緋の川温泉」に6時00分に着いて、チェクインを済まし温泉にゆっくりと入浴して居ると「遊びにおいで」の意味が解って来た。其れは、「鬼神神社」で「遊びにおいで」と伝えられて来たのは、日本の文化の中に伝えられて来ている「鬼ごっこ」」の遊びの世界の事であると理解されて来た。それは、鬼の姿である「不動明王」の世界までも含んでいる悪魔の世界が、人間を育てている宇宙の根源的システムである「神の働き」の表れであると感じたのである。
鬼婆こそ、総てを育てている宇宙の根源の働きなのである。だからこそ、刈り取りの鎌を持ったり、掃除の箒に乗る魔女の姿として現され、トランプの婆・ジョカーとされているのだ。
私の23年の旅は、ようやく鬼神神社で答えを掴む事に成ったのである。其れは、イエスを最後に試した悪魔の存在も、其の鬼婆の働きであると理解されてくるものである。其れは、赤子を抱くマリア様や聖子観音菩薩の姿と対に成るものである。
其の働きを、「不動明王」や「ナマハゲ」等の仮面踊りや仮面舞踏の祭り・儀式として伝承し、文化の一翼を担わして来たのである。それらの働きは、人間の怠慢やマンネリ化を避ける為の有効な手段として行われて来たものである。其れが、子供の世界にも取り入れられ、遊びとして鬼ごっこや童謡を生み出して着たのである。
其の遊びの世界が、人間社会で戦争などの争いを生み出す事にも繋がってしまっているのだ。
今日は、其れ等の働きの原点に辿り着いた事に成るのだろう。日付ははっきりしないが、
総ての事柄が、龍が手に持つ1つの球に固まって奥出雲に納まるのが映されていたが、其の球が多面性を持つ「生命・いのち」の球で、其の球を2003年10月24日の未明に受け取った女性が、今回同行して居る巫女さんである。
今回の旅は、其の巫女さんの受け取った球を鬼神神社に奉納する事が目的だったのだが、想わぬ結果と成ったのである。鬼や、鬼ごっこが、人間の成長に欠かせない事柄だったのである。
イエスが悪魔に試される物語も鬼ごっこの一端だったのである。そして、私の23年間の旅も鬼ごっこの延長線上にしか過ぎなかったのである。
今日は其の理・ことが解って、身体の力が抜けて腑抜け状態に成ってしまった。
明日は、安部忠宏氏と合流して、改めて鬼神神社とイガタケ神社に参詣し、其の後日の御崎神社に参詣する予定に成っている。
今日、高速の庄原インターから西光寺の檀上宗謙氏に電話をすると、横田町に「マクロビオテック・正食」の学校が出来る事が決まったとのことである。横田町は、マクロビオテックの大家久司道夫氏の奥さんの出生の地である。
新しい世直し出発の地が「櫛稲田姫」に由来する横田町であり、其の地に正食の学校が出来るのは「スサノオの尊」の想いが有るのだろう。
スサノオの別名は「神祖熊乃大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」で、「御氣」は食べ物の意味で「神の祖」は食べ物であるとの意味である。だから、今回横田町で始まる出来事は、スサノオの働きが現れるのだと考えても良いだろう。
其れが、スサオノの尊の妻である「櫛稲田姫」の里であり、久司道夫氏の「くし」は櫛稲田姫の「クシ」やスサノオの櫛御氣の「クシ」と同じ音でもある。其れ等の事柄を考えると、弘法大師空海のマントラの力が影響しているのではないかと想われて来る。
今夜は、宿の夕食は頼んでいなかったので、八川駅前の八川蕎麦の弁当を買って来て食べた。何故、日本に年越し蕎麦を食べる習慣が伝わっているのかは分からないが、一応人並みに年越し蕎麦を食べて年越しをする事に成った。
奥出雲に除夜の鐘が鳴り響くのかは分からないが、昔の鬼ごっこの遊びに思いを馳せて新しい年を迎えたいと想う。
平成18年12月31日
礒 邉 自 適

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