2009/3/9
本当に必要な物
21・3・9
今朝のメッセージの映像は、山で木を伐採している現場が映されて来た。其の伐採している木は、家を建てる為の材料ではなく、紙を作る為のパルプや、置物にする物や、活け花をする為の器や台などで、人間の暮らしに、どうしても必要な物を造る為のものではないのである。
私が、其の現場で働いて居ると、年配の男性が1人現れて「疲れたか」と私に云うのである。私は、其の男性の云った一言で、自分の身体や気持ちを判断し、確かに疲れている事を実感した。
そして、明け方に現れた映像は、パソコンのマイドキュメントの場面が現れて、其処に平仮名の多い文章の題・テーマが、縦に澤山並んでいた。其れは、私が是から書いて行かなければ成らない事のテーマが、並べられているのだと感じた。其の題目の文字に平仮名が多く使われていたのは、平易な言葉で易しく書き現せとの事ではないだろうか。
今朝のメッセージの意味は、現代社会の人間が、生活に必要の無い事ばかりを行い、疲れている理・ことを示唆して来ているのではないだろうか。其れは、生活にどうしても必要である事柄を、再検討と言うか、再認識する必要が有ることを、示唆しているのだろう。
良く考えて見れば、人間の生活に必要な物は衣食住に関する物であり、近代社会には生活に必要ではない物や情報が多過ぎるのである。特に、大都会に有る物事は必要ではない物が多過ぎる。其の為に、森林が破壊され、河川や海が汚染され、環境悪化を招いているのである。そして、人間の暮らしは穏やかに成るどころか、益々喧騒に覆われ、多忙に成り、不健康に成って、未来を担う子供達からも、笑顔や楽しさが失われてしまっているのである。
今朝のメッセージで、森林の作業現場に現れた男性は、日本国中に植林をしたと伝えられている、素戔鳴尊の次男「五十猛命 (いそたけるのみこと)」ではないかと想われる。何故なら、其の男性が私に「疲れたか?」と云った謂い方が、「いい加減に 気付いたらどうか」との意味合いを含んでいたからである。
其れは、昨日の文章に書いた安藤昌益の「日本の権力が封建体制を維持し 民衆を搾取するために 儒教を利用してきたとみなし 孔子と儒教を徹底的に批判した」との文言にも関係が有り、現在の政治経済の仕組みは、国民が自分の健康や、家庭の精神的平和を求めるのではなく、其れ等を犠牲にして動き回って、エネルギーを消費し、税金を多く納める様に成っている。
其れは、聖者とされている「釈迦牟尼佛」や「老子」や「イエスキリスト」の教えに反するモノである。
「五十猛命」は全国に植林を進めた事で、植林の神様として祭られているが、全国の製材所の守護神として祭祈されてもいる。其れを考えると、今朝現れて、無暗に山の木を伐採するなと謂う男性は、確かに五十猛命の御霊だったのかも知れない。
今朝現れた男性が「五十猛命」であれば、もう少し厳しい口調で私に云っても良かったと想うのだが、其れを優しく遠慮がちに云って来たのは、是から私に色々と書いて貰う事が有るからかも知れない。そして、其の事は、皆に理解出来る様に易しく書かなければ成らないと言うことであろう。
其れが、私に可能かどうかは、是から徐々に明らかに成って来るのだろう。
平成21年3月9日
礒 邉 自 適

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