2008/2/12
コケコッコ
20・2・12
昨日のメッセージに現れた女神ライダーは、何処かに、言の葉の瓶を運んで行く姿ではなく、水のカーテンを潜って、私の処に、言の葉のエキスである緑の濃縮液を届けて、帰って行く姿であったらしい。其れはそうだろう、私には未だ、具体的な言葉が創造されていないので、其の様な「瓶・便・ビン」の持ち合わせが無いのだから、宅急便を呼んで運ばせる分けがないのである。
昨夜は、どうやら其の瓶の蓋が開けられ、言の葉のエキスが、私の脳内に流れ込んで来た様である。メッセージの映像では、私の脳裡に数知れない平仮名の文字が、小川の水の様に幾筋か細長く続いて流れ込んで来た。其れは、蛙の卵の様に列に繋がっていたので、如意宝珠の球の様なものであろう。
瞑想をして居るチベット僧の周囲に、糸で繋がっている白い如意宝珠の球は、「阿吽・あうん」の文字の球の様なモノで、1つの球には1つの「言霊・ことだま」が詰っており、其の言霊が「魂・球しい」なのであろう。
しかし、今朝、私の意識に流れ込んで来た文字は、皆、平仮名の繋がりなので、「阿」ではなく「あ」なのである。だから漢字の様に、1字に1つの意味が含まれているモノではなく、意味の無い音だけの「あ」なのである。
其れに、アルファベットの「A」は牛の象形で、「B」は膝を着いて神に祈りを捧げている人の象形だから、意味の有るアルファベット文字も含まれていないし、123のアラビア数字も含まれてはいなかった。
だから、今朝の平仮名の文字は、日本語の「50音・ね」と言う様に、ただ「音・おと・音色」を意味しており、人間の「鳴き声・音」を意味しているのではないだろうか。其れは、言葉ではなく、「あ」は「あ」の純粋な「音球・響き」であり、其れが「言霊」であるとの理・ことなのかもしれない。
何故、其の様に考えるかと謂うと、今朝流れ込んで来た平仮名は、光の球に包まれていて、何も音がしなかったのである。しかし、私の頭の中に1つだけ聞こえて来た言葉が有り、其れは「コケコッコ」の音であった。其の「コケコッコ」の音で連想する物は、鶏の鳴き声である。しかし、鶏の鳴き声は、他の国では日本とは異なる音で表現されるので、「コケコッコ」とは日本人だけに通用する言霊の決め事なのである。
そして日本人には、「コケコッコ」は鶏の鳴き声であるとされ、其の鶏は天照大神の使いだとされており、更に鶏の鳴き声は夜明けの意味にも設定されている。
其れ等の事柄が意味するものは、1昨日告げられて来た「言葉の定義付け」に、関しているのではないだろうか。そうであれば、昨日届けられた、言の葉の容器の瓶の中身のエキスには、未だ何も意味付けがされていないで、概念が定義付けされていないと言う事である。だとすれば、是から50音の音色を使い、新しい言葉の繋がりを定義付けし、未来社会への概念を創造して行かなければならないと言う事になる。是は、えらい事に成って来た。
今朝の映像では、大量に平仮名が繋がって、意識の中に流れ込んで来たが、其れは繋がっているだけで、「。、句読点」も、終止符も打たれてはいないので、言葉として成立しているものではなかった。其の50音の「おとだま」を、是からどの様に組み立て、新しい概念・定義付けを行なって行けば良いのか、私1人では暗中模索で手が出ない。
今朝は、其の言葉の組み立てをどうしたら良いのかの思索が、一晩中脳裏を動き回り、熟睡出来てはいない。其れは何故かと云うと、新しい言葉を組み立て様としても、其の思考は、過去の誰かの概念を使用してしまうからである。だから、新しい定義が組み立てられたと想っても、其れは、過去の誰かの概念の上に乗せてあるので、直ぐに乗り物が壊れてしまい、折角組んだ言葉の枠組みが、崩れてしまうからである。
今こうして、PCに向かって居ても、他にこれ等の事柄に付いて触れた書物(他人の概念)を読んでいないので、参考にする物も無いし、此処から先は、全くの手探り状態である。
そんな私に、滝の水カーテンを潜って、緑の液体の瓶を運んで来た女神ライダーは、誰の使いであったのだろうか。其の瓶の贈り主が、智慧の神である青龍であれば、清き流れの水に住む神である。其の判断が当っているのなら、今朝私の意識の中に、小川の水の流れの様に、流れ込んで来た蛙の卵状の言霊の鎖は、確かに其の青龍の智慧か、働きであるとも謂える。そうであれば、今朝私の頭の中に流れ込んで来た沢山の平仮名は、今夜から順番に繋がって、意味を含んだ言葉の音色として、音を出し始めるのであろうか。
そして、其の口開きが今朝の「コケコッコ」の音だったのかもしれない。そう言えば、今朝私の頭脳に出て来た「コケコッコ」は、鶏の鳴き声ではなく、誰か男性の声色・こわいろであった。と言う事は、やはり言葉の組み立ては、雄の役割であるので、男性が行なわなければ成らない世界であると言うことになる。
何故なら、鳴き声は、雄が雌を確保したり、縄張りを誇示する為に、開発して来た世界だからである。其れだと、是からは「水瓶座・アクエリアス」の時代だと言っても、言葉の定義付けや、政(まつりごと)は、男性の仕事であると言う事になる。
今朝のメッセージは、其の男性の仕事の口火を、1番鶏として「コケコッコー」と鳴いて、私に切れと言う事であろうか。しかし何故、其の役割が、国学院の教授や、東京大学の国語の教授に持ち込まれないで、こんな辺鄙な南海の孤島屋久島の、中学校しか出ていない私の所に、届けられなければ成らないのか。其れが、不可思議である。
昨夜届けられた、瓶の口は、きつく閉められていたのに、誰が其の口を切って、私の意識の中に瓶の中身を流し込んだのであろうか。アラジンの不思議なランプでも、アラジンが必要な時にランプを擦って大男を呼び出しているのである。私の場合は、瓶が私の手に渡された分けでもないし、私が自分で口の栓を開けた分けでもない。それなのに、出来事だけが勝手に進行してしまっている。其れが、古事記で、「働き」の意味に「神」の漢字が当てられている理由であろうか。
何も本人の自覚の無い処で、事が進んで行く、是こそが、真実の神の世界なのであろう。(此処で 右手の中指に カモ(神の電気信号)が有る。)私の自覚が無くても、神の方には自覚が有るのだろう。今日も私はこうして、自分の精神には、是まで体験していない事が起こり、其れを自分の知っている言葉に変換して、三次元である此の現象世界に送り出している。是こそが、新しい時代の「みいつ・御陵威」と言うことであろうか。
先日の、八幡の神の短冊旗には、1)平仮名・50音。2)漢字の象形文字。3)定義。と書かれていたが、今朝は其の50音に付いて触れて来た様である。とすれば、明日は1番大事な漢字の象形文字が現われ、其れに「振り仮名」が当てられて来るのかも知れない。其れが有れば、其れに拠って、私の頭でも、人間の意識を未来に運ぶ為の、新しい乗り物である定義と成る言葉が、創造されるかもしれない。
しかし、こんな世界を、誰が何処で指図しているのであろうか。私に理解出来る事は、この様な世界が有るからこそ、エジプトでは、トト神の書記長が準備されたのであろう。そして、今世紀のトト神は、こうしてPCを文字を書く石版の代わりにしているのである。其れも、1人の王の為ではなく、世界中の万民の為にである。
平成20年2月12日
礒 邉 自 適
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