2007/9/11
生命の記憶 (2)
19・9・11
今日は、朝の長い文章を12時頃ようやく打ち終えて、食事をしたら、眠気がさして来たので、布団に横になり昼寝をした。すると、朝の続きの、映像が映って来た。
何故だろうかと憶うと、今日はニューヨークの9・11事件から6年目の日でもあるが、私の次女の30歳の誕生日でもある。
其の娘の名は「悠美」で、名前の意味は「永久に美しく」である。其の娘は、屋久島に住んで居て、子供が2人産まれて居て、私はお爺さんと成っている事になるのだが、残念ながら未だ1度も其の孫の顔は見た事が無い。
何故、今日は、生命の仕組みに付いてダブルヘッダーで書く事が求められて来ているのだろうか。其れは、30年前に、私が「永久に美しく」の念いを、娘の名に託して、名付けたからであろうか。
そうであれば、矢張り言葉は「マントラ・真言」であり、宇宙に意味付けをする事が出来るモノである事になる。
其の様に考えれば、今朝のメッセージは、永久に美しいモノとは、生命の記憶である事になる。(此処で右手の親指にカモ・(神の電気信号)が来る。)
今日の昼寝の霊夢は、ブッダ・釈迦が、7頭を持つ大蛇の、7回トグロを巻いている胴体の上に、座している映像が映されて来て、「たわらつひめ」との言葉が告げられて来た。
「たわら」とは、日本語では「俵」の意味で、米を詰めた袋の意味で、稲藁で編まれた米俵の意味である。
「つ」は接続詞の「の」に当たる語で、「姫」は女性の意味である。だから「たわらつひめ」とは「米俵の女性」との意味になり、稲の神は女性であるとの意味に解釈出来る。
日本で、米に関する姫で、先ず頭に浮かぶのは、「手なづち、足なづち」夫婦の娘である、出雲の「稲田姫・いなだひめ」である。
稲田姫は、其の夫婦の8番目の末娘で、7人の姉が皆「ヤマタノオロチ・八又大蛇」に捧げられた事に成っている。其れは、前の「7姫・7代」が、ヤマタノオロチに召されてしまった事に成り、ようやく8番目の娘が、須佐之男尊に救い出されて、此の世界で4名(2男2女)の子供を産み、子孫を残せた事になっている。
何故、手なづち、足なづちの夫婦の娘は、7人もヤマタノオロチに召されなければ成らなかったのであろうか。其の物語は、8又の大蛇が相手だから、頭が8つ有ったのだから、8番目の娘が召されれば、其処で物語は無事に完結していた筈である。
其れが、須佐之男尊が途中から現れ、横恋慕した為に、物語が完結しない事に成ってしまい、其れが全国の神楽と成って、伝え残される事に成ってしまったのである。
何故、其の様な中途半端な「物語・事件」が1番大事な神話として伝えられ、国民のアイデンティティとして残され、日本の文化とされなければ成らないのだろうか。
其れに関して、今朝の基壇が関係有るのだろう。今日の昼寝の夢に現れて来たブッダの映像は、7つの頭を持つコブラが、7段のトグロを巻いていて、其の7段の基壇の上に、釈迦が座り、8番目の頭として中央に座って居る姿形である。そして、7つのコブラの頭は、其の釈迦の護り神として、釈迦の守護をしているのである。
其の姿が、日本の神話では、其の物語りが捻じ曲げられて伝えられている事を示している。
本来は、ヤマタノオロチとは、自分の中にトグロを巻く、自我意識なのである。其の、自我意識の記憶を制御出来れば、男性は「ブッダ」や「スメラのミコト」に、成れるのである。そう成った男性が、大山祇神として、三室山に祭祀される事に成るのだ。
三室山に祀られる神は、蛇神で、大物主であり、大山祇神であり、大巳貴神なのである。其れは、天地の気を管理し、水の循環を支配しコントロール出来る力を有するのである。
其の働きが、象徴化され、正月の鏡餅として、三方の上に飾られるのである。
鏡餅の上に載せられる橙(だいだい)は、代々の血筋や魂しいを意味し、「御祖神(みおやかみ)・仏陀・スメラのミコト」を意味しているのである。
其の後ろに、拡げて立てられる扇子は、仏陀の背後の守護霊である、7つの「コブラ・大蛇」の頭を意味しているのである。そして重ねられた鏡餅は、基壇を意味し、大蛇のトグロの7段を意味しているのである。
だから、本来なら、鏡餅は7段重ねられるのが本式であり、其の名が鏡餅と呼ばれるのは、神社の鏡と同じ意味を持ち、自分の意識を映し出す鏡の意味を表しているのであろう。そして、自分の生命を映し出す事に成功したのが釈迦であると言う事に成るのであろう。
其の概念は、マヤ文化のククルカーンの大蛇と同じで、8段に築かれたピラミッドの石段から降りて来て、地面に鎌首を着け、雨を齎す蛇なのである。
「ククルカーン」とは、日本語の「括る神・くくるはたらきのかんさあー」である。
つまり、水は、中国でも智慧を意味し、其の守り神は青龍である。其れが、日本に伝わって来て、神社の御手水の場に、水を支配する水神として祀られているのである。
其の水を支配する神が、何故、出雲で悪神とされてしまったのか。其れは、鉄を生産する部族が、砂鉄を溶かすのに使用する木炭を生産する為に木を切り、砂鉄を採取する為に「かんな流し」をして、山を丸裸にしてしまった為に洪水が起きるので、洪水を齎す水神を悪神としてしまったからではないだろうか。
昔は、島根半島は、出雲とは離れていた島で、かんな流しで流された砂で、海が埋まり、陸続きに成って海が閉ざされ、宍道湖が出来たものである。
出雲には、国引きの物語があるが、其れは島根半島が、神の力で引き寄せられてくっ着いたのではなく、人間が斐伊川に流した砂で、陸続きに成っただけの話である。
伝説や、物語は、神が創ったのではなく、全部、人間の頭が考え出したものである。しかし、其れには、幾分かの真実が含まれていて、其の真実こそ、宇宙意識と、人間の意識が共鳴して、奇跡的な現象が起きた事の証と成るものであろう。
其の現象が、いま、再び起きようとしているのである。
それには、先ず、人間側が自分の穢れた意識を禊ぎ祓って、神と共通意識を持たなければ成らないのである。
其の橋渡しをするのが、水の守り神である青龍なのであろう。
何故、仏陀が「コブラ・大蛇」が7回トグロを巻いた上に座らなければ成らないのか。其れは、水が、光のエネルギーと繋がっているからであろう。
カバラでも、聖者の男性の左右に、水と火が備えられ、ライオンと牛が左右に配置されている。其れは、水と火が、宇宙の叡智に関わっている事を現している。
水は「HH・O」で、Hは水素で、Oは酸素で両方とも燃える物である。其のどちらも、宇宙のビッグバンから誕生したものであるから、生命が燃えている現象の、根源を維持しているエネルギー体なのである。
其の理屈は、既に現代科学で証明されているので、最早神秘の世界ではないのである。
是から先は、是まで、神秘とされていた世界が解き明かされ、密教も密教ではなくなり、マヤカシ的な事で、他人を無明の世界に引き込んでいる人物は、天罰を受ける事に成るであろう。
其れは、釈迦や、老子や、イエスや、マルクスが説いた世界が、ようやく現実と成る事を意味している。
其の真実の世界は、日本には伝統文化として、普通の生活の仕草の中に伝え続けられて来ているのである。私は、其の当たり前の世界に帰りつつあるのだ。
其れが「いのり」の本当意味の、「源・みなもと・水元・上(かみ)」に「いのー・帰ろう」との言葉の概念なのである。
その様な事柄を、意識するのが「マントラ・真言」の世界であり、弘法大師空海が念じて居た世界である。
空海が、何故、食を絶ち、肉体から意識を離して、「私はいつまでも此処に居る」と、言い残したのか。其れは、自分が恵果和尚から引き継いだ、密教の「霊魂・御霊・久遠元初の情報」を、受け継ぐ弟子が現れなかったからである。
其の為に、歳をとって自分の脳細胞が減少して、自分の霊魂が痩せ衰える前に「意識・霊魂」を肉体から切り離したのである。
しかし、私が23年前、高野山に参詣しようとしたら、山の入り口に差し掛かった所で、空海が現れ「穢れているから入るな。」と云われ、現在でも未だ高野山の寺には入りこんでいない。
空海はその後、京都の嵐山の法輪寺に出て来て「我が弟子 未だ 我を越えず。」と云って来た。空海自身も、高野山にじーっと閉じ籠っているわけではないのである。
私が、出雲の安部忠宏氏が主催する未来研究所の、「出雲学びの家」で、第1回のセミナーを開く事に成ったのも空海の命日である3月21日であった。
其れ等の事柄を考えると、現実世界に強いのは、釈迦や老子やイエスや聖徳太子などよりも、空海であると言う事に成るだろうか。
其の空海の意識の背景にこそ、7つの頭を持つ大蛇が頭を擡げているのかも知れない。そして、其の空海が、私の意識を現実的にはコントロールしているのではないだろうか。
其の結果として、今朝、十一面観音が、10個の頭の仏を外して、自分の顔だけで、右側から顔を出したのである。
其れは、私の頭のカラクリも、是から、単純に成るとの事ではないだろうか。
そう成れば、私も、25年前までの様に、魚釣りが出来るくらいのゆとりが、生まれるのではないだろうか。
今、此の文章を打ち終わって頭を擡げると、外は雨も止み、東の空に美しい虹が立ち、西の空には美しい夕暮れの景色がある。今、時計は6時20分で、ようやく今日の作業も是で終了する事に成るだろう。
平成19年9月11日
礒 邉 自 適

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