2011/12/7
リンクするだけでよい
23・12・7
昨日は、博多駅近くに有る「財団法人 福岡緑進協会」の事務所に、「頭山満翁」の御孫である「頭山立国氏」が来られて、午後3時から5時まで話し合いが行われた。私は2001年12月12日に東京の皇居近くに有る福岡会館で一度頭山立国氏にお会いした事が有るので、会うのは是で2度目である。
「頭山氏を囲んで会食」http://moon.ap.teacup.com/1493/19.html
今朝のメッセージの映像は、其の事と関係が有るのか、古事記の物語を最初に語り始めた人物らしき物の、意識状態が映し出されて来た。
其の映像とは、上空から光が当たっている白い海面を見下ろしており、何かが浮かんでいる白い海面の、何処に最初の島を造ろうかと、場所を選んでいる意識である。
そして、次の場面が変わり、出来上がった何処かの陸地の一部である左上の半島を、上空から見下ろしていた。其れは、四国の愛媛県の部分であるのかも知れない。
其の映像は、古事記に有る「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊邪那美命・いざなみのみこと」が、天に掛かる橋の上から、天沼矛で海を掻き回して、陸地を固めた物語を示して来ているのであろう。
・伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)という二柱の神は、別天津神(ことあまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させることを命じられる。別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐・伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって島となった。この島を淤能碁呂島(おのごろじま)という
・古代においては伊予之二名島(伊予二名洲、いよのふたなのしま、いよのふたなしま)または単に伊予島(伊予洲、いよのしま、いよしま)、二名島(二名洲、ふたなのしま、ふたなしま)と呼んだ。「フタナ」は二並びの意
大八島国の一つで、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が二番目に産んだ島。すなわち四国のこと。
この島は、体は一つで顔が四つあり、そして顔ごとに名前がある。それぞれ、伊予国(いよのくに)を愛比売(エヒメ)と言い、讃岐国(さぬきのくに)を飯依比古(イヒヨリヒコ)と言い、粟国(あはのくに)を大宜都比売(オホゲツヒメ)と言い、土左国(とさのくに)を建依別(タケヨリワケ)と言う。
〜引用終了〜 ウィキペディア辞典
そして、夜明けのメッセージの映像には、透明のビニール合羽を着た人達が数十人、深い森の中を歩いている場面が映し出されて来た。其れは、自然観察と言うか、森のツアーみたいな感じであった。
次の映像は、何千人も収容できる様な何処かの広い講演会場に、澤山の人が詰めかけて椅子に座っており、明るく笑顔に満ちて賑わっている様子が映し出されて来た。其れは、救世主が現れて、其れを見られる喜びと言うか、安心感が満ちている様子であった。
そして、最後に「リンクするだけでよい」との言葉が告げられて来た。
今朝のメッセージは、人間の全ての概念が、根本から新しく生まれ変わる事を意味しているのかも知れない。其れは、古い古事記の世界が復活するとの事ではなく、古い概念が消去(みそがれて)されて、科学的な根拠に裏付けされた新情報に拠って、人間社会が改革されると言う事なのであろう。
其れは、是まで語り継がれて来た宗教の世界が無くなる事を意味する。
そして、新しい価値観の世界に必要なモノは、地球に存在する深い森に有るとの事なのであろう。其れを、世界の全ての共通認識とする為には、砂漠や草原に住む人々を、深い森に案内しなければ成らないと言う事である。
其れは、世界自然文化遺産に登録された屋久島も重要な存在と成るものである。
今朝は、「リンクするだけでよい」との言葉が告げられて来たので、其の意味を考えると、私が以前「瑞穂の国」のHPで、知り合いのHPをリンクして関係者のネットワーク構築をしようとしていた事と関係が有るので、其れを本格的に開始しろとの事なのかも知れない。
昨日、お会いした頭山立国氏の祖父である頭山満翁は、「西郷隆盛翁」の熱心な支持者であり、其の頭山満翁の精神は「玄洋社」の指針として継がれ、玄洋社の最後の人間であると云われている「白土宏氏」の心の支えでもある。
・明治9年(1876年)に秋月の乱、萩の乱が起こると、頭山はこれに呼応して進藤、箱田らと共に旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、それに参加し尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷の死の翌日であった。彼らは海の中道に開墾社を創設し、松林を伐採し田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み、来るべき時に備える日々を送る。・・・ ウィキペディア辞典
其の西郷隆盛は、2006年2月7日に私の夢に現れて「始めようか」と告げて来ている。「始めようか」http://moon.ap.teacup.com/20060109/7.html
・今朝は「はじめようか」との声が有り、その言葉で私の意識が働き出した。
そして、映って来た映像は、光が一杯に詰まっている部屋の中に、机が一組だけ有ったが、其の机には人影が無い。どうやら其の机を使っている者が、私を迎えに来た様である。そして、私は、其の姿の見えない誰かと、役所回りを始めていた。
更に画面が変わり、緑り豊かな自然の中に、1人の男性が座って居るのが映されて来た。其の場面は、木々の緑を背景にした広場の向うに、誰かが座ったまま、此方を視ているのだが、遠くて其の人が誰だか判らないのである。私が、其の人が誰だろうかと想うと、突然画面が大きく成り、其の座ったままの男性の上半身の映像が、目の前に現れて来た。そして、其れは、西郷隆盛の若い時の姿だと直ぐに解かった。其の姿は、銅像の西郷さんよりは若くて、優しい顔をして居た。
其の映像で、男性が座って居た場所は、屋久島の「一湊(いっそう)」の村だと想われる。西郷さんは、明治維新に成功する前、諸般の事情で、徳之島に遠島されたのである。また、其のすぐ後には、徳之島から沖永良部島へ遠島されている。
其の、徳之島に行く途中で海が時化て、屋久島の一湊港に1週間程避難して居た事が有るらしい。其の時の映像を、太陽が記憶していたのを、私に映し出して来たのだろう。
其の時の事を、ウィキペディア辞典には、次の様に載せている。
・・文久2年(1862年)6月11日、西郷は山川を出帆し、村田も遅れて出帆したが、向かい風で風待ちのために屋久島一湊で出会い、7、8日程風待ちをし、ともに一湊を出航、奄美へ向かった。七島灘で漂流し、奄美を経て(以上は「宇留満乃日記」に詳しい)、やっと7月2日に西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草(菊子)を生んだ。
─引用終了─
今朝のメッセージは、日本国の行く末を心配している御魂や、地球環境の悪化を心配している聖霊などが、いよいよ本格的に動き出す事を示して来ているのかも知れない。
其れが、四国に関係が有るのなら、私が現在「愛媛県伊予市中山町」に、事務所を準備している事に関係が有るのではないだろうか。そうであれば、早速「グリーンクラブ」のHPを開設して、地球環境や未来社会の構築に取り組んでいる人々の活動を、リンクして行く必要が有るのだろう。
明日12月8日は、釈迦牟尼仏陀が大悟した日であり、岡山で「新スーリアサロン」が開催される日でもある。其れが済んだら、倉敷市の由加山に有る「瑜伽神社」に初参詣をし、中山町の事務所に帰る。そして、早速9日にはNTTにグリーンクラブの電話を申し込む事にする。
此の儘の流であれば2月21日は、グリーンクラブの発足式と言う事に成るのかも知れない。
平成23年12月7日
礒邉自適

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