奥出雲は、国津神の櫛稲田姫と 天津神のスサノオの尊が結ばれた地であり、
イソタケルの尊が活躍した地でもあります。
稲田姫 神社

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伊賀多氣神社
横田町

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神社の御神木
霊夢に現れた御神木
平成18年5月5日
1997年10月16日伊勢の神嘗祭の日に、広島市での私のセミナーに安部氏が参加して、其の日の夜には出雲のご自宅に伺った。
其れは、安部氏に合った時に、安部氏に出雲の神々が憑いている事が解ったからである。
そして、其の年の8月23日に京都に住んで居た私の霊夢に出て来た、大きな木が安部氏の自宅近くの「佐世神社」の御神木で、スサノオが植えた木である事が判明した。そして同じく9月11日に霊夢に現れた木が、安部氏が生まれた所のイガタケ神社(イソタケルが祭神)の御神木である事が判明した。
何と、両方とも夢に現われた木が実在したのである。
其れは、両方とも境内にある土俵の中心に立ったときに、そう見えるのである。

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2008/10/15
殿 下
20・10・15
今日10月15日は、出雲にて「出雲大社(杵築大社)」で搗かれた餅を、「熊野大社本宮」が受け取る「受け餅(保食神・うけもちのかみ)」の儀式が行なわれる日であり、伊勢神宮でも「初穂曳」の祭りが行なわれ、愛媛県大洲市の「少彦名神社」でも大祭が行われる。
「熊野大社・受餅の儀式」http://moon.ap.teacup.com/applet/20051112/200603/archive
昨日は、大山祇神の祠で、旧暦9月16日の祭りが午前11時から行なわれた。そして午後3時からは、大山邦博氏宅で直合が行われ、屋久島料理にて楽しい一時を過ごした。夜は事務所で、「自適の今日」のブログに昨日の写真をアップしたりして、午前1時頃宿舎に帰りシャワーを浴びてから眠った。ベッドに横に成って1時間くらいは寝付けなかったが、何とか眠りの状態に入って行った。http://wave.ap.teacup.com/894019/
そして、告げられて来たメッセージは、最初に「殿下・でんか」との言葉が有った。次にPC画面が現れて、其の画面には、殿下に成る為に必要な条件が、何百と横書きで縦に並んでいるのが映されて来た。其れは、殿下の役割は、国を治め、国民を指導する為にあるので、様々な体験を積む必要が有る事を示していた。
朝、事務所に出て来て、先ずPCで「殿下」を検索すると、次の様に書いて有る。
ウィキペディア辞典より 「殿下(でんか)」は、歴史的には、三后を含む皇族ないし摂政・関白、征夷大将軍、(場合によっては)国王への敬称。ただし、皇室典範制定後は三后の敬称は「陛下」となる。今日では、諸外国の王族・公族にも準用され、一方、国王には「陛下」を用いる。
「殿下の敬称」殿下とは、宮殿の殿堂の階下に語源があり、次第に皇族・王公の敬称となった。古くは、てんがと読み、後にでんかに転化した。日本では主に親王殿下、内親王殿下というように親王、内親王、王、女王などの皇族の敬称であり、江戸時代以前においては、摂政、関白、前関白たる太閤、はじめ征夷大将軍、尚侍にも用いられた(源頼朝に対しては「頼朝殿下」、豊臣秀吉に対しては「関白殿下」「太閤殿下」と敬称した)。
また、広義には、皇帝や国王よりもすぐ下の地位にある者(特にプリンスの称号を有する者。皇族、王族、高位の世俗諸侯(特にドイツ)、その親族、アミールなど)への敬称としても用いられ、この場合は例えば英語のYour/His/Her (Imperial, Royal, Grand Ducal, Ducal Serene, Serene, Illustrious, etc.) Highnessとほぼ互換出来る。
是に拠ると、「殿下」の言葉は、宮殿の殿堂の階下の意味が語源であり、宮殿の王座に座る「王様・皇帝」に代り、「摂政・関白」として「階下(事務所・フロント)」で「政(まつりごと)・政治」をする役割の人間の意味らしい。そうであれば、現在の総理大臣の役割であると言う事に成る。
だとすれば、昨日のメッセージの映像で白象のガネーシャが現れ、背中に乗せ様としていた人物は、「王様・皇帝」ではなく、直接「政(まつりごと)」に関わる「殿下」の役割の人であると言う事だろうか。
考えて見れば、王様や皇帝が直接税金を集めたり、河川の工事に関わったりする事は変である。其れを考えると、王様より実力の有る人物が、「政(まつりごと)」を行わなければ成らないと言う事になる。そうで有れば、王様は余り体験を積む必要は無いが、殿下に成る者は、あらゆる体験を積んでいなければ、役割が果たされないと言う理・ことに成る。
今朝は、其の殿下が「体験・修養」しなければ成らない項目が示された後、私は何処かの学校の施設に、同級生を訪ねて居た。そして、同級生と話して居ると、窓の外に男性が1人立って居る。私が、其の男性の存在に気が付いて見て居ると、同級生が「あの人は 私達の小学校の時の先生で 田畑先生だ。」と教えてくれた。
私は、外に出て其の田畑先生と話し始めると、他の教室に向う事に成り、生徒の居る教室の中に入って行くと、男の生徒が1人側に遣って来た。そして其の田畑先生が、其の生徒に「君が見ているHPは 此の人の物だよ。」と教えると、其の男の子は驚いた様子を見せた。そして、私が其の生徒を見ていると、忽ち中年の男性にまで育ってしまった。
其の映像は、教育の世界を示しており、学問が、教師から生徒に、順送りに伝えられて行く事を意味している。そして新しい教育には、私のHPが何等かの影響を与えて、男の子の魂しいが、急速に成長する事を意味している。
其の後、学校の関係者に案内されて実習園の畑に向かうと、現場は作業が出来る状態なので、私は畑に入り農作業を始めた。其の作業は、雑草を取って畑の外に捨てるのではなく、雑草は有機物として土の中に埋めて行く遣り方である。其の私の様子を見て居た田畑先生に、案内をして来た男性が、「川口由一さんと 赤峰勝人さんの本のネーミングをした人は 此の人ですよ。」と教えると、田畑先生は驚きの様子を現していた。
「赤峰勝人・なずなの会」http://www7.ocn.ne.jp/~akakatu/
「川口由一・自然農」http://www.wacca.com/88/09/kawaguchi/kawaguchi.html
其のメッセージの映像は、私の小学校の先生が私より若かったり、子供がいきなり成人にまで育ったりするので、時間的には辻褄が合わない。しかし、教育がどう言う意味を持っているのかは、能く説明が出来ている。特に、私の先生で在ったと言う設定の「田畑先生」は、私の成長と、社会に対する貢献度に驚いて居た。其れは、先生冥利に尽きる事なのではないだろうか。其の喜びこそが、教師と言う職業の存在を、支えているとの理・ことではないだろうか。そして、究極の世界が、自分が育てた人物が「殿下」にまで、成長する事である。
其れに、先生の名前が「田畑先生」と言う設定なのも面白い。其れは、教育の土台に「田」と「畑」を措けとの理・ことではないだろうか。現在の教育環境では、ようやく「食育」との言葉を使い出して、食べ物が大事である事が認識されつつある。
食べ物こそ、人間の身体を創り上げる物であり、食欲こそが人間の1番の本能である。其の1番大事な本能の世界を置き去りにして、身心の正常な発育は無いのである。
特に、昭和30年代より、大量生産・大量消費が始まり、化学肥料や農薬が使用され始め、遠方まで食品を流通しなければ成らないので、防腐剤や着色料や化学調味料等の科学薬品が混入され始めた。其れに因って、3世代目に入った子供達はアトピー症状に悩まされ、女性の不妊や自然流産率は、日本が世界1高く成っているのである。
其れ等の事実を考えると、教育の根幹に食べ物の事を取り上げろとの事は、人間の身体を構成している60〜70兆個の細胞からの、悲鳴なのかもしれない。
世界中に拡がっている日本食ブームの引き金は、マクロビオティックを世界に広めた桜沢如一の業績である。其の、マクロビオティックの根幹は「身土不二・しんどふじ」の考えである。其れは、「自分の身体と環境は 一体の物で在るから、出来るだけ身近で採れる食べ物を 食べる。」との考えである。現在の食品流通は、世界中から食品が集められ、地球の反対側から運ばれて来た物を食べて居るので、身土不二との考えとは全く反しているのである。
「小若順一・食品と暮らしの安全」http://www.tabemono.info/
「日本CI教会」http://www.ci-kyokai.jp/index.html
其の世界の、是正の為に活動して居るのが、奈良の川口由一氏や、大分の赤峰勝人氏や、佐賀の武冨勝彦氏らである。私は、其の御仁等との付き合いは、既に20年に成って来ている。今朝のメッセージの様子からすると、其の御仁等の活動が、教育の根幹に置かれなければ成らないと言う事ではないだろうか。そして、田畑の事が、最重要とされる政治を行うのが、是からの殿下の仕事であると謂う事である。
「武富勝彦の食日記」 http://www.tenoma.net/takedomi.html
其れこそが、物部神社や天皇家に伝わる御饌殿の伝統であり、「食国の政(まつりごと)」の基本である。今日が、熊野大社の「保食神・受け餅の神」の儀式の日であり、伊勢神宮の「初穂曳」の儀式である事が、私へのメッセージに関係が有るのだろう。
私は、大田市の物部神社に呼ばれた日の朝、「子供達に 岩を溶かしたミネラルを 与えろ。」と告げられている。熊本地方では、「岩は万年肥料・こやし」との言い伝えが有り、岩の有る畑の食べ物は良質との考えがある。其れは、中国でも、崖の岩棚に生える植物は滋養が有るとされ、皇帝だけに採取権が有る事に成っていた事と、同じ考えである。「大田に下車しろ」http://star.ap.teacup.com/170606/437.html
是からの時代は、特権階級だけが良い目を見ると言う時代ではない。環境が破壊されて、人類全体の存在が危なく成って来ているのである。そんな時代に、王座に座って何もしなければ社会全体が崩壊し、何も自分で出来ない王様は、1番先に生活に困る事に成る事は受け合いである。そう成らない内に、優秀な殿下を用意する必要が有るのだろう。
今朝は何故か、最後に「ガーベラ」の花が1輪だけ鮮やかに映し出されて来た。どうしてかと想い、ITで「ガーベラ」を検索すると、花言葉が「神秘」であると載っている。
其れは、昨日の「ガネーシャ」が「群集の長・群集の主」の意味であった事と同じで、私にメッセージを送って来る神霊は高いレベルに在り、正に「ガーベラ・神秘」的存在の者である。
其のガーベラの花が、釈迦牟尼佛の「拈華微笑」の1輪の華を意味しているのであれば、達磨禅師の白目や、一休宗純禅師の竹光と同じく、かなり高度なジョークが含まれている事に成る。其れは、霊界全体のレベルが、かなり上って来ている事を意味している。
これ等の私の文章が、コミックにでも成って、ITで発信されれば、小・中学校の生徒が読んで、かなり良い効果を生み出すのかもしれない。其れも、どんな殿下を「白象・ガネーシャ」が担ぎ上げるかに掛かっているだろう。
平成20年10月15日
礒 邉 自 適

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2008/2/2
大日如来の意識
20・2・2
今朝のメッセージは、大日如来と名付けられている宇宙意志の現れが、人間の脳その物である事が示されて来た。其れは、人類全体に共通して繋がっているモノであり、其れが魂しいと呼ぶモノである事が理解された。そして、其の「魂しい(脳)」の外壁の1部が、松の木の外壁の皮の様に剥がれ落ちるモノが、人間の「心・こころ」である事が示された。
だから人間の意識は、其の大日如来の魂しい(脳・永遠の命)と、外壁である心(新陳代謝)との間で、揺れ動いているモノなのである。
其れは、大日如来と呼ばれる宇宙総体の意識が、森羅万象の流転を支えながら成長している事を意味し、人間は其の生長する木の外壁の役割を果たしている事になる。だから一生を終えると、細胞破壊が起きて塵として消えて行くのである。しかし、其の外壁が剥げ落ちる前に組み込んだ情報は、内側から遺伝子の船に乗って上がって来る、子孫に受け継がれ、其の子孫がまた新しい外壁と成って役割を果たして行くのである。其れが、正月の鏡餅に添えられる「譲り葉」に託される意味なのであろう。
だから、人間の身体が「空蝉・うつせみ」であり、「空だ・身体」とイメージされ、其のカラダに乗船する意識が「霊魂・霊宿(ひと・人)」なのである。
だから是まで、「神(カム)・道(タオ)・法(ダルマ)・エホバ・アラー」等と呼ばれて、人間の意識の拠り所と成って来た、目に見えない確かな存在は、自分自身の「いのち」であり、其の「命・いのち」を繋いでいるのが「DNA・遺伝子」なのである。そして、其のコントロール-センターとして働いているのが、人間の脳なのだ。
だから、人間が頼れる唯一のモノは、自分自身の脳であり、其れを受け継いでいるDNAの継続システムなのである。そして1番大事な「理・こと」は、大脳の細胞だけではなく、人間の身体の60兆個の細胞や、其の繁殖体である67億人の人体も、其の大日如来と名付けられている、宇宙のシステムの現象体である事に成る。
だから、其の理に気付いた釈迦は「真に頼れるモノは 此の己の身体である。だから 精進に務めなさい。」と謂ったのである。其れは、宇宙に大日如来と言う働きが在り、其の働きに拠って生み出されている物が、人間であり、其の大日如来の働きは森羅万象を支えているので、衆生一切が皆その仲間(仏)であると謂っているのである。だから、あらゆる生命は、歳を取ると次ぎの物に入れ代わって、身体・情報を繋いでいるのである。其の仕組みこそが、大日如来の存在と言うことに成るのだ。
そして、其のシステムに素直に従って行く事が、日本の「惟神・かんながらの道」であり、老子の謂う「無為自然」であり、親鸞の謂う「自然法爾・じねんほうに」なのである。其れを、漢字では「自由」と概念付けしてある。自由の漢字の意味は、「自」は鼻の形の象形で「己・おのれ」を指差す意味で、「由」は大きなモノに従うとの意味である。だから、自由に成る為には、此の世界で一番大きなモノに、自分の身を委ねなければ成らない。其れが、財産や、国家権力や、宗教団体や、人間が考えだした思想などの、不安定な物であっては成らないのである。
しかし、其れ等は、仏像や、建物や、人物の様には、直接人間の肉眼の目には見えないモノである。其れは何故なのか、其れ自体が自分の中に住む遺伝子の鎖だからである。人間は生まれながらにして、自分の中に大日如来を内蔵しているのである。ただ、其れが自分の身体に内蔵されていて、小さくて確かめ様が無い為に、外側に其の働きを投影させて、視覚で認識しようとしたのが仏像や曼荼羅や絵画なのである。
しかし其の世界も、電子顕微鏡の開発や、コンピュターの性能アップで、人間の視覚に捉えられ、脳で認識出来る様に成って来たのである。だから、ようやく釈迦牟尼佛が潜在意識で捉えた世界が、万民の目で視覚化出来る時代に成ったのである。其れは、釈迦牟尼佛の教えが、単なる宗教の世界ではなくて、生命科学の世界であった事が、証明される時節を迎えている事に成る。
今朝の映像では、自分の「心・自我意識」が、大日如来の身体から剥がれ落ちる場面の次ぎにも映像が映り出されて来た。其れは、私が故郷に帰る為に船が出る港に着くと、途中で同じ汽車に乗って居た男性が、同じ船着き場に遣って来た。其れは、インド人風の浅黒いハンサムな30代の背が高い男である。其の男性は、是から私と同じ所に帰る人間なのか、私を此処まで道案内して来た、釈迦の若い時の姿なのかは、其の男性が無言で何も話さなかったので分からない。
もしかしたら、其れは釈迦牟尼佛であるけれども、釈迦が繋いで来た般若波羅蜜の智慧を、私が受け継いだ様に、是から同じシステムを継ぐ「霊宿・ひと」が、今後私の前に現れるとの事かも知れない。其れが宇宙のシステムであり、今後も大日如来の働きとして、誰かの思考で組み込まれた情報が受け継がれて行き、宇宙の存続を支えるとの理なのかも知れない。
此の様に書けば、宇宙レベルから考えれば無きに等しい小さな人間が、宇宙を支えるとの意味に成るが、其れは別に不自然な事ではないのである。其れは、人間の親が子供を育て、自分の育てた子供の云う事を聞いて、願いを適えて遣るのと、同じ事である。其れに現在では、手の平に納まる小さな携帯電話から情報を発信すれば、人工衛星の角度や、地上に設置されているパラポナアンテナの方向を変えたりも出来るのである。其れ等のシステムの存在を考えれば、此の複雑な仕組みの人間を創造して来た意識体が、人間の技に負ける訳がないのである。
こうして、私が毎日行っている行為も、私自身の能力で出来ている訳ではなく、ハード面でITの世界とPCを創り出し、ソフト面として61年掛けて私の思考パタンを組み上げて来ているからかそ可能に成ったのである。其の流れの全体を考えれば、何か大きな意識体が存在して、全てを管理していると考えなければ辻褄が合わない。
それは、私の人生を変えてしまった師の存在や、4311体もの霊魂・精霊に因る「神霊の思頼・みたまのふゆ」の現象を考えれば、其の出来事の背景には、阿弥陀仏の「人間には 計り知れない、光と慈悲の存在。」の概念の意味が、正等であると言うことにも成る。
今朝のメッセージは、其の証と成っている私の存在や意識が、只、松の木の外皮の一片に過ぎないと言う理・ことである。其れを考えれば、其の1本の木の身体には、何千もの外皮が着いていて、全体を護っている理・ことになる。其の事に気付けば、私が一人が責任を感じる必要は無いと言う事になる。其の様に考えれば、気が楽に成り、肩の荷も軽く成ると云うものである。ようやく、師に止められていた笑いを、表に出せる日が近づいたようである。
私が、此の世界の真理に気付き、笑い出したら、師は「自適さん笑うな。」と云って、私の笑いを止めてしまった。「だって是は 全部ジョークではないか。」と私が云うと、師は「今 自適さんが笑ってしまうと 其の波動が世界に拡がって、其の日に向けて修行している人の修行が、止まってしまう。」と云うのである。其れから、私の笑いは止まってしまっていたのである。しかし、今朝の映像で示された様に、私は、其の生命の木の皮の一片であり、剥がれ落ちて行く物であるとなれば、私が笑おうと、泣こうと、本体にはさして影響は無いと言う事になる。
其れは、私の意識が、内部の身の役割を終えて、皮膚の垢に成った事を意味している。そうであれば、もう私の「心・ココロ」がコロコロ変っても、内部には影響が無いと言う事である。だとすれば、私が普通の人間社会に出て行っても、全体的には差し障りが無いと謂う事である。
昨夜は、年賀状を貰った長女に深夜手紙を書いた。私は、自分の子供に手紙を出すのは初めてである。娘とは23年会っていないので、何をどう書ければ良いのか戸惑ったが、父親として一応無責任な部分を謝る内容にした。しかし未だ、其れをポストに投函する決心は着いてはいない。しかし、今朝のメッセージの内容からすれば、私が人間感情・こころに落ち込んでも、全体的にはもう影響を与える事は無いのであろう。
是からは、六根清浄ではなく、人間として五感を使用し、喜怒哀楽の世界に身を措いても良いのかも知れない。そうする事で、新しき「六識・シックスセンス」が磨かれるのではないだろうか。其れが、仏教で言う大乗の世界なのであろう。ようやく、荘子の謂う「至人無己」の世界の場に、踏み込んで行かなければ成らないのではないだろうか。
今日は先ほど、出雲の安部忠宏氏より電話が久し振りに有り、私の31日の文章を読み、いよいよ新しい幟旗を上げる事にしたと伝えて来た。是からは、今までの様に、都会発信型の社会システムではなく、ITを利用した地方ネットの生活中心型の社会と成って行くであろう。
そうしなければ、これ以上エネルギーを無駄にする社会構造は、続いて行かないのである。人間が、自然の中で真に幸福に生きて行く手段は、既に可能に成っているのである。
政治の現状を見ていても、東京から新しい価値観が生まれない事は、万民の知る処である。古代に、日本の国造りが行なわれた出雲で幟旗が揚げられれば、其れは一気に全国に拡がるのではないだろうか。
どうやら、9月15日までに、情報の発信と管理が間に合うのかも知れない。
瑞穂の国造り http://www16.ocn.ne.jp/~yjj2/mizuhonokuni/
平成20年2月2日
礒 邉 自 適

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2007/9/11
生命の記憶 (2)
19・9・11
今日は、朝の長い文章を12時頃ようやく打ち終えて、食事をしたら、眠気がさして来たので、布団に横になり昼寝をした。すると、朝の続きの、映像が映って来た。
何故だろうかと憶うと、今日はニューヨークの9・11事件から6年目の日でもあるが、私の次女の30歳の誕生日でもある。
其の娘の名は「悠美」で、名前の意味は「永久に美しく」である。其の娘は、屋久島に住んで居て、子供が2人産まれて居て、私はお爺さんと成っている事になるのだが、残念ながら未だ1度も其の孫の顔は見た事が無い。
何故、今日は、生命の仕組みに付いてダブルヘッダーで書く事が求められて来ているのだろうか。其れは、30年前に、私が「永久に美しく」の念いを、娘の名に託して、名付けたからであろうか。
そうであれば、矢張り言葉は「マントラ・真言」であり、宇宙に意味付けをする事が出来るモノである事になる。
其の様に考えれば、今朝のメッセージは、永久に美しいモノとは、生命の記憶である事になる。(此処で右手の親指にカモ・(神の電気信号)が来る。)
今日の昼寝の霊夢は、ブッダ・釈迦が、7頭を持つ大蛇の、7回トグロを巻いている胴体の上に、座している映像が映されて来て、「たわらつひめ」との言葉が告げられて来た。
「たわら」とは、日本語では「俵」の意味で、米を詰めた袋の意味で、稲藁で編まれた米俵の意味である。
「つ」は接続詞の「の」に当たる語で、「姫」は女性の意味である。だから「たわらつひめ」とは「米俵の女性」との意味になり、稲の神は女性であるとの意味に解釈出来る。
日本で、米に関する姫で、先ず頭に浮かぶのは、「手なづち、足なづち」夫婦の娘である、出雲の「稲田姫・いなだひめ」である。
稲田姫は、其の夫婦の8番目の末娘で、7人の姉が皆「ヤマタノオロチ・八又大蛇」に捧げられた事に成っている。其れは、前の「7姫・7代」が、ヤマタノオロチに召されてしまった事に成り、ようやく8番目の娘が、須佐之男尊に救い出されて、此の世界で4名(2男2女)の子供を産み、子孫を残せた事になっている。
何故、手なづち、足なづちの夫婦の娘は、7人もヤマタノオロチに召されなければ成らなかったのであろうか。其の物語は、8又の大蛇が相手だから、頭が8つ有ったのだから、8番目の娘が召されれば、其処で物語は無事に完結していた筈である。
其れが、須佐之男尊が途中から現れ、横恋慕した為に、物語が完結しない事に成ってしまい、其れが全国の神楽と成って、伝え残される事に成ってしまったのである。
何故、其の様な中途半端な「物語・事件」が1番大事な神話として伝えられ、国民のアイデンティティとして残され、日本の文化とされなければ成らないのだろうか。
其れに関して、今朝の基壇が関係有るのだろう。今日の昼寝の夢に現れて来たブッダの映像は、7つの頭を持つコブラが、7段のトグロを巻いていて、其の7段の基壇の上に、釈迦が座り、8番目の頭として中央に座って居る姿形である。そして、7つのコブラの頭は、其の釈迦の護り神として、釈迦の守護をしているのである。
其の姿が、日本の神話では、其の物語りが捻じ曲げられて伝えられている事を示している。
本来は、ヤマタノオロチとは、自分の中にトグロを巻く、自我意識なのである。其の、自我意識の記憶を制御出来れば、男性は「ブッダ」や「スメラのミコト」に、成れるのである。そう成った男性が、大山祇神として、三室山に祭祀される事に成るのだ。
三室山に祀られる神は、蛇神で、大物主であり、大山祇神であり、大巳貴神なのである。其れは、天地の気を管理し、水の循環を支配しコントロール出来る力を有するのである。
其の働きが、象徴化され、正月の鏡餅として、三方の上に飾られるのである。
鏡餅の上に載せられる橙(だいだい)は、代々の血筋や魂しいを意味し、「御祖神(みおやかみ)・仏陀・スメラのミコト」を意味しているのである。
其の後ろに、拡げて立てられる扇子は、仏陀の背後の守護霊である、7つの「コブラ・大蛇」の頭を意味しているのである。そして重ねられた鏡餅は、基壇を意味し、大蛇のトグロの7段を意味しているのである。
だから、本来なら、鏡餅は7段重ねられるのが本式であり、其の名が鏡餅と呼ばれるのは、神社の鏡と同じ意味を持ち、自分の意識を映し出す鏡の意味を表しているのであろう。そして、自分の生命を映し出す事に成功したのが釈迦であると言う事に成るのであろう。
其の概念は、マヤ文化のククルカーンの大蛇と同じで、8段に築かれたピラミッドの石段から降りて来て、地面に鎌首を着け、雨を齎す蛇なのである。
「ククルカーン」とは、日本語の「括る神・くくるはたらきのかんさあー」である。
つまり、水は、中国でも智慧を意味し、其の守り神は青龍である。其れが、日本に伝わって来て、神社の御手水の場に、水を支配する水神として祀られているのである。
其の水を支配する神が、何故、出雲で悪神とされてしまったのか。其れは、鉄を生産する部族が、砂鉄を溶かすのに使用する木炭を生産する為に木を切り、砂鉄を採取する為に「かんな流し」をして、山を丸裸にしてしまった為に洪水が起きるので、洪水を齎す水神を悪神としてしまったからではないだろうか。
昔は、島根半島は、出雲とは離れていた島で、かんな流しで流された砂で、海が埋まり、陸続きに成って海が閉ざされ、宍道湖が出来たものである。
出雲には、国引きの物語があるが、其れは島根半島が、神の力で引き寄せられてくっ着いたのではなく、人間が斐伊川に流した砂で、陸続きに成っただけの話である。
伝説や、物語は、神が創ったのではなく、全部、人間の頭が考え出したものである。しかし、其れには、幾分かの真実が含まれていて、其の真実こそ、宇宙意識と、人間の意識が共鳴して、奇跡的な現象が起きた事の証と成るものであろう。
其の現象が、いま、再び起きようとしているのである。
それには、先ず、人間側が自分の穢れた意識を禊ぎ祓って、神と共通意識を持たなければ成らないのである。
其の橋渡しをするのが、水の守り神である青龍なのであろう。
何故、仏陀が「コブラ・大蛇」が7回トグロを巻いた上に座らなければ成らないのか。其れは、水が、光のエネルギーと繋がっているからであろう。
カバラでも、聖者の男性の左右に、水と火が備えられ、ライオンと牛が左右に配置されている。其れは、水と火が、宇宙の叡智に関わっている事を現している。
水は「HH・O」で、Hは水素で、Oは酸素で両方とも燃える物である。其のどちらも、宇宙のビッグバンから誕生したものであるから、生命が燃えている現象の、根源を維持しているエネルギー体なのである。
其の理屈は、既に現代科学で証明されているので、最早神秘の世界ではないのである。
是から先は、是まで、神秘とされていた世界が解き明かされ、密教も密教ではなくなり、マヤカシ的な事で、他人を無明の世界に引き込んでいる人物は、天罰を受ける事に成るであろう。
其れは、釈迦や、老子や、イエスや、マルクスが説いた世界が、ようやく現実と成る事を意味している。
其の真実の世界は、日本には伝統文化として、普通の生活の仕草の中に伝え続けられて来ているのである。私は、其の当たり前の世界に帰りつつあるのだ。
其れが「いのり」の本当意味の、「源・みなもと・水元・上(かみ)」に「いのー・帰ろう」との言葉の概念なのである。
その様な事柄を、意識するのが「マントラ・真言」の世界であり、弘法大師空海が念じて居た世界である。
空海が、何故、食を絶ち、肉体から意識を離して、「私はいつまでも此処に居る」と、言い残したのか。其れは、自分が恵果和尚から引き継いだ、密教の「霊魂・御霊・久遠元初の情報」を、受け継ぐ弟子が現れなかったからである。
其の為に、歳をとって自分の脳細胞が減少して、自分の霊魂が痩せ衰える前に「意識・霊魂」を肉体から切り離したのである。
しかし、私が23年前、高野山に参詣しようとしたら、山の入り口に差し掛かった所で、空海が現れ「穢れているから入るな。」と云われ、現在でも未だ高野山の寺には入りこんでいない。
空海はその後、京都の嵐山の法輪寺に出て来て「我が弟子 未だ 我を越えず。」と云って来た。空海自身も、高野山にじーっと閉じ籠っているわけではないのである。
私が、出雲の安部忠宏氏が主催する未来研究所の、「出雲学びの家」で、第1回のセミナーを開く事に成ったのも空海の命日である3月21日であった。
其れ等の事柄を考えると、現実世界に強いのは、釈迦や老子やイエスや聖徳太子などよりも、空海であると言う事に成るだろうか。
其の空海の意識の背景にこそ、7つの頭を持つ大蛇が頭を擡げているのかも知れない。そして、其の空海が、私の意識を現実的にはコントロールしているのではないだろうか。
其の結果として、今朝、十一面観音が、10個の頭の仏を外して、自分の顔だけで、右側から顔を出したのである。
其れは、私の頭のカラクリも、是から、単純に成るとの事ではないだろうか。
そう成れば、私も、25年前までの様に、魚釣りが出来るくらいのゆとりが、生まれるのではないだろうか。
今、此の文章を打ち終わって頭を擡げると、外は雨も止み、東の空に美しい虹が立ち、西の空には美しい夕暮れの景色がある。今、時計は6時20分で、ようやく今日の作業も是で終了する事に成るだろう。
平成19年9月11日
礒 邉 自 適

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2007/1/3
ドラゴン丸
19・1・3
今朝の映像は、白い大きなボートが現れて、船の名前は「ドラゴン」と言う名前であることが分り、船長は「148.石屋・メイソン」だと告げられた。
そして、其の船に乗るには、船長に頼んで自分の情報を宇宙の本機に送って貰わなければならないらしい。自分の情報を148の船長に渡すと、其の情報が弾丸の様にトンネルの中を飛んで行って、其れが本機で分析され、合格の分は文字が書かれた白い切符が返って来て、不合格の分は真っ黒で何も文字が書かれていない切符が返って来るらしい。
文字の書かれている切符を受け取った人は、駅から汽車に乗る事が出来、着いた所には、先導車と護衛のバイクが着いているバスが待っていて、其のバスに乗って訪ねた先には「保食神・うかのみたま」神社が在った。
今朝のメッセージは、今回の旅の1番重要な内容が含まれているようである。昨日、出雲の安部忠宏氏と3月13日に阿蘇の日宮幣立神宮で「瑞穂の国」発足の儀式を行う事を決めてから、「イザナミ」の御陵の在る比婆山を越えて広島県側に降りて、檀上宗謙さんの西光寺を訪ねた。そして、1時間くらい3名で話した後、外風呂に冷泉を溜めて薪で沸かし湯浴みをした。風呂から上がりしばらくすると、背骨の下から何番目かが変調を起こした。其れは、此のお湯に何等かの薬効が有るからだろう。
昨日は、御霊の思頼の名簿が映り、日蓮聖人の名は52番目にあり、1番は弘法大師空海に成っており、何故か、私の意識は其の名簿を土台として上に在った。どうやら、私の意識は弥勒菩薩であるように感じられた。
処が、夕食の後、自然に瞑想状態に落ち入ると、屋久島の山岳が現れ、其の山岳のエネルギーが動き始め、次元が変化したのが理解出来た。
其の後風呂に浸かっていると「世間から遠ざかれ」との言葉が来た。其の言葉から、達磨禅師の意識を感じ取った。
其れらの意識の変化から、達磨禅師は御霊の思頼の4311体の御霊の中に入ってはおらずに、其の外側に居るようである。其の理由を考えると、達磨禅師は自分の行為を何もしていないし、自分の役目であるマカカショウから伝えられている仏陀の訓えを、慧可に無事に伝える事に成功しているので、何も現世に対して遣り残している事柄が無いので、私の身体を使う必要が無いからであろう。
其のように考えると、4311体の御霊は、全て、自分のカルマを残して此の世を去ってしまった人達の霊魂だと言うことになる。私は、其れ等の霊魂に23年間心身を占有されていたことに成るらしいのだ。
しかし、其れも、昨日一応の段階を終えて、屋久島の山が、次の段階に向けて動き出した事に成るのだろう。
先ほど、檀上宗謙氏と抹茶を戴きながら話をしていると、西光寺には2年前に弥勒菩薩がイメージに現れたり、井戸水が出る様に成ってからは、古代人の壁画に描かれている、精霊の印である球が沢山写真に現れる様にも成って来ている。
今朝気付いた事の1つに、昨日霊夢に現れた飛び出た2つの目玉は、西光寺の裏縁で水を貰いに訪れる人達を、縁側から見詰めている蛙の置物の目である事が判明した。と云うことは、私の意識に、其の湧き水に宿っている霊魂の意識が、昨日入り込んでいたことに成る。
其れは、此の寺の水神が、出雲まで私を向かえに来ていたことにも成る。
今回の旅のコースは、屋久島〜葦北(どれみ村)〜広島県比婆山(イザナミの御陵・熊野神社)〜奥出雲(鬼神神社)〜船通山〜佐世神社〜日御碕神社〜西光寺〜琵琶湖のちくぶ島(弁財天神社)と指示されていたので、残りは明日スーリアさんと岡山で会ってから、琵琶湖の弁財天に、是までのお礼を済ませて、屋久島に帰る予定である。
今回の旅は、今までに無い中身の濃いものであり、次元変化を齎すものでもあった。
屋久島に帰れば、出雲の安部忠宏氏と連絡を執りながら3月13日の儀式の準備をしなければ成らない。
今朝は、其の安部忠宏氏の姿が現れ、皆に「新たに・新たに・・・」と挨拶して居た。其れは、古い価値観を捨てて、新たな価値観を持って国造りを始めるとの意味であろう。
其れは、安部忠宏氏が大国主の御霊を有しているとのことであろう。安部忠宏氏が大国主の役割なら、私の働きはスクナヒコの役割と成るだろうか。
近頃のメッセージは、確かに現実的な世界に関するものが多い。其れは、神の計画が実行に移されて来つつある証明であろう。
今回、同行して居る巫女さんも、毎日起きる不思議な事や、自分に関する事柄の謎が解きほぐされて行くのでビックリしている。其れは、私の23年間の体験の積み重ねの認識と、其れからくる理解力が有るからだろう。今回の旅で、私自身も、自分の修行の結果が確認出来たことに成り、有意義なものと成った。
是からは、助かりたい者は「うかの御霊」の神社に参詣し、食べ物の神・はたらきを修行しなければ成らないようである。
今夜は満月なので、寺にて数名で満月の宴が催しされる。
私も、ようやく自分の人生を楽しめる時節を向かえたのではないかと想っている。
平成19年1月3日
礒 邉 自 適

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