2006/5/7
人間の仕種を身に付ける
18・5・7
今朝は、19年振りに達磨が現れて、大笑いの顔を見せた。「友 遠方より来り また楽しからずや。」との言葉が有るが、此の現象を何と説明すれば良いのやら。
達磨とは、1500年もの時間差が有るのだが、何の 時間差も 隔たりも感じない 不思議な世界である。其れは、同じ道を歩く者の周波数の所為だろう。
私は、1987年2月26日に、京都府亀岡市の曹洞宗西光寺で、田中真海老師の手により在家得度を受けて、「真悠護法居士」の名を拝命している。だから一応、釈迦牟尼佛の弟子の一人として、末尾を汚している存在なのである。
そんな訳で、此の薄縁の私にでも、達磨禅師の仏縁を受ける事が出来るのであろう。
今朝は、例のミズのオモテの時間軸の竜巻が現れ、其の中心に女神のエネルギー体である、光りのエナジーが現れた。そして、其のエナジーは破裂して飛び散ってしまった。
そして其の後方には、新しい女神(万象の母)が立ち現れて来る姿が見えた。
其れは、宇宙の森羅万象が、新しい世紀を迎える準備をしていると言うか、始めていると言える、現象を見せられたという事に成る。
其れを、どう説明出来るかと想っていると、木の枝の先に着いている木の葉が映り、表は太陽の光りを受けており、裏には産毛が澤山生えているのが見えた。
そして、其の拡がっている緑の葉の部分は、嘗ては、芽の中で産毛の生えた殻に包まれていた事が示された。
其の映像から理解出来る事は、木の葉の表は、本来は内側の部分であり、生長する前は、葉の裏の部分が 本来の表の部分だったことである。つまり、芽が伸びて葉が拡がる前は、表と裏の関係が反対だったのである。
其の事が解り、私達人間が、表と想っている緑の葉の部分や、山の緑の世界は、実は木の裏側の部分が、目に視えているという事になる。其の現象を良く考えると、我われの意識が捉えている、裏表の世界は、実際は反対なのではないかと想えてくる。
仏教では、人間が功績を上げて、安らかに死ぬる事を「あの人は 大往生・だいおうじょうした。」と云う。其れは、目に見えない彼の世に、大手を振って帰る意味である。
其の概念からすれば、我われが住む此の「世間・三次元世界」は仮の世界であり、真実の世界は、彼の世に存在することになる。其れは、彼の世が表側であり、此の世は裏側だと言う事にもなるのである。
考えて見れば、此の世に人間が肉体を有して生きて居られる年月は、精々120年である。処が、霊界・あの世には、釈迦牟尼佛やイエスを初め数え切れない人が、何千年も存在を続けているのである。其の理が理解出来れば、我われは短い間しか存在出来ない此の世界で、あくせくと動き回るのは馬鹿馬鹿しく想えてくる。
おまけに、此の世で余計な事をしてしまえば、肉体を失って彼の世に帰ってから、取り返しが着かないと言う事にもなる。
だからこそ、古代の聖人達は、此の世での生き方に注意しろと謂って来たのだろう。
我われは、此の三次元世界で、動物の身体を持って生きて居るので、どうしても動物的な生き方に嵌り易い。だから、死ぬまで動物的に生きてしまえば、彼の世に帰る時に、真ともな世界に戻ることが出来ないのである。
彼の世は、「人・霊宿・ひと」の魂しいと、動物霊の居場所は異なっているのである。
動物の様に、食欲や性欲だけを追い求めて居れば、死後も動物の様に、何千年間も執着の世界に生き続ける事に成り、永遠に執着の呪縛から逃れる事が出来ないのである。
其の点、植物の世界には執着が無い。太陽のエネルギーを浴びながら、地球の水と、空気と、大地の力に拠って、何の迷いも心配も無く、生を真っ当している。植物の魂しいこそ、永遠のシステムの中に存在し続けているのである。
其の、大自然の真理を、今朝、達磨さんは示して来たのではないだろうか。
其れは、2500年前、釈迦牟尼佛が弟子の摩訶迦葉尊者を手元に呼んで、花一輪を手向け「総ては 舎利弗に話したが、言葉には云い現わせない真実の悟りの世界を、お前に託す。」と告げた世界を、私に知らせて来たのかも知れない。
其の世界こそ、釈迦牟尼佛が説き続けた「生命・法・ダルマ」の世界である。
其の世界は、死海文書の中に残されている、イエスの言葉と同じ意味を持っている。
其の文書には、「貴方達は 何処から来たのかと尋ねられたら、光りの本から来たと答えなさい。神とは 何かと尋ねられたら、此の大自然そのものと答えなさい。」と書き残されていると聞く。
宇宙の永遠のシステムの真実が見えれば、皆同じ世界に到達するのである。
其の事の意味は、我われ人類は、皆いのちの「源・みなもと・皆素」を同じくしており、邪念を取り払う(禊ぎ祓い)事を行えば、皆同じ世界に還る事が出来るとの理である。
其れが、日本の伝統「惟神・かんながら」の世界であり、祷り(還る)の意味である。
何故22年前、世界中の聖霊が4311体も、屋久島に住む私の肉体を借りに来たのか、其れは、日本の風土が素晴らしいからである。此の、素晴らしい自然環境の中でこそ、イエスの謂う処の、聖霊に満たされる現象が起きるのである。イエスは、岩手県の五葉山に帰って来て居たし、釈迦牟尼佛は、四国のクンピラさん・大物主神から派遣された霊魂である。
そして、其の霊魂達が総て日本に集まり、新しい世界を日本から立ち上げようとしているのである。
6月11日(旧暦5月5日)まで、残り35日と成って来た。
何故、日本の大山祇神の祠から「紀・トキ」の声が挙げられるのか、其れは、日本の歴史が皆、大山祇神から始まっているからである。
スサノオの尊は、大山祇神の孫娘の「稲田姫」を娶り、日本の国土に住む事を許されている。そして大国主命は、スサノオの娘と結婚して国造りを行っている。
九州では、ニニギの命が大山祇神の娘「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」を妻にし、日本に住む事が許されている。神武天皇も、ナガスネ王の娘婿と成り、政治を任されているのだ。
日本の歴史は皆、大山祇神系の娘を嫁にする事で、国を治める実権を得て、出来上がっているのである。其れは、大山祇神の許可が無ければ、日本の国土は治める事が出来ない理をも示している。
大山祇神の力こそ、大地に満ちているエネルギーを調整出来るのである。
其れは、人間が、地球生命の代表として物事を行い、神の化身としての立ち振る舞い・神仕種を務めることを意味している。我われは、是から神の化身として、「ヒト・霊留まるモノ」として、神仕種を身に付けて行かなければ成らないのだ。
其のコトの理解が、私に認識されたからこそ、菩提達磨が高笑いを私にして見せ、釈迦牟尼佛の想いが、ようやく完成出来る事を寿いでいるのではないだろうか。
私も、今朝の達磨さんの高笑いで、何とか「神霊の思頼・みたまのふゆ」を、解決する事が出来たのではないだろうかと、想えて来た。
平成18年5月7日
礒 邉 自 適

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